闇は存在するでしょうか?

Facebook平沼 載彦さん投稿記事 【光と闇】

物事の本質をとらえることの大切さを改めて考えさせられると思います。ご参考になさってください。教授と学生による、光と闇についての対話です。

有名な高等研究所の大学教授が、学生たちにこの挑戦的な質問をしました。

「神は、存在するものすべてを創造しただろうか?」一人の学生が勇敢にも答えました。

「はい、そう思います」教授は尋ねました。「神はすべてを創造したと言うのかね?」

学生は答えました。「はい、先生。神は確かにすべてを創造したと思います」

教授は答えました。「もし神がすべてを創造したというなら、神は悪も作り出したはずだ。そうなると、神を悪と考えることもできるわけだね」

その学生は黙ってしまい、教授に対して答えられませんでした。

教授はキリスト教の信仰が作り話にすぎないことを証明したつもりになって、たいそう自慢げに満足そうに喜んでいました。

別の学生が手を挙げて言いました。「先生、質問してもよろしいでしょうか?」

教授は答えました。「もちろんいいとも」

学生は立ち上がって尋ねました。「先生、冷たさというのは存在するでしょうか?」

「何をわけのわからない質問をしているんだ。存在するに決まっているじゃないか。冷たさを知らないのか?」ほかの学生たちも、この学生の質問をあざ笑いました。

この学生は答えました。

「先生。実際には冷たさというのは存在しません。物理学の法則によれば、私たちが冷たいと感じているものは、実際には熱がないことです。熱は、からだや物にエネルギーをもたせたり伝えたりすることなのです。 絶対零度(マイナス二七三℃)は、完全に熱のない状態です。そしてその温度では、すべてのものは不活性になり、反応もできなくなります。

冷たさというのは存在しません。この冷たさという言葉は、どれぐらい熱をもっていないかを感じる目安として作り出された言葉なのです」

その学生は続けました。「先生、闇は存在するでしょうか?」教授は答えました。

「もちろん存在するに決まっているだろう」学生は答えました。

「先生。あなたはまた間違えましたね。闇も存在しないのですよ。闇というのは、実際には光が存在しないことなのです。光を調べることはできますが、闇を調べることはできません。

ごくわずかな光でも、闇の世界を壊し、照らし出すことができます。どのくらい暗いかをどうやって測れるのでしょう?実際には光がどれだけ存在するかを測っているのです。闇というのは、光が存在しないことを述べるために使われれる言葉なのです」

最後に、その若い学生は教授に尋ねました。

「先生、悪は存在しますか?」今度はその教授はちょっとためらいながら答えました。

「もちろん、われわれは毎日悪を見ているじゃないか。人間に対する残酷なことが毎日のようにあるだろう。世界中どこでも多くの犯罪や暴力があるじゃないか。これらは明らかに悪以外の何ものでもない。」

これに対して、その学生は答えました。

「先生。悪は存在しないのです。少なくとも悪自身は存在することはありません。悪は、単に神がない状態に過ぎません。悪という言葉は、ちょうど闇や冷たさと同じように神のない状態を述べる言葉にすぎません。神は悪を作り出していません。悪は、人間が心の中に神の愛をもっていないときに起こる現象なのです。それは、熱がないときの冷たさ、光がないときの闇と同じようなものなのです」

教授はがっくりと座り込んでしまいました。

その若い学生の名前は、「アルバート・アインシュタイン」でした。

物事の本質をとらえることは本当に大切だと思います。

目の前の現実をいかに見て、考えて、行動するかで人生が決まります。

時代が大きく変動している今こそ、この世の本質を見失うことなく、宇宙や自然と一体化して生きていきたいものです

https://hoff.jp/talkshow/2002/05/068-talk.html  【闇】より

突然だけど、闇というものは、僕達のすぐ近くに本当に落とし穴のように存在するものだと思うんですよ。 

明るく楽しい生活を送っている、そのすぐそばで闇は待ってるんだよね。そしてその闇につい落ちてしまう人もいれば、一生その闇の存在にすら気付かずに終われる人もいるんだと思う。

例えば交通事故とかってまさにそうでしょ、事故を起こす一瞬前まではおそらくごくごく楽しいドライブだと思うんですよ。でも何かのミスで事故ってしまった瞬間に突然闇に落とされるでしょ。極端な話、人をひいて殺してしまったなんてなったらね、それこそ本当に深く長い闇に突然落ちちゃう訳だよね、しかも一生出る事の出来ない闇だよ。つまりそんな大きな闇と、普段の平和な生活ってものが本当にすぐ隣合わせで存在してる訳ですよ。

