ミライノシテン-言葉-@mirainoshiten_2
すべての悩みは対人関係の課題である。仙人のような世捨て人でさえも、実は他人の目を気にしているのだ。アルフレッド・アドラー
Facebook原 靖之さん党呼応記事
もはや、戦わない時代に 古武道は何をする
武道といえば、戦うスキルを学ぶものと思っていませんか?
しかし、現代は肉体的な戦いが日常にはない時代。
ならば、武道の前提条件だった身体と心を調えるこのスキルが、役に立つ時代!
それは、所作(しょさ)と言われている立つ、歩く、座る それと、考え方 それは、世界観に繋がるだろう!私はどんな世界観の中で生きているのか?
その世界観から、自由に出入りできるのが、古武道の世界かなぁと思います!
毎日、こんな事を考えながら、自分なりの答えを探してます!
真我、ハートが感覚という形で採点してくれるんだよね!
一指李承憲@ILCHIjp
私たちは、目覚めているときにのみ体を動かしているのではありません。夢の中でも、その夢の主にならないといけないのです。無意識のハンドルをつかむこと、それが目覚めた意識です。こうした意識で外部の情報に流されずに眺めるだけでも洞察と知恵が得られます。
https://www.touken-world.jp/kobudo/ 【古武道と現代武道】より
古武道とは、生死をかけた戦闘における武技として誕生、発展してきた日本の伝統的な武術の総称を言います。古武道は、剣術・居合術・抜刀術・柔術をはじめとする様々な武術に分類され、その種類は多種多様。
現在、世界各国において、日本の伝統的な運動文化として数多くの人に親しまれている武道のルーツは、古武道(古武術)です。古武道(古武術)は、主に軍事を担っていた武士によって承継されてきました。そのため、武士という階級が消滅した明治時代以後においては、衰退を余儀なくされます。
そんな古武道(古武術)に代わって誕生したのが、武道(現代武道)。日本の代表的な精神文化である「武士道」を体現する古武道(古武術)の歴史 古武道と現代武道についてご紹介します。
古武道(古武術)の歴史
「古武道」(こぶどう)とは、日本における武器の使用方法や戦闘方法などを体系化したもの(武術)の総称です。明治時代に「武道」という概念が登場したことを機に、これと明確に区別する概念として用いられるようになりました。古武道において重視されたのは、実戦において威力を発揮するための鍛錬であり、試合での勝敗ではありません(他流試合禁止の流派もありました)。ここでは、現代まで続く古武道の歩みについてご紹介します。
古武道(古武術)の起源
日本における古武道(古武術)の起源については、必ずしも明らかであるとは言えません。人間が社会を形成すると、必ず発生するのがトラブル。それを解決する方法として、武力が用いられることもあったと考えられます。そこで、これらの戦闘行為が繰り返されていくうちに体系化され、武術的なものへと発展していったと推測できるのです。また、「古事記」や「日本書紀」などの文献には、剣、矛、刀、弓などの武器に関する記述があることから、大陸から渡来した武器と共にその使用法も伝わり、原初的な古武道(古武術)が産声を上げた可能性があります。
古武道(古武術)の起源
時代が進んで平安時代になると、弓を用いた「蟇目」(ひきめ)や「射礼」(じゃらい)などが神事として行なわれるようになりました。また、平安時代中期に編纂された辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)では、「古布志宇知」(こぶしうち)や「須末比」(すまひ)という単語を確認できます。これらの事象から、古武道(古武術)の萌芽(ほうが)を見て取ることができるのです。
古布志宇知についての詳細は明らかではありませんが、須末比は、現在の相撲のルーツであるとも言われている格闘技。もっとも、突き、押し、投げ等によって勝敗が決する現在の競技とは異なり、パンチやキックなどの打撃技も許されるなど、細分化されたルールはなく、いわゆる「何でもあり」の力比べでした。イメージとしては、現在で言う「総合格闘技」に近いものだったと言われています。
平安時代において古武道(古武術)というものの輪郭が固まり、「術」(じゅつ:一定の技能をもって行なう技)として広まっていった背景には、武力行使を生業とした武士の台頭がありました。元々、地方豪族や要人などのボディーガード的な役割を担っていた武士の頼みの綱は、自らの腕(技量)のみ。そのため、当時の戦闘における主武器であった弓の鍛錬にいそしみました。このように切磋琢磨した結果、技術体系が確立していったと考えられます。
平安時代から鎌倉時代にかけての戦い方は、騎馬武者による1対1の戦いである「騎射戦」(きしゃせん)が主流。そのため、武士にとって必須の武芸だったのが弓馬術です。鎌倉時代の弓馬術には、「騎射三物」(きしゃみつもの)と呼ばれる訓練メニューがありました。それは、騎乗した状態で次々に矢を放つ「流鏑馬」(やぶさめ)、標的を自分の左側に置く訓練を行なう「犬追物」(いぬおうもの)、そして遠くに懸けた笠を射抜く「笠懸」(かさがけ)の3つです。現在は、神事などで目にする機会があるこれらの弓馬術ですが、当時は戦場において欠かせない武技だったと言えます。
戦国時代の古武道(古武術)
