ヤマト北進

https://ameblo.jp/vanilla-2020/entry-12814012641.html 【黄色のキノコ「黄金絹唐傘茸」】より

✴︎Welcome to wonder garden✴︎-キノコのお話-

幸運のキノコ「コガネキヌカラカサタケ」全身が黄色の可愛いキノコがウサギ邸で生えました

別名「お釈迦様のキノコ」黄金色だから?ミリ単位のキノコはよく見るのですけどこんなに育ってるのは初めてです

ではキノコの生長を見てみましょう‼︎ まだ傘が開く前... 4cm届かない3.8mmくらい?

隣のちびっ子は2cm 傘が開いた頃... 4.3mmといったところ? 生長は早いです

"キノコの部位名称"

傘...てっぺんの広がる部位 ヒダ...傘の裏側にある部位 ツバ...柄(え)の途中にある部位

柄...茎みたいな部位

下の卵形の部位を「ツボ」というのですけど 画像だと分かりにくいので省きました

傘とヒダの部分を総称して「子実体」と呼びます

キノコの種類によって胞子のばら撒き方は違うのですけど一般的に傘のあるキノコは

子実体の下から胞子を飛ばします

ちなみに傘が湿っていないと胞子を飛ばさないので乾燥してるとダメです

傘が開く前の卵型の姿 濃いイエロー... 作り物みたいです 一晩で傘が開きました

なんて可愛いの...♡増やせるのかしら?別の容器に移して霧吹きして 放置してみました...

水分たっぷりだから胞子ばら撒かれた? 親株はもうヘナヘナ... やっぱり2.3日が限界なんだ

いた...‼︎ こんなテキトーな方法でイイんだ... このまま密封容器で 時々霧吹きシュッシュで 胞子ばら撒かれた土を腐葉土と一緒に 混ぜ混ぜして 保管しておこうかな

来年この土からまたキノコ生えるかも...

キノコテラリウムとか作りたいわ♡ 絶対可愛いもの... 通常のカラカサタケは

おっきいのが特徴 傘のブツブツ感とかは似てなくもない?

サイズが全然違うんだけどねカラカサタケは最大45cmになるしなぁ...

キツネノカラカサタケは有毒ツバの感じが全然違う...キツネさんではなさそうです

1番似てるのがコレ...ツボがないところがそっくり‼︎シロカラカサタケも傷をつけると黄色くなるらしい

たぶんコガネキヌカラカサタケはシロカラカサタケに近い品種なんじゃないかしら⁈

キノコ好きだからついつい2連続のキノコネタ

送ってくださったブロ友さんがごめんねってコメントくれたのですけど...むしろ幸運のキノコが生えて嬉しいのですが...

なんなら増やそうとしてるくらいです♡可愛いキノコをありがとうございます♡

大事に(?)来年も繋げてませますわぁ


Facebook縄文古代文字を楽しく書く会いと きょうさん投稿記事· 

アテルイ

多くの方が、「ヤマトタケ(日本武尊)とエミシ」、「坂上田村麻呂とアテルイ」の話を同じようにとらえていますが・・・果たしてそうでしょうか?ヤマトタケは3世紀の人。縄文の血筋を受け継ぐ方。彼はその後に帰化人が増え、国が混乱することを予測していた。実際、その通りとなった。一方8世紀の人、坂上田村麻呂の先祖は帰化人(漢から渡来)。この記事にもあるように、百済からの帰化人も7世紀には大勢やってきて、彼らの為にエミシ討伐が行われた可能性が高い。ヤマトタケは、帰化人が増えることを予測し、天皇を中心とする国の重要性を訴えていた。坂上田村麻呂の時代(桓武天皇の時代)は、帰化人のために東北を占領し、土地を分け与えることが目的であったようだ。この時代に、東北で縄文人と共存して暮らしていたアイヌの人も北海道に逃亡したのであろう。


https://4travel.jp/travelogue/10618499 【ヤマト北進(1/4)その系譜ー多賀城市の荒脛巾(あらはばき)神社 ―】より

荒脛巾(荒覇吐・荒吐とも)の神については諸説があるが、基本的な理解は、元来は土着の祖霊・地主神であり、ヤマト王権の北進によって北に追いやられた「まつろはぬ民・エミシ」が信仰していた古代からの素朴な信仰をうける神ということらしい。ご神体はしばしば丸い海の石だという。

