Facebook相田 公弘さん投稿記事
「老樹」 坂村真民
よくわたしは樹齢何百年といわれる木に会うと、悲しくはないかと聞くのです。
そうすると彼等は必ずこう答えてくれます。 悲しくなんかありませんよ。
一しょうけんめい生きているものには 喜びだけがあって、悲しみなんかありませんよ。
わたしの葉を噛んでごらんなさい。 生き生きしているでしょう。
朝は朝日を受け、夕べは夕日を受け、 こうして立っていますと、自分が老いて
いることさえ忘れてしまいます。 春夏秋冬いろいろの鳥たちがやってきて、
いろいろの話を聞かせてくれます。 肌は老いても心だけは若木と同じです。
http://www.ina.janis.or.jp/~117ajisai/omake/omake_shijin.html 【仏教詩人】より
法華経に惚れぬいた詩人 宮澤賢治
賢治の碑
宮澤賢治は、わたしの最も好きな仏教文学の巨匠であります 。 賢治は法華経第16章の「久遠の釈迦牟尼佛」に対する深い信仰を生涯されました。また、同じお経の第20章で常不軽菩薩の「献身の教え」を日常生活の指針にされました。 彼の作品の根本を流れているのはまさしく、「法華経の教え」であるといわれています。
「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク
決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ 東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニ疲レタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ
自ら、オキシフルで身体をていねいに清められ、38歳の生涯を閉じられたといわれます。 「雨ニモマケズ」の詩のように農民とともに生きました。
「いたつきの故にも朽ちんいのちなり みのりに棄てばうれしからまし」 (病気のためにおわっていく命ですがみ仏の教えである法華経のためすてることができれば嬉しいです。)
この短歌を詠み、お父さんに「法華経の経本を1000部作って、お世話になった皆さんにあげて下さい。」と遺言されました。
世界がぜんたい 幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない 「農民芸術概論綱要」
賢治は今日も「世界ぜんたいの幸福」を祈って下さっておられると思います。
念ずれば花ひらく 坂村真民
坂村真民
以前に「坂村真民全詩集」が発刊され、私も求めさせて戴きました。 宗教の本質にせまる詩は濁りきったこの時代の一筋の光明であります。私たちが「宇宙の発する気」と溶け合って生きていく術を教えて下さっているようにも感じます。
「念ずれば花ひらく」は、身延山の信仰をされた母親の口癖だったそうです。およそ、人間社会に置いて「念ずること(祈り)は私たちの生活の原点」ではないでしょうか。
人間は根っこのところで何時も宗教的な世界に帰一していくのではないでしょうか。
帰一
信仰とは 己れを無にして 神仏に 帰一することだ 「坂村真民全詩集 第7巻 408ページ」
宗教の原点に通じていく、すごい詩だと思いませんか。
心が癒されることば 相田みつをみつを
相田みつをは仏教詩人として法華経の教えを紀野一義さん(お父さんは池上本門寺の貫首さん)に学びました。また、禅に深い関心を示されました。
「しあわせはいつも」
うそはいわない ひとにはこびない ひとのかげぐちは いわぬ わたしにできぬ ことばかり みつを
相田みつをの、この詩が大好きです。世の中をわたっていく上で一番難しいのは「人間関係」ではないでしょうか。ひとにこびたり、ひとのかげぐちをしてしまうのが私たちの生活の実態だと思います。「わたしにできぬことばかり」というところがズシンときます。
「できない自分」を思い知らされることが、「初発心」(しょほっしん・仏教を信じはじめること)とか「懺悔滅罪」(さんげめつざい・罪悪を告白し消滅すること)といった仏教用語の根幹につながっていくのではないでしょうか。 これは、相田みつをの最も素晴らしい詩の一つだと思います。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=BgQO8FqW6AU
https://zenkatsu.site/archives/4237 【【1月22日法話】雨ニモマケズ〜宮沢賢治が目指した生き方〜】より
【1月22日法話】雨ニモマケズ〜宮沢賢治が目指した生き方〜
令和2年、新年を迎え最初の【一行写経と法話の会】が、1月22日(水)に東長寺檀信徒会館「文由閣」で開催されました。
この日は寒気が流れ込み、とても寒い中ではありましたが、今回も6名の方にご参加いたしました。
最初に5階の本堂で、一緒に「般若心経」をお唱えした後、そのまま法話になります。
法話は、わたくし深澤亮道が担当させていただきます。
今回は、私の地元の偉人である「宮沢賢治」が書かれた「雨ニモマケズ」を取り上げお話をさせていただきました。
雨ニモマケズ
雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち
慾はなく 決して瞋らず いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにデクノボウと呼ばれ
褒められもせず、苦にもされず そういうものにわたしはなりたい
皆さんももしかしたら一度は目にしたり聞いたことがあるのではないでしょうか?
