エミシと出雲人

https://www.chi-takumi.jp/juku/jomon/jomon-9-2.html 【エミシと出雲人(2)】より

あらまし

774年に光仁天皇は新しい将軍に任命して征夷(せいい)に向かわせました。朝廷軍の指揮を執ることになった将軍は、前任者が立案した征夷計画を実行に移すべく準備を始めました。この時、現在の岩手県盛岡市にあったエミシの村、胆沢で、反乱が起こりました。これに対して、朝廷軍は関東地方の戦力を動員して、胆沢(いさわ)を攻めました。これをきっかけに胆沢のエミシが朝廷軍に対する反発を強めました。779年、エミシ軍と朝廷軍との間で、戦いが始まりました。この戦いでは、エミシ社会側に分断が生じ、朝廷側につくエミシの人々も出たようです。780年、将軍が朝廷側についたエミシの将軍を連れ、胆沢のエミシ制圧に赴いた時、味方のエミシ軍が反乱を起こし、将軍を包囲し、殺戮(殺戮)しました。

781年、光仁天皇は退位し、その子の桓武(かんむ)天皇が即位しました。朝鮮半島からの渡来系の母の血統に劣等感を抱いていた桓武天皇は、父の光仁天皇と同じく、領土の拡大による朝廷内での権力掌握を期待し、征夷軍の立て直しに注力しました。一方、エミシ社会では、胆沢の将軍アテルイがエミシ軍の総帥(そうすい)に推薦(すいせん)されました。桓武天皇は、782年、大伴家持(おおとものやかもち)を鎮守(ちんじゅ)将軍に任命して、エミシの征服を命じました。その大伴家持が、785年に没した直後、長岡京では、朝廷内で事件が多発し、大伴家持も皇太子の暗殺計画に関わっていたとされ、自殺した皇太子の祟り(たたり)だと言われた事故が多発し、桓武天皇は長岡京の建設を断念、平安京(現在の京都)への遷都(せんと)を決定しました。

789年、征夷軍は衣川に進軍し、開戦を待ちました。戦いが始まると、エミシ軍を率いたアテルイが活躍し、4,000の朝廷征夷軍を800ほどのエミシ軍で迎え撃ち、大敗に陥れました。その後の戦いでも朝廷軍は苦戦しました。激しい戦闘が続きましたが、征夷軍にもエミシ軍にも大きな成果はありませんでした。特に激しい戦闘の場になった胆沢のエミシ社会には、打撃が大きく、アテルイは窮地(きゅうち)に立たされていました。坂上田村麻呂とアテルイは、791年頃から、水面下で和平交渉を始めていたようです。796年頃から、アテルイとの和平交渉では、征夷に拘りのある桓武天皇の意向を考えて、「アテルイの投降」が必須の条件になりました。802年、坂上田村麻呂とアテルイは、アテルイが征夷軍に投降することで、戦争を終わらせることに同意しました。

エミシと出雲人(2)~アテルイと坂上田村麻呂

光仁(こうにん)天皇がなぜ、大和朝廷のエミシ支配を強めようと考えたのかの理由は定かではありません。ただ、朝廷が財政的に苦しんでいたことは事実です。光仁天皇は、朝廷の財政を立て直すために、エミシの人々を大和朝廷の支配下に置き、彼らから税を集めることで、朝廷の税収を増やせると期待したようです。稲作からの税を増やすことを期待していたからです。しかし、寒冷化の影響で、稲作は減退していたので、税収増にはならなかったでしょう。光仁天皇は、エミシ制圧のために何人もの将軍を次々と送り続けました。戦闘は、一進一退が続きました。62歳の高齢で即位した光仁天皇は、自分の名誉のためにエミシ征服の業績を欲していました。光仁天皇の母親は、朝鮮半島から渡来した人々の子孫でした。天皇はそのことに劣等感をもち、エミシ制圧の業績を必要としていたとも言われています。

774年に光仁天皇は紀広純(きのひろすみ)を将軍に任じて征夷(せいい)に向かわせました。朝廷軍の指揮を執ることになった紀広純は、前任者が立案した征夷計画を実行に移すべく準備を始めました。この時、現在の岩手県盛岡市にあったエミシの村で、反乱が起こりました。この反乱に対して、朝廷軍は関東地方の戦力を動員して、胆沢(いさわ)を攻めました。これをきっかけに、もともと朝廷側に友好的だった胆沢のエミシが、朝廷軍に対する反発を強め始めました。胆沢のエミシ軍の中に、アテルイと言う名の将軍がいました。779年、エミシ軍と朝廷軍との間で、戦いが始まりました。この戦いでは、エミシ社会側に分断が生じ、朝廷側につくエミシの部族も出たようです。その結果、エミシの身分を免じられ、「公民(こうみん)」とされた人々も出現しました。天皇は直々の命令で、「胆沢のエミシ集団こそ征服しなければならない」と宣言しました。780年、紀広純が朝廷側についたエミシの将軍を連れ、胆沢のエミシ制圧に赴いた時、その味方についたエミシ軍が反乱を起こし、紀広純を包囲し、殺戮(さつりく)しました。