つまり、高天原系の係累がおおい神々とは異なり、地主神であり、縁者のすくない神様らしい。

多くは同じ社域に祭られた後来の高天原系の神に地位を奪われて小さな社殿となったり、鳥居の近くで客人神となったりしている。

たとえば埼玉県大宮市の氷川神社の門客人神社と呼ばれる摂社や、大国魂神社の坪宮の祭神、奥多摩で鍾乳洞の近くの養沢神社などは、元来は荒脛巾神社であったという。

つまり、ヤマトの進出にともなって、東日本の住民の素朴な信仰対象であった地主神が脇役に押しやられてきた歴史を物語っている。

荒脛巾神社の分布は、元来武蔵・甲斐以北、つまり関東・東北が中心らしく、検索すると会津若松や宮城県大崎市、多賀城市などに荒脛巾神社が現存することが分かる。

今回は多賀城市の荒脛巾神社をおとずれた。

国指定の特別史跡「多賀城跡」の北東、鬼門には東北地方の延喜式内 100社を統べる陸奥総宮があり、その100?ほど東の右手に表紙写真の石標があり、そこを入って100?あまりに赤い鳥居があり、人家の庭に入り、植え込みを通り抜けると神社が三社祀られている。

真ん中にあるトタン屋根の鞘堂の下に、見るからに古い建物の荒脛巾神社がある。社頭には荒脛巾神社の額があるが、その後ろの社殿には道祖神の額が掲げられている。

はばき(脚絆)から足の神、道祖神ということで、金精様や鉄製のワラジなどが供えられている。

社殿に向かって右には養蚕神社がある。左側には石像がならんだお堂があり、聖徳太子と刻んだ碑が立っていて、その手前にはやや白濁した湧水が小さな水場となっている。

荒脛巾神社は甲斐・武蔵以北に600社もあったとされ、崇拝する人々を荒吐族(アラハバキ)と総称する書物もある。この荒吐族は奈良時代には5人の王によって統治されていたが、王の1人は崇仏論争で蘇我氏に敗れて亡命してきた出羽物部氏だったという。

エリア 多賀城・塩釜・利府(宮城)

交通手段 新幹線 JRローカル 徒歩 旅行の手配内容 個別手配

民家の入り口にシンプルなつくりの鳥居が立っている。ちょっと挨拶して 庭に入る。

植え込みはよく手入れされていて 其の先にトタン屋根の鞘堂が見える。荒脛巾神社の額がかかっている。この後ろの額は「道祖神」だった。

左下には金精様がいくつも供えられていた。材は古く、よく震災に耐えたものと感心する。

荒脛巾神社には はばき(脚半)から足、という連想で鉄のワラジが奉納されている。

右側に鎮座する養蚕神社。「病を切る」ということで鋏が奉納されている。


https://4travel.jp/travelogue/10618860 【ヤマト北進(2/4)その概史ー国指定史跡 多賀城跡】

より

1世紀末ころに武内宿禰が「東のひなに日高見国あり。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言して、ヤマトタケルにはじまるヤマトの東国侵攻が始まった。ヤマト朝廷による近畿地方の統一国家は350年ころに完成されたが、東北地方の北半部は平泉の藤原氏が源頼朝に滅ぼされるまでは近畿王権(ヤマト)の支配のおよばない国であった。とくに、774年にはヤマト北進に抗して海道エミシが蜂起して攻勢に転じ、780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい、多賀城を焼き払った。

その後もアテルイとモレは789年の巣伏の戦いで、寡兵でもって5万人のヤマトの大軍を破っている。

これらの時代のヤマト東北侵攻の拠点、多賀城を訪ねるには東北本線の「国府多賀城駅」が出発点であるが、数十年前の下宿の近くと思い込んで仙石線の「多賀城駅」に降りて、タクシー利用の羽目に陥った。

東北本線の国府多賀城駅から歩きはじめると、駅前の館前遺跡をとおり、10数分で芭蕉も訪れた日本三古碑のひとつ「多賀城の碑」がある。ここから北を見ると表紙写真のように幅広い石段がみえ、その上に政庁跡があり、さらにその東北に接して作貫地区役所跡や、掘立柱建築の大畑地区役所跡があり、これらを囲んで方約1kmの土塁がある。東門跡近くには巾数メートルの古代の直線道路がある。

