父がつけしわが名立子や月を仰ぐ
星野立子
父は虚子。自分の名前に誇りを抱くことの清々しさもさることながら、父への敬愛の念をこれほど率直に表現した句も珍しい。直接に仰ぐのは月であるが、この月はまた天下の虚子その人なのである。臆面もないと感じる読者がいるかもしれぬ。が、父のつけてくれた名前にかけて凛とした人生を生きていくという気概が、そうしたいぶかしさを撥ね除ける句だと、私には思われる。月を仰ぐ人には、人それぞれの感慨がある。『立子句集』所収。(清水哲男)
恋びとよ砂糖断ちたる月夜なり
原子公平
この句を知ったのは、もう十年以上も前のことだ。なんだか「感じがいいなア」とは思ったけれど、よくは理解できなかった。このときの作者は、おそらく医者から糖分を取ることを禁じられていたのだろう。だから、月見団子も駄目なら、もちろん酒も駄目。せっかくの美しい月夜がだいなしである。そのことを「恋びと」に訴えている。とまあ、自嘲の句と今日は読んでおきたい。そして、この「恋びと」は具体的な誰かれのことではない。作者の心のなかにのみ住む理想の女だ。幻だ。そう読まないと、句の孤独感は深まらない。「恋びと」と「砂糖」、「女」と「月」。この取り合わせは付き過ぎているけれど、中七音で実質的にすぱりと「砂糖」を切り捨てているところに、「感じがいいなア」と思わせる仕掛けがある。つまり、字面に「砂糖」はあるが、実体としてはカケラもないわけだ。病気の作者にしてみれば「殺生な、助けてくれよ」の心境だろうが、おおかたの読者は微笑さえ浮かべて読むのではあるまいか。ちなみに、今年の名月は十月五日(月)である。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)
玉霰夜鷹は月に帰るめり
小林一茶
月は天心にある。さながら玉霰(たまあられ)のように降り注ぐ月光。夜鷹は淋しくも孤独に空をのぼって、あの美しい月に帰っていくのだろうな……。と、実はここまでは隠し味である。「夜鷹」といえば、江戸期にはこの夜行性の鳥の連想から下等な娼婦を指した。芝の愛宕下や両国橋などに、毎夜ゴザ一枚を持って商売に出たという。一茶には、そうした女と接触を持った体験もある。そんな女たちが、月の光りを霰と浴びて、今夜は月に帰っていくのだ。娼婦を天使に見立てる発想は西洋にもあるが、一茶の発想もかぐや姫などの「天女」に近いイメージになぞらえているわけで、興味深い。もとより作者に軽蔑の思いは微塵もなく、淪落した女の運命に満腔の同情と涙を寄せている。このあたりの世俗へのまなざしを見ると、芭蕉などとはまったく志を異にした詩人であったことがよくわかる。一茶句のなかでは、あまり知られていない句だと思うが、名月の季節に読むととりわけて心にしみる。月の光りが鮮やかなだけに、当時の闇の深さも読者の身に迫ってくる。『七番日記』に出てくる句だ。(清水哲男)
欠席の返事邯鄲を聞く会へ
田川飛旅子
邯鄲(かんたん)の鳴き声はルルルル……と、実に美しい。だから「一夜みんなで楽しもうじゃないか」ということになったりする。新聞などにも、よく案内が載っている。そんな風流趣味の催しに、作者は欠席の返事を書いたところだ。どんな理由からだろうか。折り悪しく先約があったのかもしれないし、単に面倒だったのかもしれない。そのあたりを読者の想像にゆだねているところが、句の眼目だ。句の勢いからすると、欠席の返事が逡巡の果てに書かれた感じはしない。すらりと「欠席」なのだ。さっぱりしている。年令のせいだと思うが、最近の私もいろいろな会にすらりと「欠席」が多くなった。面倒という気持ちもあるが、出席したところで何か新鮮な衝撃が待ち受けているわけじゃなし、会の成り行きが読めてしまうような気持ちがするからである。高屋窓秋に「さすらひて見知らぬ月はなかりけり」(『花の悲歌』所収)という凄い句がある。ここまでの達観はないにしても、ややこの境地に近い理由からだと思いはじめている。『邯鄲』所収。(清水哲男)
一家に遊女もねたり萩と月
松尾芭蕉
かの『おくのほそ道』のなかでの唯一の色模様。というほどでもないけれど、田舎わたらいをする遊女と同宿したエピソードは、この旅行記を大いに盛り上げている。「一家」は「ひとつや」。田舎(市振)の宿だから、隣室の会話は筒抜けだ。芭蕉が「枕引よせて」寝ていると、次の間から遊女の哀れな身の上話が洩れ聞こえてきてしまう。翌朝、出発しようとしている芭蕉と曾良にむかって、彼女は心細いので「見えがくれにも御跡をしたひ侍ん」と頼み込むのだが、この後の芭蕉の返事が格好よい。「我々は所々にてとゞまる方おほし。只(ただ)人の行(ゆく)にまかせて行(ゆく)べし。神明の加護かならず恙(つつが)なかるべし」と、クールにも断っている。そうは言ったものの「哀さしばらくやまざりけらし」と書いた芭蕉の得意や、思うべし。このシチュエーションのなかでの、この句である。世間を捨てた者同士が、寄り添うこともなく別々に流れていくという美学。それはまさに「萩」と「月」のように、同じ哀調をかもし出しながらも、ついに触れあうこともない関係に相似している。蛇足ながら(御存じとは思うが)、遊女とのこの話がフィクション(真っ赤な嘘)であったことは、多くの野暮な研究者たちが立証ずみである。(清水哲男)
秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみか
高浜虚子
作句時点は、敗戦の日から一週間を経た八月二十二日。このころ虚子は小諸に疎開しており、前書に「在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の求めに応じて」とある。掲句につづくのは、次の二句である。「敵といふもの今は無し秋の月」「黎明を思ひ軒端の秋簾見る」。この二句は凡庸だが、掲句には凄みを感じる。虚子としては、おそらくは生まれてはじめて、正面から社会と対峙する句を求められた。この「国難」に際して、はたして「花鳥諷詠」はよく耐えられるのか。まっすぐに突きつけられた難題に、虚子は泣かない(鳴かない)「蓑虫(みのむし)」をも泣かせることで、まっすぐに答えてみせた。「蓑虫」とは、もちろん物言わぬ一庶民としての自分の比喩でもある。「秋蝉」との季重なりは承知の上で、みずからの心に怒濤のように迫り来た驚愕と困惑と悲しみとを、まさかの敗戦など露ほども疑わなかった多くの人々と共有したかった。青天の霹靂的事態には、人は自然のなかで慟哭するしかないのだと……。無力なのだと……。「蓑虫」や「秋蝉」に逃げ込むのはずるいよと、若き日の私は感じていた。しかし、虚子俳句の到達点がはからずも示された一句なのだと、いまの私は考えている。みずからの方法を確立した表現者は、死ぬまでそれを手ばなすことはできないのだ。掲句の凄みは、そのことも含んでいる。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)
