聖剣伝説のかたすみに

https://fujinkoron.jp/articles/-/5438 【聖剣伝説を介してスサノオの分身として描かれるヤマトタケル。室町期の文芸家の好奇心が聖剣「草薙剣」に向かったワケ】より

連載「女になった英雄たち――ヤマトタケルから帝国日本へ」第15回

井上章一 国際日本文化研究センター所長

熱田神宮の森の中で放し飼いにされている鶏(写真提供:写真AC)

英雄は勇ましく猛々しい……ってホンマ? 日本の英雄は、しばしば伝説のなかに美少年として描かれる。ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第15回は「聖剣伝説のかたすみに」。

三種の神器としての草薙剣

草薙剣(クサナギノツルギ)は、皇位の継承におすみつきをあたえる宝物のひとつである。八咫鏡(ヤタノカガミ)や八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)とともに、三種の神器と称される。これらをともなわずに即位をした天皇は、その正統性がうたがわれることもあった。

名古屋の熱田神宮は、そんな草薙剣をまつる神社として知られている。

記紀神話によれば、もともとこの剣はヤマタノオロチという大蛇の尾にひそんでいた。それをスサノオノミコトが出雲で退治し、体内からとりだしたことになっている。

剣を手にいれたスサノオは、これを姉でもあるアマテラスオオミカミに贈呈した。ゆずられた女神は、鏡と曲玉もそえて、孫であるニニギノミコトに、これをたくしている。そして、それらをたずさえ地上へおりたニニギは、天皇家の祖となった。天皇位の継承儀礼でつかわれる神器の三点セットは、この神話に由来する。

ただ、のちに剣と鏡は、伊勢神宮へ別置された。その神宝となっている。神宮に奉仕するヤマトヒメは、そんな秘蔵の宝剣を甥のヤマトタケルへあたえていた。東征におもむく皇子へのはなむけとして。

話が脇へそれるが、私はこのくだりに違和感をいだく。草薙剣は神宮の宝物である。その宝を、彼女の一存で甥への餞別にしてしまってもいいのか。しかも、その甥は、これから東国へ出征するという。

戦いに負ければ、剣は、現地に放置されるかもしれない。じっさい、それは尾張でおきざりにされた。やはり、贈与など思いとどまるべきではなかったか。

また、ヤマトヒメは神宮につかえる斎宮である。男子禁制を余儀なくされる立場に、その身をおいていた。男性との面会は、肉親の者もふくめ、ゆるされなかったはずである。ヤマトタケルとであうことも、つつしむべきであったろう。

なにか、とくべつな事情があって、皇子との対面や剣の恵与はゆるされたのか。しかし、記紀の記述に、それがまかりとおった理由の説明はない。斎宮とその甥が、神宮のしきたりを軽んじた振舞におよんでいた。そう読みとられかねない文章が、なんのわだかまりもなく書かれている。

この点で、記紀は神宮のことを、あなどっていたような気がする。神宮のならわしに、配慮をしていたとは思えない。こういう物語を、神宮側はきらったろう。前にも書いたが、もういちど強調しておきたい。記紀のヤマトタケル説話と神宮のあいだには、深い溝がある、と。ましてや、それが神官をことほぐ霊験譚であったとは、とうてい思えないのである。

物語のなかでの草薙剣

話をもとへもどす。

剣をヤマトヒメからもらったヤマトタケルは、これを東国戦線へともなった。そして、さきほどもふれたが、熱田でおきわすれている。皇子もそのため、命をおとすこととなった。この地にのこされた草薙剣を御神体として成立したのが、熱田神宮である。

スサノオが出雲で見いだし、最後はヤマトタケルの遺品として熱田にまつられる。この伝説は、さまざまな変形をともない、後世の文芸にうけつがれた。

たとえば、『平家物語』や『源平盛衰記』が、草薙剣の物語を反復している。これらが主題とした源平合戦は、壇ノ浦の海戦で終了した。その時、この剣は海中深くしずんでいる。