(コースを逆にとり標高の高い陸奥総社宮や荒脛巾神社から歩くと下りばかりで楽だが、道標はなく、案内所でもらったマンガ風の散策マップは不正確で迷いやすい。)

土塁の外側の東北部、鬼門には豪壮な陸奥総社宮があり、エミシが信仰していた別項旅行記の荒脛巾神社もこのちかくで、エミシの神でエミシを抑えるということらしい。

この陸奥総宮は東北地方の全ての延喜式内社を統べるそうで、式内社100社の名が入り口階段の両側に列記されていて、陸奥総宮の祭神はこれら100社の祭神全部だそうである。式内社の100社のなかで興味深いのは宮城県桃生郡桃生町大田の「日高見神社」である。日高見神社がある桃生町(現石巻市)あたりの北上川下流部の穀倉地帯が、日高見国の中心だったのかもしれない。

武内宿禰は100年ころに東北地方を偵察して「東のひなに日高見国あり、其のくにの人勇みてこわし。えみしという。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言している(書紀)。景行天皇の皇子・ヤマトタケルにはじまるヤマトの東征はこうして始まったが、平泉の藤原氏が源頼朝に滅ぼされるまでは、東北地方の北半部は日本の支配のおよばない国であった。

このヤマトの東北地方進出の歴史をみると、仁徳天皇が367年頃に田道将軍を、637年には舒明天皇が上毛野君片名軍をそれぞれ派遣したが、いずれもエミシに大敗している。その後、724年に大野東人が多賀城を築き、続いて牡鹿柵(737年)、桃生城(759年)伊治城(761年)など北進の基地が築かれたが、774年に海道エミシが蜂起(38年戦争)して以後、エミシが攻勢に転じ、780年にはエミシの伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい(宝亀の乱)、多賀城を焼き払った。というのが大雑把な歴史である。

このあと、少人数で5万の大軍を破ったアテルイの活躍がある。別項「奥州市水沢、アテルイ・・・・・・」旅行記。

なお、この多賀城の鎮守府と国府は8世紀はじめから10世紀半ばまで存続したが、その間780年にはエミシの伊治公呰麻呂に焼き亡ぼされ、869年には貞観地震で被害を受けている。

多賀城跡で話しかけてくるボランティアガイドは、このような攻防の歴史をヤマトの立場から「エミシの反乱」と説明していたのは不愉快だった。先住民のエミシが侵略者の圧制に抵抗したという栄光の歴史を、体制内の住民の“反乱”と扱っては東北人の先祖に申し訳なかろう。

仙石線の多賀城駅

ここで降りたが 多賀城跡を訪ねるには遠い駅だった。

これが 10年ほど前?に新設された東北本線の国府多賀城駅で多賀城跡を訪ねるにはここで降りるのが正解。駅前には館前遺跡があり、ボランティアガイドがいる。館前遺跡。高位の役人の住居など。草が繁ったところに歩行者歩道という看板があったが判りにくい。さりとてボランティアガイドは押し付けがましいので敬遠した。

これが「多賀城の碑」

いちばん上に 大きく「西」と書いてある。解釈については 古田著「真実の東北王朝」に詳しいが国府多賀城駅前にある「東北歴史博物館」にレプリカと解説があるらしい。(今回は訪れなかった)

多賀城の碑から北を見ると 政庁跡にのぼる石段が見える。権威を威示するためか 幅広い道である。

政庁跡の西翼。 西に傾斜して作られている政庁跡。 震災の影響がみられた。

全体に作りすぎているように感じられる。

後村上天皇が北畠一族をつれて この地に政府をひらいた。?

作貫地区役所跡には発掘調査のあとを保存して公開してある。

大畑地区 役所跡 掘立式の建物で 柱の立て方の説明図もあった。

陸奥総社宮。 鳥居の先の階段両側には東北地方の延喜式内100社の

名前が掲示されている。興味深い「日高見神社」。

この名前は、武内宿禰が「撃ちて取るべし」と天皇に奏言した日高見国を思い起こさせる。

陸奥総社。地元では 確か「ソーミヤ」とよんでいた。狛犬は立派だった。


https://4travel.jp/travelogue/10619447 【ヤマト北進(3/4)その戦跡―奥州市 水沢、アテルイとその前後―】より

古代から、ヤマト王権は東北地方を征服しようとした。1世紀末には武内宿禰が「東の鄙に日高見国あり土地肥えて広し撃ちて獲るべし」と景行天皇に奏上したが、367年頃仁徳帝が派遣した田道将軍はエミシの反撃をうけ東日流(ツガル)で全滅している。637年には舒明帝が派遣した上毛野君片名軍がエミシに大敗している。

