一指李承憲@ILCHIjp
私にとって瞑想は「友だちになること」です。まず自分自身と友だちになるのが瞑想です。多くの人が、自分は「ひとり」だと感じ、寂しがったり悲しんだりします。私たちは、人や自然と交流しながら生きています。本当によく交流するには、自分自身とまず友だちになる必要があります。それが瞑想です。
昔の人は言霊・音霊の世界に生きていたそうです。話し言葉は阿吽の呼吸で伝わり言葉はそのまま実態につながったと聞きます。
漢字の導入とともに 漢字と大和言葉のすり合わせが起こり 漢字には音読み、訓読みが生まれました。やがて 自然と調和し 本来の自分と一致した大和言葉を失うことになりました。
悟りは 差を取るともいえます。「世界と本来の自分」との一致を回復することです。
大和言葉の回復かもしれません。
悟りは共鳴現象。自らが在りながら、無になること。安らかで平和な トランス感覚。 肉体の境界が感じられなくなり宇宙に溶け込むようなリラックス感。これを無我体験とも呼ぶ)
五感の中でも「一番エネルギーが高い視覚」が止まり、エネルギー感覚が蘇る。
一点集中(あるいは左脳の攪乱)で新皮質の働きを止め、魂との出会いが起こる。
「脳の浄化(呼吸法、ヒーリング)」「脳の統合(新皮質、旧皮質、脳幹の統合)」ができると左右脳の柔軟化(左は主として新皮質;顕在意識、右および脳幹は主として旧皮質;潜在意識、ボディ意識を司る)が起こり、右脳に眠る過去のトラウマが左脳の意識に昇り、氣づきと癒しが生まれます。さらに脳の浄化が進みます。
無意識を悪戯にこじ開けてはならない。必要があって(自我の防衛機制により)意識に昇らさないことを 無理に昇らすと 自我の崩壊が起こります。自分を開示しすぎると不安感に襲われ自己探求も中断したくなります。
時が満ちて顕在意識、潜在意識(個人的無意識、普遍的無意識=集合無意識)肉体の意識(魂の意識が宿る)の三つの意識が統合され、脳の統合が 生まれます。
https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/ko-su_satori.html 【悟りのコース】
Facebook曹洞宗(仏教)で人生を楽しむ! ·加藤 昭典さん投稿記事
曹洞宗の教えは「只管打坐」(しかんたざ)と「眼横鼻直」(がんのうびちょく)と「而今」(にこん)です。
「只管打坐」(しかんたざ)とは、① 「調身」(ちょうしん)姿勢を正す。 ② 「調息」(ちょうそく)呼吸を調える。 ③ 「調心」(ちょうしん)心静かに「ただ坐る」だけです。
釈尊の「成道」(有情非情同時成道、山川草木悉皆成仏)によって、既に悟りは開かれていますから、我々は必死になって悟りを開こうとしなくても良い訳です。
その悟りの中に生きていることを確信して「正身端坐」(しょうしんたんざ・姿勢を正して心静かに坐る)ことが「曹洞禅」の修行の基本です。
「眼横鼻直」(がんのうびちょく・眼は横向き、鼻は真っ直ぐ)とは、人間の分別(計らい)を離れた「あるがままの姿」(自然の法則)を正しく認識することです。
その「自然の法則」(因果の道理)を素直に受け入れ、迷わず悟らず、しなやかな心で「而今」(正にこの瞬間)を丁寧に精一杯に生きることです。
他の宗教のように「特定の神や教祖」を盲信したり、霊感や超能力や悟りを得る為に特別な修行をしたり、他の宗教を攻撃したり、人の弱味に付け込んで、強引な勧誘(折伏)などしません。
他を拠り所とせず、己自身が、厳しい現実から逃げ出さず「今を大切に生きる、一日を大切に生きる、一生を大切に生きる!」ことを説いて居ます。合掌
Facebook小早川 智さん投稿記事·
自分という語源は「自(然)」+「分(身)」、すなわち【自然の分身】 https://t.co/W9mDCrMfcq
自然の「自」と、分身の「分」をとって、自然の分身のことを「自分」といいます。
私たちは、自然と共に生きています。
森林や環境問題も自然の話ですが、自然の法則に逆らわないことも自然の分身としての生き方ではないでしょうか。
自然の流れに逆らい、否定したり、拒否をしたり、コントロールすることは、大自然を相手に、戦いを挑んでいることと同じこと。
流れる水のように、柔軟に生きることが
自然と共に生きることなのではないでしょうか。自分も自然のサイクルの一部なのだということ、万物の真理を知り、流れを知り、自然に逆らわないことは、自分を知ることなのではないかと思います。
Facebook近藤裕子さん投稿記事
☘️私の好きな言葉☘️
「釣月耕雲」ちょうげつこううん ー道元の漢詩よりー
月を釣り雲を耕す
西来祖道我伝東 釣月耕雲慕古風
世俗紅塵飛不到 深山雪夜草菴中
インドから来た達磨の教えを、日本に伝えていこうと思う。月を釣って雲を耕すように、古き良き伝統を重んじたい。俗世間の論理はここでは通じない。奥山の雪の夜、ぼろ屋にて。
「月」は悟りを表わす言葉として、「雲」はそれをさえぎるものの意味で使われます。
辞書には 世俗を超越し、大自然の中で、月を釣るような 想像をはるかに超え、雲を耕すような 思いも及ばないような心境。とあります。
〈釣月耕雲〉の表現の美しさと壮大さに道元の心情が伝わります。(齢を重ねての憧れです)。
https://sakuda-clinic.com/doctor/2016/08/28/%E9%87%A3%E6%9C%88%E8%80%95%E9%9B%B2%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%92%E3%81%A4%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%86%E3%82%93%EF%BC%89/ 【釣月耕雲(ちょうげつこううん)】より
釣月耕雲(ちょうげつこううん) 月を釣り、雲を耕す。
よく読んでもわかりにくいこの言葉は、道元禅師が残した言葉だそうです。
普通は、魚を釣り、畑を耕すものですね。もちろん収穫して生計を立てるためです。
それを、月を釣るなんて!しかも、雲を耕すなんて!