・ちょっと一言・国文的常識のうちでは、蓑虫はちゃんと鳴く(泣く)。『枕草子』に「秋風吹けば父恋しと鳴く」と出てくるからだ(長くなるので、なぜ鳴くかは省略。原典参照)。この話から「蓑虫」は秋の季語になったと言ってよい。もちろん、虚子は百も承知であった。
月に行く漱石妻を忘れたり
夏目漱石
あまりの月の見事さに、傍らの妻の存在も忘れてしまった。と、ちょっと滑稽な味付けで月を愛でた句。句意はこの通りでもよいのだが、前書に「妻を遺して独り肥後に下る」とある。漱石が1897年(明治三十年)に、熊本は五高の教授として単身赴任するときの句だ。このときの漱石には、妻を忘れようにも忘れられない事情があった。妻の鏡が流産して静養中の身だったからだ。一緒に行こうにも、行けなかった。止むを得ぬ単身赴任。そこで『吾輩は猫である』の作者は、境遇を逆手にとった。わざと事実を詠み違えた。肥後の月の美しさに魅かれて、俺はお前のこともすっかり忘れて出かけるんだよ。俺のことなど案じるなかれと、病む妻に反語的ながら、慈愛の心で挨拶を送っているのだ。当時の単身赴任は、相当に心細かったろう。胃弱の漱石のことだから、ちくりちくりとと胃の痛む思いだったろう。だから掲句は、同時に心細い我とわが身を励ますためのものだったとも読める。そうに違いない。月を詠んだ句はヤマほどあれど、この一見あっけらかんとした句には、異色の味わいがある。噛めば噛むほど、味が出る。『漱石俳句集』(1990)所収。(清水哲男)
身の上や月にうつぶく影法師
茨木理兵衛
長谷川伸(『一本刀土俵入』などで知られる劇作家・小説家)の随筆で知った句。句景からして、落魄の人生を詠んだ句であろうことは、容易にうかがえる。月を仰がず、地べたを見ている。そこには、己の影法師が寂しく「うつぶ」いている。長谷川は「俳句とその成る事情が小説に企て及ばないものがある」と言い、例証にこの句をあげている。理兵衛は、江戸期寛政の人。伊勢の津城主藤堂家の領地に起こった寛政一揆鎮圧の責任者で、当然、農民たちの恨みをかった。「伐つてとれ竹八月に木六月、茨の首は今が切りどき」という落首も出たほど。結局は鎮圧に失敗し、帰宿謹慎を命じられた理兵衛は腹を切ろうとするが、「死んで何になる。時機を待ち功を立て罪を償うのが家臣の道だ」と説く人があり、屈して生きのびた。浪々十年。旧知三百石で召還されたが、流転の十年の傷は癒えず懊悩の後半生を送ったという。そんな「生きたる残骸」が作った句だと長谷川は書き、「戯曲にかいても小説にかいても、『身の上や』の句から滲みでる哀傷の人生を表現するほどのものを企て及ばない」と書いている。その通りだろう。作者に俳句の素養がどの程度あったのかは知らないが、私のカンでは素人同然だったと思う。勉強した人なら、いきなり「身の上や」とは恐くて出られまい。芝居っ気がありすぎて、初手から句品を落とす危険性があるからだ。それを素人だから、何の衒いもなく素直に「身の上や」と出た。その素直が句全体に染みとおり、後世に残った。『長谷川伸全集・第十一巻』(1972)所載。(清水哲男)
夕月夜人は家路に吾は旅に
星野立子
これから旅に出る作者が、駅へと向っている。私にも何度も覚えがあるが、重い旅行鞄を提げ、勤め帰りの人たちの流れに逆流して歩く心持ちは、妙なものである。旅立ちの嬉しさと、束の間にせよ、住み慣れた町を離れる寂しさとが混在するようなのだ。「夕月夜」だから、天気はよい。それがまた、かえって切なかったりする。そんな気持ちを、言外に含ませている句だ。夜行列車で出かけるのだから、かなりの遠出を想像させる。新幹線のなかった時代には、東京大阪間くらいでも、多くの人が夜行を利用していた。昼間の急行でも九時間以上はかかったので、よほど早朝に乗らないと、着いた先では夜になってしまう。それよりも、寝ながら行って朝着いたほうが、気持ちもよいし時間の経済にも適うという心持ちであり理屈であった。ところで「夕月夜」だが、単に日の暮れた後の月夜ではなく、新月から七、八日ごろまでの上弦の宵月の夜を言う。夕方出た月は、深夜近くにはもう沈んでしまう。そんなはかない月の姿も、掲句に微妙な色合いを与えている。ちなみに今宵の月は満月を過ぎたばかりなので、厳密には句の感興にはそぐわない。『実生』(1957)所収。(清水哲男)
月光を纏ひしものに誰何さる
和湖長六
月の光の美しい夜。ほろ酔い加減で機嫌よく家路をたどっていると、前方をさえぎるように人影が現われ、いきなり「誰何(すいか)」された。「どこ行くの」「どこから来たの」「いつも、ここ通るの」。警官である。私にも経験があるが、あれは不快というよりも、驚きの念のほうが先に来る。不快は、後からやってくる。そして、やり取りをしているうちに落ち着いてくると、だんだんと不思議な気持ちになってくるのだ。身に覚えはないことながら(「だからこそ」か)、何かを疑われているという気分は、妙なものである。なんだか小説か映画か、架空の世界に入り込んだような感じになり、思わずあたりを見回してしまう。掲句は、そんな心持ちを、警官に「月光」を纏(まと)わせることで表現しているのではなかろうか。闇夜ならば闇に溶けてしまいそうな黒っぽい警官の制服が、月夜だから独特な光彩を放って浮かび上がっているのだ。実際には浮かび上がるわけもないけれど、そんなふうに感じられたということ。およそ温度を感じさせない冷たい月明による制服の光彩が、否応なく作者を架空の世界に連れていったということだろう。他にもいろいろに読めるとは思うが、「誰何」と「月光」との取り合わせは面白い。後を引くイメージだ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)
月触るる一瞬鶴となる楽器
石母田星人
暗い室内に、月の光りが射し込んできた。立て掛けてあった、あるいは吊るしてあった楽器に光りが触れたとき、一瞬「鶴」のように思えたというのである。楽器は鶴を連想させたのだから、棹の長いギターや三味線のような弦楽器だろう。月夜の空にむかって首を伸ばし、いまにも一声発しそうな気配だ。素直に受け取れば、こういうことだろうが、もしかすると作者は、中国伝来の楽器、その名も「月琴(げっきん)」の演奏を聴いて想を得たのかもしれないと思った。「東アジアのリュート属の撥弦(はつげん)楽器。中国、宋(そう)代に阮咸(げんかん)から発達し、明(みん)代に現在のような短棹(たんざお)になった。胴は満月のように真円形をし、音は琴を連想させるため、月琴といわれる。(C)小学館」。渡来した江戸期には、大いに流行した楽器だといい、浮世絵にも数多く描かれている。絵からわかるように、たしかに棹が短い。短いが、演奏に吸い寄せられているうちに、佳境に入った一瞬、鶴の首のように棹が伸びたような感じになった。すなわち、演奏者が自在に月琴をあやつる様子を、このように詠んだとも取れるのではなかろうか。月と楽器。いずれにしても、この取り合わせは、それだけで耽美的な雰囲気を醸し出すようだ。『俳句スクエア・第一集』(2002)所載。(清水哲男)