774年にはヤマト北進に抗して海道エミシが蜂起し、38年戦争が始まり、以後エミシが攻勢に転じ、780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい(宝亀の乱)多賀城を焼き払った。

789年の奥州市・巣伏の戦いで、アテルイとモレは寡兵でもって5万人のヤマトの大軍を破った。この戦いで敗れた紀古佐美の報告が「続日本紀」にある。

このように、ヤマトの軍勢の東北侵攻は各所でエミシの激しい抵抗を受け、しばしば大敗を喫している。

今回は、アテルイの戦いの記念碑的な場所である水沢を訪れた。

旅の経路は北上川東岸にある新幹線の水沢江刺駅で下車、羽黒山の出羽神社に詣でてから、西岸に移りアテルイが紀古佐美軍5万を破った戦いの関係地、および坂上田村麻呂が築いた胆沢城跡。ついでに最北の前方後円墳・角塚古墳を巡り、水沢市街に泊まり、東北本線の水沢駅から帰った。

岩手県水沢地方の記念碑や説明などは、ヤマト軍の侵攻を地元軍が撃ち破ったという立場から書かれている。これは福岡県で岩井の乱を地元民の立場から再評価する運動と軌を一にしている。

しかし、宮城県多賀城では 「エミシの反乱を鎮圧」という立場でガイドが説明する。あたかも、先行してヤマト王権の配下になったことで、宮城県はエミシとは違う立場であると自慢したいかのようである。

エミシとはヤマトの支配が及ばない人々にたいする蔑称で、宮城を含む東北人とアイヌの先祖であるとされているのに、歴史を曲げてまで我々はエミシではないと主張しているようで見苦しかった。

今回の訪問先を時代順に紹介してゆくと、奥州市胆沢区の西部、南都田にある国指定史跡の角塚古墳から。

前方後円墳は3世紀から6世紀前半にかけてヤマト王権の影響で各地の豪族が造成した。大雑把にとらえると古墳時代はヤマト(倭)の時代で、以後は「日本」と称するようになっている。

つまり、水沢に5世紀末から6世紀はじめの前方後円墳があるということは、当時の水沢地方のエミシの長はヤマトと友好的な関係にあったということであろう。現物の角塚古墳は予想していたよりも小型でたしか44メートルだったが、見事できれいに保存されていた。

7世紀、8世紀はヤマトとエミシの相克の時代で、724年に多賀城をが、759年に雄勝城をヤマトが築いたが、780年には海道エミシの伊治公呰麻呂が雄勝城を奪い、多賀城を焼き滅ぼした。

内陸の北上川流域では、族長アテルイのもとに大部族連合が結成され、およそ20年の間に、5万、10万、4万と3回にわたり送り込まれた政府側の大軍に、堂々と渡り合うエミシの軍隊が組織されていた(高橋富雄:辺境)と考えられる。

水沢地区の戦争は789年で、ヤマトの紀古佐美が5万の軍勢を進めたが、水沢江刺駅東方の羽黒山に400人の兵をひそめていたアテルイは、紀古佐美軍の退路を断って攻撃した。ヤマト軍の戦死者は20数名だったが北上川におぼれる者が1000名を超えて大敗した。

現在、羽黒山には出羽神社があり、すぐ横の小高い丘にはアテルイとモレを顕彰する碑が一般からの寄付金で建てられ、また、地元民の奉仕で発掘調査もおこなわれ、当時の遺品が見つかっている。

その戦いの主戦場が「巣伏」で小さい記念公園がある。ここは「跡呂井地区」でアテルイにかかわる地名である。丘の上には「たんぼアート」見物用のやぐらが建てられている。

その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、802年には胆沢扇状地の北部に胆沢城を築いた。兵力だけでなく民力の消耗もあり、この年にアテルイとモレは講和に応じて平安京にのぼったが、危険人物として処刑された。この一連の経緯をヤマトによるだまし討ちとする説もある。二人の魂は成仏を拒み、怨霊となって悲痛な声を上げながら都の空を飛びまわったともいう。

