Facebook相田 公弘さん投稿記事【出来事をどう捉えるかが重要】
斎藤一人さんの心に響く言葉より…
私たちは幸せになるために生まれてきました。
その「幸せになる」というのは“権利”ではなく、“義務”なんです。
みんな一人ひとりが自分を幸せにしたら、世界中の人が幸せになって、この世が天国になります。
神様もそれを望んでいるし、そのことを前提にして「この世のしくみ」をつくっているんです。
そのことがわかっている人は、自分に起こる出来事をすべて「幸せになるための種」と考えるんだよね。
でも、逆にそのことがわかっていないと、どうなるかわからない将来のことを不安に思って「取り越し苦労」をしたり、過去の失敗をいつまでも引きずって「持ち越し苦労」をしたり、人の不安まで背負って「持ち出し苦労」をしちゃうんです。
たとえば病気って、するときはするようになっているの。ケガもするときはするの。
それで、ケガをしたときは「ケガをしたんだ」と思えばいい。病気したときは、ただ病気したの。そうすると、健康のありがたみがわかったり、そこからいろんなことを学んだりするんだよね。
そして、「どうすれば病気でも上品に生きられるか」とか、「周りの人に心配をかけずに生きられるか」とか「自分の心が落ち込まないように生きられるか」とか、起こったことから「幸せになれること」を考えればいいんだよ。
「幸せ」とは“心のあり方”だから、その出来事をどう捉えるかが重要なんです。
『斎藤一人 品をあげる人がやっていること』サンマーク出版
斎藤一人さんは「捉え方」が大事だという。(本書より)
『よく「過去は変えられないけど、未来は変えられる」って言うけど、一番に変えなきゃいけないのは「今」なんです。
今、不幸な人は、不幸なことを考えているから、未来も不幸になるよね。
過去に起こってしまった出来事を変えることはできないけど、そのことの“捉え方”を変えることはできるんだよ。
そうすると、過去に起こった不幸な出来事も捉え方を変えて「幸せの種」にすれば、未来も幸せになるんです。』
目の前に起こる現象には「幸」も「不幸」もない。すべては「捉え方」や「見方」で変わってくる。
貧乏や、病気や、事故など、厳しい現実があったから今の自分がある、「ありがたい」と思う人もいれば、自分はツイてなかった「不幸だ」と思う人もいる。
そのためには、ことあるごとに自分の「機嫌を取る」ことが大事。
なぜなら、自分の機嫌を直すのは自分しかいない。
人に機嫌を取ってもらうということは、「おべっかを使ってもらう」ことであり、「おべんちゃらを言ってもらう」こと。
「出来事をどう捉えるかが重要」
いつも上機嫌で、物事を「軽く」「明るく」捉えることができる人でありたい。
■【人の心に灯をともす】のブログより
https://www.facebook.com/hitonokokoro
https://book.asahi.com/article/14980717 【【この人を読む㊤】寺山修司 トリックスターの奥底の誠実 静岡大学准教授・堀江秀史】より
寺山修司(1935~83)は、映画、ラジオ、テレビ、演劇と、およそ詩人というだけでは掬(すく)いきれない活動の場を持った。街中での同時多発的演劇で世間を騒がせもした。盗作嫌疑やのぞきなど不名誉な逸話もある。
『思いださないで』は、そんな寺山が一方で力を入れていたメルヘンの詩物語集である。書名の意図は「思い出さないでほしいのです/思い出されるためには忘れられなければならないのがいやなのです」というエピグラムに集約されている。遠回しな「忘れないで」の意だが、没後40年の今年も関連イベントは多く、忘れられる気配はない。笹目浩之『寺山修司とポスター貼りと。』では、昨今の寺山受容の仕掛け人である著者の半生が、戦後日本文化を担ったメディアとしての演劇ポスターの重要性とともに語られる。賑(にぎ)やかな時代だっただろう。寺山は今も、社会の常識に反逆するトリックスターとしてよく知られる。