剣の由来が、あらためてかえりみられるようになったのは、そのためだろう。その喪失こそが、『平家物語』などに、剣のいわれを語らせたのだと考える。

『太平記』もまた、剣の来歴をくわしく語っている。この物語は皇統が分裂した時代を、えがいていた。天皇制のゆらぎをあつかう文芸でもある。剣の伝説が挿入されたのも、そのためであったろう。そして、これらの軍記物は、剣を語る便宜のために、ヤマトタケルへ言及した。

室町時代には、草薙剣と熱田神宮に焦点をしぼった文芸も浮上する。能楽の『草薙』や『源太夫』が、その例にあげられる。御伽草子として読まれた『熱田の神秘』も、それらのひとつだと言ってよい。

つぎに、それぞれのあらましを、かんたんに説明しておこう。

平安時代に、恵心僧都(えしんそうず)とよばれる天台僧がいた。『草薙』は、その恵心が熱田神宮をおとずれる話になっている。

神社の境内で、恵心は花売りの年老いた男女とでくわした。聞けば、彼らは草薙剣をまもる夫婦、翁(おきな)と嫗(おうな)であるという。そして、クライマックスとなる場面では、翁のほうが自分の素性をうちあけた。

「我はこれ景行天皇第三の皇子、日本武(やまとたけるの尊みこと)」である、と。

さらに、そこへ地謡(じうたい)の文句が、こうつづく。「神剣を守る神となる、これ素盞嗚(そさのお)の神霊なり」、と(『謡曲大観 第二巻』1930年)。自分はスサノオであり、ヤマトタケルでもある。今は剣をまもる神になったと言うのである。

『源太夫』の物語

『源太夫』でも、同じように一組の夫婦が熱田神宮へあらわれる。彼らはそこで、朝廷からやってきた勅使に、熱田の由来を聞かせている。熱田の宮は出雲大社につうじあうのだ、と。

以下に、そのいわれへ言いおよぶ夫婦の台詞を、紹介しておこう。

シテ「景行第三の皇子日本武の尊と申すは。東夷を平らげ国家を鎮(しず)め

ツレ「終にはここに地を占め給ふ。これ素盞鳴の御再来(同前)。

シテは夫で、ツレが妻になる。夫妻はたがいに調子をあわせ、言いつのる。神代には、スサノオとしてあらわれた。そんな神が、人の代にはヤマトタケルとなってよみがえる。劇中の二人は、スサノオとヤマトタケルを、以上のように同一人格として位置づけた。いや、同一神格と言うべきかもしれないが。

夫婦は終幕に近いところで、自らの正体もさらけだす。すなわち、自分たちはアシナズチであり、テナズチだ、と。アシナズチとテナズチは、記紀神話に登場するクシナダヒメの両親である。スサノオは、このクシナダヒメを出雲でヤマタノオロチからすくい、妻とする。つまり、スサノオの義父であり義母であると、二人は勅使につげていた。

出雲でスサノオに娘をたすけられた夫婦が、今は熱田にいる。草薙剣をまつる神社につかえ、くらしてきた。『源太夫』は、そんな筋立ての能楽にほかならない。

なお、父のアシナズチは、劇中で源太夫を名のっている。ねんのため、こちらの説明もしておこう。

ヤマトタケルは、尾張で源太夫という男の家に投宿した。同家の娘を見そめ、ねんごろになったとする説話がある。記紀のそれではない。のちに、ヤマトタケル伝説をふくらませた『平家物語剣巻』の筋立てである。

これを、室町期の『源太夫』もとりいれた。当時の観衆は、文芸の教養があれば、その名をヤマトタケルの義父として理解しただろう。

鎌倉室町期のヤマトタケル像は草薙剣の伝説とともにあった

もともとは、出雲でスサノオの義父になっていた。そんな男が、熱田ではヤマトタケルの義父として登場する。スサノオとヤマトタケルは、たがいにつうじあう。そう念をおすかのような設定だと言える。その点では、『源太夫』も『草薙』とかわらぬ構成になっている。