でも、実は本当に突然の闇っていうのはなくて、それなりの前兆っていうか、多少自分から闇に近付いてる行為ってのがあると思うんだよね。交通事故に例えるなら、もしかしたらそのドライバーは闇に落ちる直前(つまり事故る直前)何かに気をとられて運転が散漫になっていたかもしれない。あるいは前日に何かあって寝不足だったかもしれない。とにかくそういう闇が現れる前兆の行為っていうのを何かしてたかもしれないんだよね。そしてもっと言うなら、そもそも車の運転をしなければ絶対に事故は起こさないでしょ。車に乗るっていう行為そのものが少なからず闇に近付く一要因にはなってた訳だよね(もちろん車に乗る事自体を否定する気は全くないが)。

 しかし当たり前だけど、車を運転する全ての人が闇に落ちる訳じゃない。闇は本当にすぐそばにあるけど、そこに落ちるかどうかは全く分からない訳だよね。だけどやはり自分から闇に近付いてしまった事は確かで、最初っから車にさえ乗らなければもちろん人をひく事だってなかった。そういう意味では避けられない事ではなかったと言えなくもない。 

しかしまあ、ひかれた側にしてみればそれこそ突然の闇だよね。本当に予期せぬ突然の闇だよ。それまでいかに幸せな、いかに真っ当な生活をしていたとしても、そこで事故に巻き込まれた事により、突然深い闇に落とされる事になる。でももしかしたら、その人にもすごい遠い所ではその闇につながる要因が何かあったかもしれない。「あの時言われた事を守ってれば・・・」みたいな事がもしかしたらあったかもしれない。

もちろん交通事故だけじゃなく、闇っていうのは色々な場所で色々な形に変わって現れる。例えば病気だってそうだし、仕事上の成功失敗だってそうだよね。誰もが闇に落ちる訳じゃないけど闇に落ちるにはそれなりの前兆・闇に近付く行為がある。それを『運』と言ってしまえばそれまでだけど、絶対に避けられないというものではない。

僕も何度かそんな闇に落ちた事がある。軽く言えば「運が悪かったんだよ!!」で終わる事でも、とにかく闇に落ちてしまった者にとっては、実際それがただ運が悪かったんだとしても、あるいは明らかに自分から闇に近付いてしまったんだとしても、とにかく闇の中は暗くて寂しいんだよね。そうなると原因はもう関係ない、とにかく闇の中は暗いとしか感じようがない。

同じ時間・同じ空間に居ても、闇に落ちてない人と闇の中の人では全く見える世界が違うんだよね。それこそが闇の恐い所だと思う。闇に落ちてる人間とそうでない人間は、全く同じ場所に居て、周りから見れば全く同じように見えても、実は完全に違う空気をそこで味わってるんだよね。

まあとにかく人は全く予期せずして、今の幸せな生活のすぐそばにある闇に落ちてしまう事があります。もしかしたら、闇に落ちている・あるいは落ちた経験があるという人の方がむしろ多いかもしれない。そんな時に自分ならどう対処できるか、友達ならなんと言ってあげられるか、恋人なら何をしてあげられるか。

僕もまだまだしっかりした人間ではないんで、正直何が出来るか、何をしてあげられるか分かりません。ただひとつ言えるのは、闇っていうのは暗いから、あたかもそこには自分しか居ないように思ってしまう。でも本当はその同じ闇の中には沢山の人が居て、みんな自分だけだと思って寂しくしてるんだよね。そこに誰かが一緒にいるんだって事に気付くだけでも、少しはそこから抜け出す元気が出るのではないでしょうか? 

