https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1331238543?__ysp=5b6h5p2l6L%2BO55u05YmN 【日の出の事をご来光といいますが語源を教えてください】より
ベストアンサー sun********さん
御来光とは、御来迎(ごらいごう)ともいい、高山での日の出やブロッケン現象のことです。
山岳信仰・修験道の世界では、仏(阿弥陀仏)の出現を見立てています。
登山用語では、御来光を「日の出」、御来迎を「ブロッケン現象」と使い分けて
いるようです。
山上の日の出は、とても荘厳なものです。中でも朝焼け(モルゲンロート)の中
から現れる太陽は感動的です。
http://shindenforest.blog.jp/archives/72432860.html 【御来迎:阿弥陀如来の輪】より
御来迎(ごらいごう)
太陽光に後から照らされて、前方に雲や霧が拡がると見ている人の影の周りに、虹状の光の輪が現れる光学現象です。ブロッケン現象とも言います。
ブロッケンの名はドイツのブロッケン山でこの現象がよく見られたことに由来しています。
日本では、御来迎、山の御光、仏の御光、御光などとも呼ばれます。
今回は山でこの御来迎で楽しんできました。
御来迎の中は、自分の影なので、自由に動いて影絵を作ることができます。
上の写真は、左手をあげているところです。
両手を広げて天使のようなポーズにしたかったのですが、カメラを撮影しながらなので、
片手です。
日本では古くからこの現象で出現する影は阿弥陀如来とされています。
自分が虹の核となっているのは、気持ちのいいものです。
カメラでは肉眼よりも薄く写ってしまいますが、実際にはとても美しく、そして虹の光が一瞬一瞬強弱を繰り返しながら、標高が2700mあるために霧の流れがとても速いのでオーロラのように動きます。
写真にはうまく写っていないのですが、さらに遠い周囲にも薄い大きな虹の輪が現れたり消えたりします。
御来迎は観る人を幸せにするとの言い伝えもあるようです。
これを読んだ皆様にも幸せがたくさん降り注ぎますように。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%9D%A5%E8%BF%8E%E3%81%AE%E5%84%80%E5%89%87 【来迎の儀則】より
らいごうのぎそく らいこうともいふ
臨終に行う仏・菩薩の来迎儀式のこと。『大経』の「第十九願」には菩提心を起こして諸の功徳を修した者を臨終には仏がその人の前にあらわるとあり、『観経』には、生前に修した善の高低にしたがい阿弥陀仏が菩薩とともに迎えにくると説いている。
この経文の意から、臨終には仏像を据えて、その仏像から人の手に五色の糸(五綵)を臨終の人に握らせて仏の来迎を待つ風習が生まれ、それが来迎儀式の儀則であった。法然聖人は『西方指南鈔』所収の「法然聖人臨終行儀」に、
また御弟子とも、臨終のれうの仏の御手に、五色のいとをかけて、このよしを申侍りけれは、聖人これはおほやうのことのいはれそ、かならすしもさるへからすとそ、のたまひける。(法然聖人臨終行儀)
と、弟子が用意した来迎における儀則を大様(おおよう)〔おおざっぱで雑のさま〕であるとして用いられなかった。現代に於いても人の死にざまの善悪をあげつらう風潮があるのだが、御開山はわが身にひきかえて、
まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。
と、真実信心の念仏の行者は、臨終の善悪を論ずるべきではないとせられた。死ねるように死んで往けばよいのが、真実信心の、なんまんだぶのご法義であった。
https://houshinji.or.jp/info/info_detail/index/357.html 【浄土真宗の「来迎(らいごう)」のとらえ方】より
「私も90才を過ぎ、痛いところだらけで、早うお迎えが来んかと思うとるんじゃ。」
ご門徒さんから、こんな話を伺いました。
「お迎え」という言葉には、阿弥陀様が迎えに来てくれて、浄土へと連れて行ってくれるのだという感覚があるのでしょう。
「お迎え」のことを仏教では、「来迎(らいごう)」と言います。
では、浄土真宗では、この「来迎」をどのようにとらえているのでしょうか。
真実信心の行人は、摂取不捨(せっしゅふしゃ)のゆえに正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住す。 このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生またさだまるなり。…… (親鸞聖人 ご消息)
《真実の信心を得た人(阿弥陀様の救いを信じて歓喜し、疑わない心をもった念仏の行者)は、阿弥陀様が摂め取ってお捨てにならないので、正定聚の位(必ず浄土に生まれ仏となることの定まった身)になるのです。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとき、往生もまた定まるのです。》
「来迎」とは、臨終の時、助けてもらおうとする諸行往生の教え(自力の教え)なのです。
しかし、弥陀のご本願に抱かれた念仏者は、今ここで確かな救いのはたらきに出遇い、浄土往生が決まった身ですから、臨終を問題にすることなく、来迎をたのむ必要もないのです。
一人ではない、阿弥陀様と共に歩んでいる人生なのだとお念仏させていただきましょう。
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