記紀神話のスサノオとヤマトタケルは、どちらも草薙剣を手にもった。その共通点に、後世の文芸も関心をよせたのだと言うしかない。ヤマトタケルは、あのスサノオが発見した草薙剣をあやつった。その記憶が室町期の能楽では、特権的に増幅されたのだと考える。

スサノオとの一体性が、しばしば語られたのも、そのせいであろう。ヤマトタケルをその再来として、想いえがく。このスサノオをめぐる神観念については、またあとでとりあげる。おぼえておいてもらいたい。

ともかくも、鎌倉室町期のヤマトタケル像は、草薙剣の伝説とともにある。そのイメージは、きょくたんに言えば剣のおまけめいた姿で、想いえがかれた。剣こそが主役であるかのようなあつかいを、うけている。

『熱田の神秘』は室町末期の御伽草子である。ここでは、色恋もふくむヤマトタケルの心模様が、語られている。あいかわらず、草薙剣をめぐるエピソードが、多くをしめてはいた。しかし、ヤマトタケルには、その携帯者という以上の役柄が、あたえられている。『草薙』や『源太夫』より、そのあつかいはゆたかになっていた。

だが、西征の物語は、以前と同じようにでてこない。物語は、やはり草薙剣を中心に展開されている。つまり、東征の伝説ばかりが、素材としてはいかされているのである。

女装譚もふくむ西征には、見むきもしない。草薙剣へ脚光をあてつつ、東征の逸話をくみあわせながら、話をすすめていく。そのありかたは、『草薙』や『源太夫』とかわらない。室町期までの文芸が、女装の場面へ興味をそそぐことは、どうやらなかったようである。

歴史の書きかたと文芸のありようのびみょうなずれ

日本史の通史叙述は、ヤマトタケルの西征を、ひかえめにえがいてきた。クマソを相手どった女装戦術には、言葉をついやさない。それよりは、草薙剣と東征を、大きくとらえやすかった。平安時代から江戸時代の歴史語りに、そんな傾向があったことは、説明ずみである。

漢文で歴史をつづる学者たちは、皇子の女装譚をあらわにしたがらない。できれば、かくしておきたく思う。歴史書が隠蔽をはかってきたのは、みだらな表記をつつしんだからである。前にものべたが、私はそう考える。

室町期までの文芸も、こういう歴史叙述の定型にならったのだろうか。東征や草薙剣を前面へおしだす文芸を見ていると、そんなふうにも考えたくなってくる。

だが、歴史の書きかたと文芸のありようは、かならずしも一致しない。両者のあいだには、びみょうなずれがある。

往時の日本通史は、ヤマトタケルへふれるさいに、西征より東征を優遇した。西征を黙殺する史書だって、なかったわけではない。女装譚は、基本的ににぎりつぶしてきた。

しかし、少なからぬ史籍は、西征にも言葉をついやしている。西日本のクマソや出雲をせめほろぼしたことも、書きとめた。関東や東海への遠征ばかりを、とりあげたわけではない。西征にも言及することは、ままあった。ヤマトタケルが女をよそおった話だけは、どの史書もふれずにすませたが。

こういう目くばりが、ヤマトタケルの登場する文芸には、欠落している。たとえば、『平家物語』や『太平記』は、まったく西征をかえりみない。草薙剣がでてくる東征だけで、ヤマトタケルの話を、くみたてている。

能楽の『草薙』や『源太夫』も、その点はかわらない。西征を語らないことでは、むしろ文芸のほうが徹底していたのである。

なぜ文芸家たちはヤマトタケルは剣に付随する人物としてえがいたのか

歴史家たちが、西征を眼中にもいれていなかったわけではない。彼らは、そこも気にとめたうえで、しかし軽くあしらった。あるいは、見て見ぬふりをきめこんでいる。

いっぽう、文芸家たちの好奇心は、もっぱら草薙剣へむかっていた。スサノオが見いだし、ヤマトタケルの運命を左右する。のみならず、皇統を象徴するシンボルとして、神格化もされていた。そんな剣をめぐる、一種の聖剣伝説を語りついできたのである。