だからね、そう考えると友達が闇に落っこっちゃってる時、闇から助け出してあげようとするんではなく、自分だって闇に居るんだよ・闇に居た事があるんだよ、と言ってあげる事が一番良い助けになるのかもしんないですね。


Facebookごとう 孝二さん投稿 記事「いよいよ二極分離から愛の統合の時代へ」

私たちの世界には陰と陽があって光と闇に分けることができます。

しかし、それを分けているのは私たちの思考です。

コインが表裏一体であるように光も闇もすべてはひとつです。

どちらか一方に偏ってしまうとバランスを崩してしまいます。

それは、現実世界でも同じことです。目に見える世界しか信じることができないと

目に見えない世界が分からなくなってしまいます。

現実世界でのあらゆる問題は目に見えない世界とのバランスが欠如しているからです。

目に見えない世界とは何でしょうか?それは、私たちのこころの世界です。

個人を超えた宇宙の愛という存在でもあります。地上での生活には苦しみや悲しみなどもありますがそれらの多くは本当の自分が分からなくなっていることによるものです。

本来の愛はひとつです。そこに争いや不足などはありません。

常に平和で愛に満たされた世界がそこにはあります。愛である本当の自分に還ることによって私たちは肉体を持った魂として目覚め地上でも平和や喜びを充分に楽しむことができるようになるでしょう。

【目に見える世界について】

肉体を持って生きていると自我に囚われてしまいがちです。先の事を心配したり過去のことを後悔したりまたは怒りや不安の感情などに囚われるのも自我の働きによるものです。

自我が良いとか悪いというものではなくてその判断をしているのが自我です。

ですから、自我がないと社会的なルールや秩序を保つことも困難になるでしょう。

問題なのは自我を本当の自分だと思ってしまうことです。本当の自分は善も悪もない愛そのものです。

しかし、愛そのものであるからこそそうではないものがなければ、自分が何者であるのかを知ることができません。

光を分かる為には闇が必要です。

ですから、光も闇も自分の一部として統合してゆくと本来の愛に還っていきます。

それが悟りの体験でもあります。自我はすべてはひとつであるものとは対極であり

個人という分離した自己を形成しています。

自我の創り出した二極の幻想によって私たちは分離を体験しているのです。

敵や味方に分かれて争ったり孤独感や不足感に囚われるのも自我の創り出した幻想でしかありません。

【目に見えない世界について】

本当の自分は魂であり肉体ではありません。そこに思考や自我はありません。

すべてはひとつで完璧な愛そのものです。私たちは肉体を持って生まれて来ると目に見えない世界のことを忘れてしまいますがそれがあるからこそ、魂は成長できるのです。

魂の成長とは体験です。

苦しいことも楽しいことも色んなことを体験することで成長します。

だから、苦しいことをいっぱい体験してきた人が損な人生だというものでもないのです。

自分の成長の為に苦しみが必要だったと分かれば、それは感謝の心になります。

繰り返し同じことを体験していては成長がありません。

愛や喜び、感謝といったものが人間的にも成熟した体験になります。

それによって私たちは肉体を持って本当の自分を体験することができます。

それが悟りの正体です。悟りとは本当の自分を体験することです。

特別な人だけが悟れるのではなくすべての人が悟りを体験できます。

悟りの仕組みを分かっていればいくら瞑想しても悟れないというような自我の罠に陥ることもなくなることでしょう。

本当の自分を体験するには自分を愛することです。

それは、愛である源を愛することによって可能になります。

自我の創り出した幻想を愛するか本当の愛を選ぶかは自由ですがどちらを選ぶかは自分次第です。しかし、本当の自分を愛することができれば自我を持った自分も愛することができます。

それによって内なる平和や安心感を持つことができるようになり現実世界も穏やかになってきます。すべては自分の中にあるものが現実世界へと投影されます。ですから自分が変われば世界も変わります。

世界は自分自身が創造したものであるといずれは分かるようになるでしょう。

【ひとつの世界について】

見える世界と見えない世界2つの世界が統合されることによって新しい世界が創られます。

それが、ひとつの世界であり未来の形になります。

本当の自分である創造の源と繋がる道がなかった為に本来の平和や愛が分からずに地上では苦しみが続いていました。

【まとめ】

目に見える世界を変えるには目に見えないこころの世界を分かることです。

本当の自分は創造の源です。私たちが想うことは現実になります。

思考や感情を変えるには本当の自分である愛を分かることです。

それが私たちの気づきとなって自我に反映されることで思考や感情が変化します。

それがまた現実世界へと反映されることによって愛の循環が続きます。

思考や感情もすべてはエネルギーです。

怒りや悲しみが溜まってくると苦しみに変化します。

すべては愛に委ねエネルギーを循環させることで喜びや笑いとなって返ってきます。

私たちが生きる目的は本当の自分を体験することなのです。

世界はひとつブログより。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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