月明の毘沙門坂を猪いそぐ
森 慎一
地名的には正式な呼称ではないようだが、「毘沙門坂(びしゃもんざか)」は愛媛県松山市にある。松山城の鬼門にあたる東北の方角に、鎮めのために毘沙門天を祀ったことから、この名がついた。さて、掲句はおそらく子規の「牛行くや毘沙門坂の秋の暮」を受けたものだろう。写真(愛媛大学図書館のHPより借用)のように、現地には句碑が建っている。百年前の秋の日暮れ時に牛が行ったのであれば、月夜の晩には何が行ったのだろうか。そう空想して、作者は「猪(い・いのしし)」を歩かせてみた。子規の牛は暢気にゆっくり歩いているが、この句の猪はやけに早足だ。「い・いそぐ」の「い」の畳み掛けが、猪突猛進ほどではないが、そのスピードをおのずと物語っている。何を急いでいるのかは知らねども、誰もいない深夜の「月明」の坂をひた急ぐ猪の姿は、なるほど絵になる。さらに伊予松山には、狸伝説がこれでもかと言うくらいに多いことを知る人ならば、この猪サマのお通りを、狸たちが息を殺して暗い所からうかがっている様子も浮かんでくるだろう。月夜の晩は狸の専有時間みたいなものだけれど、猪がやって来たとなれば、一時撤退も止むを得ないところだ。いたずら好きの狸も、猪は生真面目すぎるので、苦手なのである。そんなことをいろいろと想像させられて、楽しい句だ。こういう空想句も、いいなあ。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)
鎌倉の月高まりぬいざさらば
阿波野青畝
季語は「月」で秋。青畝(せいほ)は生涯関西に住んだ人だから、鎌倉に遊んだときの句だろう。鎌倉には師の虚子がおり、青畝は高弟であった。素十、誓子、秋桜子とともに「ホトトギスの4s」と称揚された時代もある。句はおそらく高齢の虚子との惜別の情やみがたく、別れの前夜に詠まれたものだと思う。折しも盆のような大きな月が鎌倉の空に上ってきて、見上げているうちに去りがたい思いはいよいよ募ってくるのだが、しかしどうしても明日は帰らなければならない。気持ちを取り直して「いざさらば」と言い切った心情が、切なくも美しい。なんだかまるで恋の句のようだけれど、男同士の師弟関係でも、こういう気持ちは起きる。たとえば瀧春一に、ずばり「かなかなや師弟の道も恋に似る」があって、師は秋桜子を指している。なお、掲句を収めた句集は虚子の没後に出されているが、追悼句ではない。以下余談だが、この句を歴史物と読んでも面白い。鎌倉といえば幕府を開いた頼朝が想起され、頼朝といえば義経だ。平家追討に数々の武勲をたてた義経が、勇躍鎌倉に入ろうとして指呼の間とも言える腰越で足止めをくった話は有名である。一月ほど腰越にとどまった義経だったが、頼朝の不信感を拭うにはいたらず、ついに京に引き上げざるを得なかった。この間に大江広元に宛てたとされる書状「義経腰越状」に曰く。「義経犯す無くして咎を蒙る。功有りて誤無しと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。(中略)骨肉同胞の儀既に空しきに似たり」。そこで義経になり代わっての一句というわけだが、どう考えても青畝の句柄には合わない。『紅葉の賀』(1962)所収。(清水哲男)
ふる里は波に打たるゝ月夜かな
吉田一穂
娘が高校生のときだったと思うが、国語の教科書に一穂の「白鳥」が載っていてびっくりした覚えがある。この難解な詩を、どんなふうに教師は教えたのだろうか。私が教師だったら、生徒には素直に「わかりませぬ」と謝るしかない。一穂の難解さは、徹底して日常的な描写を拒否したところにあった。元来、日本語は感覚的情緒的であり、現実を取捨選択して切り抜くのではなく、現実の流れをなぞって行くのに適している。すなわち描写を得意とするわけだが、ならば芸術までがわざわざ「ナメクジ語」(一穂)を使うことはない。あえてそのようにメロディアスな日本語の特性にさからい、言語的な抽象性を目指すときに、はじめて日本語表現は芸術として自立できるのだ。と、これは私なりの雑駁な理解でしかないけれど、揚句にもむろんこうした詩人の方法論が生かされていると読むべきだろう。詩人は芭蕉を敬愛し、「スケッチ文学」の蕪村を嫌った。安易な描写による抒情性を否定した。だが皮肉なことに、この句には彼が蛇蝎の如く嫌った情緒が纏綿といった感じで滲んで見えている。私の考えでは、この句には方法論的に芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」が下敷きにあると思う。「荒海」に対するに「ふる里」、「よこたふ」に「打たるゝ」、そして「天河」に「月夜」。いまある自分の位置からのまなざしや思いの方向が、完全に同一だ。にもかかわらず、一穂句が情緒的に流れて見えるのは何故だろうか。それはおそらく詩人自身がどう反抒情的に句を律したつもりでも、「ふる里」や「月夜」の語彙が既にしてあまりにも抒情の甘さにまみれているからに他ならないだろう。絶対に言えることは、詩人がこの句に託した屹立したイメージは、ほとんど読者には伝わらないのである。いたましきかな。詩集『稗子傅』(1935)所収。(清水哲男)
月光写真まずたましいの感光せり
折笠美秋
無季句としてもよいのだが、便宜上「月」を季語と解し秋の部に分類しておく。「月光写真」は、昔の子供が遊んだ「日光写真」からの連想だ。日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが、古くは「青写真」と呼び、白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光させた。こちらは、冬の季語。戦後の少年誌の付録によくついてきたので、私の世代くらいだと、たいていは遊んだことがあるはずだ。「墓の上にもたしかけあり青写真」(高浜虚子)。作者は同じような仕組みの月光写真というものがあったとしたら、きっとまず感光したのは「たましい」であったに違いないと想像している。いや、それしかないと断定している。まったき幻想を詠んでいるにもかかららず、ちっとも絵空事に感じさせないところが凄い。日光に比べればあるかなきかの淡い光ゆえ、逆に人の目には見えないものを映し出す。それしかあるまいとする作者の説得に、読者は否応なくドキリとさせられてしまう。おそらくは日頃月の光に感じている何らかの神秘性が、「たましい」を映し出したとしても不思議ではないという方向に働くからだろう。そしてすぐその次に、読者の意識は、仮に自分の「たましい」が感光するとしたら……どんなふうに映るのだろうかと、動いていく。私などとは違って、よほど心の清らかな人でない限りは、想像するだに恐ろしいことだろう。ずいぶん昔にはじめて読んだときには、怖くてうなされるような気持ちになったことを思い出す。『虎嘯記』所収。(清水哲男)
月白をただぼんやりと家族かな
伊藤淳子