しかし寺山の底にあった殉教者にも似た誠実は、あまり知られていない。寺山の誠実を考えるなら、車谷長吉(1945~2015)を横に置くと良い。直接の影響関係はなさそうな2人だが、彼らの(車谷は小説で、寺山は主に戯曲で)描く前近代的農村や、方言の多用、周縁社会の住人への眼差(まなざ)しには、相通じるものがある。何より近いのは、露悪的な家族語りだろう。両者は、自らの父母や親族を題材に、その暗部を晒(さら)す。
想像力で超える
但(ただ)し、自己の捉え方においてこの2人は決定的に異なる。車谷は、中流サラリーマン生活を放擲(ほうてき)して送った流浪の日々を直接の糧として、彼自身を想起させる「私」の小説を書いた。一言一句磨き抜いた言葉で綴(つづ)られた、自他へ向けた悪態から成る車谷文学は、『赤目四十八瀧心中未遂』に倣えば、「尻の穴から油」を流しながら、「自分を崖から突き落と」す世捨人(よすてびと)の修行そのものである。一方寺山は、いつも自信に満ちている。大学生のときに大病を患い、病床で作歌するにあたり、寺山は自己の悲惨な現実を詠むことを嫌った。想像力によって過去や事実を超えた世界を創出した。現状を直視したその先から始めるのが寺山だ。両者は、自己なるものを巡って、補完的な関係を結ぶ。車谷は恥じ、寺山はその先を示す。
もっとも、実は寺山にも唯一、私詩と呼ぶべき作品がある。『思いださないで』収録の「木の匙(さじ)」である。「木の匙」は、1964年初出当時、結婚したばかりだった寺山の生活感情が率直に反映された詩群だが、この詩の単行本収録にあたって寺山は、周到にその痕跡を消している。いかに自己語りを抑制したかが却(かえ)って分かる(これに曲をつけた中田喜直のレコードで、改訂前の原型が読める)。寺山は家庭を、砦(とりで)に囲まれた至福の王国、円環的なモノローグの世界と見做(みな)している。車谷の妻、高橋順子の詩集『時の雨』(青土社、品切れ)には、同様に彼女自身の新婚生活が記されている。物書きという「虎」同士の夫婦生活が「何のための円環か閉じようとしていた」とき、「狂気が男を襲」う。見えない汚れの付いた手を偏執的に洗う男(=車谷)を見る女のモノローグは、「木の匙」への返詩としても読め、興味深い。
自己肯定の仕方
いま、他人への粗雑な悪口が情報の網目の上を跋扈(ばっこ)する。言葉の匕首(あいくち)を立てるなら、まずは自分の喉元(のどもと)に。自分を恥じる誠実は車谷から学べる。しかし恥じるばかりでは前に進めない。恥ずべき自分の肯定の仕方を、寺山は教えてくれる。相手の匕首が届く距離で堂々批判する誠実も、また。人間は弱い。聖人たちの言葉は、「なぜ今」を超えて常に、社会に渇望される。寺山没後40年は、彼らを「思いださない」ための方便に過ぎない。=朝日新聞2023年8月12日掲載
https://hashira.exblog.jp/2734422/ 【真実の水】より
ドイツの心理学者ユングを研究しているときその芸術性に驚かされた。それは、壮大な舞台芸術を見ているような観があった。
人間の心の世界に住むさまざまなパーソナリティ。グレートマザ-、老賢人、アニマ、アニムス、トリックスターそれにシャドーなど。
まるでおとぎ話の中に出てくるキャラクターのようだ。同じドイツのフロイトなんかと比べると格段の差がある。一人の人間の中に多様な形で生きている人格達だ。
それらのパーソナリティが綾なしながらパノラマのように私たちの心は作られている、と
ユングは言っている。
現代の心理学はもっと進化していて今では、ユング心理学は古典となってしまったが、
これらのパーソナリティ、(ユングは、原型、アーキータイプとなずけている)がくり広げる世界を分析するときは、まるでシンフォニーを聴きながら同時に濃厚なドラマを見ているような観がある。
その人の人生の物語とそれを彩る音楽とを同時に味わっているようなダイナミズムがある。
人間の中には様々な人格が住んでいて、時としてその一人に心を乗っ取られる。
このことについては、河合隼雄著「影の現象学」が面白い。影に乗っ取られた人間の心が書いてある。私の周りでもシャドーで生きている人はたくさんいる。