童話作家であり詩人でもある宮沢賢治の短編詩「雨ニモマケズ」です。
実は、この詩は、賢治の手帳に綴られていたもので、世に発表する意志のなかった詩とされています。
世に発表するはずのなかった、この「雨ニモマケズ」がなぜこれまで有名な詩となり、人々の心に残っているのでしょうか。
本日はこの「雨ニモマケズ」についてのお話をさせていただきます。
故郷イーハトーブ
私は、宮沢賢治と同郷の岩手県の花巻市で生まれ育ちました。
花巻市は岩手県のほぼ中央に位置し、市の中心には北上川が流れ、平野部には豊かな田園風景が広がります。
東北屈指の温泉地「花巻温泉郷」があり、また日本三大そばの「わんこそば」発祥の地でもあります。
最近では、メジャーリーグで活躍しているあの二刀流・大谷翔平選手や、菊池雄星選手も花巻市の高校出身として話題になりました。
風光明媚で多くの観光名所があり、有名人も多数輩出している花巻市ですが、やはり花巻市が全国区となった最初のきっかけは、宮沢賢治の名が世に知れ渡った事に因るでしょう。
出典:花巻市公式HP
出典:花巻市公式HP
宮沢賢治作品の特徴
皆さんは、宮沢賢治の作品挙げるとしたら何を思い浮かべられますか?
馴染み深いのは、「銀河鉄道の夜」、そして、「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」などを思い浮べられたのではないでしょうか。
それでは、宮沢賢治の作品の特徴は何でしょう。
私は、彼の作品の特徴には「擬人化」があると思います。
動物はもちろん、自然や建造物でさえ擬人化しています。
あるときは樹木や森や山が人間と会話をし、あるときは電信柱が動き出します。
それまでの日本文学にはほとんど見られなかった、万物を擬人化して描き出すという特異な表現を用いたのが宮沢賢治だったのです。
月夜のでんしんばしら
小学校の自由研究会
私が通っていた小学校では、宮沢賢治作品を教育にとても熱心に取り入れている学校で、小学校のすぐ近くにある「宮沢賢治記念館」に赴いたり、授業で取り扱ったりしていました。
小学校6年生のときには、宮沢賢治の自由研究会というものがありました。
これは各々宮沢賢治の作品や生涯を勉強した上で、大きな模造紙に研究内容をまとめて、みんなの前で発表するというものです。
何を隠そう、小学生の頃私は、勉強が大嫌いでした。
夏休みや冬休みの宿題は休みの最終日まで大切に取っておき、テスト勉強も前日まで手を着けない、と言った具合でした。
ですから、試験や宿題提出の時には毎回親や先生から叱られていました。
もしかしたら、今も小学生の時とあまり変わっていないのかもしれませんが。(笑)
雨ニモマケズとの出会い
さて、私は、この宮沢賢治の自由研究も嫌で嫌で仕方ありませんでした。
宮沢賢治の作品には、授業などで度々触れては来ましたが、実を言うと、作品の良さも分からず、余り興味も無く、従って感動したことも無かったのです。
自由研究を億劫にしながら、当然の如く期日に追い詰められていったある日、突然一つの逃げ道を発見しました!
