美しき古刹  雲巌寺(雲岩寺)

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雲巌寺は歴史のある、旧黒羽町須佐木の武茂川(ムモガワ)沿いにある美しい臨済宗の古刹です。

禅宗の四大道場の一つです。

禅宗には有名なお寺が4つあり、福岡県福岡市の聖福寺、和歌山県日高郡由良町にある興国寺、福井県吉田郡永平寺町にある永平寺、そして栃木県大田原市(旧黒羽町)の雲巌寺です。

雲巌寺の歴史は平安時代の大治年間(1126年〜1131年)に永観寺の高弟「叟元和尚(そうげんおしょう)」により開基され、その後、弘安6年(1283年)に顕日高峰(けんにちこうほう 仏国国師の法名)によって開山された歴史あるお寺です。

開山は2度の元寇から国を救った、NHKの大河ドラマでもおなじみの鎌倉幕府第8代執権「北条時宗」を大檀那(沢山お金を出す有力な檀家のこと)になり、鎌倉時代後嵯峨天皇第三皇子「仏国国師」により再興されました。

後嵯峨天皇第三皇子ですから帝の皇子です。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の万全の用意をしての小田原征伐時、北条氏は北関東に軍力を集中させるわけですが、那須資晴が豊臣側に恭順しなかったため、烏山城を攻め落とす際に沢山の人々が雲厳寺に避難し、秀吉は要塞であると判断し伽藍などに火を放ち、一度焼失してしまいましたがその後すぐ再建されました。

那須地方は山に囲まれた山間原野という地形ゆえの保守的な性質故なにより地縁、血縁、縁故を重視するような土地柄ですから有力な勢力というのはついに現れませんでした。

那須の小さな井戸の窓から見ますと、さすがにでき星戦国大名の集まりといえ、織田信長や豊臣秀吉というのは数の力というのを良く知っていたのですね、彼らはそれを最大限利用できたカリスマ性が備わっていたのでしょう。

江戸慶安年間には雲巌寺に対して徳川幕府は150石の寺領朱印状を発行し、将軍家への年賀拝礼には「白書院独礼」という大名級の特権が与えられていました。

真冬ですが、凛とした空気に気持ちが引き締まり、冬の静けさの中時間が止まっているようです。

雲巌寺 原宗明老師 明るいほうへ

先ごろ那須トラピスト修道院で修道女さんから、立場は違いますが雲巌寺の第61代御住職様を大変尊敬されているというお話をお聞きいたしました。

その時にトラピスト修道院で購入した本です。

本の中にあった一文です。「宗教は、何々教などという組織、団体にあらず。権威、権力にあらず。財力にあらず。知名にあらず。宗教そのものは、まったく自分一個、個人のものです。ですから、人に押し付けることも、人から押し付けられることもできないところのものです。」

雲巌寺の第61代御住職様であられる原宗明(はらそうみょう)老師の「明るいほうへ」です。

とても素晴らしい本ですので、是非読んでみてください。

雲巌寺の有名な武茂川に架かる朱色の橋(かてつ橋 昭和25年に架替になりました)です、美しいですね。

(写真 上 雲巌寺には芭蕉と雲巌寺の英語のパンフレットもあります)

「おくのほそ道」原文より

当国雲岩寺のおくに仏頂和尚山居跡あり

竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して岩に書付侍り  といつぞや聞え給ふ

其跡みんと雲岩寺に杖を曳ば人々すすんで共にいざなひ若き人おほく道のほど打さはぎておぼえず彼麓に到る

山はおくあるけしきにて谷道遥に松杉黒く苔しただりて卯月の天今猶寒し 十景尽る所橋をわたつて山門に入

さてかの跡はいづくのほどにや  と後の山によぢのぼれば石上の小庵岩窟にむすびかけたり  妙禅師の死関法雲法師の石室をみるがごとし

(原文ママ)

