http://amaiketax.com/blog/2018/07/16/%E3%80%8C%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%80%8D%E3%82%92%E8%82%B2%E3%82%80%E7%A5%88%E3%82%8A 【「月の心」を育む祈り】より
「月」は自ら光を発するものではなく、太陽の光を受けてひそやかに輝く存在です。それゆえ、「月」は、太陽のような存在だと見なされてきました。しかし、それだけではありません。「月」の光の静かさ。その透明さ。その光は何とやさしく、そして神秘的に降り注いでいることでしょう。「月」は自らが発光しないことを知っており、自らを鏡のようにして太陽の光を私たちに送ってくれます。それは回向返照。自ら修めた功徳(善行)を他のために巡らす回向の営みそのものです。
神秘の気配に満ちた「月」の光は、私たち一人ひとりを世界の不思議、人生の不思議に誘ってくれます。私たちの心は、普段は見えないもの、隠れた側面に自然に導かれます。見えるものから見えないところで他のために尽くす陰徳の歩みへと私たちを誘うものです。見えないところで他を支え、見えないところで全体のために尽くす歩みの尊さに私たちを導いてゆくのです。
「月の心」とは、隣人をひそやかに陰で支えることができる。陰徳の心の菩提心。
その「月の心」があなたの内に息づいていることを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは、見えるものだけでなく、見えないものを想う者になります。形だけでなく、形を支える次元を求める者になります。現れだけでなく、隠れたところで心を尽くす者になります。
どうか、その歩みを支えてください。わたくしは、「月」のごとき隠徳の心を育みます。忍土の闇をひそやかに照らし続けることができますように。わたくしの内なる「月の心」をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
https://navihico.com/seimei-kamigamo/ 【晴明神社と上賀茂神社】より
晴明神社 漫画「陰陽師」を勧められてすっかりはまってしまいました。
陰陽道(おんみょうどう)によって祈祷・占術などをおこなったかたがたを陰陽師(おんみょうじ)というのですが、なかでも平安時代に活躍した、陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)を描いている漫画です。
そこで、京都の安倍晴明の屋敷跡に建つという晴明(せいめい)神社へやってきました。
漫画で読んだイメージとおりに摩訶不思議な神社でした。
晴明神社の鳥居
神社というより、むしろ安倍晴明をたたえるテーマパークのようです。
けれども、そこにある空気感や雰囲気は視えない「何か」が悪戯っぽく笑っているそんな気がしました。もしかすると、漫画のように「呪」を巡らせているのかもしれませんね。
晴明神社のご由緒
白峰神社
晴明神社のちかくに白峯神宮(しらみねじんぐう)がありました。第75代・崇徳(すとく)天皇第47代・淳仁(じゅんにん)天皇をお祀りしているようです。
白峰神社の由緒
もとは「飛鳥井家(あすかいけ)」の邸宅地跡らしく先祖代々お祀りしてきた「精大明神(せいだいみょうじん)」という「毬(まり)」の神様がいらっしゃるそうです。
ですから、蹴鞠(けまり)の聖地となっているらしくいまでは日本サッカー協会をはじめ
各種スポーツと関わりが深くワールドカップがはじまったこともあり境内はサッカー一色というくらい盛り上がっていました。やっぱり神社は面白いですね。
こうして一社一社、特色や由緒があるものです。
上賀茂神社(賀茂別雷神社)
白峰神宮からバスで北上して上賀茂神社(かみがもじんじゃ)へやってきました。
こちらも見どころが満載です。
上賀茂神社の社号碑二の鳥居を入ってすぐの立砂(たてすな)は、まるで2つのピラミッドのようです。
境内を流れる御手洗川(みたらしがわ)と御物忌川(おものいがわ)はその配置も、豊かな水の流れも象徴的かつ清冽なもので心が洗われるようでした。
実際に手をひたすと、頭痛がすうと引いてゆきました。
朱塗りの楼門や玉橋も美しく白い玉砂利とのコントラストもすごく意味深です。
本殿の北北西にみえる山は神山(こうやま)といい上賀茂神社の神様が降臨した神聖な山だといいます。
どこをとっても、好奇心をくすぐるものばかりです。
梶田社
くわえて、境内の川尾(かわお)社には罔象女神(ミズハノメ)さま 梶田(かじた)社には瀬織津姫神(セオリツヒメ)さまがそれぞれ祀られていました。
