日本の国とはいったい何か

Facebook清水 友邦さん投稿記事

建国記念日は神武天皇が即位した日だということです。では神武天皇とはどのような人なのか?日本の国とはいったい何か? 日本人とは一体誰のことをさすのか? どれだけの人が答えられるでしょうか。

奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)は、山そのものを神体とする日本最古の神社の一つです。立派な社殿が出来るはるか昔から三輪山は、自然崇拝の対象だった事がわかります。

縄文時代は先祖の墓地を中心に同心円状に集落が形成されていました。

生と死は未分化だったのです。

縄文と弥生の移行期は集落の境に墓地が作られ、弥生時代は村から離れた山の裾野などに作られ祖霊信仰が生まれました。

狩猟採集から水稲耕作に移り変わり、農業を始めた祖先の霊が天候神、農業神となって山に祀られる過程が三輪山に見て取れます。

精霊信仰の過程では、先祖の霊を部族の守護神として祠に祀る段階があります。

統一国家が誕生する過程において先住民である縄文文化が神社神道に吸収されていったのです。

三輪山に司祭が置かれ大物主命を祀られ神社が作られたのが崇神天皇の時代だということが記紀にかかれています。

それ以前は自然崇拝だったのです。今の大神神社(おおみわじんじゃ)の拝殿は江戸時代の創建で、当時も今も本殿は無く山そのものが本殿であるとされています。最古の神社と言われる所以です。

三輪山に祀られている大物主ははるか昔の大和にすんでいた部族の長でした。

記紀には大物主が「丹塗りの矢」となってセヤタタラヒメ(勢夜多々良姫)と結ばれ、二人の間に生まれた娘ヒメタタライスケヨリヒメ(富登多多良伊須須岐姫)が、神武天皇の皇后になる話があります。 つまり大物主は神武天皇の義父になるのです。

記紀で大物主は蛇ですが丹塗矢となってホト(女陰)を突き神武天皇の皇后が生まれる話の丹塗りの矢というのは大物主の男根つまり蛇です。

姫の名前のタタラもまたタタラ製鉄のタタラと関係があったことを思わせます。

宮崎駿監督は若い頃から鉄の民に関心があり出雲地方の「たたら製鉄」をモデルに「もののけ姫」を制作しています。『千と千尋の神隠し』に登場する少年ニギハヤミコハクヌシとは物部氏の始祖ニギハヤヒがモデルではないかと見られています。

日本は石器時代から青銅器そして鉄の時代へと移り変わって来ました。

西ヨーロッパの人々は侵入して来たモンゴル人をタルタルと呼び。ロシア人はタタールと呼びました。その猛火を意味するタトルがタタラの語源だと言われています。

日本では紀元200年頃の溶鉱炉後が広島の小丸遺跡で見つかっている。

出雲の神と蛇については新谷尚紀が「神々の現像」でくわしく考察しています。旧暦の十月は神無月ですが、逆に神々が集まる出雲では神在月となっています。神在月に行なわれる出雲の神在祭りは龍蛇様とよばれ海蛇を祀ります。

大物主とは大国主の和魂であるから、国ゆずりとは出雲族の大国主が天照系の神武天皇を婿養子に向かえたことを意味します。

大和の大神神社だけが大物主を倭大物主櫛魂命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)と呼びます。大和から全国に分霊された大神神社の祭神はオオモノクシミカタマあるいはオオトシとして祀られています。 「くしみかたまのみこと」とはニギハヤヒ(饒速日)のことです。

ニギハヤヒ(饒速日)が降臨したと言う石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)の祭神名がクシミカタマニギハヤヒです。大神神社の祭神と一致します。そして物部の先祖ウマシマジとともに祀られています。

古事記、日本書紀、旧事紀には神武天皇に先立ち、ニギハヤヒ(饒速日)が天下った話が出てきます。いずれも、ニギハヤヒ(饒速日)が物部の祖先ということでは共通しています。

