翡翠

Facebook滝沢 泰平さん投稿記事

「今まではクリスタルだったけど、次はヒスイの子」

ある日に妻が不思議な夢を見ました。

内容の詳しい意味はわかりませんが、次の時代に生まれてくる子ども達は「ヒスイの子」であると謎の存在に説明されたとか。

「ヒスイって、あの石の翡翠(ひすい)?」

ヒスイは、2016年9月に日本の国石(こくせき)にも認定された、まさに日本を代表する天然石。その理由は、何と言っても縄文とのつながり。

今から6000年前より、日本はヒスイを使った文化が発達していて、これは世界最古のヒスイ文化であるそうです。

ヒスイは硬度が高く、最初は何かを割る道具として縄文人は活用していたようですが、やがて文化が発達するようになって、ヒスイの活用方法は装飾品となり、その中でも縄文祭祀に欠かせない必須アイテムとして有名なのが、勾玉(まがたま)です。

勾玉といえばヒスイ、ヒスイといえば勾玉と言われるほど、皇位継承に必要な三種の神器の1つである勾玉もヒスイであります。

そして、勾玉を見ているとまるでお腹の中にいる胎児そのもの。

まさに「ヒスイの子」であり、そこで日本最大のヒスイ産地である新潟県糸魚川市へと急遽足を運ぶことにしました。

そこで出逢ったヒスイ工房の山田さんは、ご自宅から1700年前の勾玉が出土するほど、遺跡の上で生活や仕事をしている方ですが、我々が八ヶ岳から来たことを知ると、非常に興味深い情報を教えてくれました。

「八ヶ岳の天神遺跡から日本最古の6000年前のヒスイが出土したんだよ」

「えっ?八ヶ岳に日本最古のヒスイ?天神遺跡??」

確かに縄文文化が栄えた八ヶ岳周辺では、各地に遺跡が残っていますが、天神遺跡という名前は聞いたことがなく、どこか長野方面の遺跡かと思っていました。

そこで調べてみると、びっくり仰天。

天神遺跡は、山梨県北杜市、それも西井出という地名の場所にあるのでした。

これは我が家と同じ地名であり、さらに詳細の場所を調べると、うちのすぐ下、子供が通っている小学校の目の前にあったのでした。

まさか、うちからの徒歩圏内に、日本最古のヒスイが出土した遺跡があったなんて・・・。

この6000年前のヒスイは、天神遺跡のお墓の中から出てきたようで、当時にこのエリアのリーダー(酋長)だったような人物が身につけていたネックレスの一部である言われています。

6000年も前から、すでに八ヶ岳と糸魚川は繋がっており、文化交流もしていたなんて・・・。

そして現代となった今、ヒスイの夢を手掛かりに糸魚川にやってくると、ヒスイの女神の奴奈川姫を巡る旅となり、再び八ヶ岳と糸魚川が繋がるイメージがわきます。

縄文エネルギーが目覚める今、縄文の神々達が大きく動き出しているのを感じます。

ヤマトとイズモ、そしてアイヌをはじめとした縄文人の繋がり。

日本が新たな時代を迎える今、すべての統合・和合が見えない世界で着々と進んでいるのかもしれません。

糸魚川(ヌナカワヒメ)と八ヶ岳(イワナガヒメ)。6000年の時を超えて、今再びご縁を結び直すタイミングが訪れているのかもしれません。

(天下泰平「ヒスイの子を追って糸魚川へ」より一部転載)