ゆかりの枚方市の片埜神社では毎年慰霊祭が行われ、また、田村麻呂の創建の清水寺にもアテルイとモレの顕彰碑がある(別旅行記)。

アテルイにちなむ地名の跡呂井が水沢にあり、モレ(モライ)には母体(モタイ)地区が前沢にあり、アテルイの甥、人首丸にはヒトカベ地区があり、いずれも奥州市内の地名なのでアテルイ一族は奥州市を中心に統治していたエミシの豪族であろう。

胆沢川と北上川の合流点近くに田村麻呂が建てた胆沢城は、約1?四方の広大な城で、発掘作業もすすめられており、近くには埋蔵文化財調査センターがある。今回はセンターを訪れずに城の鬼門に建てられた鎮守府八幡宮に参拝した。

なお、田村麻呂は803年に盛岡に志波城を築いたが水害のため10年で南の徳丹城に移設し、9世紀中ごろには約50?南の胆沢城に後退し、機能も移管された。

ヤマト王権の強圧的な北進は、9世紀中ごろに秋田・岩手両県の中部を結ぶ線で停止されて、ツガルを除いてはゆるやかにヤマト化されたいうが、日本海側では秋田にあった出羽国府が815年に約90km南の酒田市の城輪柵に後退し、秋田城は878年に焼き滅ぼされている。

エリア 水沢・江刺(岩手)

日本最北の前方後円墳「角塚」(つのづか)。5世紀末から6世紀はじめの築造とされている。このころはヤマトとエミシの紛争の記録がない時代であった。<br /><br />国指定の史跡で、道の手前に小公園がある。後円部は二段になっている。

日本最北の前方後円墳「角塚」(つのづか)。5世紀末から6世紀はじめの築造とされている。このころはヤマトとエミシの紛争の記録がない時代であった。

国指定の史跡で、道の手前に小公園がある。後円部は二段になっている。

暗くて判りにくいが 左が前方部。右の後円部が段になっている。

道の反対側の小公園には説明の掲示がある。

小公園にある説明図に古墳の測量図があった。

幹線、水沢江刺駅の東にある丘、羽黒山は789年にアテルイが400人の兵をひそめて5万人のヤマト軍の動きを見、時を図ってヤマト軍を攻めて北上川に追い落としたと伝えられる場所で、山頂には出羽神社が祀られている。

神社まではタクシーでも行けるが、健脚ならば駅から10数分あるいて神社下、そこから長い石段を登るのがおすすめ。

出羽神社。この左手を進み、田の神さまを右に見てすぎると・・・・・・・

地元の人たちが醵金で立てた黒御影石の アテルイとモレの顕彰碑 が少し盛り上がった場所にある。アテルイとモレは郷土の守護神であろう。

碑の下にはアテルイとモレの墓所とされる大阪・枚方市牧野の式内社、片埜神社の牧野公園にある首塚の土が埋められたという。

確かアテルイは胆沢地区のエミシの長で、モレも近くの地区の長であったと言う記述があったが メモ紛失。

上の写真の周辺で 市民参加で発掘調査が行われ 当時の遺品が発見されている。

市民が 土地を守ってくれたアテルイやモレに尊敬、親近感を抱いていることがわかる。

顕彰碑のちかくには 衣川まで何キロというような標柱が立っている。

これは藤原氏の館跡への方向と距離を示している。

現在、その館跡には えさし郷土文化館や、えさし藤原の里などの施設ができている。

北上川を渡って西岸に入り、水沢競馬場の交差点を北に入ると数百メートルで「跡呂井」の看板がある。

いうまでもなく アテルイの土地である。

小さな丘に立つやぐらは たんぼアート見物用。

丘の麓に アテルイたちの軍勢が寡兵で5万のヤマト軍を破った巣伏の戦いの碑がある。

巣伏の戦いの碑。上半分は 戦いの絵で北上川に流されてゆくヤマトの兵士たちが描かれている。

説明の冒頭部。

上の碑の左に 巣伏の戦いの跡 の碑が建てられている。

丘の上のやぐらに登ると 丈の短い暗色の古代米で田んぼに書いた前沢牛という文字が牛の形になっていた。

ほかにもあったらしいが これだけが残っていた。

胆沢城跡に建てられた鳥居。この道を入ってしばらく行くと次の写真になる。

田んぼのなかに 胆沢城跡に標柱が立っている。

ここを右折すると鎮守府八幡がある。

方1kmもある胆沢城の東北部、つまり鬼門に祀られた鎮守府八幡宮。<br />祭神はもちろん八幡大神だが、ご神体は「最霊石」という石らしい。<br />江戸時代には 菅江真澄が拝観しているが、石がご神体というのは別項旅行記の荒脛巾神社を想起させる。<br /><br />応神天皇や神功皇后も祀られている。