先代旧事本紀によるとニギハヤヒ(饒速日)はアマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、更に大和の鳥見(登美)の白庭山に遷ったとされています。哮峯(いかるがのみね)は今の生駒山で別名ニギハヤヒの山とよばれています。 神武天皇東征のおりに国を献上し、その恭順の意を容れ、ニギハヤヒ(饒速日)の子ウマシマジを軍と祭祀の司に命じて、物部氏はウマシマジから始まったとされています。

大倭国(やまとのくに)というこの国の呼び名は「虚空見つ日本国(そらみつやまとのくに)」とニギハヤヒが言った事から始まるとされています。 日本書記の時代に漢字の表記が倭から日本に変わっています。

歴代の天皇が熊野詣でをした熊野大社の祭神も本来はスサノオとニギハヤヒでした。神武天皇が熊野で熊の毒気に当たった時に救った高倉下(たかくらじ)の別名は天香山(アメノカヤマ)でニギハヤヒの次男にあたります。ニギハヤヒは神武以前の出雲から大和、熊野まで古代日本を治める大王だったのです。

おそらくニギハヤヒが大和に農耕を伝えた時代から何百年~千年後に神武天皇がやって来たのです。

日本最初の大王がニギハヤヒではなかったかと思いますが、物部一族が表舞台から姿を消して、神社の神名が書き換えられ、平城京遷都(710)があった藤原不比等の時代に日本書紀からニギハヤヒの痕跡が消されてしまっているので、今の日本人はニギハヤヒを知らない人が多いのです。

古事記や日本書紀の東征神話によると九州の日向の国から出発した神武天皇は浪速を過ぎて寝屋川を遡り、生駒を超えて大和に入ろうとしました。

そこへ、待ち構えていた大倭(おおやまと)の豪族・登美(とみ)の長髄彦の軍と激しい戦闘になりました。

日本書紀に神武の軍が「ナグサトベ(名草戸畔)ニシキトベ(丹敷戸畔)という者を殺した。」という記述が出てきます。

名草は今の和歌山県海南市あたりで丹敷は熊野の丹敷浦あたりといわれています。

ナグサトベ(名草戸畔)ニシキトベ(丹敷戸畔)は古代の女王の名前でした。

トベは今は使われなくなりましたが女性の下につける姫のような敬称です。

アイヌ語で乳房をトペと呼びますが縄文時代の土偶のほとんどが乳房を持つ女性像です。

日本の縄文時代は母系社会でした。それが神武天皇の軍がくるまで続いていたのです。

大倭(おおやまと)に侵入した神武天皇の軍は最初の戦いで兄が戦死するなど、負け戦が続きどうしても長髄彦に勝利することが出来ませんでした。

神武天皇の軍は八咫烏(やたがらす)の案内で、熊野に上陸して、再度大和に攻め入りました。両軍は戦いを重ねましたが、神武天皇の軍はどうしても長髄彦に勝利することが出来ませんでした。

両軍が対峙して長髄彦の軍が勝どきを上げようとしたそのとき急に空が暗くなって雹が降り出し金色の鵄(とび)が神武天皇の弓先に止まりました。

長髄彦は天神の子である証として天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を神武天皇に示すと神武天皇もまた同じ物を示しました。先祖が同族だったのです。

神武天皇の先祖のニニギは長髄彦の先祖ニギハヤヒの弟でした。

これによって和議が成立して四男だった狭野命(サヌノミコト)は、大倭の婿養子となり神武天皇となったのです。神武天皇の兄である長男から三男まではこの戦争中に命を落としていたので一番下の弟が全権を握りオオキミとなったのです。

神武天皇には、 東征以前の日向でアヒラツヒメ(吾平津姫)を娶り子供も二人いましたが、和議の条件により一緒に大倭まで連れてきて来ていた吾平津姫(あひらずひめ)と離縁して新たに大倭の媛蹈鞴五十姫(ひめたたらいすずひめ)と正式に結婚をして生まれたその子を二代目天皇として継がせることになりました。