781年、光仁天皇は退位し、その子の桓武(かんむ)天皇が即位しました。朝鮮半島からの渡来系の母の血統に劣等感を抱いていた桓武天皇も、父の光仁天皇と同じく、領土の拡大による朝廷内での権力掌握を期待し、征夷軍の立て直しに注力しました。一方、エミシ社会では、アテルイがエミシ軍の総帥(そうすい)に推薦(すいせん)されました。桓武天皇は、782年、大伴家持(おおとものやかもち)を鎮守(ちんじゅ)将軍に任命して、エミシの征服を命じました。その大伴家持は、785年に没しました。その直後、長岡京では、朝廷内で事件が多発し、大伴家持も皇太子の暗殺計画に関わっていたとされ、自殺した皇太子の祟り(たたり)だと言われた事件が多発し、桓武天皇は長岡京の建設を断念し、平安京(現在の京都)への遷都(せんと)を決定しました。桓武天皇は、外戚(がいせき)関係にあった渡来系の百済俊哲(くだらしゅんてつ)を鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)に任命し、エミシの制圧を命じました。ところが、鎮守府内における不正問題が明るみに出て、百済俊哲は、失脚しました。桓武天皇は、征夷軍指揮官に佐伯葛城(さえきのかつらぎ)を指名し、征夷軍は岩手県の衣川(ころもがわ)へ進軍しました。

789年、征夷軍は衣川に進軍し、開戦を待ちました。その間に、突然、佐伯葛城が現地で死去しました。佐伯葛城の後継となった古佐美(こさみ)は、征夷軍に進軍を命じ、戦いが始まりました。この戦いでは、アテルイが活躍し、4,000の朝廷征夷軍を800ほどのエミシ軍が大敗に陥れました。その後の戦いでも朝廷軍は苦戦しました。劣勢が続いた朝廷軍では、「懐柔(かいじゅう)」を主張する首脳陣と、「武力制圧」を主張する首脳陣の対立が始まっていました。791年、征夷軍指揮官の古佐美は、天皇に征夷の中止を進言しました。その理由は、兵士の食料不足でした。しかし、桓武天皇は、将軍らの不忠を非難し、戦争の継続を指示しました。桓武天皇は、792年、渡来系の外戚に当たる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に命じました。坂上田村麻呂とアテルイの戦いが始まると、エミシ社会への打撃が拡大し、アテルイも苦戦し始めました。一度失脚した百済俊哲(くだらしゅんてつ)が791年から再び征夷軍に参戦していましたが、795年、俊哲は死去しました。

激しい戦闘が続きましたが、征夷軍にもエミシ軍にも大きな成果はありませんでした。特に胆沢のエミシ社会には、打撃が大きく、アテルイは窮地(きゅうち)に立たされていました。坂上田村麻呂とアテルイは、791年頃から、水面下で和平交渉を始めていたようです。796年頃から、坂上田村麻呂は、積極的にエミシ軍の懐柔(かいじゅう)策を展開しました。エミシ軍の中には、坂上田村麻呂の懐柔策に従って、投降(とうこう)する人々も出現しました。大和朝廷は、投降したエミシの人々を関東や出雲の地へ移住させ、優遇したと言う記録が残っています。アテルイとの和平交渉では、征夷に拘りのある桓武天皇の意向を考えて、「アテルイの投降」が必須の条件になりました。802年、坂上田村麻呂とアテルイは、アテルイが投降することで戦争を終わらせることに同意しました。アテルイは、坂上田村麻呂に従って平安京へ連行されました。桓武天皇は、アテルイの処刑を命じ、アテルイは斬首(ざんしゅ)の刑に処されました。