戦国時代に突入すると、日本中で戦が勃発します。戦い方についても、それまでの騎射戦などの1対1の戦いから、大規模な集団同士による「白兵戦」(はくへいせん)へと変化。これに伴って、武士に要求される武芸も異なってきました。より実戦的な技術が求められたことにより、古武道(古武術)は細分化・専門化していきます。それまで重きが置かれていた弓術に加えて、「槍術」(そうじゅつ)、「剣術」(けんじゅつ)、「組討」(くみうち)などが独自に進化を遂げたのです。
戦国時代の古武道(古武術)
この時代において、武士の間で急激に広がっていったのが剣術でした。南北朝時代から室町時代にかけて、禅僧にして剣客だった「念阿弥慈恩」(ねんあみじおん)を祖とする「念流」(ねんりゅう)、室町時代中期に「飯篠家直」(いいざさいえなお)によって創始されたと言われている「神道流」(しんとうりゅう)、室町時代に「愛洲久忠」(あいすひさただ)が開いたと言われている「陰流」(かげりゅう)、という3つの剣術流派の総称である「兵法三大源流」(ひょうほうさんだいげんりゅう)が勃興したことをきっかけとして、剣術は様々な流派に派生します。これに端を発し、剣術は武士にとっての必須武芸となったのです。
生死をかけた戦いの場で必要となるのは、より実戦的な古武道(古武術)。そのため、剣術以外の古武道(古武術)も進化・発展しました。のちに「柔術」(じゅうじゅつ)と呼ばれるようになった古武道(古武術)が生まれたのも、この頃だったと言われています。戦場において、敵の首を取ることこそが武功であり、最終的な勝利を意味していることは言うまでもありません。それゆえ避けて通れないのが、至近距離で敵を組み伏せて首をかき切ること。そのためには組討での強さは欠かせないのです。体のバランスを崩したり、関節を極(き)めたりするなどの方法で、敵をコントロールする技術は欠かせませんでした。流派としては、室町時代に「竹内久盛」(たけのうちひさもり)が編み出した技術をもとにした、「竹内流」(たけのうちりゅう)が最古であると言われています。
このように、古武道(古武術)は剣術や組討(のちの柔術を含む)を中心に、戦場における実戦でも通用する技術として発展を遂げたのです。もっとも、古武道(古武術)における流派・流儀が成立し、世の中に広まるまでには、もうしばらく時を待たなければなりませんでした。
古武道(古武術)の流派・流派ができた背景
古武道(古武術)において、最初に流派が成立したのは、14世紀後半の弓術であると言われています。もっとも、それ以外の武術については、さらに200年ほどの時間を要しました。その理由として考えられるのは、古武道(古武術)が大きく発展した戦国時代の気風が挙げられます。当時の日本では「下剋上」(げこくじょう)の空気が蔓延。すなわち、身分の低い者(家臣)が主君を倒してのし上がることが当たり前に行なわれていました。当然、古武道(古武術)の世界においても同様のことが該当します。当時の古武道(古武術)は実戦的な色合いが濃いもの。
古武道(古武術)の流派・流派ができた背景
自らが極めた高度な技芸を伝授したことで、命ともども弟子に取って代わられてしまうのではないかという危機感から、極意が簡単に伝授されることはなかったのです。そのため、すでに半ば儀式化されていた弓術以外の流派の成立は、時を待たなければなりませんでした。
戦場において、主流として用いられていた剣術や柔術の流派については、15世紀後半にその原形と思われるものが出現したと言われていますが、それらが流派という形に落とし込まれ、極意伝承の形が始まったのは、16世紀半ばから後半にかけてのこと。すなわち、「織田信長」が天下統一路線を押し進め、戦国時代(下剋上の時代)が終焉へと向かっていた時期と重なるのです。そして、天下泰平の世となった江戸時代初期には、「武芸十八般」(ぶげいじゅうはっぱん)が登場します。戦場で必要とされた古武道(古武術)の総称である武芸十八般には、剣術や柔術はもちろん、槍術、「居合術」、「砲術」なども含まれ、それぞれに独立した流派が形成されました。戦(いくさ)のない世の中になっても、武士の仕事から軍事行動が除外されることはありません。そのため、武士達は各流派において、様々な古武道(古武術)を学ぶことで有事(戦)に備えていたのです。こうして、流派武術は武士の文化として定着し、数多くの流派が展開していきました。
古武道(古武術)の流派が形成されるプロセスには、3つの要素があります。すなわち①高度な技術を体得している師範の存在、②技術の習得が難しいほど高度であること、③技術を伝授するための環境が整っていることです。①については、人がカリスマ性を有する人物に惹かれることは古今東西を問いません。高度な技術を体得している師範は一種の天才。そのため、入門を志す者があとを絶たず、そこにひとつの派(は:系統)ができるのです。②については、追求する技術が高度であればあるほど、人はその技術の習得に熱中するという面があります。そして、最も重要な要素が③。どれだけ師範がカリスマ性を有し、習得を目指す技術が高度であっても、それを伝える術がなければ、その極意は1代限りのものとなってしまいます。技術を体系化して教授できる環境の有無が、流派繁栄の鍵を握っているのです。
古武道(古武術)・武芸の伝承