季語は「月白(つきしろ)」で秋。月の出に、空がほんのりと白く明るんでくること。「月」に分類。今宵も東の空が白みはじめて、そろそろ月の上ってくるころになった。でも、「家族」は「ただぼんやりと」しているだけだ。とくに風流心を起こすわけでもないし、第一「月白」の空に気づいているのかどうかすらもわからない。漫然と、いつもと変わらぬ家族の時間が流れているのみである。つまり、日常的にこういう「ぼんやりと」した時間を共有しているのが家族というものだ。作者は、そう言っているのだろう。家族間に大事でもない限り、家族として過ごす時間はさして意識されることがない。月の出程度の現象に、いちいち鋭敏に反応したりなどはしないのである。最も心安い間柄とは、最も鈍い感覚や感情に安んじることが許されるそれではないだろうか。私の高校時代に、田中絹代が唯一度監督した『月は上りぬ』という映画があった。奈良で暮らす老夫婦と娘二人の平凡な家族の物語だ。うろ覚えだが、たしかラストシーンは、老夫婦が縁側でしみじみと古都に上ってくる月を見上げる場面だったと思う。この場合に家族はぼんやりとしていないわけだが、それは姉娘の結婚話がやっとうまくいったという「大事」があったからである。何事も無ければ、この家族もまた句のように「ただぼんやりと」していただけだろう。そんなことを、ふっと思わされた。『夏白波』(2003)所収。(清水哲男)
ぬす人に取りのこされし窓の月
良 寛
良寛といえば、なんといっても歌と詩と書だ。俳句(発句)は入らない。良寛作と伝えられる句はたかだか百句程度だが、そのなかにもオリジナルかどうか疑わしいものがかなりあるという。図書館で見つけた新潟市の考古堂から出ている『良寛の俳句』(写真と文・小林新一)を開いたら、良寛の父親は名の知れた俳人(俳号・以南)であったが、良寛にとって俳句は遊びだったと村山砂田男が書いていた。「芭蕉を俳聖とするならば、一茶は俳人というべきであり、良寛は他の芸術同様、枷(かせ)のない無為の境地において俳句を楽しんだ俳遊である」。さて、その「無為な境地」の人の家に泥棒が入った。前書に「五合庵へ賊の入りたるあとにて」とあるから、入られたのは良寛が五十代を過ごした草庵だ。昨年の初夏に八木忠栄の案内で大正初期に再建された五合庵を見に行ったけれど、そのたたずまいからして、またそのロケーションからして、およそプロの泥棒がねらうような庵ではない。落語なら「へえ、泥棒に入られたのか。で、何か置いていったか」てな住居なのだ。村山さんは蒲団を持っていかれたと書いているが、何か根拠があるのだろうか。が、何にせよ奪われた側の良寛は、さすがの泥棒も「窓の月」だけは盗みそこねたなと、呑気というのか闊達というのか、とにかく恬淡としている。ここらへんが、良寛と我ら凡俗の徒の絶対の差であろう。句の味としては一茶に似ている感じがするが、一茶と良寛とは全くの同時代人だった。それにしても、泥棒に入られて即一句詠むなんぞは、やはり「俳遊」と呼ぶしかなさそうである。(清水哲男)
三日月ほどの酔いが情けの始めなり
原子公平
季語は「(三日)月」で秋。長い酒歴のある人でないと、こういう句は詠めまい。『酔歌』という句集があるほどで、作者は無類の酒好きだった。「三日月ほどの酔い」とは、飲みはじめのころの心的状態を言っている。ほろ酔い気分の一歩手前くらいの心地で、酔っているとは言えないけれど、さりとて全くのシラフとも言えない微妙な段階だ。おおかたの酒飲みは、この段階でぼつぼつ周囲の雑音が消えてゆくことが自覚され、自分の世界への入り口にあるという気持ちが出てくる。すなわち、シラフのときには自制していたか抑圧されていて表には出さなかった(出せなかった)「情け」が動き「始め」るというわけだ。「情け」といっても、いろいろある。「情にほだされ」て涙もろくなることもあるし、逆に「情が高ぶって」怒りやいじめに向かうこともある。加えて、曰く言いがたい酒癖というものもある。だが、いずれにしても、「知」よりは「情」が頭をそろそろともたげてくるのがこの段階なのであって、飲み始めた当人にその情がどこに向かうのかがわかりかけるのも、この段階だ。作者は今宵もひとりで飲みながら、長年にわたる飲酒を通じて生起した様々な心的外的な出来事を振り返って、すべての「始め」はこのあたりにあったのだなと合点している。「情けは人のためならず」と言うが、酒飲みの情はその日その日の出来心によるから、人に情けをかけたとしても、必ずしも自分のためになるとは言いがたい。酒好きには、しいんと身につまされる一句だろう。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)
機関車の底まで月明か 馬盥
赤尾兜子
季語は「月」で秋。「馬盥(うまだらい)」は、馬を洗うため井戸端に設けられた石造りの盥。大きくて浅いものだそうだが、私は見たことはない。「明か」は「あきらか」と読む。難しい句だ。そう感じるのは、常識では「機関車の底まで」と「月明か」がつながらないからである。機関車の底まで月の光が射し込んでいるのかな。まさか、そんな馬鹿な……。と、初読のとき以来私は解釈を放棄したままでいたのである。ところが、実は作者は「そんな馬鹿な」イメージで作句していたことが、つい最近になってわかった。近着の俳誌「豈」(41号・2005年9月)に出ていた堀本吟の文章に、兜子の自解が引用されていたからだ。こう書いてある。「私は俳句の場を途方もなく広漠たるところに設定することがある。光を通さぬはずの機関車の底まで月光は届くのではないかと思われるのである。微塵の隙間からでも光は入るのだ」。つまり、あまりに鮮やかな月光なので、それが機関車をも貫いているように見えるというわけである。煌々たる月明を浴びた機関車が、その巨体の底までをぼおっと光らせて停車しているのだ。その美しい機関車の傍には、かつて機関車に役割を取って代わられた馬たちのための盥がひっそりと、これまた月明に冷たく輝いている。なんと幻想的であり、哀感十分な光景だろう。しかしながら、このような解釈は自解を知ってはじめて成立したものである。素読でここまでイメージを引っ張り出す力は、私にはない。そのことを思うと、すっきりしたようでそうでもないようで……。『歳華集』(1975)所収。(清水哲男)
毀れやすきものひしめくや月の駅
小沢信男