うらみつらみに取り付かれて。しかし、シャドーの人に魅力的な人が多い。
グレートマザーで生きている人もたくさんいる。このタイプは圧倒的にオバンに多い。
人によっては、ほんの数人のアーキ-タイプでしか生きていない人もいる。
ほとんどが無難に生きている、ツマンナイ人だ。
昨日も書いたが、自分全部で生きようと自分の中に住むこれらのパーソナリティを自由に解き放った時こそ壮大な芸術が生まれる。
幾重にも重なり綾織りなす、これらの人格が作り出すドラマの豊穣なる事、
また人生の深くて大きいことに感動する。
貧相に生きようとすれば貧相に、豊かに生きようとすれば、いくらでも豊かになる。
言っとくけど、それは倫理とか道徳とか社会常識常識なんてものに捉われていたら不可能だよ。
そんなものを越えて人間を見るんだ。大きな、大きなスケールでね。芸術は面白い。芸術は美しい。芸術は、真実の水です。
私は毎日このおいしい水を飲みながら生きている気がする。
付録
これを書きながら思い出した映画がある。スウェーデン映画、イングマール・ベルイマン監督
「ファニーとアレクサンドル」最後のシーンで、ストリンドベリーの詩が朗読される。
何でも起こりうる。 どんなことでもあり得る。
時間にも空間にも 縛られず 想像の力は 色あせた現実から 美しい模様の布を つむぎだすのだ。
http://www.st.rim.or.jp/~success/samazama_ye.html 【さまざまのこと思い出す桜かな】より
古寺に咲く花を見上げてしみじみと今に生きとふ縁(えにし)を思ふ
さまざまのこと思い出す桜かな
さまざまのこと思い出す桜かなという句がある。実に平凡な句だ。俳句なんて、誰でも作れる、そんなことを思ってしまう。この句は、もちろん知る人ぞ知る芭蕉の句だ。芭蕉作となると、とたんに名句に思えてしまうから不思議だ。
なぜそんなことになってしまうのか。読んだ人間の心の動きをみれば、まず「芭蕉」というイメージに反応して、さざ波のような葛藤が起きる。その波紋が次第に大きくなり、句のイメージが一変する。芭蕉と聞いただけで、「お見逸れしました」となる人も多い。それほど「芭蕉」という名は、日本人にとって大きな存在で、文化的象徴ということにもなる。日本人の心の中にあっては、芭蕉は、歌人西行と並んで、ユングの言う「元型」(アーキタイプ)のひとつと数えても良さそうだ。言い換えれば、日本人は芭蕉コンプレックスを持っているのである。
具体的に言えば、「さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉」
と読んだだけで、多くの日本人は、イメージとして、蕪村が描いた「奥の細道」の芭蕉の旅姿を連想し、次に芭蕉が、この句をどのような情景の中で詠んだのだろうと考える。日本人は、自己の心にある芭蕉という元型(心のイメージ)に合わせて、物事を判断したり、推量する。
この句は、元禄元年(1688)芭蕉が、奥の細道の旅に出る一年前、故郷の伊賀の国に帰省した時に詠んだ句である。時に芭蕉45歳。
この「さまざまの」の句には、こんな詞書(ことばがき)が付されている。
「探丸子(たんがんし)の君、別墅(べっしょ=下屋敷のこと)の花見もよはさせ給ひけるに、昔のあともさながらにて」
現代語訳すれば、「探丸子の君が上野の下屋敷で花見の宴を開かれたのに招かれて行けば、そこは昔の宴もさながらにて」というほどの意味になる。
「探丸子の君」とは、芭蕉(本名松尾宗房)が、若い頃仕えていた故藤堂良忠の跡目を継いだその子良長の俳号である。若き日の芭蕉(宗房)は、良忠の近習だった。宗房の将来は、偏に良忠に掛かっていた。
宗房の将来は、まさに満開の桜のように輝いて見えた。しかし人生は分からない。良忠は、自ら寛文6年(1666)に主催した花見の宴の後、25才の若さで急逝してしまったのだ・・・。
この句の「さまざまのこと思い出す『桜』」とは、主君良忠とかつて花見の宴で見た思い出の「桜」を指していることになる。芭蕉は、その桜の中に、かつての主君良忠の若かりし面影を視ているのだろうか。あるいは桜とともに、良忠の子の良長(探丸子)を眺めながら、その面差しにかつての主君が甦ってきたような感慨をもっているのかもしれない。