江戸時代においては、幕末までの約250年間に剣術、槍術、柔術、弓術、兵学、馬術、砲術など、合わせて1400を超える流派が展開されていたと言われています。とりわけ、幕藩体制が定まった17世紀後半においては、組織が整備され、万事伝統主義となっていきました。多くの武術においては、他流試合は禁じられ、実戦から遠ざかります。これにより、古武道(古武術)は実戦で生き抜くための合理性とは対極に位置するような、形式主義で華美なものとなり遊芸化。
武術・文化の伝承
そして、心を修練するものであるという側面が強調されるようになったのです。古武道(古武術)における流派の多くは、門弟の技術の進歩や人格などを総合判断して段階に応じた免状(伝書)を発行することで、技術を伝承していました。門弟は入門時に、いわゆる免許皆伝となるまでは、親兄弟といえども流儀の内容を口外しない旨を誓約する「起請文」(きしょうもん:約束を破らないことを神仏に誓う文書)に血判する儀式を行ないます。そのため、免許皆伝以前の伝書にも段階に応じて流派の由来や極意などが記されることがあったものの、受け取った者以外がそれを知ることはなかったのです。もっとも、他流試合が禁止されたこともあり、日々の鍛錬は事前の約束に従った形稽古の繰り返しにならざるを得ません。門弟のなかには、流派の免許を義理や金銭で取得する者もいたと言われています。
近代における古武道(古武術)
江戸時代に隆盛を極めた流派武術が大きな転換点を迎えたのは、1868年(明治元年)の「明治維新」でした。新政府主導で急激な近代化への舵取りがなされた結果、それまで軍事面を担ってきた武士階級は解体。1876年(明治9年)の「廃刀令」によって「武士の魂」でもあった日本刀を取り上げられたことで、流派武術は存亡の危機に直面したのです。伝統的な古武道(古武術)が時代遅れであるという風潮に風穴を開けたのは、1877年(明治10年)に勃発した「西南戦争」における「警視庁抜刀隊」(けいしちょうばっとうたい)の活躍。
近代の変化
軍の後方支援組織にすぎなかった彼らが参戦し、「西郷隆盛」率いる「薩軍」に勝利したことで、警視庁において「撃剣」(げきけん:剣術)と柔術の訓練が導入されました。1882年(明治15年)に「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)によって「一刀正傳無刀流」(いっとうせいでんむとうりゅう)の道場「春風館」(はるかぜかん)が設立され、「嘉納治五郎」(かのうじごろう)によって柔道の総本山「講道館」が設立されたことも偶然ではありません。
時代のうねりはさらに大きくなります。1895年(明治28年)、京都で「大日本武徳会」が設立され、1899年(明治32年)には「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)の「武士道」が英文で刊行され、ベストセラーに。その後、日本語訳版が刊行されると、日本国内でも武士道ブームが巻き起こりました。大日本武徳会は、発足当初の会員数は1,800人に満たない組織でしたが、2年後には10万人、10年後には100万人を超える組織となったのです。前述した嘉納治五郎は、大日本武徳会においても柔術部門の責任者を務めています。こうして、日本における伝統武術は、近代化して社会に定着しました。明治時代末期には学生を中心として、競技としての武道を展開。そして1911年(明治44年)には、中学校の正式な授業科目として撃剣(のちの剣道)と柔道を教えることが認められました。このようにして流派武術は明治維新という荒波を乗り越えたのです。
古武道(古武術)の種類
日本の伝統武術である古武道を総括する団体のひとつである日本古武道協会に加盟している10種類の武芸(素手や短い武器を使い、護身に重きをおいた流派や真剣を用いて単独で稽古する武芸、槍や杖などの道具を活用した武芸など)を取り上げ、その歴史や特徴についてご紹介します。
古武道(古武術)の全体像
各流派の全体像
「古武道」とは一般的に、明治時代以前から行なわれていた日本の伝統的な武術を意味します。その始まりについては諸説ありますが、鎌倉時代から戦国時代にかけての戦(いくさ)において実践されていた術である点について異論はありません。今日、日本のみならず世界中の人が取り組んでいる「武道」は、古武道の派生形。試合や競技によって「勝敗」を決する点において、古武道とは異なります。実戦において用いられた戦闘技術である古武道においては、敗北は死に直結することを意味していました。
そのため、他者と技を競って優劣を決するということは念頭になかったと言えるからです。
実戦が皆無となった現代日本において、古武道は戦闘技術としての役割を終えましたが、伝統文化として様々な地域で数多くの人々に伝承されてきました。すなわち、古武道は日本の精神文化である武士道や、伝統的な価値観を色濃く反映した文化財としての側面を有しているのです。こうした古武道の保存・振興を目的として設立された「日本古武道協会」には、2018年(平成30年)現在、78の流派が加盟。日本古武道協会による古武道の流派としては「柔術」、「剣術」、「居合術・抜刀術」、「槍術」、「杖術・棒術」、「薙刀術」、「空手・琉球古武術」、「体術」、「砲術」、「その他武術」の10分野に分類されています。
柔術