この2柱の神は、一説には同一神などともいわれますが『ホツマツタヱ』ではどちらも
重要な神さまです。
『ホツマツタヱ』では、天照大神は男神であり子を産むために12人の側室(妃)がいた
といいます。
12人いたという側室のなかで正妻となって世継ぎを生んだのが瀬織津姫(せおりつひめ)
だといいます。
丹生都比売(にうつひめ)は天照大神のお姉さん 瀬織津姫は 天照大神のお后さま
これを覚えておくだけでも神社めぐりはさらに楽しくなります。
二葉姫稲荷神社
境内の裏手に回ると二葉姫稲荷(ふたばひめいなり)神社へ登る階段がありました。
上賀茂神社の二葉姫稲荷神社鬼門(北東)には、地主神としてお稲荷さまが祀られる
ことがおおいようです。鬼門を守る神さまですからやはりそのお力も強いように思います。二葉姫稲荷神社は岩肌が剥きだしになった窪みに龍神さまや金刀比羅(ことひら・こんぴら)さまともどもに祀られていました。
天之斑駒神社
ほかに、天之斑駒(あめのふちこま)神社の祠もありました。
天之斑駒といえば、天照大神の弟・素戔嗚尊(すさのを・ソサノヲ)さまに生皮を剥がれて
機織り部屋に投げ込まれた馬です。
川、機織、瀬織津姫、馬……なにかありそうなキーワードばかりです。
祠の並びには磐座まであって、厳かで張りつめた空気が充満していました。
二葉葵
二葉姫稲荷神社は土地神さまでもあるのでしょう。
上賀茂神社のご神紋は二葉葵(ふたばあおい)ですが二葉姫稲荷の神紋は、
二葉葵に花まで咲いている珍しいものでした。謎は深まるばかりですが、こうして心の隅にとどめておくとそのうち氷が解けるようにふとわかったりする ひらめきがおりてくる
そんなことを期待して今回の神社めぐりを終えました。 晴明神社と上賀茂神社 ~終~
Facebookいと きょうさん投稿記事
賀茂神社(近江八幡市)禰宜、岡田能正様により、光の御柱を沖縄の地に建てていただきました。
新たな扉が開かれた一瞬でした。すべてのことごとに感謝しかございません。
Facebook岡田 能正さん投稿記事
皆様。おはようございます。
この度、ご縁を頂き、10月7日より11日まで沖縄県にいかせいただいております。
今回の沖縄県にいかせて頂いたのは、疲弊した世にあって、もう一度古来の人々が思われていた縄文の心を取り戻すために、日本の心を取り戻し、素晴らしい世の中に生かせて頂くため、神々とつながる「柱を立てる」ことを目的として行かせて頂きました。多くの方々に迎え入れていただき、お世話を頂きながら、一緒に祈らせて頂きました。
縄文「ホツマツタヱ」を学ばせていただいている「ホツマ塾」の太田さんやいときょう先生をはじめお仲間の方々、沖縄より多くの皆さま方と共に祈りを捧げさせていただいております。
まず最初に、ヤマトタケルと縁ある御嶽(うたき)「ミーヌシン」におきましてお祓い、大祓詞、そして橋良を立てるための祝詞、いときょう先生よりお教えくださった「真事の立柱」祝詞をさらに作品させて頂いた祝詞を上げさせて頂きました。
祓串は、賀茂神社の聖域の木を一部頂き、古代マコモを守られている株式会社リバーヴ様を介して、栃木県野洲麻の日本麻振興会様の麻を使わせて頂き、陰陽の浄化を図らせて頂いたものをご用意させていただきました。そして魔除けの数の枚数の麻でお作りさせていただいております。
次に三万年前の人骨の発見されたガンガラーの谷におきましてもミーヌシン同様の祈りを多くの皆様と共に祈りを捧げさせて頂きました。
両箇所共にホツマ塾の皆様には「アワの歌」を奉納頂きました。
皆様。
いよいよ動き出しますよ。
もう一度、うるわしき世を、次に送るために、立ち上がらせて頂きますよ。
どうぞ皆様も改めて古代の人たちが残したかったこと、ものに思いをよせてみませんか。
これからも語らい合わせてください。
今回はここまでとさせてください。
https://rorisi.com/2019/05/26/kaganji/ 【箕隅宮(ミーヌシン)参拝-陸上自衛隊那覇駐屯地】より
https://www.youtube.com/watch?v=wChTpvFELnA&t=3s
那覇市小禄の西北岸地域にかつてあった鏡水村(カガンジ)は、鏡水大根(カガンジデークニ)の生産地として名を馳せていました。
しかし、1933年に小禄海軍飛行場として、戦後には米軍基地として、土地は接収されてしまい、鏡水の住民は移住を余儀なくされます。同時に大根の生産も廃れていきました。
本土復帰後には、陸上自衛隊が駐屯し、那覇空港などの再開発で鏡水は大きく変わってしまいました。
鏡水の歴史
沖縄県立図書館に所蔵されている『字鏡水創立百周年記念』(鏡水創立百周年記念事業記念誌発行部著)に、鏡水の歴史が記載されていたので紹介します。
●鏡水の起源と成り立ちについて