英語に「fragile」という単語があります。この語には「壊れやすい、もろい」のほかに、「はかない、危うい」という意味もあります。通常は運搬時、小包の中身が壊れやすいと思われる場合にこの単語が使われるのですが、場合によっては「人」を表現するためにも使います。たしかに人というものは、自分の容器を壊れないように、あるいは中身がこぼれないように、日々注意して運んでいるようなものです。人をひとつの壊れやすい容器と見ることは、俳句を通した日本独特の感じ方ではなくて、英語圏にもあるようです。おそらくどこの国の人も、自分が容易に壊れてしまうものであることを知っているのです。掲句は、「実妹伊藤栄子を送る追悼十句のうち」の一句で、前書に、「通夜へ、人身事故により電車遅延」とあります。肉親の生命の消失によって、作者は強く心を揺り動かされています。そこへ、電車が遅れるというあまりにも日常的な出来事が割り込んできます。その日常の出来事でさえ、人身事故という人の生死につながっています。駅の上空の月は、それら生きるもの死ぬものをへだてなく、広く照らしています。目の前にひしめく多くの見知らぬ乗降客でさえ、月の光に個々の生命をくっきりと照らし出されて、作者の目の前を通過してゆきます。この駅は、日常と非日常、生きることと死ぬことの、乗換駅ででもあるかのようです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)
洋上に月あり何の仕掛けもなく
三好潤子
凪いだ夜の海上にぽっかりと月の浮ぶのを見るとき、まさにこんな感じを抱く。空間に存在する「もの」を知のはたらきで関係づけるという「写生構成」を説いた山口誓子の戦後の秘蔵っ子のひとり。その作品は六十年代から七十年代にかけての「天狼」同人欄を席巻した。内容は「見立て」の機智ということになろうが、この独特のリズムと素っ気無いまでの論理性が誓子調本流。魅力もそこにある。仕掛けのある月もあった。ワグナーに入れ揚げた南ドイツ、バイエルンの王様ルートヴィヒ2世は、国の財政を破綻させてまで、凝りに凝った城ノイシュヴァンシュタイン城を造り、城内に人工の月を掛けてその下を馬車で巡ったそうな。三好潤子は大阪生まれで和服の似合う美人。活発な人柄だったが、生涯はさまざまな病気の連続。1985年六十歳、脳腫瘍でこの世を去る。『澪標』(1976)所収。(今井 聖)
月一輪星無數空緑なり
正岡子規
月の句を、と『子規全集』を読む。この本、大正十四年発行とありちょっとした辞書ほどの大きさで天金が施されているが、とても軽くて扱いやすい、和紙は偉大だ。そしてこの句は第三巻に、明治三十年の作。満月に近いのだろう、月の光が星を遠ざけ、空の真ん中にまさに一輪輝いている。さらにその月を囲むように星がまたたく。濃い藍色の空に星々の光が微妙な色合いを与えていたとしても、月夜の空、そうか、緑か。時々、自分が感じている色と他人が感じている色は微妙に違うのではないかと思うことがあるが、確かめる術はない。しかし、晩年とは思えない穏やかな透明感のある子規の絵の中で、たとえば「紙人形」に描かれた帯の赤にふと冷たさを感じる時、子規の心を通した色を実感する。明治三十五年九月十九日、子規は三十五年の生涯を閉じる。虚子の〈子規逝くや十七日の月明に〉の十七日は、陰暦八月十七日で満月の二日後、そして今日平成十八年九月九日は、本来なら陰暦八月(今年は閏七月)十七日にあたる。前出の虚子の句が子規臨終の夜の即吟、と聞いた時は、涙より先に句が出るのか、と唖然としたが、もし見えたら今宵の月は十七日の月である。ただし、今年は閏七月があるため、暦の上の名月は来月六日とややこしい。ともあれ、月の色、空の色、仰ぎ見る一人一人の色。『子規全集』(1925・アルス)所載。(今井肖子)
胸といふ字に月光のひそみけり
仁藤さくら
吉野弘に「青空を仰いでごらん。/青が争っている。/あのひしめきが/静かさというもの。」(『詩の楽しみ』より抜粋)「静」と題された詩がある。漢字の字形から触発されたイメージをもう一度言葉で結びなおしたとき今まで見えなかった世界が広がる。胸の右側の「匈」。この字には不幸にあった魂が身を離れて荒ぶるのを封じる為「×」印を胸の上に置いた呪術的な意味がこめられているときく。「胸騒ぎ」という言葉が示すように動悸が高まることは不吉の前兆でもある。不安や憂いに波立つ感情を胸に抱えて、闇に引き込まれそうな心細さ。そんな胸のざわめきをじっとこらえているとやがて胸にひそむ月がほのかに光り、波が引くように心が静まってゆく。「雪国に生まれた私にとって、ひかりというものは、仄暗い家の内奥から垣間見る天上的なものでした。それは光の伽藍とも呼ぶべきもので、祈りを胸に抱きながら、ひかりの中にいたように思います。」胸の月光は作者が「あとがき」で語るひかりのようでもある。さくらは二十年の沈黙を経たのち俳句を再開。静謐な輝きを持った句を詠み続けている。「霧を来てまた霧の家にねむるなり」。『光の伽藍』(2006)所収。(三宅やよい)
十五から酒を呑出てけふの月
宝井其角
芭蕉は弟子の其角の才能を認め、高く評価していた。作風は芭蕉とは対照的で都会風で洒脱である。吉原を題材にした落語のなかでよく引用される句に、其角の「闇の夜は吉原ばかり月夜哉」がある。当時の色里の栄耀がしのばれるばかりでなく、若年からの其角の蕩児ぶりが「十五から酒・・・」とともにしのばれる。落語と言えば、古今亭志ん生は「十三、四でもう酒ェくらっていた」(『びんぼう自慢』)と語っている。酒屋がそんな年頃の子にも酒を売っていた、まあ、よき明治のご時世。ましてや江戸の其角の時代である。其角ならずとも呑んべえなら誰しも、しみじみ月を見あげながら、あるいは運ばれてくる酒に目を細めながら、ふとわれを振り返ることもあるだろう。「誰に頼まれたわけでもないのに、よくぞ、まあ、このトシまで・・・・」。「けふの月」ときれいにシャレて止めているが、おそらく月は常とはちがったニュアンスの澄みようで見えていたにちがいない。ちょっと淋しげに見えていたかもしれない。しかし、其角は酒豪だったというだけに、くよくよと湿ってはいない酒であり、月であり、句である。この月は、十五のトシから呑みつづけてきた酒を照らし出しているようにも思われる。私などはいずれ、墓には水ではなく酒をたっぷりかけてほしい、と今から家人に頼んでいる始末。其角は四十七歳で没したが、掲出句は三十六歳のときに可吟が編んだ『浮世の北』(1696)に収録された。(八木忠栄)
月夜の葦が折れとる
尾崎放哉
鳥取市立川町一丁目八十三番地に、僕は五歳から十二歳まで七年間住んだ。狭い露地に並んだ長屋の一角が僕の家。その露地を東に五十メートル進んで突き当たると右手、八十番地に放哉の生家があり、そこに「咳をしても一人」の句碑が立っていた。途中に古い醤油の醸造元があり、土壁の大きな醤油蔵があった。いつも露地には醤油の匂いが漂っていた。放哉もこの醤油の匂いを嗅いで育ち、ここから鳥取一中(現鳥取西高)に通った。我が家はその後米子に移り僕は米子の高校に通うことになったが、そこの図書館にも放哉関係の本はあり、すでに俳句を始めていた僕はその奇妙な俳句に驚いた記憶がある。放哉は、当時は地元の一奇人俳人にすぎなかった。自由律俳句は河東碧梧桐、中塚一碧楼、荻原井泉水らが積極的に実践。季語、定型にとらわれない自由な詩型をとることを標榜した。そのため自由律俳句の傾向は当初それぞれの俳人の個性や価値観によって多彩な文体を示したが、放哉以降の自由律俳句は、たとえば山頭火も、放哉の文体と情趣を模倣したかに見える。異論はあろうが。「折れとる」は鳥取方言。「折れとるがな」「折れとるで」などと用いる。破滅、流浪の身として、パスカルの「人間は考える葦である」に照らしての、「折れた」自己に向けるシニカルな目もあったか。『大空』(1926)所収。(今井 聖)