このエミシによる反乱と朝廷軍のエミシ東征は、その後のエミシの乱を未然に防ぐため、特に、関東の各地へエミシの人々を分けて移住させる政策が採用され、その後、類似の戦乱はなくなりました。しかし、平安時代の平将門(たいらのまさかど)の乱、平安時代末期の後三年の役、奥州藤原氏と鎌倉幕府との戦い、戦国時代末期の豊臣軍と九戸(くのへ)氏との戦い、幕末の戊辰(ぼしん)戦争での会津の戦い・山形荘内の戦いなど、中央政府の軍と東北地方の地元軍との大きな戦いは、何度か繰り返されました。似たような戦いは、九州地方でも豊臣軍と島津軍との戦いや西郷隆盛の西南戦争など、何度か経験されています。注目すべきは、東北の地元軍と中央政府軍との戦いでは、地元の人々を巻き込んだ壊滅的な戦いに拡大する傾向が見られることです。エミシの血を引いた東北の人々の戦いでは、政府側の戦い方が残虐になる傾向が見られます。それは、逆の見方をすれば、地元軍の抵抗が激しくなることを示していたと言えるでしょう。

筆者は大学生の時、インターンシップで、大手製薬会社において、実験テータを解析するプログラムの設計と開発の仕事を担当しました。その時、インターン生だった私達を、専門家として指導してくれた方は、業界でも有名な専門家でした。その方が、何かの折に、「山口県出身の人は信頼できない」と言ったことが強く印象に残りました。後で分かったことですが、その方は東北の出身で、明治維新の戊辰戦争で、先祖が会津藩側につき、官軍と戦った歴史を100年後でもネに持っていたことを知りました。それほど、東北南部での明治維新の戦いはし烈なもものだったようです。その戦いの記憶のあった祖父や祖母の言葉を聴いて育った人々にとっては、100年の時間では水に流すことができない歴史だったようです。その根底には、関西や中央の支配層の人々に対する怨念のような感情があったように感じられました。戦後の時代に、関東で教育を受けた筆者には、理解できない感情があることを知りました。


https://www.chi-takumi.jp/juku/jomon/jomon-9-3.html 【エミシと出雲人(3)】より

あらまし

日本の古代神話を記述した書物の一つに「古事記」(こじき)があります。特に最初の神話に関する記述に、出雲の神話と大和朝廷の成立に関する記述がなされていることが特徴です。出雲神話では、高天原(たかまがはら)を治めていたアマテラス大神の命を受けて、高天原を出たアマテラスの弟神のスサノオの尊(みこと)は、混沌(こんとん)としていた芦原の国、出雲の地へ降臨し、斐伊川(ひいかわ)沿いの村で、毎年のヤマタノオロチの大暴れを防ぐために、若い娘を生贄(いけにえ)に捧げなければならず悩んでいた老夫婦と娘に出会い、その話を聴いたスサノオがヤマタノオロチに酒を飲ませ、酔ったところに襲い掛かって、ヤマタノオロチを退治する計画を授けました。スサノオは、8つの酒樽に酒を注いでヤマタノオロチの出現を待ち、オロチが酒を飲んで酔ったところを見計らい、オロチの8つの首を落とし、その尻尾を切った時、尻尾から草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたとする話で始まります。この後、神話の主人公になるのは、出雲の国の支配者になる大国主の命(おおくにぬしのみこと)です。

大国主の命(おおくにぬしのみこと)は、現在、出雲大社に祀られている神です。大国主は、兄弟と結婚相手争いをして、諸国を歩きまわります。この過程で、大国主は、因幡(いなば)の国の海岸で毛をむしられて泣いているウサギに出会います。ウサギは、島から海を渡って因幡の海岸に来るために、海に居たワニ(サメをこう呼びます)をだまして、島から海岸まで1列に並べさせます。嘘を言ってワニを並べさせましたが、ウサギが島からワニの背中を伝って海岸にたどり着き、海岸に降りた時、ワニたちをだましたことをワニたちに言うと、ワニたちは怒り出してウサギの毛を全て剥(は)いでしまったのです。その痛みに耐えかねて泣いていたところに通りかかった大国主は、ウサギにどうすれば良くなるかを教えました。その通りにしたウサギは、みごと元通りの毛をはやしたと言う話です。このあと、大国主は、スサノオの娘と出会い、スサノオが大国主に課す様々な難題を乗り越えて、娘と結ばれる話が続きます。