だから、ヤマトタケルのことも、剣に付随する人物として、えがいてきた。聖剣の守護者、あるいは剣を介してスサノオにつながる人物だ、と。

ただ、室町末期に書かれた『熱田の神秘』は、やや様子がちがう。じゅうらいどおり、東征と草薙剣を物語の中心にすえてはいた。西征や女装譚は、ふせている。だが、恋をし、苦しみやよろこびをあじわう人間的な姿も、とらえようとしていた。

やがて、江戸期にいたり、こういう部分は、よりいっそう肥大化していくだろう。そして、西征の女装伝説を大きくふくらます物語も、書かれるようになっていく。

江戸幕府の公式史学は、じゅうらいどおり西征を軽視した。そのいっぽうで、文芸作家は、西征へ新たな光をあてはじめる。とりわけ、女装の場面で想像力をはじけさせるようにも、なっていくのである。

井上章一さんの連載「女になった英雄たち」一覧

出典=WEBオリジナル

井上章一

国際日本文化研究センター所長

1955 年京都生まれ。京都大学工学部建築学科卒、同大学院修士課程修了。京都大学人文科学研究所助手、国際日本文化研究センター助教授、同教授を経て、2020 年より現職。専門の建築史・風俗史のほか、日本文化や美人論、関西文化論など、研究範囲は多岐にわたる。1986 年『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、1999 年『南蛮幻想』で芸術選奨文部大臣賞、2015 年『京都ぎらい』で「新書大賞 2016」を受賞。その他、『美人論』『日本に古代はあったのか』など著書多数。


https://ameblo.jp/tohoku-inehapo/entry-12560717169.html 【天叢雲剣と武甲山】より

まだ熱田神宮の写真があるのでのせておきます。

とにかく広くて立派な神社でした。

秩父もヤマトタケル伝承が非常に多いのですが、

他にも秩父には宝登山があり、宝登山神社の伝承は、

火に囲まれてしまったヤマトタケルを助けた狼の話しになっています。

これは、草薙剣のことを伝えていると同じです。

ヤマトタケルが敵の放った火に囲まれた際、

剣で燃えさかる草を薙ぎ払って鎮火し、自らの身を救った剣と言うことで

「草薙」と命名されているのです。

しかし、それ以前に「黒い雲が」という描写で、

ヤマタノオロチを退治する前に「十握剣」があったわけですが、

この意味は難しいのですが、学術的?には、スサノオが名付けた剣であると・・・。

後に、尾張氏が「草薙剣」という名前に変えたという説があるのです。

おそらく、武甲山の本来根づいている信仰は、スサノオ信仰にもとづく

出雲の由来はあると思っていました。

横瀬郷には、武甲山を囲んで八坂神社(牛頭天王信仰)を祀ってきた経緯があります。

しかし、その出雲らしき痕跡は、武甲山麓に鎮座する御嶽神社境内にある

「杵築神社」くらいしかわからないのですが、これは「三輪」信仰のルーツがあると思います。

この神社を祀ったのが「松平」という名の人です。(江戸時代)

出雲大社は元は杵築大社といった説があります。

秩父は松平家の一族がきているということから、すごいなと思うのですが、

松平家は愛知県豊田市が発祥です。(徳川家発祥)

武甲山に隠居していたお坊さんも「松平長七郎」として伝わります。

私の先祖は、松平家に仕えていた家臣でした。

しかし、その人がどんな人だったか古文書には何も残されていない。

江戸から隠密を派遣され調査されても、先祖は口を開くことはなかった。

そのお坊さんが亡くなった時、横瀬郷では密かに葬ったという。

さて、以前から「天叢雲剣」がシンクロしていたのは、「それ以前のスサノオの剣」

というならば、やはり出雲が関係する剣ということに?