神武天皇の軍は和議を受け入れ日向と大倭は和合したのです。

しかし、この講和条約に反対する大倭の人々がいたので神武天皇の即位は大倭から離れた柏原の地でおこなわれました。

神武天皇を認めない人々によって再び戦乱が始まろうとしたので長髄彦は自らの命を絶ってその戦いを諌めたと言われています。

ウエツフミでは長髄彦が自害したことになっています。

18世紀に古事記が発見されて国学が盛んになるまでの間、神武天皇は重視されていませんでした。天智天皇が始祖とされていました。

明治になると神武天皇即位日の天長節を祝日と定めて天皇を頂点とする国家神道が形成されました。

そのために記紀神話に登場しない神々は抹殺され、明治42年までに約19万あった神社が統廃合されて神社は11万までに減らされました。

明治政府は国家神道の象徴として畝傍山麓に新たに橿原神宮を創建しました。

畝傍山に関連する神社に神武天皇は祀られていませんでした。

畝傍山山頂にあった「畝傍山口神社」は気長足姫命(神功皇后)、豊受比売命、表筒男命が祀られていますが元は大山祇が祀られていたようです。畝傍山の東側の「東大谷日女命神社」は江戸時代には、熊野権現と呼ばれていました。

中世の頃には神武天皇陵がわからなくなっていました。

幕末までは田圃の真ん中に 畝傍山がポツンとあるだけでした。

江戸時代に畝傍山近くのミサンザイの地が神武天皇陵とされ、土が守られました。

明治になると天皇が即位した聖蹟として橿原神宮が建立され、大正時代までに畝傍山周辺の住民や部落は強制的に移住させられて皇室発祥の地として整備されました。

ところが「日本はじまりの地」とされる橿原神宮は別にあるのです。

奈良県御所市「柏原」に「神武天皇社」が鎮座しています。

初代神武天皇の即位した場所であると伝えられています。

江戸時代の本居宣長は畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたことを伝えています。

神武天皇社が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに村人が証拠書類を全て焼いてしまったと言われています。

おそらくここが本来、神武天皇が即位した場所なのだと思います。

神武天皇社がある御所市柏原は被差別部落があり隣に水平社博物館が立っています。

畝傍山にも被差別部落があって立ち退きにあいました。

神武天皇社の隣には離縁された吾平津姫(あひらずひめ)を祀った摂社・嗛間(ほおま)神社があります。

嫁入り行列がこの神社の前を通ることを御法度としていました。どうしても婚礼が行われる際に通らねばならない時は、祠に幕を張る風習があったようです。

宮崎県日南市材木町に吾平津神社があります。神武天皇は九州で吾平津姫(あひらずひめ)を娶りタギシミミ(多芸志美美命)とキスミミ(岐須美美命)が生まれています。

古事記では神武天皇の死後に神武天皇の東征に同行していたタギシミミ(手研耳命)が、神武天皇の正妃であるイスケヨリヒメ(媛蹈鞴五十姫ひめたたらいすずひめ)を娶ったとあります。

父親の妻を息子が妻とするのは奇妙な話ですが古代の大倭は母系だったので皇位継承は女性が握っていたことを表していたのでしょう。

日向と大倭で争いがあり母違いの二人の弟カムヤイミミ(神八井耳命)とカムヌナカワミミ(神渟名川耳尊)にタギシミミ(手研耳命)は打たれて日向と大倭が混血したカムヤイミミ(神八井耳命)が第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)として即位しました。