「そうだ!雨ニモマケズを暗記して朗読しよう!」と。
当時全文を読んだことはありませんでしたが、当然のようにその存在は知っていました。
私は模造紙いっぱいに297文字ある雨ニモマケズを書き込み、壁に貼り付けて、堂々と朗読できるように本番まで一生懸命練習しました。
この詩を何回も何回も読み込み暗記し、みんなの前で発表しました。
「私の発表は「雨ニモマケズ」を朗読したいと思います。
雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・ソウイウモノニワタシハナリタイ。
以上で私の発表を終わります!」
みんなからの拍手をあび、気分は最高潮でした。
詰まるところ、ただ暗記しただけなのですが、勉強嫌いの私にしてみたら一字一句間違えずに人前で朗読出来たのですから、頑張った自分に100点満点をあげたいくらいでした。
しかし、良い気分は長く続きませんでした。
発表の後に質問の時間があり、クラスの女の子がすっと手をあげました。
「亮道君は、このような人になりたいですか?」
「え?どのような人?」
私は、一瞬なんのことだろうと思いました。
恥ずかしながら、必死に暗記することに夢中で内容なんて考えずに当日を迎えました。
その場で考えた答えは
「いや、なりたくありません。」
クラスのみんなは大笑いです。確かに矛盾していますよね。
詩の内容を理解し共感したからこそ、暗記し朗読するのであって、「なりたくありません」というのはどう考えてもおかしい答えです。
しかし、文字通りゆとり世代の私です。
「玄米四合」と「味噌と少しの野菜」の食事なんて想像すら出来ませんでしたし、褒められもせず、苦にもされないなんて無視されているようで納得出来ません。
この我慢一徹、ただただ人に尽くし、貧しく質素で楽しみも無いような、このような生き方は真っ平ごめんご免という人物像で、絶対嫌だとの思いが湧いてきたのを覚えています。
「雨ニモマケズ」と初めて向かい合い私が感じたのは、「そういうものに私はなりたくない」との思いでした。
「雨ニモマケズ」との再会
月日は経ち、苫小牧駒澤大学で仏教を学び、永平寺での修行も終えたある日、実家であるお寺の掃除をしていた時のことです。
ふと廊下に掲げられている額を見ると、そこには「雨ニモマケズ」の詩があったのです。
生まれ育った家でありながら、そこに「雨ニモマケズ」の額があったことに初めて気付いたのです。
関心が無いと気付かないものなのですね。
改めてその詩を読みながら、小学校の時の自由研究会を思い出し、当時「そういうものになりたくなかった私」とは対照的に、不思議にどんどんこの詩に惹きつけられ、吸い込まれてゆくような強烈な感覚がありました。
宮沢賢治作品の多くは大人になったら、全然違った見え方が現れるとの話を聞いたことがあります。
この時の私はまさにその通りで、この詩に仏教徒の理想的な生き方が表現されていることを知りました。
法華経信仰
実は宮沢賢治は、仏教、特に法華経に自らの生き方を見出し篤く信仰した人でした。
その信仰は作品の端々に見ることができます。
例えば、先ほど申し上げた表現方法としての擬人化ですが、法華経の世界では、世の中のありとあらゆる物、森羅万象全てが仏として現れます。
そして、仏教徒の生き方を最も端的に表現したものが、この「雨ニモマケズ」の詩だったのです。
常不軽菩薩への思い
「雨ニモマケズ」に表現された人物像のモデルとされるのが「常不軽菩薩じょうふきょうぼさつ」です。
常不軽菩薩は、『法華経ほけきょう』〈常不軽菩薩品じょうふきょうぼさつぼん〉の中に説かれる菩薩で、お釈迦様の前世として登場します。