Facebook滝沢 泰平さん投稿記事

新潟県の糸魚川と言えば、縄文古来より「翡翠(ヒスイ)」の産地であり、翡翠職人が集うところ。

石には意志があり、磐座には神(意識)が宿るように、石は人を呼び、パワーストーンのように幸運やエネルギーを与えてくれたり、邪気を祓う。

日本の国石である翡翠は、今となっては極めて希少価値が高いものであり、縄文時代から

「神具」として扱われていたことから、やはり翡翠の持つパワーは格別なもの。

海外の翡翠もありますが、やはり日本のものとは別物であり、日本の翡翠はクオリティが高い。また国産翡翠も色々ありますが、やはり糸魚川翡翠は世界トップブランド。

そして、翡翠職人も様々であり、翡翠の加工方法も機械利用と手作業とでは、最終的に出来上がる作品のエネルギーは全然違う。

やはり、人が石と向き合い、会話をするように丁寧に加工していくと、その人の意識が入り、まるでダイヤモンドのように、三次元ではない内なる光が宿る。

特に翡翠を使った代表作品といえば勾玉(まがたま)。

今の時代、高性能の機械があれば大量生産もできる勾玉ですが、それでは本来の翡翠と勾玉の持つエネルギーが完全には発揮出来ない。

ただのアクセサリーとして身につける分には、それでまったく問題ないけど、本気で神具の役割も兼ねて身につけるなら、その道のプロ中のプロの勾玉を…。

ということで、久しぶりに糸魚川にある「ぬなかわヒスイ工房」へ。

代表の山田修さんは、翡翠を使った勾玉作りにおいては世界一の人だと思う。

実際、博物館や考古学者のような世界から、古代神具のレプリカ作成のオーダーがあったり、もはや単なるアクセサリー職人ではなく、現代に生きる縄文職人。

本人は謙遜して「縄文人(見習い)」と名詞の肩書きに書いてますが、ここ"ぬなかわヒスイ工房"は、実際に工房の下から1700年前の遺跡が出てきたところで、当時から翡翠職人による勾玉作りが行われていたようだから、もはや作る勾玉だけでなく、山田さんそのものにも何かが宿っているとしか思えない。

久しぶりの工房は、DIYで驚くほど進化しており、また勾玉だけでなく、翡翠から姫川薬石まで、様々な石を使った作品もあり、山田さんそのものが日々磨きをかけて進化されていました。

年末頃には、東京で作品展も開催されるので、是非足を運んで欲しいし、せっかくならリニューアルされた工房へ直接足を運ぶのも。

ネットショップも開設されているので、遠方の方はネットからも注文できます。

神社や聖地を巡る時、うさと服だと感じるエネルギーや受け取るエネルギーが違うように、アクセサリーも神具と呼ばれるものだと、同じ感覚があります。

石は人を呼ぶし、自分で選んでいるようで選ばれるので、きっと自分に合った石と出逢えると思います。

ちなみに今回は、山田さんの工房の庭にある石に呼ばれて訪問し、その石を引き取らせて頂き、能登の旅へ。


Facebook清水 友邦さん投稿記事

三種の神器「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」はヒスイ(翡翠)とされています。

拙著「よみがえる女神」の表紙のヌナカワ姫 (沼河比売・奴奈川姫)は越(富山・新潟)の国のヒスイ(翡翠)の女王です。

皇位継承の三種の神器の鏡はアマテラス、勾玉はツクヨミ(月読命、月夜見尊)、剣はスサノオとされています。

古事記によるとイザナギの左の目から「アマテラス」、右の目から「ツクヨミ」、鼻から「スサノオ」が生まれています。

この三神は多くの神々でもっとも尊いので「三貴子(みはしらのうずのみこ)」と呼ばれます。

日本書紀の一書にウケモチが口から米飯、魚、毛皮の動物を出してもてなすとツクヨミが汚らわしいとウケモチを殺してしまいます。するとその亡骸から粟、稗、稲、麦・大豆・小豆が生まれました。世界各地に見られる食物起源のハイヌウェレ型神話と呼ばれています。

ツクヨミは月の神で農業の起源に関わる古い神なのでしょう。

月の引力は潮の干満と関係があり植物の樹液と開花に影響を与えます。

古代農業は月の満ち欠けが暦になっていました。

けれども、アマテラスとスサノオに関する記述は大量にあるのにツキヨミに関する記述は少なく謎の神となっています。

松尾大社のツクヨミ(月読)は高御産巣日神(タカミムスビ)を祖とするので、古事記のイザナギとは異なる別系統のツクヨミではないかと言われています。

奴奈川姫神社の伝承もツクヨミと同じ高御産巣日神(タカミムスビ)を祖としています。

勾玉は皇位継承のシンボルなのでツクヨミの古い時代の伝承は、新しい権力者にとって都合がわるかったので、おそらく消されてしまったのでしょう。

三種の神器を持たない天皇は、「正統」ではないとされます。

南北朝時代、足利尊氏は、後醍醐天皇に対抗する為に、無理やり光明天皇を擁立しましたが後醍醐天皇は三種の神器を持ち出していました。

困った足利尊氏は後醍醐天皇に和睦を申し入れました。三種の神器と引き換えに、後醍醐天皇の皇子の成良親王が次の天皇となる皇太子に定められました。ところが引き渡された三種の神器は「偽物」で、後醍醐天皇は三種の神器を遂行して吉野に御所を構えて再び天皇位についたのです。そのために南北朝時代は二人の天皇が存在することになったのです。