この中に、スサノオを祀っている祠がありました。

ヤマトタケルは伊吹山でイノシシにやられる。

猪とは、二十八宿で室は、祝い事や祭祀、井戸掘りなど水に関わる時に行われる時間。

動物が猪で、宿火猪という宿図。火と水の要素がある。

火に苦戦するヤマトタケル伝承にも猪(狼)が登場するのは、

火と水の造形、剣が隠れている。(陰陽、男女など)

前回、福島県の都々古別神社の「1000回勝った=千勝」のことを

書きました。

重要なことに気づいたのですが、この神社もヤマトタケルが祀られていますが、

元来の神は「アジスキタカヒコネ」です。

黒と描写される神様。

自由なニワトリがいた・・・。

鶏の鳴き声は神事としています。(塩釜神社もそう)

鶏は、一番最初に陽の気を知ることができる鳥なので、

朝鳴くのは、陽がきたよ、というのを伝えているのです。

都々古和気神社にはヤマトタケルと味耜高彦根命・アヂスキタカヒコネノミコトを

地主神として「鉾と盾」を建てた神話がある。

鉾は矛とも言われますが、

矛と鏡は、天の岩戸隠れの時につくっていたのは「イシコリトベ」でした。

後の剣に変わって、ヤマトタケル=大和朝廷の「武」の鉄の時代へ。

朝鮮の歴史でいう「武」は、「ムーダン」という女性シャーマンです。

それは、ハリサイニョという龍女です。(牛頭天王の妻)

泣いたり笑ったりする儀式(風習)も、朝鮮の文化です。

そういえば、アテルイやアザマロで対戦していたのが紀氏で、

矛と鏡を最初につくっていたのは、イシコリトベ=紀氏側でした。

なんの神様か忘れた。・・

義経の栗原からずっと続いているのです・・・。

紀氏やイソタケル、出雲、剣などなど。

やはり神は木なんですね。

中央にたつ木が気になる。

奥へいくとひっそりとした空気にあったのは・・・。

スサノオさんでした。スサナルかな?

ソシモリ神

栗原の志波姫神社のことを書いていた時は、楠でした。

あこや姫の相手は、松に降臨し、

栗の木(源氏)、カヤの木(阿部氏)、土蜘蛛は槻など。

木の伝承は多い。

天叢雲剣は、当時、銅剣が主流であった時代では珍しく鉄製の剣だと言われ、

良質な出雲産の玉鋼を使用して鍛えられたと考えられています。

以前、サイトから熱田神宮には出雲製の剣が置かれている、といった

話しがあったように、出雲(天叢雲剣)からの転換とも言えそうなのです。

その剣の違いは、「湾曲」のある鎌のような剣だった説があります。

天叢雲剣は、鎌のように形状が湾曲されていたので、よく稲を刈ることができたと。

叢雲(むらくも)の刃紋の紋様が施された湾曲の剣らしい。

一関発祥の蕨手刀は、神話にでてくる「天叢雲剣 アメノムラクモノツルギ」がモデルとなったそうです。

直刀ではなく、ゆるやかにわん曲した刀の方がよく切れるので重宝されたらしい。

物部氏と尾張氏は同族説があるが、これも婚姻関係にあったと思います。

黒のアジスキタカヒコネに対して白の白鳥。

そして砂鉄も白鳥のことをさします。

白鳥になって飛んで行ったヤマトタケルは、砂鉄とも言えます。

諏訪ー秩父ー鹿島の共通ラインは、白鳥だったり。

砂鉄と塩を結びつけるなら、もうひとつのレイラインの意味は「白い鳥」にあるのです。

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調べてみないとわからないのですが、

父からきいた先祖の生まれが、名古屋の中心地にしているのは、

熱田神宮の大神とからめ、そのご加護を得て誕生したことにしているのでは?