大国主が出雲の国を平定した後、その支配を子供に譲り、隠居をすると、大和朝廷から使いが来て、出雲の支配を大和朝廷に譲るようにと迫ります。大国主は、自分は隠居の身であるから、子供達に言うようにと伝えます。大和からの使者は、大国主の2人の息子達にそれを伝えます。一人は、使いに来た人と力比べ(相撲をしたとされています)をして負け、現在の長野県の諏訪まで逃げたとされています。もう一人は、魚釣りに出ていましたが、国譲りを迫られ、船の上で自害(じがい)をしたとされています。この神話が意味するところは、大和の勢力と出雲の勢力との間で、し烈な戦いが行われ、結果として出雲の勢力が負けたと考えられています。歴史学者によれば、陸稲稲作を行っていた出雲社会に対して、新しく稲作を取り入れた九州の大和社会は、水稲耕作を採用し、生産性が高かったことから、大和勢が有利だったとしています。勝ったとはいえ、大和の勢力は、出雲に大国主を祀る巨大な神社を建設することで出雲の人々の怨念(おんねん)を鎮めることを考えたのでしょう。

エミシと出雲人(3)~出雲社会とエミシ社会

日本の古代神話を記述した書物の一つに「古事記」(こじき)があります。古事記は、712年に太安万侶(たやすまろ)によって編纂(へんさん)された古代日本の歴史書とされています。そこには、古代日本の神話、初期の15代までの天皇の業績、16代から33代までの天皇の業績が記述されています。特に最初の神話に関する記述に、出雲の神話と大和朝廷の成立に関する話が記されていることが特徴です。古事記と対になっている日本書紀との内容の差から、古事記を偽書(ぎしょ)とする説を、江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)らが唱(とな)える原因になりました。なぜ、出雲神話をこれほどまで重要視したのかについては、現代でも歴史家の間で意見が分かれています。そのような説の中には、古事記が、当時の日本社会で対立していた大和政権と出雲政権の主導権争いで、大和勢力との競争に敗れた出雲側の支配者の怨念(おんねん)を鎮(しず)めるために、大和勢力の人々が「国譲り」(くにゆずり)の神話を作りだし、出雲側の勢力が自ら進んで、大和側の勢力による支配を認めたかのような体裁(ていさい)を採ることが必要だったからだとする考えも出されています。

出雲神話では、高天原(たかまがはら)を治(おさ)めていたアマテラス大神の命を受けて、高天原を出た弟のスサノオの尊(みこと)は、混沌(こんとん)としていた芦原の国、出雲の地へ降臨し、斐伊川(ひいかわ)沿いの村で、毎年のヤマタノオロチの大暴れを未然に防ぐため、若い娘を生贄(いけにえ)に捧(ささ)げなければならず悩んでいた老夫婦と娘に出会い、その話を聴いたスサノオがヤマタノオロチに酒を飲ませ、酔ったところに襲い掛かり、首を切り落としてヤマタノオロチを退治する計画を授けました。スサノオは、8つの酒樽に酒を注いでヤマタノオロチの出現を待ち、オロチが酒を飲んで酔ったところを見計らい、自分の太刀でオロチの8つの首を落とし、その尻尾を切った時、尻尾から草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたとする話で始まります。この草薙剣が、天皇から天皇へと受け継がれる三種の神器の一つなっている「太刀(たち)」です。このスサノオは、現在、島根県のスサノオ神社に祀(まつ)られています。この後、神話の主人公になるのは、出雲の国の支配者になる大国主の命(おおくにぬしのみこと)です。

大国主の命(おおくにぬしのみこと)は、現在、出雲大社に祀られている神です。大国主は、兄弟と結婚相手争いをして、諸国を歩きます。この過程で、大国主は、因幡(いなば)の国の海岸で泣いている毛をむしられた白ウサギに出会います。そのウサギは、島から海を渡って因幡の海岸に来るために、海に居たワニ(サメをこう呼びます)をだまして、島から海岸まで1列に並べさせます。嘘を言ってワニを並べさせましたが、ウサギが島からワニの背中を伝って海岸にたどり着き、海岸に降り立った時、ワニたちをだましたことをワニたちに言うと、ワニたちは怒り出してウサギの毛を全て剥(は)いでしまったのです。その痛みに耐えかねて泣いていたところに通りかかった大国主は、ウサギにどうすれば良くなるかを教えました。その教え通りにしたウサギは、みごと元通りの毛をはやしたと言う話です。これは今日では、大国主が、医学的な知識を持っていたことを示す逸話だと考えられています。このあと、大国主は、スサノオの娘と出会い、スサノオが大国主に課す様々な難題(なんだい)を解決して、大国主はスサノオの娘と結ばれる話が続きます。