風流を気取るにもほどがある!とお思いの方も少なくないかも知れません。
ところで、道元は自らたどりついた境地を「只管打坐」という言葉で表現しました。
何かを求めるのではなく、ただ座禅をすることに意味があり、座った姿こそがそのまま悟りの姿であると説きました。
悟りを得るために修行をするのではない。ひたすらに座り抜く、それこそが仏の姿なのだ。
私の勝手な思い込みですが、道元禅師には「ひたすら」というワードがよく似合います。
辞書などには、釣月耕雲という言葉はこう解釈されています。
「月が出たら月を釣り雲が出れば雲を耕すように、大自然の中にわが身をおき、 ゆったりとした広い心の境地にて物事を考え人生を楽しむこと」
一見、意味がないと思うようなことに没頭してみる。
アマチュア・スポーツや趣味など、考えてみれば「釣月耕雲」の境地に近いのかも知れませんね。
Facebook平沼 載彦さん投稿記事 【光と闇】
物事の本質をとらえることの大切さを改めて考えさせられると思います。ご参考になさってください。教授と学生による、光と闇についての対話です。
有名な高等研究所の大学教授が、学生たちにこの挑戦的な質問をしました。
「神は、存在するものすべてを創造しただろうか?」一人の学生が勇敢にも答えました。
「はい、そう思います」
教授は尋ねました。「神はすべてを創造したと言うのかね?」
学生は答えました。「はい、先生。神は確かにすべてを創造したと思います」
教授は答えました。「もし神がすべてを創造したというなら、神は悪も作り出したはずだ。そうなると、神を悪と考えることもできるわけだね」
その学生は黙ってしまい、教授に対して答えられませんでした。
教授はキリスト教の信仰が作り話にすぎないことを証明したつもりになって、たいそう自慢げに満足そうに喜んでいました。
別の学生が手を挙げて言いました。「先生、質問してもよろしいでしょうか?」
教授は答えました。「もちろんいいとも」
学生は立ち上がって尋ねました。「先生、冷たさというのは存在するでしょうか?」
「何をわけのわからない質問をしているんだ。存在するに決まっているじゃないか。冷たさを知らないのか?」ほかの学生たちも、この学生の質問をあざ笑いました。
この学生は答えました。
「先生。実際には冷たさというのは存在しません。物理学の法則によれば、私たちが冷たいと感じているものは、実際には熱がないことです。熱は、からだや物にエネルギーをもたせたり伝えたりすることなのです。 絶対零度(マイナス二七三℃)は、完全に熱のない状態です。そしてその温度では、すべてのものは不活性になり、反応もできなくなります。
冷たさというのは存在しません。この冷たさという言葉は、どれぐらい熱をもっていないかを感じる目安として作り出された言葉なのです」
その学生は続けました。「先生、闇は存在するでしょうか?」
教授は答えました。「もちろん存在するに決まっているだろう」
学生は答えました。
「先生。あなたはまた間違えましたね。闇も存在しないのですよ。闇というのは、実際には光が存在しないことなのです。光を調べることはできますが、闇を調べることはできません。
ごくわずかな光でも、闇の世界を壊し、照らし出すことができます。どのくらい暗いかをどうやって測れるのでしょう?実際には光がどれだけ存在するかを測っているのです。闇というのは、光が存在しないことを述べるために使われれる言葉なのです」
最後に、その若い学生は教授に尋ねました。「先生、悪は存在しますか?」
今度はその教授はちょっとためらいながら答えました。
「もちろん、われわれは毎日悪を見ているじゃないか。人間に対する残酷なことが毎日のようにあるだろう。世界中どこでも多くの犯罪や暴力があるじゃないか。これらは明らかに悪以外の何ものでもない。」
これに対して、その学生は答えました。
「先生。悪は存在しないのです。少なくとも悪自身は存在することはありません。悪は、単に神がない状態に過ぎません。悪という言葉は、ちょうど闇や冷たさと同じように神のない状態を述べる言葉にすぎません。神は悪を作り出していません。悪は、人間が心の中に神の愛をもっていないときに起こる現象なのです。それは、熱がないときの冷たさ、光がないときの闇と同じようなものなのです」
教授はがっくりと座り込んでしまいました。
その若い学生の名前は、「アルバート・アインシュタイン」でした。
物事の本質をとらえることは本当に大切だと思います。
目の前の現実をいかに見て、考えて、行動するかで人生が決まります。
時代が大きく変動している今こそ、この世の本質を見失うことなく、宇宙や自然と一体化して生きていきたいものです。
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