と、ちょっと何かが腑に落ちず。

もしかしたら、タケル萌え萌えな尾張の伝承の仕方なのかもしれない。

武甲山にヤマトタケル伝承をもたらしたのは尾張にいた人々と思い、

先祖の一族が山梨県経由で秩父に入り、横瀬郷に住んだ時、

武甲山をヤマトタケルの象徴としてみたのでしょう。

秩父に「両神山」があります。

ヤマトタケルが遠征中に、遠くから両神山が八日間ずっと見えていた山という意味で、

「ようかみ(八日見)」が「りょうかみ」になったという伝承があります。

尾張の他にも播磨(兵庫県)の人も秩父にきています。

兵庫の妙見山の場所が八鹿(ようか)とあることと、

武甲山の由来が、兵庫の武庫山(むこやま)から、むこ→ぶこ、となった説も考えると

妙見様を信仰していた丹波(兵庫)の人が秩父まで入っていることがあります。

兵庫の妙見様の伝承は、「臼」=白蛇として伝わるのです。

そんな武甲山でヤマトタケルは何をしていたのかは、「もがり」でした。

神代文字が書かれた岩に、食物を与える儀式を行っていたと。(武蔵国風土記より)

その山を「飯盛山」と言ったのだから、名前までちゃんと残されている。

そこは墓場だったと思います。セメント会社により潰されたが。

飯豊山もあるので、飯=イイであり、伊尹国とも繋がりそうです。

ウケモチのような儀式をしていたことから、母系の縄文社会があったようです。

保食神(ウケモチ)は、ハイヌヴェレなので、スサノオがオウゲツヒメの体を切って

土に埋め、そこから芽がうまれ食物が実る伝承から、トベに繋がるのです。

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もうひとつ、意外にも、あこや姫にも関わりそうな話し。

熱田神宮と伊勢神宮の場所をみるとわかりますが、

湾を挟んで結ばれている。

「ホツマツタエ」によれば、伊勢の意味は、「妹背(いもせ)」の解釈がありました。

「男女の在り方」の意味があるそうです。

伊勢は機織とも結びつけられているので、イモセ=イセ=イツセ(五十瀬)。

栗原(宮城県)に五十瀬(いそせ)神社が三社並んで祀られています。

福島県都々古別神社伝承の「槻がはえた」の「ツキ」は、ケヤキでもあります。

ヤマトタケルが退治した土蜘蛛は、槻になった伝承。

槻はケヤキのことで、神が宿る木といわれ神聖な木。

斎槻は「いつき」といって五十槻と書く。

さて、夢の話しに戻り、

あこや姫伝承では、姉の中将姫の「妹」と伝わる伝承もあります。

これらの「妹」は必ずしも同母の姉妹ではなく、血族の記憶を管理し家の

祭儀を行う霊能を持った親族だったのではないかという説があります。

また、記紀神話におけるイザナキ・イザナミ神は兄妹の関係であるとされ、

世界の創世神話の多くにおいて夫婦関係の詩的・神話的原型が

「妹」と「兄」であったともわれます。

夢でみた伊雑宮は、「ホツマツタエ」によれば、

イサワにきてアマテルに仕えていたのは、

タクハタチチ姫(機織りの神)との事。

ホツマツタエでは、オシホミミの内宮とされる。

チチ姫が亡くなると、鹿鈴峠に葬られ、「ススカの神」と斎名を受ける。

ススカとは、「清か」の意味らしい。たぶん禊。

片山神社には、その鹿鈴大明神を祀っています。

確か、ヤマトタケルの剣には「倭姫命」が関わっていたと思います。

倭姫命は斎宮の起源とされ、片山神社は、伊勢の道で清めの儀式を行っていたと。

ススカは清めの儀式という意味らしいので、熱田神宮にも清水社が残されている

のだと思います。

洗礼みたいですね。

オシホミミとホアカリが仲良く近くに祀られていました。

伊雑宮は、天照大御神の御魂をお祀りし、「いぞうぐう」とも呼ばれます。

古くから「遙宮とおのみや」として崇敬を集め、

地元の人々によって海の幸、山の幸の豊饒ほうじょうが祈られてきました。