西原間切安室村の住人、大屋と称する人は大嶺村長山原に移住し、半農半漁の生活をしていましたが、同郷の知人で平良・新垣一族を誘い鏡水原に居住したことが字鏡水の起源と言われています。
明治36年10月20日の県令三六号による整理統合で、儀間村と安次嶺村の鏡水原屋取(ヤードゥイ)が独立して「鏡水村」が誕生しました。
『南島風土記』(東恩納寛惇著)にも「小禄村の西北岸、先崎原付近の小字、もとの小禄間切安次嶺村内の小字であったが、明治36年土地整理の結果、安次嶺の内、鏡水原・伊保原・前原・儀間村の内、蚊坂・名座原・下田原・箕隅原・土砂場原・増過原・崎原を割いて新たに鏡水村を置き、明治41年町村制施行の結果、小禄字鏡水と称せらる」と記されています。
●鏡水大根について
海岸沿いの地域であるため、岩場や砂地が多く農作物には不向きな土壌でしたが、水肥(ミジグェー)と呼ばれる動物や人間の排泄物、ゴミなどを用いた肥料で15年以上も土壌改良を行いました。
そして、生産された鏡水大根は全県に知れ渡る農作物となり、大正10年、皇太子(後の昭和天皇)が来沖した際は献上品にもなりました。
昭和6年に飛行場建設のため、数万坪の大根畑が接収され、生産量は徐々に減少。
鏡水の住民は大根の輸送に使っていた馬車で、那覇港に陸揚げされる建築資材の運搬業へジョブチェンジします。これが小禄地域で運輸・建築業が盛んになるきっかけとなりました。
引用:字鏡水創立百周年記念
箕隅宮
那覇うみそらトンネル空港側入口付近、陸上自衛隊那覇駐屯地内には「箕隅宮(ミーヌシン)」と呼ばれる拝殿があります。
1546年、麻氏五世 儀間親雲上真命(儀間真常の父)によって建立され、生観音を本尊としております。
薩摩侵攻後、かの船頭達の寄進によって拝殿が創建されたと伝わっており、航海安全、海外移住者の無事、子孫繁栄や五穀豊穣を祈願する拝所として古来より多くの人々の尊崇を集めてきました。
昭和9年、字鏡水によって拝殿は再建されましたが、沖縄戦や風化などで損傷が激しくなってきたので、平成5年に現在の拝殿に改修されました。
↑拝殿
↑拝殿の内部
↑観音さま
カガンジデークニの碑
拝殿の左隣には「カガンジデークニ碑」があります。
●カガンジデークニ碑文の内容
那覇市字鏡水は、永年にわたる旧安次嶺村及び儀間村のヤードゥイ(屋取り)から、1903年(明治36年)10月21日付を以って旧小禄間切鏡水村として誕生し、今年100周年を迎えました。
鏡水の地は、元来海岸沿いに所在しているために、岩場や砂地の割合いが多く農業に適さない土地柄でした。しかし乍ら、鏡水の先人たちは「農業第一」を心に刻み、昼夜たがわず家族総出で血のにじむ農作業に精根を込めて働きました。そして、鏡水の砂地は、堆肥や水肥を大量に長期間根気強く施すことによって豊かな土壌へ変わりました。
カガンジデークニ(鏡水大根)は、このように手間暇かけた入念な砂質土づくりが功を奏し、成果となって現れた農作物です。このカガンジデークニは、旧正月の頃が最も美味で県下最大の消費地、那覇の市場で一躍有名になり、昭和天皇が皇太子の時来沖された折には献上品になりました。
字鏡水創立100周年を迎えるにあたり、先人たちのご労苦を偲ぶとともに、この偉業を永く子々孫々に伝えかつ継承してくれることを念じて、ここに「カガンジデークニの碑」を建立する。
2003年10月吉日
海軍砲台跡
箕隅宮の後方には通称「らくだ山」と呼ばれる森が広がっています。
カガンジデークニの碑の後方の森の中には、鏡水海軍砲台跡が残っています。
マーク井・イリイ井
拝殿の右側後方には、マーク井(マークカー)・イリイ井(イリイウカー)も存在します。
「昔、ミーヌ神前海岸近くにあったクフ井 マーク井」
「昔、ミーヌ神の山の後にあったクフ井 イリイ井」
「米軍の工事で損壊のためこの場所に建立」
と碑には記されていました。
小禄地域の御嶽や井泉は土地接収や再開発などにより、移設や破壊がよく見受けられます。
参拝方法等
●参拝受付
陸上自衛隊那覇駐駐屯地のゲートで参拝したい旨を伝え、受付をします。その際、身分証明証の提示を求められます。
車でも参拝は可、ちなみに僕は徒歩で行きました。
●ミーヌシン参拝者への協力願い
陸上自衛隊第一混成団との協定書遵守のために、ミーヌシンへ参拝する皆様は次の事項を守ってくださるようお願いします。
一、指定された経路を通行して下さい。
一、線香、ウチ紙、白紙、お供え物は必ず持ち帰って下さい。
一、火の使用は禁止します。
一、盛塩はしないで下さい。
一、樹木を大切にし、境内の美化へご協力下さい。
ミーヌシン管理責任者・鏡水郷友会・鏡水自治会より
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