柔術の起源については諸説ありますが、戦(いくさ)において、「甲冑」(鎧兜)を着用した武士が敵の首を取るための「組討」(くみうち)であるという説が有力です。そのため、「小太刀」(こだち)や「脇差」(わきざし)などを手にした相手に対しての護身術的な色合いが濃い武技でした。最古の流派は、室町時代に「竹内久盛」(たけのうちひさもり)が開眼し、その子孫によって伝承された「竹内流」(たけのうちりゅう)と言われています。
柔術
当初、この武技には決まった呼称はありませんでしたが、江戸時代になると、力ではなく技術こそが極意であるという意味が込められた「柔」(やわら)の文字を用いた柔術という名前が登場しました。その後、明治時代後期には柔術から「柔道」、大正時代末期には「合気道」などが派生。さらには海外においても「ブラジリアン柔術」(グレイシー柔術)や「ヨーロピアン柔術」という形で独自の発展を遂げていったのです。
「講道館柔道」を確立した柔道の父・「嘉納治五郎」(かのうじごろう)は、柔術を「無手或は短き武器をもって、無手或は武器を持って居る敵を攻撃し、または防御するの術」であると定義しました。敵が武器を手にしている可能性を想定している点において、柔術はスポーツではなく古武道(古武術)。すなわち、生死が隣合わせにある戦場における戦闘技術なのです。
「天神真楊流柔術」(てんじんしんようりゅうじゅうじゅつ)や「起倒流柔術」(きとうりゅうじゅうじゅつ)を修めた嘉納が講道館柔道を考案した当初、柔道は柔術のひとつであるという見方が一般的でした。しかしながら、柔術と柔道には決定的な違いがありました。それが「心身の力を最も有効に使用する」という原理を生かし、人間と社会の進歩・発展に貢献する「自他共栄」の精神を持つことによって、自己の完成を目指す「道」の思想があるか否か。戦場において敵を倒すことで自分の身を守る術であった柔術とは異なり、柔道は技と心を競い合う競技となったことで、のちに五輪種目となったのです。
柔道チャンネル
日本柔道を応援する東建コーポレーションが柔道に関する様々な情報を紹介します。
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高校柔道日本一を決定する「金鷲旗高校柔道大会」について紹介します。
柔術と剣術
現在の柔道を形作るもととなった柔術と剣術の関係性について紹介します。
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接骨院(整骨院)の基礎知識や接骨院(整骨院)情報について紹介します。
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東洋人初のオリンピック委員になった嘉納治五郎について紹介します。
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剣術
剣術の発生については、関東と関西で異なっており、日本最古の剣術は関東で興ったと言われています。「鹿島神宮」の神官だった「国摩真人」(くになづのまひと)が神宮に伝来していた秘技を習得。これを「神妙剣」としてまとめたのです。その後「鹿島の太刀」として承継され、上古流、中古流として発展し、「関東七流」として東国における古武道(古武術)の代表格となりました。そんな中、関西においては、平安時代末期に「鬼一法眼」(きいちほうげん)を始祖とする「京八流」が興ったと言われています。
剣術
時代は下り、室町時代になると、本格的な剣術流派が登場。それが「念流」(ねんりゅう)、「天真天正香取神道流」(てんしんてんしょうかとりしんとうりゅう)、「陰流」(かげりゅう)の「兵法三大源流」(ひょうほうさんだいげんりゅう)です。この3流派を起点として、様々な流派が派生。江戸時代には、700を超える流派が鎬(しのぎ)を削っていたと言われています。
大陸(中国)における定義と同様に、当初、日本においても両刃の刀を「剣」、片刃の物を「刀」と区別していました。しかし、平安時代になると、刀身に「反り」(そり)が入った片刃の日本刀のみが制作され、戦に使用され始めます。剣が実戦の場から姿を消したことで、大陸のように剣と刀を区別する実益が喪失。剣と刀を特に区別しない「刀剣」という概念が生まれ、日本においては、日本刀=刀剣として捉えられるようになりました。このことが転じて、日本刀を用いる武術についても剣術と称されるようになったのです。そんな中、江戸時代の一部の文献には、剣術と同義語として「刀術」という言葉が見られますが、定着することはありませんでした。
江戸時代後期、防具を着用しての実戦稽古が行なわれるようになると、剣術に新しいうねりが生じます。それが他流試合の解禁です。剣術において他流試合はご法度でしたが、諸流派が積極的に交流するようになると、流派を超えた新しい「ルール」が制定されるようになりました。この統一されたルールにおいて行なわれていた他流試合こそが、のちの「剣道」へとつながっていったのです。剣術と剣道の違いは、防具の有無や、使用する武器(日本刀または木刀を使用するか竹刀を使用するか)、さらには剣道には剣術のような流派が存在していない点にあると言えます。
玉竜旗
高校剣道日本一を決定する「玉竜旗高校剣道大会」について紹介します。
剣舞と詩舞 世界の剣舞