雲巌寺は松尾芭蕉がおくのほそ道で、禅の師匠であった仏頂和尚の、山居跡を訪ね参詣した寺としても知られ、寺域には仏頂禅師と芭蕉の句碑があります。

元禄2年(1689年)4月5日(新暦 5月23日)に雲厳寺に参詣しています。

黒羽は「おくのほそ道」道中、最長の14日間滞在しています。

長雨が続いたのと、当時すでに門弟も沢山おり、かなり有名人であった松尾芭蕉は、門弟である鹿子桃雪(黒羽藩 城代家老 浄法寺図書高勝)、翠桃兄弟の手厚いもてなしを受けました。

「おくのほそ道」文中には浄坊寺図と記載されてプライバシーなどにも配慮したようです。

竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば 仏頂和尚

木啄も庵はやぶらず夏木立 松尾芭蕉

木啄というのは仏教伝来の時、蘇我氏と物部氏が争い、仏教反対派の負けて殺された物部守屋が怨霊となって啄木鳥になったという話があります。

啄木鳥は仏教を広める者に災いをもたらす存在とされていますが、さすがの啄木鳥も仏頂和尚の庵には近づけないだろうという、仏頂和尚への尊敬の念を表しているそうです。

石段を登ると、釈迦堂、獅子王殿が正面に一直線に並びます。

仏頂和尚が松尾芭蕉に与えた影響は量りしれない、というのが今の学説だそうです。

もちろん西行の跡を辿るというのが、「おくの細道」の大きな目的でしょうが、それは別です。

松尾芭蕉の生家は経済的に貧しく、本当の学問的な教育が無く、仏頂和尚より得た教養は、その後の芭蕉に大きな影響を与えたのでしょう。

順風満帆の生活から、奈落の底といえる深川の状態から脱出できたのは、禅を学んだことが大きな要因であるとも言われています。

仏頂和尚は常陸郡鹿島郡札村生まれの人で、33歳で鹿島根本寺の住職になりましたが、鹿島根本寺が徳川家康より拝領した100石の内、隣の鹿島神宮から寺領の半分50石を横領されたと訴え、寺社裁判の訴訟の為一年半ほど江戸に滞在しておりました。

仏頂和尚は芭蕉より3歳年上であったそうですが、芭蕉の住いのすぐ近くに滞在し知己を得たものであるらしいです。

この二人の出会いが無かったら、「おくの細道」は無かったかもしれません。

仏頂和尚(寛永19年)1642〜(正徳5年)1715年12月28日 雲巌寺で没した。

享年74

雲巌寺 雲巌寺

おくのほそ道を立松和平さんは旅に捨て身すると表現しておりました。 荘子は臨済宗と深い関係がありますから、荘子の本質を仏頂和尚から教わったのも、芭蕉の作風の大きな変化になったと思います。

時空を超えた芭蕉の素晴しい表現や侘びなどは、そこからの影響も大きいと思います。

まさに奥のほそ未知です。

https://www.youtube.com/watch?v=BAK_3ZRwMms

わたしのようなボンクラが、わかりもしない解説をするよりも、学もあり頭のよい人達が沢山この場所の記述をしていますのでぜひそちらを参考にしてください。

雲巌寺 雲巌寺 鐘楼

本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)です。

雲巌寺

数百年の樹齢の大木に囲まれた中にある隔絶された、禅宗の四大道場の一つとされる臨済宗妙心寺派の名刹です。

樹齢、数100年を越す巨木に囲まれた静かな空間では、日常を超越したものを感じさせてくれます。

雲巌寺

雲巌寺の紅葉

11月も中旬頃になると深山の雲巌寺の朝は冷え込んできます。

雲巌寺

秋の紅葉も美しい事で知られています。

例年11月中旬から下旬にかけて紅葉を楽しむことできます。

雲巌寺

朝日を浴びて屋根から湯気が登っています。

冷たい井戸水からも湯気が登り、寺全体が美しい錦秋に包まれます。

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