方1kmもある胆沢城の東北部、つまり鬼門に祀られた鎮守府八幡宮。

祭神はもちろん八幡大神だが、ご神体は「最霊石」という石らしい。

江戸時代には 菅江真澄が拝観しているが、石がご神体というのは別項旅行記の荒脛巾神社を想起させる。

応神天皇や神功皇后も祀られている。

鎮守府八幡宮の参道を進む。

右が拝殿。

本殿の左側には 多くの小さい社殿や石碑があった。<br /><br />おそらく 地元民が崇敬していた荒脛巾神社や地主神、祖霊などは こうして記憶から消されてゆくのであろう。

本殿の左側には 多くの小さい社殿や石碑があった。

おそらく 地元民が崇敬していた荒脛巾神社や地主神、祖霊などは こうして記憶から消されてゆくのであろう。

水沢市内の日高神社。日高通りの突き当りにある。<br /><br />1632年に再建された「流れ造り」で彫刻、装飾が優れているので、国指定の重要文化財である。<br />

水沢市内の日高神社。日高通りの突き当りにある。

1632年に再建された「流れ造り」で彫刻、装飾が優れているので、国指定の重要文化財である。

日高神社の境内にある瑞山神社(みずやま)。

平泉滅亡後、陸奥国留守職となった留守氏の祖霊廟。

水沢は留守氏の城下町で現在も武家屋敷が多数残され一部は公開されている。

写真右奥は殉死した家士の墓で、留守氏の善政がしのばれる。


https://4travel.jp/travelogue/10630403 【ヤマト北進(4/4)その影―英雄無慚 アテルイとモレの最後 ―】より

1世紀末ころに東国を偵察した武内宿禰は「東のひなに日高見国あり。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言した(書紀)。景行天皇の皇子・ヤマトタケルにはじまるヤマトの北進はこうして始まったが、平泉の藤原氏が12世紀末に源頼朝に滅ぼされるまでは、東北地方の北半部はヤマトの支配の及ばない国であった。

この戦いの歴史を概観すると:

古代史では、仁徳帝が派遣した田道将軍は、367年頃エミシの反撃をうけ東日流(ツガル)で全滅している。5世紀末から6世紀始めは摩擦が少なかったが、7世紀になると、637年に舒明帝が派遣した上毛野君片名軍がエミシに大敗している。

774年にはヤマト北進に抗して海道エミシが蜂起し、38年戦争が始まった。以後エミシが攻勢に転じ、780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい(宝亀の乱)、多賀城を焼き払った。

789年の奥州市巣伏の戦いで、アテルイとモレは寡兵でもって5万人のヤマトの大軍を破った。この戦いは別項旅行記「奥州市水沢アテルイとその前後」に書いた。敗れた紀古佐美の報告は「続日本紀」にある。

アテルイとモレ(阿弖流為と母禮:モレはモライと書く地元史家もいる)はエミシの族長で、地名としては奥州市水沢区にアテルイにちなむ跡呂井地区があり、モライにちなむ地名としては、奥州市前沢区の「母体(モタイ)」地区をとりたい。また、甥の人首丸(ヒトカベマル)には人首という地名が奥州市にある。つまり3人のテリトリーは隣接していて、一族で奥州市を中心とするエリアを統治していたとみられる。

5万の大軍を破った巣伏の戦いの後、くり返された数万のヤマト軍との戦いでエミシの住民が疲弊消耗したので、アテルイとモレは数百の兵とともに802年に坂上田村麻呂に降伏し、二人は田村麻呂に伴われて都に上った(日本略記)。大化改新から157年あとのことである。

田村麻呂は、都に伴ったアテルイとモレを日高見国に帰してエミシを降伏させようとしたとされるが、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、二人は802年8月13日に河内国で処刑された。生き埋め、斬首などという記載もある。