芭蕉は、明らかに「さまざまの」の句を詠みながら、若き日の自分の周囲で起こったことを思い出している。主君良忠公を野辺に送った後、23才の若き芭蕉は、侍の道を捨て、俳諧の道で生きる決心をした。どのような心の葛藤があったか、それは今となっては誰にも分からない。しかし魂が粉々に砕ける寸前まで、悩んだ末の決断だったに相違ない。そうでなければ、脱藩の罪を犯してまで、故郷の伊賀上野を後にした理由の説明がつかない。
それから22年後の元禄元年(1688)、芭蕉は、45才の齢となっていた。この年、芭蕉は、2度目の吉野の旅に向かった。いつか芭蕉は、歌人西行が目指した風雅の道を志すようになっていた。西行と芭蕉、歌と俳諧(俳句)の違いこそあれ、ふたりは若い頃に、それが道ならぬ恋だったか、主君の夭折だったかは別として、共に魂が砕け散るような辛い決断をして、風雅の道に飛び込んだ共通項を持っている。
この年芭蕉は、父の33回忌の追善法要もあり、丁度桜の頃に故郷の家に帰っていたのであった。芭蕉の実家から、かつて仕えていた藤堂家の下屋敷は、一町(現在の距離にして109m強)ほどの距離であった。
おそらく、藤堂家の世継良長は、脱藩までして行方をくらましたかつての父の忠臣宗房が、江戸に出て俳諧の宗匠松尾芭蕉として名声を得ていることを聞くに付け、「どのような人物であろう。一度父のことや俳諧の道について尋ねてみたいものだ」と思っていたに違いない。その芭蕉が、今目と鼻の先に来ている。当然脱藩の罪を負っている者だから、芭蕉から挨拶に行くことは許されない。そこで、この若き良長は、父の没後22年目にあたる春に、芭蕉を非公式に花見の宴に招いたと考えられる。
芭蕉にとっては、二度と足を運べぬと思っていた藤堂家の花見の席への夢のような列席であっただろう。そして芭蕉は、自らの言葉にならぬ感慨を、文字通り「さまざまのこと思い出す桜かな」と、ありきたりの言葉で表現したのである。そこには言葉を飾ろうとか、巧く詠もうなどという思いはない。実感をただただ平凡に詠んだのである、
芭蕉は何故この句を後世に残したのか。本来であれば、芭蕉の厳しさからすれば、破き捨てるべき句であったかもしれない。しかしどうしても実感のこもったこの句を捨てられなかったのであろうか。幸い後世の私たちは詞書が付されていたために、芭蕉が、どのような思いで、この句を詠んだのかを、知ることができるのだ。
西行にも、随分と平凡な歌も多い。良いのである。魂が発した実感がこもっていれば、その実感は、響きとなって、それを読む人の心に、さざ波を起こす。
例えばこのような歌だ。
いにしへの人の心のなさけをば老木の花のこずゑにぞ知る
(訳:こうして桜の老木が見事に今年も咲いているのを見ていると、その花を付けた梢に古の人々の花を思いやる心の深さがつくづくと偲ばれることだ)
芭蕉にとって、桜は、ある意味で、幼い自分を育ててくれた父そのものであり、青春時代に、立身出世という夢を見せてくれた藤堂良忠であり、また今まさに生涯を掛けた目標となった先人西行法師その人なのである。それが、「いろいろのこと」という句となって、芭蕉の口から思わずポロリと洩れたのであろう。名句とは、推敲に推敲を重ねて作るものではなく、この「さまざまの」の句のように意外なほどあっさりとできるものかもしれない。さて芭蕉は、この句を詠んだ一年後、生涯の集大成とも言える「奥の細道」の旅に出る。西行の足跡を辿り、奥州を尋ねよう。そんな決意も、この懐かしき桜の前で誓ったのであろうか・・・。
最近この平凡な句が、様々な方面から注目を浴びるようになった。芭蕉が敢えてこの句に詞書を添えたのは、この句が取るに足りぬ平凡な句であるからだ。もう一度、この詞書を味わった上で、この句の実景を噛み締めてみる。そうすれば、この句の実感が読んでいるこちらの胸中にじわりと迫ってくる。きっと、私たち日本人の心の琴線に触れているからだろう。佐藤
0コメント