大国主が出雲の国を平定した後、その支配を子供に譲り、隠居をすると、大和朝廷から使いが来て、出雲の支配を大和朝廷に譲るようにと迫ります。大国主は、自分は隠居の身であるから、子供達に言うようにと伝えます。大和からの使者は、大国主の2人の息子達にそれを伝えます。一人は、使いに来た人と力比べ(相撲をしたとされています)をして負け、現在の長野県の諏訪まで逃げたとされています。もう一人は、魚釣りに出ていましたが、国譲りを迫られ、船の上で自害(じがい)をしたとされています。この神話が意味するところは、大和の勢力と出雲の勢力との間で、し烈な戦いが行われ、結果として出雲の勢力が負けたと考えられています。歴史学者によれば、陸稲稲作を行っていた出雲社会に対して、新しく稲作を取り入れた九州の大和社会は、水稲耕作を採用し、生産性が高かったことから、大和勢が有利だったとしています。勝ったとはいえ、大和側がそのまま出雲の社会を統治することには危険があると考え、出雲に大国主を祀る巨大な神社を建設することを約束したのではないかと考えられています。それが、今日の出雲大社です。そのことは、出雲勢の力が、大和勢の予想をはるかに超えていたことを意味しているでしょう。出雲は、先進国であった朝鮮半島に近く、質の良い砂鉄を産出し、たたら製鉄の技術を持った人々が多くいました。

出雲で生産された玉鋼(たまはがね)は、刀を作るために重要な材料です。それを生産するための技術、人材と、質の高い材料の砂鉄を産出する出雲は、当時、先進地域であったはずです。出雲を支配することは、大和朝廷がそれ以後の日本社会の統治(とうち)を確立するうえで、絶対に必要な条件の一つでした。それは、弥生時代以降、武力の維持と、農業生産力の維持が政治的条件だったからです。この時代の社会では、人口を増やすために農業生産力増大のための技術の開発、即ち鉄の生産のための材料の調達と鉄生産のための人材の育成、鉄を利用した農機具生産のための鍛冶技術を持つ人々の育成、また、農業生産を円滑に行うための天候や気候に関する天文学の知識を持った人材の育成や、水資源の供給と河川の管理に必要な土木建設の知識を持つ人材の育成などです。このうち、鉄に関する様々な知識や技術については、出雲の社会は当時の日本において先端的な地域でした。その出雲の社会を、大和の勢力が支配できたことは、日本における支配を強めるために、重要なことであったと言えます。

大和の勢力による出雲社会の支配は、「国譲り神話」のように平和裏に行われた可能性は低いでしょう。実際に、大和と出雲との間には、激しい武力闘争があったものと考えられます。その戦いで生まれた両国社会の人々に残された遺恨(いこん)は、簡単には拭い去ることはできません。大和勢力は、この出雲勢力の人々の恨(うら)みを減らすために、巨大な社(やしろ)を建設しました。その社の中心の建築物は、数十メートルの高さをもつ、当時の社会としては想像できないほどの規模を誇るものであったと言われています。その建築物が、現在の出雲大社です。建物自体は、現在の出雲大社よりも巨大であったと考えられています。そのような大国主の命を祀る社を建設することで、大和朝廷が支配した出雲の人々の心情的な恨みを減じる政治的な狙いがあったと思われます。現実にその政治的意図は成功したと言えるでしょう。それが、古事記に記された、大和の勢力が大国主の命に約束した巨大社建設に込めた大和勢力の大国主の決意に対する感謝として表されています。

出雲で神話の国譲りが行われてから数百年の後、東北の地で、似たような事件が起こりました。それが、エミシの反乱と桓武(かんむ)天皇の命による坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の征夷行動でした。エミシ軍を率いて朝廷軍を苦しめたアテルイも、30年に渡る戦いと、朝廷が送った10万の大軍との攻防戦によって、疲弊(ひへい)していました。征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、アテルイが率いた反乱軍と戦いながらも、エミシ軍の勢力を弱めるための懐柔(かいじゅう)策を講じ、エミシ軍を離反した部族の人々を優遇し、出雲などの離れた場所に移住させました。アテルイは、戦争のこう着状態を打開して平和を取り戻すために、自分の命を投げだし、坂上田村麻呂に降伏する道を選びました。これは、古事記にある出雲の国譲り神話と似ています。さらに、アテルイから離反したエミシの人々の一部が、まさに国譲り神話の地、出雲へと送られたことは歴史の皮肉です。似たような歴史の悲劇を経験した人々の社会へ、エミシの人々を送り込んで、同化(どうか)させようとするやり方を選択したのです。坂上田村麻呂の選択は正しかったのでしょうか。戊辰戦争の歴史的な記憶が、今でもその戦いに関わった人々の子孫に残っているように、数百年間、人々の記憶から消すことはできません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000