天河大弁財天社(天河神社)のすぐ後ろにあるのが南朝黒木御所跡(なんちょう くろきごしょあと)です。

かように、三種の神器は天皇家の皇位継承と切り離せない関係にあり、2019年4月の伊勢神宮の参拝にあたって皇居から携えてきた「三種の神器」の剣と曲玉を持った侍従が前後を歩いています。

三種の神器の起源は中国の長江の下流域の浙江省一帯に広がる紀元前5千年前の良渚文化(りょうしょぶんか)と見られています。

稲の起源は7000~8000年前の稲作遺跡がある長江中・下流域でその場所から大量の玉が発掘されています。

良渚文化の三種の神器は玉琮(ぎょくそう)玉壁(ぎょくへき)玉鉞(ぎよくえつ)で政治と経済と軍事の王権を象徴していました。

千年あまり栄えた良渚文化は一夜にして忽然と消えましたが、玉の文化は王権の象徴として中国全土ベトナムまで広がっています。

勾玉の原料となるヒスイが採れる日本の産地は糸魚川です。

縄文時代の遺跡から出土するヒスイは成分分析からすべて姫川流域産のものということがわかっています。

縄文中期(五千~四千年前)の糸魚川はヒスイ加工の拠点があり、その頃は人口が最も多く27万人と推測されています。

縄文後期になると寒冷化がすすみ晩期になると人口は7万人まで落ち込みました。

そのころに大陸から稲作文化を持った人々が渡来してきて縄文時代は終わりを告げます。

弥生になり大陸から稲作と同時に、金属性の鉄剣や銅剣などの武器が伝来すると大規模な戦いが始まりました。

鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡からは弥生時代に凄惨な戦いがあったこと示す人骨が多数出土しています。

1世紀の日本を記した『漢書』地理志には100あまりの「クニ」があったと記されています。

國という字は「弋」(くい)と「囗」(かこい)の合わせ字になっています。「弋」(くい)には「地中に打ち込んで目印にする杭」「獲物を捕らえる繳(いぐるみ)」「奪い取る」の意味があります。

古代は「口」だけでクニを意味していたのですが、クニとクニが争うようになると、武器である「戈(か・ほこ)」を取って「口(かこい)」つまり境界線を争うようになりました。

そして、「戈」と「口」が合わさって「或」となり、さらに大きな口が合わさって國という字ができたのです。

縄文時代から人を殺す武器が見つかっていませんので弥生以前の日本は集団で殺し合う大規模な戦争はなかったようです。

本格的な農耕が始まるとコメという富をめぐって国同士が土地を争うようになりました。

「倭国大いに乱れ。更(こもごも)相(あい)攻伐して歴年主(ぬし)なし」と弥生時代後期の2世紀後半の日本に争乱があったことが『後漢書』東夷伝にでてきます。

古事記にヤチホコ(八千矛命)が越(新潟県を含む北陸地方)にやってきてヌナカワ姫に妻問(つまどい)をする話が出てきます。

古代日本は母系だったので子供は母親の一族が育て家と財産は娘が相続しました。男性と女性は一緒に生活しないで夜だけ女性の元へ男性が通ったのです。

「よばい」の語源は「夜這い」ではなく互いの名前をよばわりあったから、よばいというようになったといわれています。言葉には呪術的な力があり、相手に自分の名前をあかすのは愛を受け入れる証でした。

糸魚川市では『古事記』の話をヌナカワ姫とオオクニヌシのラブロマンスとして「奴奈川祭り」をしています。

しかし、『古事記』に出てくるヤチホコの「家の戸を、無理に開けようとしたら、鳥が騒ぐのでこの鳥たちを殺してしまいたい」という言葉は穏やかではありません。

ヌナカワ姫の「どうか鳥たちの命は助けください。」は武力による圧力を受けていたように受け取れます。ヤチホコが沢山の矛(ホコ)という意味がある通り、武力と関係しています。