この一連の成り行きをヤマトによるだまし討ちとする見解も根強い。

アテルイとモレの魂は成仏を拒み、怨霊となって都の空をさまよい、真夜中の雷鳴となって悲痛な叫びを都の空にひびかせたともいう。

これを受けて、アテルイの弟の大岳丸と甥の人首丸は、地元でヤマトの侵攻に抵抗する戦いを続けたが、やがて敗れ去り、日高見国はこのころに衰亡したとみられる。

今回たずねたのは、田村麻呂が開山とされている京都・清水寺にある「アテルイとモレの顕彰碑」(1994年建立)と、アテルイとモレの首塚といわれる 大阪・枚方市牧野にある式内社、河州一ノ宮・片埜神社旧社域の牧野公園にある首塚で、ここには古い自然石の碑と2007年に建立された「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑がある。(さすらいおじさんのくちこみがある)

なお、別旅行記「奥州市 水沢、アテルイとその前後・・・・・・」の写真で紹介した奥州市水沢区の羽黒山にあるアテルイとモレの顕彰碑(2005年建立)には、この牧野公園内首塚の土が故郷の土に納められているという。

歴史は勝者によって書かれる。「撃ちて取るべし」とされた東北の民を率いてヤマトの侵攻に抵抗した先住民の英雄である彼らは、ヤマト政権による統一を本流とする歴史の中で、不当にも反逆者として扱われてきた。

この、アテルイとモレの処刑は 空海が遣唐使船で入唐する3年前のことであった、

清水寺の田村堂(開山堂)

開山とされる坂上田村麻呂を祀って折り、拝観料300円の窓口の向かい側にある。

右が開山堂だが 田村堂が通称で通りがいい。<br /><br />入り口の方を見ているので 入り口に近いことが判る。

右が開山堂だが 田村堂が通称で通りがいい。

入り口の方を見ているので 入り口に近いことが判る。

舞台を通り過ぎて 音羽の滝におりる階段を見下ろした。<br /><br />残りの紅葉の先が音羽の滝。そこを右に出口に向かう。

舞台を通り過ぎて 音羽の滝におりる階段を見下ろした。

残りの紅葉の先が音羽の滝。そこを右に出口に向かう。

出口まで150メートルくらいのところに 1994年につくられた<br />阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ・モライ)の顕彰碑がある。<br />碑面には「北天の雄」とあり、花が供えられていた。<br /><br />出口から 後ろ向きに後ずさりしてくればタダだし早いと思うけれど・・・・・・・。

出口まで150メートルくらいのところに 1994年につくられた

阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ・モライ)の顕彰碑がある。

碑面には「北天の雄」とあり、花が供えられていた。

出口から 後ろ向きに後ずさりしてくればタダだし早いと思うけれど・・・・・・・。

顕彰碑の左側に 由緒を書いた碑がある。

立場は 田村麻呂の意に反して処刑されたという内容。

顕彰碑の裏に経緯が書かれている。岩手県出身者が尽力したことがわかる。

阿弖流為と母禮を反乱者として扱われることが岩手県人には受け入れられない というように感じられた。

参考までに:

奥州市巣伏の小公園にある巣伏の戦いの碑。

ヤマト軍の戦死者は20数名だったが、北上川におぼれた者が1000人以上であった。

碑面の上半分はその絵解きである。

大阪府枚方市牧野坂2−21−25 にある片埜神社。

河州一ノ宮で祭神はスサノオノミコトとその子孫とされる菅原道真が主祭神。

狛犬も古そうだった<br />社務所ではアテルイのお守りなどを売っている。<br /><br />由緒略記と「伝・アテルイとモレの首塚」と題するA4のリーフレットは ただでいただいた。

牧野公園は 昔は片埜神社の社域で、戦後に公園として整備されたが、

首塚という里伝のため地元の人々の要望で地均しをまぬかれたという。

しかし元来の首塚はもう少し牧野坂よりにあったらしい。

川原に放置された二人の遺体は近隣にいたエミシの浮囚(捕虜奴隷)によって丘に埋葬され、そこに2個の自然石を置いて墓標とされた という。

30年ほど前の写真には墓標とされた大小2個の自然石が映っているが

現在は大きい石のひとつしかない。

花を供えているのは岩手県人だろうか

2007年に作られた「伝 阿弖流為 母禮の塚」。

右側奥、桜の老樹の下に 上の写真「アテルイの墓標」が夕陽の中にみえる。

もう一度、伝 阿弖流為 母禮の塚。ここにも花が供えられていた。

この公園がある牧野坂は 昔から語り告がれている「祟り坂」で、この坂で転んで怪我をすると治らないといわれてきた という。

坂をおりて北西に300メートルで京阪電車牧野駅である。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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