綏靖天皇(すいぜいてんのう)は母のイスケヨリヒメ(姫踏鞴五十鈴媛)の妹イスズヨリヒメ(五十鈴依媛)を皇后としたとあります。

古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)は神武天皇の皇子カムヤイミミの子孫です。

大倭の婿養子になった神武天皇は物部氏の祖先神(大物主・ニギハヤヒ)を祀らなければなりませんでした。

崇神天皇の時代に出雲系と天照系の神を共にお祀りしたが、一緒に住むには不安があったので排除したと言う記録があります。

その結果、国が乱れたので、再び出雲系の神を祀った所、国が安定したとあります。天照族は出雲族の人々を排除しようとしたが出来なかったのです。

天照族と出雲族の確執はその後も続きました。

日本は統一国家ではありませんでした。

日本は昔100あまりの国があって『倭(わ)』と呼ばれて『倭人(わじん)』と呼ばれていました。

大陸から金属製武器をもった父権社会の集団が渡来して戦いがはじまったのです。

日本は母系の縄文から古墳時代の双系へ、そして父系社会へ移り変わっていきました。

古代は巫女が神を降ろす役割をし、男性の審神者(さにわ)が巫女に降りている神が本物かどうか確かめる役割をしていました。

父権社会になると男性がスメラミコト(天皇)となって祭儀だけでなく政治も兼ねるようになり大王として軍事の指導者にもなっていったのです。

5世紀を境に古代の女王は姿を消しました。

大陸から朝鮮を渡った建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)と櫛名田比売(くしなだひめ)の間に生まれたのがニギハヤヒ(饒速日)です。ニギハヤヒ(饒速日)の別名は大国主(おおくにぬし)・大物主(おおものぬし)・大歳(オオトシ)といいます。

スサノオは渡来人でクシナダヒメは日本の先住民とすると、大陸、朝鮮半島から渡ってきた人々が縄文人と融合して稲作をして暮らしていったことを伝承は語っていることになります。

ミトコンドリアDNAの調査によると縄文系は北と南に多く、弥生系は近畿に多いです。乱暴に言ってしまえば日本人は近畿に多い中国、韓国の弥生タイプとアイヌ、沖縄の縄文タイプの二つに分けられます。

日本は狩猟採集文化の縄文の古層の上に大陸から来た農耕稲作文化の二重構造になっています。大陸から中国人と韓国人が渡来し、もとから住んでいた縄文人と混血していったのです。

歴史的には今の日本人は縄文と弥生の混血で成り立っています。

肉体的には中国と韓国と日本人は文字通り血を分けた兄弟と言うことになります。

しかし、同胞と言う意識はなく、国と言う概念で分離されています。少なくとも遺伝的肉体的特徴で分けられないのです。

そしてすべての人類の母方の家系をたどると、約15-30万年前に生きていた一人の女性ミトコンドリア・イブにたどりつきます。

地球は大きな変革の時代を迎えています。

世界は誰もが同じような顔をして、同じような服装をし、同じような考えをもち、同じような生活をする均一に向かうと考えられていましたが、世界は多様性に向かっています。

複雑系に関する先駆的な研究者、ウィリアム・ロス・アシュビー(William Ross Ashby)は進化のもっとも重要な源は多様性にあるということを言いました。

これを、アシュビーの法則(必要多様性の法則 / Low of Requisite Variety)と言います。

選択の幅が多ければ多いほど人々は多様な自己表現をするようになります。

人々は多様なライフスタイルを送るようになってきました。

自由と多様性を促進するには抑圧する要素である中央集権の脱集中化、社会の多様性、権威的、抑圧的な政府の排除などが重要になってきます。

これからそれが起きるでしょう。

いままでは物理的な時間と空間に束縛されてきましたがネットワークの導入により自宅にいて世界中の人々とつながるようになってきました。

コロナ禍によってグローバルなネットワークの構築が促進しています。

ネットワークが発達して地球市民というアイディンテティを持つ人が増えます。

これから自由と多様性を抑圧する中央集権国家は消滅して顔が見える地域コミュニティを基本とした共同体社会に向かうでしょう。

ネットワークが複雑に発達すると、ネットワーク自体が脳の神経細胞のように知性をもつようになるでしょう。

地球意識(グローバルブレイン)が目覚めるのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000