十六夜や手紙の結びかしこにて
佐土井智津子
昨秋は、近年まれに見る月の美しい秋だった。ことに九月十八日(十五夜)は、まさに良夜(りょうや)、名月はあらゆるものを統べるように天心に輝いていた。十五夜の翌日の夜、またはその夜の月が十六夜(いざよい)。現在は、いざよい、と濁って読むが、「いさよふ」(たゆたい、ためらう)の意で、前夜よりやや月の出が遅くなるのを、ためらっていると見たという。満月の夜、皓々と輝く月を仰ぐうち、胸の奥がざわざわと波立ってくる。欠けるところのない月に圧倒され、さらに心は乱れる。そして十六夜。うっすらと影を帯びた静かな月を仰ぐ時、ふと心が定まるのだ。一文字一文字に思いをこめながら書かれた手紙は「かしこ」で結ばれる。「かしこ」は「畏」、「おそれおおい」から「絶対」の意を含み、仮名文字を使っていた平安時代の女性が「絶対に他人には見せないで」という意をこめて、恋文の文末に書いたという。今は恋文はおろか、手紙さえ珍しくなってしまったが、そんな古えの、月にまつわる恋物語をも思わせるこの句は、昨年「月」と題して発表された三十句のうちの一句である。あの昨秋のしみるような月と向き合って、作者の中の原風景が句となったものだときく。〈名月や人を迎へて人送り〉〈月光にかざす十指のまぎれなし〉。伝統俳句協会機関誌『花鳥諷詠』(2006年3月号)所載。(今井肖子)
セーターを手に提げ歩く頃が好き
副島いみ子
セーターは冬の季題だけれど、この句の季感は晩秋か。秋晴の朝。今はちょうどよいけれど夜は冷えるかも、かといってジャケットを持って歩くのも邪魔だしと、薄手のセーターを手にとり家を出る。駅までの道を歩きながら、小鳥の声を仰ぎ、青空を仰ぎ、きゅっと引き締まった空気を思いきり吸って、ああ、今頃が一番好きだなあ、とつぶやく言葉がそのまま一句となった。うれしい、楽しい、好き、などは、悲しい、寂しい、嫌いよりなお一層、句に使うことが難しい。「楽しい、と言わずに、その気持を表してみましょう」などと言われてしまう。この句は、好き、というストレートな主観語が、セーターという日常的なものに向けられることで、具体的になり共感を呼ぶ。同じページに〈何笑ふ毛絲ぶつけてやろかしら〉というのもある。丸くてやわらかい毛糸玉だからこそ、作者もくすくす笑っており、ほほえましい様子がうかがえる。何れも昭和三十年代、作者も三十代の頃の句。したがってセーターは、軽く肘を曲げ腕にかけているのであり、無造作に掴んだままだったり、間違っても腰に巻いたりはしない。副島(そえじま)いみ子氏近詠。〈まんまるき月仰ぎゐてつまづきぬ〉〈長生きもそこそこでよし捨扇(すておうぎ)〉『笹子句集第一』(1963)所載。(今井肖子)
箸とどかざり瓶底のらつきように
大野朱香
季語は「らつきよう(らっきょう・辣韮)」で夏。ちょうど今頃が収穫期だ。らっきょうに限らず、瓶詰めのものを食べていると、こういうことがよく起きる。最後の二個か三個。箸をのばしても届かない。で、ちょっと振ったりしてみるのだが、底にへばりついていて離れてくれない。食べたいものがすぐそこにあるのに、取ることができない事態には、かなり苛々させられる。心当たりがあるだけに、この句には誰でもがくすりとさせられてしまうだろう。何の変哲もない「そのまんま」の出来事を詠んでいるだけなのだけれど、何故か可笑しい。こういうことを句にしてしまう作者の目の付け所自体が、ほほ笑ましいと言うべきか。大野朱香の既刊句集について、この句が収められた新刊句集の栞で小沢信男が書いている。「無造作に読めて、気楽にたのしい。しかも存外な魅力を秘め、いや、秘めてなぞいないのがチャーミングなのですよ」。この言い方は、掲句にもぴったりと当てはまる。言い換えれば、作者の感受性は、素のままで常に俳句の魅力を引き出す方向に働くということなのだろう。「節穴をのぞけば白き花吹雪」、「へたりをる枕に月の光かな」。小沢信男は「なにやら不穏な大野朱香の行く手に、たのしき冒険あれ!」と、栞を結んでいる。『一雫』(2007)所収。(清水哲男)
月影の銀閣水を飼ふごとし
藤村真理
初めて銀閣をみたときは金閣の華やかさに比べて質素で地味なそのたたずまいに物足りなさを感じた。それはきっと昼間だったからで、金閣が太陽の化身だとすれば、銀閣は夜の世界を統べているのかもしれない。銀閣の前に設えた白砂の庭は銀沙灘と呼ばれ波に見立てた筋目がくっきりとつけられており、傍らには月を愛でるため作られた二つの向月台がある。「月影」は月の光そのものと、月の光に映し出された物の姿と、辞書にはある。掲句の場合は冴え冴えとした月に照らし出された銀閣のたたずまいを表しているのだろう。白砂には石英が含まれており、月光を受けるときらきら反射するらしい。「水を飼ふごとし」と表されたその様は、夜の銀閣が月の光に波音をたてる白砂の水を手なずけているようだ。趣向を凝らした言い方ではあるが、現実を超えた幽玄な銀閣の姿を言い表すには、このくらい思い切った表現を用いても違和感はない。いつも観光客の肩越しにしか見られない場所であるが、夜中にそっと忍び込んで月明かりの銀閣を見てみたい。そういう気分にさせられる句である。『からり』(2004)所収。(三宅やよい)
道なりに来なさい月の川なりに
恩田侑布子
道に沿って来いと言い、月が映る川に沿って来いと言う。それは一体誰に向かって発せられた言葉なのだろう。その命令とも祈りともとれるリフレインが妙に心を騒がせる。姿は一切描かれていないが、月を映す川に沿って、渡る鳥の一群を思い浮かべてみた。鳥目(とりめ)という言葉に逆らい、鷹などの襲撃を避け、小型の鳥は夜間に渡ることも実際に多いのだそうだ。暗闇のなかで星や地形を道しるべにしながら、鳥たちは群れからはぐれぬよう夜空を飛び続ける。遠いはばたきに耳を澄ませ、上空を通り過ぎる鳥たちの無事を祈っているのだと考えた。しかし、その健やかな景色だけでは、掲句を一読した直後に感じた胸騒ぎは収まることはない。どこに手招かれているのか分からぬあいまいさが、暗闇で背を押され言われるままに進んでいるような不安となり、伝承や幻想といった色合いをまとって、おそろしい昔話の始まりのように思えるからだろうか。まるで水晶玉を覗き込む魔女のつぶやきを、たまたま聞いてしまった旅人のような心もとない気持ちが、いつまでも胸の底にざわざわとわだかまり続けるのだった。〈身の中に大空のあり鳥帰る〉〈ふるさとや冬瓜煮れば透きとほる〉『振り返る馬』(2006)所収。(土肥あき子)
菊の香や仕舞忘れてゐしごとし
郡司正勝