吟剣詩舞や刀剣と日本の民族舞踊の歴史などについて解説します。
居合術・抜刀術
居合術は、室町時代後期に成立したと言われています。剣術との決定的な違いは、日本刀を「鞘」(さや)に収めた状態でスタートすること。すなわち、日本刀を抜いた状態で相手と向かい合う「立合」(たちあい)が、互いに戦闘準備を整えた上での戦いであるのに対し、「居合」(いあい)は戦闘準備が整わないうちに敵の攻撃を受けた場合の戦いであり、鞘から日本刀を抜く一瞬が勝負なのです。そのため「抜刀」の字をあてて「いあい」と読む流派も存在。
居合術・抜刀術
鞘に収めた日本刀を抜く技術を追求したという点において、居合術と抜刀術はほぼ同義であると言えます。
居合術の始祖は、「林崎甚助」(はやしざきじんすけ)だと言われています。「出羽国」(でわのくに:現在の山形県)で生まれた甚助は、幼少期に闇討ちによって父を失いました。敵討ちのため、齢13にして修行に出た甚助は、「熊野明神」に参籠(さんろう:祈願のため、寺社などに一定期間籠ること)。そこで「神妙秘術の純粋抜刀」の奥義を神授されたとされています。そして20歳のとき、京にて父の敵である「坂上主膳」(さかがみしゅぜん)を討ち、本懐を遂げました。その後、各地で門弟を育てた甚助は、居合術の基礎を確立したのです。
今日「居合道」として行なわれている武道は、居合術を基礎としています。そのため、鞘から日本刀を抜く一瞬に勝負をかける点はほぼ同じ。もっとも、試合で勝敗を決する点において違いがあります。例えば、「全日本剣道連盟居合」においては、2018年(平成30年)現在、12本の形(かた)があり、試合においては、2人の出場者が、あらかじめ決められた全日本剣道連盟居合と各流派の形の合計5本を6分以内で演武。審判が「修行の深さ」や「礼儀」、「技の正確さ」、「心構え」などについて判定して勝敗を決します。
槍術
日本における武器としての「槍」の歴史は、鎌倉時代末期に始まったとされ、合戦においては南北朝時代に登場したのが最初であると言われています。鎌倉時代の戦においては、日本刀や「薙刀」(なぎなた)などの「打ちつける」武器が主流だったため、当初は雑兵の武器として用いられていましたが、戦国時代になると、集団戦において「突く」武器である槍の殺傷能力の高さが認識され、武将も使用するようになりました。安土桃山時代に専門流派が登場し始めた槍術が大きく花開いたのは江戸時代に入ってから。
槍術
槍が「家門」(かもん:大名の格式のひとつ)を表す要素となったことで、新流派が勃興するなど、槍術は大きな発展を遂げました。しかし、明治維新によって武士階級が消滅すると、上級武士によって受け継がれていた槍術は存亡の危機に。多くの流派が失伝・断絶する中、現代においては「尾張貫流」(おわりかんりゅう)、「風傳流」(ふうでんりゅう)、「宝蔵院流高田派」(ほうぞういんりゅうたかだは)、「佐分利流」(さぶりりゅう)などの流派が伝承されていきました。
明治時代中期、槍術は思わぬ形でクローズアップされます。「日本陸軍」が、それまでのフランス式銃剣術に代わるものとして、日本式の銃剣術を制定したのです。日本式銃剣術では、合戦における戦闘技術として発展した宝蔵院流や佐分利流など、日本古来の槍術の技術が取り入れられました。この日本式銃剣術は戦後、武道として発展。それが「銃剣道」です。
杖術・棒術
杖術・棒術で用いられる武器は、杖や棒。この2つに共通している特徴は、日本刀や槍、薙刀とは違い、刃が付いていないことです。すなわち、杖や棒を用いて敵を積極的に打ち負かす(殺傷する)のではなく、あくまでも杖や棒を自在に扱うことを通じて敵を制圧することが目的。この点において、護身術的な意味合いの強い武術であると言えます。杖術の始祖と言われているのが、江戸時代の武術家「夢想権之助」(むそうごんのすけ)。
杖術・棒術
権之助は、元々剣術家として「神道流」を極め、「一の太刀」の極意を修得するほどの腕前でしたが、「宮本武蔵」との剣術勝負に敗れたことをきっかけに、杖術を編み出しました。そして武蔵と再戦し、勝利したのです。その後、権之助は「黒田藩」(福岡藩)において杖術を伝授。特に日本刀を持って暴れている者を捕縛する際に重宝されました。権之助を祖とする「神道夢想流杖術」の、相手を殺傷することなく制するという精神は、現代においても警察官の「逮捕術」へと受け継がれています。
薙刀術
薙刀術は、女性向けの古武道(古武術)。現代においてはこのようなイメージが定着していますが、実はそうではありません。薙刀は奈良時代から平安時代にかけては、寺院における僧兵の武器として用いられていたと言われています。その後、鎌倉時代から室町時代にかけて戦場においても導入され、武士達は薙刀を手に戦うようになりました。
「応仁の乱」(おうにんのらん)をきっかけとして戦国時代に突入すると、集団での密集戦へと戦い方が変化していったことで、敵を「なぎ払う」薙刀は、戦場において不向きな武器となり、主武器は「刺突する」槍へと変化。
薙刀術
戦場から姿を消した薙刀は、城主の留守を預かる奥女中ら女性の武器として生き残ります。江戸時代になり、武士による長大な「大薙刀」(おおなぎなた)の個人所有が禁じられると、女性専門である「おんな薙刀」の流派が興ったこともあり、薙刀術は女性の武技であるという印象が色濃くなっていったのです。現代では薙刀術が「なぎなた」という武道に派生。多くの人が修練に勤しんでいます。