そして、自分の出会う全ての人に礼拝し、褒め称えていたところ、「彼はひたすら礼拝をし、常に軽んじない菩薩」として常不軽菩薩と呼ばれるようになります。
しかし、その一方で礼拝の行為が周囲の反感を買うこともありました。
ある時は瓦や石をぶつけられ、刀や杖で追われ、ひどい迫害にも遭いますが、常不軽菩薩はこの実践を生涯貫いたとされます。
ひどい迫害に遭いながらも、生涯礼拝行を続けた常不軽菩薩は、次のようにおっしゃったと法華経に説かれています。
我深敬汝等がしんきょうにょとう。不敢軽慢ふかんきょうまん。所以者何しょいしゃが。
汝等皆行菩薩道にょとうかいぎょうぼさつどう。当得作仏とうとくさぶつ。
『法華経』「常不軽菩薩品」
「私は深くあなたたちを敬います。
驕り高ぶり軽蔑するようなことは決して致しません。
何故ならば、あなたたちはみな菩薩の道を修行実践し、当に仏となられる方々だからです。」
宮沢賢治が、「雨ニモマケズ」の中に「欲は無く、決して愼(いか)らず、いつも静かに笑っている」と著し、「みんなにデクノボーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず」と書き綴ったのは、賢治自身が常不軽菩薩でありたいと願った切なる心の叫びだったのです。
森羅万象一切を仏として敬い軽んずることのない姿勢、それが常不軽菩薩のお姿であり、宮沢賢治が目指した生き方だったのです。
宮沢賢治が目指した生き方
この「雨ニモマケズ」の詩は、宮沢賢治自身世に発表する意志はなく、療養中に自分の手帳に書かれたもので、三十五歳の時です。
療養中ではあっても、人々からの相談があれば熱心にこれに応え、それは息を引き取る前日まで行われていたようです。
死を直前にした人の心は純化されると言いますが、宮沢賢治は純化した心に常不軽菩薩を思い、また自分もそうでありたいと願っていたのでしょう。
僅か三十七歳でこの世を去った宮沢賢治でしたが、その生き方や思想は作品や彼自身が示した行動によって、現代に生き続けています。仏教が目指した生き方の実践者が宮沢賢治だったと言えます。
出典:龍谷大学
今思う「雨ニモマケズ」
小学校の時にこの詩に出会い「そういうものに、私はなりたくない」と思いました。
僧侶となった今でも、「そういうものに、中々なれない私」を感じ、もどかしく感じています。
しかし、「そういうものに、私はなりたい」との願いを持ち続けることこそ菩薩の誓願だと思うのです。
成ることを目的にするのではなく、成りたいと願い続け、反省しながらでも一歩一歩歩みを進めて行く日々を重ねてゆこうと思います。
勉強嫌いな少年が、約20年の時の中で仏教を学び、修行をさせて頂き、今思う、「雨ニモマケズ」への思いです。
以上で、お話を終わります。
一行写経
15分ほど法話をしたあとは、1階に降り法話で取り上げたお経の一節を写経する時間です。
墨は硯を使い、丁寧に擦っていきます。
墨のほのかな香りと、静寂な時間が会場を包み込みます。
墨の濃さを確認し、筆ならしをした後、いす坐禅を行い本番に挑みます。
24文字ある『法華経』「常不軽菩薩品」の一節を、一文字一文字意味を噛み締めながら、写経していきます。
最後に、みんなで記念撮影をして、今年一回目の【一行写経と法話の会】は終了しました。
今まで、お手本を透かせて、和紙に写経していましたが、今回は予め写経用紙に薄くお経を印字してみました!
参加者の方からは、
「とても書きやすい!」
と、いうお声をいただきました。
禅活は、皆さんに少しでもわかりやすく仏教を伝え、日常の中でその教えを活かすことができるように、日々試行錯誤しています!
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