菊は天皇家の紋章にもなっているので古くから日本独自の花と思っていたがそうではないらしい。万葉集に菊の歌は一首も含まれていないという。奈良時代、まずは薬草として中国から渡来したのが始まりとか。中国では菊に邪を退け、長寿の効能があるとされている。杉田久女が虚子へ贈った菊枕はその言い伝えにあやかったのだろう。沈丁花や金木犀は街角で強く匂ってどこに木があるのか思わず探したくなる自己主張の強い香りだが、菊の香はそこはかとなく淡く、それでいて心にひっかかる匂いのように思う。菊は仏事に使われることも多く、掲句の場合も大切な故人の思い出と結びついているのかもしれない。胸の奥に仕舞いこんだはずなのに、折にふれかすかな痛みをともなって浮き沈みする記憶とひっそりとした菊の香とが静謐なバランスで表現されている。作者の郡司正勝は歌舞伎から土方巽の暗黒舞踏まで独自の劇評を書き続けた。「俳句は病床でしか作らない」とあとがきに綴っているが、句に湿った翳りはなく「寝るまでのこの世の月を見てをりぬ」など晩年の句でありながら孤独の華やぎのようなものが感じられる。『ひとつ水』(1990)所収。(三宅やよい)
月光とあり死ぬならばシベリアで
佐藤鬼房
鬼房は昭和15年入隊。中国から南方へ転進、スンバワ島で終戦を迎えた。太平洋戦争当時青年期を迎えた男達は否応なく戦争に駆り立てられていった。鬼房は南の島で囚われたが、ソ連の虜囚となった何万もの日本兵はシベリアの強制収容所に送られた。その中には中国でたまたま同じ場所に居合わせた部隊もあったかもしれない。シベリアの大地を照らす月は寒々とした冬の月を思わせる。寒さと飢えに苛まれた日常と労働がどれほど厳しいものであったか、その痛苦の体験から掴みとったものを香月泰男は絵に、石原吉郎は詩や文章に表している。収容された多くの人たちは再び故国の土を踏むことなくシベリアの凍土に葬られた。「死ぬならばシベリアで」の言葉には、望郷の念を胸に短い生涯を終えた同世代の青年たちへの愛惜がこもっている。同じように捕虜になった自分が無事帰還したことに傷のような負い目も残ったかもしれない。そうでなくとも、この時代に青年期をくぐりぬけた人達は若くして戦死した仲間に対して自分たちが生き延びたことに、すまなさに似た気持ちを持ち続けていたように思う。鬼房と同年齢のうちの父などもそうだった。世が繁栄すればするほど戦争の記憶は陰画のように心の底に焼き付けられたままであったろう。死ぬならば、の呼びかけは生きながら月光を浴びる鬼房のかなわぬ願いだったのかもしれない。『現代俳句12人集』(1986)所載。(三宅やよい)
掘られたる泥鰌は桶に泳ぎけり
青木月斗
泥鰌と鰻の違いはどこかなどというと、奇異に思われるかもしれない。山陰の田舎では田んぼの用水路なんかで釣りをしていると三十センチくらいのやつがかかって、釣ったばかりは鰻か泥鰌かはたまた蛇かわからない。もっとも蛇は水中にいないので選択肢はふたつだ。髭があるのが泥鰌だよと釣り友達からあらためて教わったものだ。持って帰ると父が蒲焼にしてくれた。うまかった。山陰と泥鰌と言えば安来節。ヘルスセンターなどいたるところでやっていた。安来節名人がいて、割り箸を二本鼻の穴に挿して、泥鰌を取る仕草が実にリアルで大うけにうける。小学校の学芸会でもひょうきん者がよく出し物にしていた。加藤楸邨に「みちのくの月夜の鰻遊びをり」がある。楸邨は鰻が大好きだった。幼時、父親の転勤で東北地方に居たときなど、川でよく鰻を捕ったとのこと。小さいものをめそっこと言ってよく食べたとエッセーにもある。めそっこなら泥鰌とほとんど変らない大きさだろう。冬の田の土中を掘って入り込んだ泥鰌を捕ったあと、桶で泳がせて泥を吐かせる。そのあとは鍋か唐揚か。それもいいが、あの泥鰌の蒲焼をまた食べてみたい。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)
白服の胸を開いて干されけり
対馬康子
青い空白い雲、一列に並んだ洗濯物。この幸せを象徴するような映像が、掲句ではまるで胸を切り裂かれたような衝撃を与えるのは、単に文字が作り出す印象ではなく、そこに真夏の尋常ではない光線が存在するからだろう。白いシャツの上に自ら作りだす黒々とした影さえも、灼熱の太陽のもとでは驚くほど意外なものに映る。この強烈なエネルギーのなかで、なにもかも降参したように、あるものは胸を開き、あるものは逆さ吊りにされて、からからと乾いていくのである。しかし、お日さまをよく吸って、すっかり乾いた洗濯物の匂いは格別なもの。最近発売されている柔軟剤に「お日さまの香り」というのを見つけた。早速試してみたらどことなくメロンに近いものを感じるが、お日さまといえばたしかにお日さま。それにしても太陽の香りまで合成されるようになっている現代に、ただただ目を丸くしている。〈異国の血少し入っている菫〉〈初雪は生まれなかった子のにおい〉〈死と生と月のろうそくもてつなぐ〉『天之』(2007)所収。(土肥あき子)
月光の走れる杖をはこびけり
松本たかし
雨、降る。風、吹く。鷹、舞う。みんな成句。杖とくれば、つく。が常套。杖、はこぶ。これだけで成句を抜けている。すでにオリジナリティの端緒はここに存する。この句の表現は全体の動きの速度に統一感がある。「月光の走れる」のゆったりした語感が、「はこびけり」の動作のゆったり感につながる。描写がスローモーションで動いているのである。「もの」を写す方法の中のバリエーションとして、遠近法やらモンタージュやらトリヴィアルやらの工夫が生まれた。時間の流れをとどめて映像のコマをゆっくり廻してみせるこんな表現は個性というよりも「写生」の中での新しい方法に至っているといえるだろう。『虚子編新歳時記増訂版』(1951)所載。(今井 聖)
谷戸谷戸に友どち住みて良夜かな
永井龍男
谷戸は「やど」とも呼ばれる。「谷(やと/やつ)」のことでもあり、龍男が住んでいた鎌倉に多い地名でもある。詩人・田村隆一はかつて稲村ヶ崎から入った谷戸の奥の小高い土地に住み、書斎の窓からは水平線がよく眺望できた。「良夜」は時期的に今やちょっと過ぎてしまったが、主として十五夜=九月十三日の月の良い夜をさす。鎌倉住いの龍男は名月を見上げながら、同じ鎌倉の谷戸に住んでいる友だちの誰彼を想っているのだろう。良夜であるゆえにことさら、親しい友だちは今どうしているか気になっている。同じように月を眺めているか、まだ片付かない仕事の最中か、のんびり悠然と酒盃をかたむけているか・・・・それからそれへと自在に想像を連ねているのだ。ここでは「鎌倉」という地名は隠されているけれども、「谷戸谷戸」によってその土地が奥床しくも、幸せな一夜のように感じられてくる。昭和十年、横光利一がリーダーになってつくった門下生たちの十日会で、「俳句は小説の修業に必要だ」と横光は俳句を奨励した。そのなかに中里恒子や永井龍男らがいた。横光の歿後も、龍男は文芸春秋句会や文壇俳句会にも参加して、味わいのある俳句を詠んだ。谷戸の多い鎌倉を詠んだ句に対し、橋の多い深川を詠んだ龍男の句に「橋多き深川に来て月の雨」がある。平井照敏編『新歳時記(秋)』(1989)所収。(八木忠栄)
人下りしあとの座布団月の舟
今井つる女