空手・琉球古武術
「空手」は日本にとどまらず、世界中で親しまれている古武道(古武術)のひとつです。その起源には2説あると言われています。ひとつは琉球王国古来の武術である「手」がもとになったという説。手とは、沖縄でも発展した場所にちなんで「那覇手」・「首里手」・「泊手」の3つの系統に分かれ伝承されてきた武芸です。これらの流れを引き継いで「唐手」(空手)となったと言われています。もうひとつは、中国拳法がもとになっているという説。中国に滞在した琉球王国の人達が、中国拳法を学んで持ち帰ったとされています。
空手・琉球古武術
現在の空手の普及に大きく貢献したのが「船越義珍」(ふなこしぎちん)です。義珍は唐手を空手と改名した人物で、柔道の総本山である「講道館」などで演武を行なうことを通じて、普及に努めました。義珍が唐手を空手と改めた意図は、唐手が単なる暴力になるのを禁じる意味も込められていたと言われ、唐の字に禅語である「空」(くう)の字をあてることで、相手を打ち負かす武術ではなく、心の鍛錬を目指したのです。この思いは「空手に先手なし」という言葉にも表れています。
体術
体術は、素手や短い武器を持って行なう攻撃・防御の術のこと。合戦時に武器を失った時の対処法に留まらず、総合的な武術として、様々な武芸の要素が伴っているのが特徴です。そのような「総合武術」とでも言うべき体術の流派としては、「柳生心眼流體術」(やぎゅうしんがんりゅうたいじゅつ)と「柳生心眼流甲冑兵法」(やぎゅうしんがんりゅうかっちゅうへいほう)などがあります。「柳生十兵衛」(やぎゅうじゅうべえ)に剣術を学んだと言われている
体術
「荒木又右衛門」(あらきまたえもん)を流祖に持つ柳生心眼流體術は、柔術、剣術、棒術、長刀術、居合術などの総称です。そんな中、柳生心眼流甲冑兵法は、「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)に師事した仙台藩の「竹永隼人」(たけながはやと)によって創始されました。
砲術
砲術の原点は、1543年(天文12年)に種子島に伝えられた鉄砲(火縄銃)。戦のあり方を劇的に変化させた武器である鉄砲の操作と武士としての作法が交わり、砲術という古武道(古武術)へと発展しました。今日では「森重流砲術」(もりしげりゅうほうじゅつ)や「陽流砲術」(ようりゅうほうじゅつ)などが、往時の技術を伝えています。森重流砲術は、「周防国」(すおうのくに:現在の山口県)出身の「森重都由」(もりしげすべよし)を祖とする流派。
砲術
森重流では小銃から大砲までを扱いますが、その操法や作法が細かく決められています。明治以降に1度は断絶してしまったと言われていますが、元日本ライフル射撃協会会長の「安斎實」(あんざいみのる)氏が独学で復活させました。そんな中、陽流砲術は福岡城主・黒田氏に仕えた阿部家に伝わる藩外不出の武芸。その砲撃の威力は凄まじく、大きな音で敵の戦意を喪失させると共に、城内や橋梁までも破壊するほどだったと伝えられています。
その他古武道(古武術)
これまでご紹介してきた他にも、様々な古武道(古武術)の流派が存在しています。そのうちのひとつが「小笠原流弓馬術」。平安時代から鎌倉時代における武士の戦い方の主流は、騎馬武者が1対1で弓を用いる「騎射戦」(きしゃせん)であり、武士達にとって弓馬術の鍛錬は欠かせないもの。そのため、弓馬術の流派としての成立時期は、他の古武道よりも早かったとも言われています。小笠原流弓馬術の始祖である「小笠原長清」(おがさわらながきよ)は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の弓馬術師範でした。
その他古武道(古武術)
頼朝の命により、公家の文化を取り入れた「武家の礼法」を考案。そこでは、無駄を省いた実用本位の能率的、合理的でありながらも、その所作は背筋を伸ばして体を真っ直ぐにすることを基本とした美意識が重視されていました。弓馬術、馬術の技術に留まらず、こうした礼法を重んじることによって、日々の生活の中においても鍛錬を積み重ねていくこと。ここに小笠原流弓馬術の本質があると言えるのです。
古武道(古武術)と現代武道
東京・九段下の「日本武道館」(にっぽんぶどうかん)は、武道の殿堂として知られています。明治時代に、古武道(古武術)から派生した武道は、心身を鍛え、技を競い合う日本の伝統的な運動文化として発展します。武道人が自分自身と向き合うことを通じて、ひとつの「道」を究めるという思想が特徴的です。ここでは、日本の伝統的な精神文化である武士道を体現する聖地「日本武道館」とその武技についてご紹介します。
現代武道の殿堂
東京都千代田区北の丸公園にある日本武道館は、1年を通じて多種多様なイベントが行なわれる日本屈指のイベント会場として知られ、なかでも、アーティストが公演目標とする舞台としても知られています。もっとも、日本武道館の本質は武道の殿堂であるということで、各種武道の全国大会の会場として、優先的に提供されています。全国大会は、各武道における日本最高峰の試合が繰り広げられる舞台。
現代武道の殿堂
それが開催される日本武道館は、すべての武道人にとっての憧れの場所でもあるのです。