皇大神宮の朝夕の御け(みけ)をしていた御崎に「丸白石」という白い石を神格化しています。

同じく、松島の紫神社は、塩釜神社の祭神に関係し、製塩が行われていたところ。

白い布に丸い石をつつみ、石を奉納するので共通しています。

※安産石:福島県相馬地方:子眉嶺神社(豊受大神)

※松島の紫石。(紫明神:村境が訛る。地名の古くは蛇ヶ崎梨木平とよんだ)

ちなみに、以前、福島に行って妄想してましたが、

紫神社(松島)=村崎神社(飯坂温泉)=瀬織津姫。

源義経の従者、信夫佐藤氏が丁重に祀ってきたのかもしれない。(ルーツは滋賀県)

ここでも「飯(イイ)」という名、

また、飯坂温泉が「鯖湖」と古くは言われており、

鯖=サメの古語であり、イ・サハ(サワ)だったことも以前に書いてました。

鯖湖だった飯坂温泉の八幡宮は、瀬織津姫として密かに地元の間で、祀られているのです。

といったことを考えると、伊勢神宮は、本来「伊雑宮である」といった

話しがあるのは、興味深いことです。

また、あこやの伝承は各地にあり、兵庫県に伝わる伝承では、

「山田」という男が群馬県桐生から都へいき、あこや姫を見始めます。

和歌が上手だったので、婚姻を許され「あこや」を連れて桐生へ。

桐生も機織りの聖地。

しかし、あこや姫は早くに病気でなくなったので、墓をつくって葬ると

そこから「清水が湧きでた」という伝承になっています。

その所に祀った神社は、「白瀧神社」というのです。

白瀧神社の祭神は、タクハタチチ姫。

瀧神にされ、機織神にもされた「あこや」という名の女性は、

ホツマツタエでいう「ススカ」の女神となり、

東北地方では、坂上田村麻呂と共に大武丸退治に協力する「鈴鹿御前」として語られるのです。

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現在、武甲山は、石灰会社により発破され今は何も残されていません。

先祖は長い間、小さな村の武甲山の麓で細々と暮らしていました。

武甲山の破壊を想像していたのかどうか。

いや、これは地元の責任。

しかし、先祖の名が記されている古文書の中に、武甲山の名はほとんどないのです。

あまり崇めてきた形跡が見受けられないのですが、

海民は、遠くから山を敬っていたのではないか、と思うのです。

夢の知らせは、改めて、先祖のことを考える時期だったと思います。

誤解していたところが解けたのかもしれないし、

トベは仲良くしてほしいと思っているわけです。

うちの祀り方は、スサノオさんとサルタヒコさんは一緒です。

実際、名古屋にきて改めてそれを認識させられたのですが、

知らないのと知っていくのとは、全然違います!

全く世界が変わってみえました。

これも長い探訪が終わった感じがします~。

最後に、これらをまとめると、そのメッセージというのがまた面白くて深いのですが、

伊雑宮の「イサハ」とは、イザ!という「いざ」=進めの言霊だそうです。

熱田神宮の境内にあった「八剣社」は、八本の剣ではなく、

八=弥栄=やえ、の意味なので、「いよいよ」の言霊から八剣になったとの説。

八方向の光ですね。

いよいよ、いざ!

という言霊は、

新しいことが始まる。

意味です。

いよいよ、何かが起こる新しい兆し。

それにノル。

ということで、私は「静かに」のっかろうと思います。笑

熱田神宮はおしまい。

ですが、まだまだマニアック神社があるんだよ~。

ディープな名古屋は、つづいてしまう。

名古屋へ行っても、あの民なのです・・・。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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