ヤチホコ(八千矛神)はスサノオという説もありオオクニヌシ大国主は個人名ではなく国を治める役割の名称なので、歴代の支配者の数だけ大国主がいたことになります。

『出雲国風土記』には『大穴持命(オオクニヌシ)、越の八口(今の新潟県)を平げ賜ひて還り坐す』という記載がでてきます。

オオクニヌシは武力を背景に越の国(新潟県を含む北陸地方)を支配下においたようです。

縄文の人々は満足な武器を持ってはいなかったので金属製の武器を持った人々はやすやすと侵入できたのでしょう。

1665年(寛文5年)に出雲大社の境内の命主社(いのちぬしのやしろ)の背後の大岩の下から長さ35ミリの美しい糸魚川産のヒスイ(翡翠)の勾玉が銅戈(青銅で作られた祭礼用の戈)と一緒に発見されています。

北部九州では銅矛が祭祀の時の重要な祭器でした。

オオクニヌシは九州、宗像のタキリビメ(田霧姫)とも結ばれています。

オオクニヌシは九州と越の国に勢力を広げたのです。

出雲のオオクニヌシは越の国(高志国)で侵略者として見られていました。

糸魚川に昔から伝わる伝承ではオオクニヌシとヌナカワ姫を祝う伝説は少なく、出雲が攻めてきて、ヌナカワ姫を連れ去り、逃げ帰ったヌナカワ姫がオオクニヌシ・出雲族に追われて姫川沿いに逃げて自殺する悲劇の伝承が多いのです。

姫川の上流の松川に姫ヶ淵という深い淵があって、ここはオオクニヌシの手先に追われた奴奈川姫が入水自殺した場所なので、姫ヶ淵というようになったという伝承があります。

姫川の名もこれから出たといいます。

オオクニヌシは越のヌナカワヒメ(沼河比売・奴奈川姫)をなかば力ずくで娶って、越の国に支配を広げたのでしょう。

ヌナカワヒメ(沼河比売・奴奈川姫)の「ヌ」は「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の「ニ・瓊」、と同じく、輝く宝石がもつ呪術力の意味があり翡翠(ヒスイ)のことを古代はヌナタマと呼んでいました。

翡翠の耳飾りは精霊の声を聞きやすくする働きがあると信じられていました。

魏志倭人伝に卑弥呼の後継者のトヨが勾玉を魏に献上したとありますが糸魚川産の翡翠だったのでしょう。

糸魚川では縄文の中期(紀元前5000年)頃から流線型の大珠(タイシュ)が作られ、次に日本にしかない独特の形をした勾玉へと形を変えて作られていきました。

新潟県糸魚川産のヒスイ(翡翠)の大珠は世界でもっとも古い装飾翡翠と言われています。

北海道まで運ばれ、青森県の三内丸山遺跡からも糸魚川産のヒスイ(翡翠)が出土しています。

弥生中期になるとヒスイ(翡翠)の勾玉は北部九州の甕棺墓(かめかんぼ)の副葬品として朝鮮半島の5〜6世紀の遺跡からも勾玉が多数出土しています。

古代の人々はヒスイ(翡翠)が病気平癒や念願成就や家内安全などの災いを払いう霊力を授けてくれると信じていたようです。

埋葬時にヒスイを副葬品として埋めたのは、ヒスイに死んだ人を蘇らす力や死後の旅の安全を守護する力があると考えていたからでしょう。

古墳時代中期(5世紀後半)に入ると呪術と関係が深いヒスイは必要とされなくなりヒスイの勾玉は急速に減少していきました。

女性原理から男性原理が優位になると墳墓の副葬品は呪術的なヒスイよりも金属製の武器が多くなったのです。

古墳時代をすぎて6世紀に入り仏教の時代になると呪術と関係が深い翡翠(ヒスイ)の勾玉は完全に消えてしまいました。

翡翠(ヒスイ)の原産地は長い間忘れ去られ日本にはヒスイの産地がないとされ、発掘されたヒスイは大陸から持ち込まれたものとされていました。

ヒスイ原石が糸魚川市の姫川で再発見されたのは1939年になってからです。

日本と中国の戦争が始まっていた頃、良寛さんを世に出した糸魚川の偉人・相馬御風(そうま ぎょふう)は昔、奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるのかもしれないという話を知人にしました。

その話を聞いた伊藤栄蔵が姫川上流小滝川周辺でヒスイの原石を再発見しました。

ヌナカワ姫がヒスイの女王として彫刻の像が建てられたのは戦後になってからです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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