日本武道館の竣工は1964年(昭和39年)9月。第18回オリンピック競技大会(以下、東京五輪と言います)開幕の約1ヵ月前でした。杮落とし(こけらおとし:新たに建設された劇場などで初めて行なわれる催し)となったのが、東京五輪における柔道競技の実施。現代武道の代表格である柔道が、全スポーツイベントの最高峰に位置付けられるオリンピックで初めて正式種目になったことを受け、それにふさわしい会場として日本武道館が建設されたのです。また、東京五輪期間中には、各国の武道関係者の前で「剣道」、「弓道」、「相撲」の演武が披露されました。これにより、日本武道館は武道の殿堂「Nippon Budokan」または「Budokan Arena」として、全世界にその名を知られることとなったのです。
日本武道館の設立趣旨は、武道の普及奨励と共に、武道による心身の錬磨を通じて健全な育成を図り、民族の発展に寄与し、広く世界の平和と福祉に貢献するための場とすること。こうした設立趣旨に沿って、日本武道館では青少年武道錬成大会や武道指導者講習会など、様々な武道振興普及事業が行なわれており、鏡開き式・日本武道館と武道も、こうした事業の一環であると言えます。
日本武道館で開催の柔道大会動画
日本武道館で開催された全日本柔道選手権大会をYouTube動画でご覧頂けます。
全日本柔道選手権大会
現代武道とは/日本武道協議会
「武道」とは、「武士道の伝統に由来する日本で体系化された武技の修錬による心技一如(しんぎいちにょ:心と技は切り離すことはできないこと)の運動文化で、心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、人間形成の道であり、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道の総称」と定義されています(日本武道協議会制定)。そして今日、武道人口は、日本はもとより世界各国にまで広がりを見せているのです。
現代武道とは/日本武道協議会
武道という概念は、明治時代に登場したと言われています。大正時代に入ると、それまで「剣術」や「撃剣」と称されていた武技は「剣道」、「柔術」は「柔道」、「弓術」は「弓道」に改称されました。これにより、日本の伝統的な武芸である武術(古武道)から派生した武道が誕生したのです。現在、「公益財団法人 日本武道館」の事実上の傘下組織である「日本武道協議会」では、9つの武道を統括・奨励しています。
日本武道協議会に加盟する武道の統括団体
武道名 組織名 所在地 HP 詳細
柔道 公益財団法人 全日本柔道連盟 〒112-0003
東京都文京区春日1丁目16番30号 講道館内
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剣道 一般財団法人 全日本剣道連盟 〒102-0074
東京都千代田区九段南2-3-14 靖国九段南ビル 2F
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弓道 公益財団法人 全日本弓道連盟 〒150-8050
東京都渋谷区神南1丁目1番1号 岸記念体育会館内
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相撲 公益財団法人 日本相撲連盟 〒169-0073
東京都新宿区百人町1-15-20
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空手道 公益財団法人 全日本空手道連盟 〒135-8538
東京都江東区辰巳1-1-20
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合気道 公益財団法人 合気会 〒162-0056
東京都新宿区若松町17-18
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少林寺拳法 一般財団法人 少林寺拳法連盟 〒764-8511
香川県仲多度郡多度津町本通3-1-59
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なぎなた 公益財団法人 全日本なぎなた連盟 〒664-0851
兵庫県伊丹市中央1丁目6-19 5F
詳細はこちら
銃剣道 公益社団法人 全日本銃剣道連盟 〒102-0091
東京都千代田区北の丸公園2-3 日本武道館内
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日本武道館において、毎年成人の日に開催されている鏡開き式・武道始め(日本武道協議会協賛)のイベントでは、鎧着初めをかねた鏡開き式と現代武道の模範演武が行なわれます。鎧着初めをかねた鏡開き式は、日本武道館の開館以来、1年の武道修行の出発点として行なわれている伝統行事。
鎧着初めとは、武家の男子が13~14歳に達したときに初めて甲冑(鎧兜)を身に着ける儀式のことで、その男子が武士としての身分を継ぐことを示す意味もありました。そして日本においては古来、神前に供えた鏡餅を開くことで、正月の祝い納めをする風習が定着。鏡開きには新たな年を進んでいく意味合いがあったのです。また、9つの現代武道の模範演武では、各武道を代表する武道人による演武が披露され、そのあとには各武道による一斉稽古(武道始め稽古会)が行なわれます。
古武道(古武術)と現代武道の違い
武道と似た概念に古武道(古武術)があります。前述のように、現代武道は古武道から派生したものである以上、相手を制圧するという技術的な基礎において大きな違いはありません。しかし、両者の成立背景が決定的な違いとなっているのです。古武道は戦場における実戦的な戦闘技術であり、敵を殺傷するための武技。敗北は死に直結することを意味していました。
古武道(古武術)と現代武道の違い
そのため、古武道(古武術)においては、流派が確立したあとでも、主眼を置かれていたのは自らの身を守った上で敵を殺傷すること。自らの技を磨くことこそが重要であり、他流試合などが行なわれることは皆無でした。他方、武道における敗北は死には直結しません。そのため、相手と自由に技を掛け合う稽古(乱取り)を取り入れて自らの技を磨き、優劣を競うという概念が誕生しました。すなわち、武道には、スポーツのように他者と技を競い合う「競技」という概念があるのです。さらには、武技修得のための心身の鍛錬を通じて人格を完成させるという「道」の思想がある点においても、古武道(古武術)とは異なっています。
武士道精神
古武道と現代武道に通底しているもの。それが「武士道」です。1899年(明治32年)に「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)が英文で発表した著書「武士道」(Bushido the Soul of Japan)によると、武士道とは、「仏教」、「儒教」、「神道」の3つを源泉とした「武士の掟」。もっとも、特定の誰かが唱えたり書き記したりした「教え」ではなく、「源頼朝」による鎌倉開府以来、長期間に亘る日本の歴史において醸成された武士としての生き方(道徳律)であり、それゆえ自律的な拘束力を有するものなのです。
新渡戸稲造
武士道にはこんな一節があります。「地球上のすべての国民の精神的価値は、その国民の伝統文化に根ざしている」。武士の道徳律たる武士道は日本の精神文化であり、その体現者であった武士が修得に勤めた伝統的な武技・古武道(古武術)に武士道が色濃く反映されているのはもちろん、その派生形態である武道もまた、武士道を体現するものであると言うことができるのです。
古武道(古武術)の現在
前述のように、古武道(古武術)は、実戦において敵を殺傷するための戦闘技術であったため、戦のない天下泰平の世になると、その存在意義は薄れていきます。江戸時代においては、軍事力を担う武士によって「武芸十八般」(ぶげいじゅうはっぱん)として受け継がれていました。しかし、明治時代になり武士という身分が消滅したことや、徴兵制度の確立、さらには西洋式の軍隊が導入されたことによって、古武道(古武術)は「過去のもの」に。こうして、戦闘技術としての古武道(古武術)は姿を消したのです。
古武道(古武術)の現在
もっとも、古武道(古武術)には、単なる戦闘技術に止まらない側面もありました。それが、武士道精神です。これを体現する古武道(古武術)には、日本の精神文化を象徴する文化財としての価値があると言えるのです。日本武道館と共に日本古武道演武大会を主催する日本古武道協会には、2018年(平成30年)現在、78の流派が加盟。各流派は10の分野に分かれています。例年2月に開催される日本古武道演武大会には、日本古武道協会に加盟している流派の中から厳選された35流派が出場し、長い伝統を有する古武道(古武術)を保存・伝承を目的として演武を披露。日本古武道演武大会では、弓術から始まり、最後は砲術で締めくくる形で、現代に継承されている古武道(古武術)の世界が展開されていきます。
第42回日本古武道演武大会出場流派
柔術 関口新心流柔術、 竹内流柔術腰廻小具足、 諸賞流和、 本體楊心流柔術、 澁川一流柔術、 大東流合気柔術、 天神真楊流柔術
剣術 鞍馬流剣術、 當田流剣術、 兵法二天一流剣術、 心形刀流剣術、 柳生新陰流兵法剣術、 示現流兵法剣術、 天真正伝香取神道流剣術、 溝口派一刀流剣術、 天然理心流剣術、 北辰一刀流剣術
居合術・抜刀術 初實剣理方一流甲冑抜刀術、 関口流抜刀術、 伯耆流居合術、 無雙直傳英信流居合術、 田宮流居合術
槍術 佐分利流槍術
杖術・棒術 竹生島流棒術、 無比無敵流杖術
薙刀術 肥後古流長刀、 楊心流薙刀術
空手・琉球古武術 琉球古武術、 沖縄剛柔流武術、 琉球王家秘伝本部御殿手
体術 柳生心眼流甲冑兵法
砲術 陽流砲術
その他武術 小笠原流弓馬術、 根岸流手裏剣術、 荒木流拳法
古武道の動画
日本武道の殿堂「日本武道館」(にっぽんぶどうかん)では、新春恒例のイベントがあります。それは、成人の日に行なわれる「鏡開き式・武道始め」と、2月初旬に行なわれる「日本古武道演武大会」です。鏡開き式・武道始めは「鎧着初め」(よろいきぞめ)をかねた鏡開き式と現代武道の模範演武が行なわれ、日本古武道演武大会は長い歴史と伝統を持つ「古武道」の中から、厳選された流派による演武が行なわれます。ここでは2019年(平成31年)初頭に行なわれた2つのイベント動画をご紹介します。
※クリックすると、動画がご覧頂けます。
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