座布団から下りただけなのですから、数センチの高さのことなのでしょう。しかし、読んだときに思い浮かべたのは、もっと大きな、ゆったりとした動きでした。それはたぶん、「舟」という乗り物が、最後にでてくるからなのです。「人」「月」「舟」、放っておいてもロマンチックな空想へいってしまう言葉たちを、「座布団」が中心にどしりと座り込んで、現実とつなげているようです。それでも依然として句は、人をどこか未知の世界へ運んでくれています。人が座っていたあとの、なだらかなへこみが、舟のかたちをしていると詠っているのでしょうか。あるいはへこみから視線を上空へ向ければ、夜空に舟の形をした月が浮かんでいるということなのでしょうか。かぐや姫を持ち出すまでもなく、あるいは魔法の絨毯に言及するまでもなく、句には、どこか異世界のにおいのする素敵な光がみちています。ここから自由にどこへでも、わたしたちは漕ぎ出してもいいのだと。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)
月に脱ぐシャツの農薬くさきかな
本宮哲郎
土くさい、汗くさい、は労働のイメージの定番。花の匂い、草の匂いは花鳥諷詠の定番。五感のひとつ嗅覚は、他の四つの感覚と並んで、対象から「体」で直接受けとる感動の核である。「農薬くさき」はリアルの中心。ここに「私」も「真実」も存する。この句の隣の頁には「稲架乾く匂ひが通夜の席にまで」がある。この句も嗅覚。「乾く匂ひ」が眼目。稲の匂いや稲架の匂いは言えても「乾く」が言えない。ここが非凡と平凡の岐れ道。もっとも後の句の通夜の席という設定を見れば、従来の俳句的情緒との融和の中での「乾く」。前の句は「月」との融和。わび、寂びや花鳥風月の従来の俳句観も大切にしつつ「私」も同時に押し出す作者の豪腕を思わせる。『日本海』(2000)所収。(今井 聖)
それぞれに名月置きて枝の露
金原亭世之介
仲秋の名月をとうに過ぎ、月に遅れて名月の句をここに掲げることを赦されよ。芭蕉や一茶の句を挙げるまでもなく、名月を詠んだ句は古来うんざりするほど多い。現代俳人・中原道夫は「名月を載せたがらざる短冊よ」と詠んだ。掲出句は月そのものを直に眺めるというよりは、何の木であれ、その枝にたまっている露それぞれに宿っている月を観賞しているのである。雨があがった直後にパッと月が出た。この際「名月」と「露」の季重なり、などという野暮を言う必要はあるまい。実際にそのように枝の露に月が映って見えるかどうか、などという野暮もよしましょう。露ごとに映った月、露を通した月は、直に眺める月よりも幻想的な美しさが増幅されているにちがいない。露の一粒一粒が愛らしい月そのものとなって連なり輝いている。名月で着飾ったような枝そのものもうれしそうではないか。「置きて」がさりげなく生きている。名月の光で針に糸を通すと裁縫のウデが上達する、という言い伝えがあるらしい。うまいことを風流に言ってみせたものである。世之介は10代目馬生(志ん生の長男。志ん朝の実兄)に入門し、勉強熱心な中堅落語家として、このところ「愛宕山」や「文七元結」などの大ネタで高座を盛りあげてくれている。「かいぶつ句集」43号(2008)所載。(八木忠栄)
月の庭子の寝しあとの子守唄
上村占魚
主人公は、母であり妻である女性ととるのがふつうだろう。庭で子守唄を唄っている。背中に子がいなければ庭に出る理由が希薄なので、これは子守のときの情景である。子は首を垂れてすっかり寝落ちているのに、母はそれに気づいていても唄をやめない。寝てしまったあとも続いている子守唄は母というものの優しさの象徴だ。月、庭、子、寝、子守唄。素材としての組み合わせを考えると、どうみても陳腐にしか仕上がらないようなイメージの中で、「寝しあとの」でちゃんと「作品」に仕上げてくるのは、技術もあるが、従来の情緒のなぞりだけでは詩にならぬとの思いがあるからだ。無条件な愛。過剰なほど溢れ出る愛。この句のテーマは「母」あるいは「母の愛」。季題「月」は背景としての小道具。『鮎』(1992)所収。(今井 聖)
兵役の無き民族や月の秋
石島雉子郎
太陽は、すべてを照らすみんなのものという感じだけれど、月は、どうしても一対一でさし向かう気持ちになる。月を見ていながら自分自身と向き合っているような気もして、漠とした寂寥感につつまれる。そしてふと、あの人も同じ月を仰いでいるだろうか、と誰かを思い出したりするのだ。八月の終わりに韓国を旅した時、何気なく見上げた空に半月がうすく滲んでいて、ああ、月だ、と不思議な懐かしさを覚えた。異国の空で仰ぐ月は、郷愁を誘う。今この句を読むと、とりあえずは平和そうに見える日本の空に輝く今日の月が思われる。しかしこの句が詠まれたのは大正三年。作者は朝鮮半島に渡っていて、その頃は今とは逆に徴兵制があったのは日本。そう思って読むと、民族、の一語が重く響く。雉子郎はその後大正十年まで約八年間、救世軍の大尉として力を尽くしたが、大陸での暮らしは苦労も多く、授かった四人の子を次々に亡くしたとも聞いている〈頬凍てし子を子守より奪ひけり〉。今宵十五夜、長期予報は芳しくないけれど月やいかに。「ホトトギス雑詠選集 秋」(1987・朝日新聞社)所載。(今井肖子)
月入るや人を探しに行くやうに
森賀まり
太陽がはっきりした明るさを伴って日没するのと違い、月の退場は実にあいまいである。日の出とともに月は地平線に消えているものとばかり思っていた時期もあり、昼間青空に半分身を透かせるようにして浮かぶ白い月を理解するまで相当頭を悩ませた。月の出時間というものをあらためて見てみると毎日50分ずつ遅れており、またまったく出ない日もあったりで、律儀な日の出と比べずいぶん気ままにも思えてくる。実際、太陽は月の400倍も大きく、400倍も遠いところにあるのだから、同じ天体にあるものとしてひとまとめに見てしまうこと自体乱暴な話しなのだが、どうしても昼は太陽、夜は月、というような存在で比較してしまう。太陽が次の出番を待つ国へと堅実に働きに行っている留守を、月が勤めているわけではない。月はもっと自由に地球と関係を持っているのだ。本日の月の入りは午後2時。輝きを控えた月が、そっと誰かを追うように地平線に消えていく。〈道の先夜になりゆく落葉かな〉〈思うより深くて春のにはたづみ〉『瞬く』(2009)所収。(土肥あき子)
月の出を待つえりもとをかき合せ
森田たま
月の出を待つなどという風情も時間も、現実にはほとんど失われてしまったのかもしれない。いや、それでも俳人のあいだでは、月の出を待って競作しようとか、酒を楽しもうという情趣が残されているのかもしれない。えりもとをかき合わせる仕草も、舞台や高座ではしっかり生きている。今月初めにたまたま北欧のある町を歩いていて、街路から遠くにぽっかり浮かんでいる満月に気がついてビックリ。何の不思議もないわけだが、妙にうれしく感じられる月だった。思わずカメラを向けたのだが、他にその月に気づいている人はいないようだった。掲出句の御仁は、どんな状況で月の出を待っているのだろうか。えりもとを思わずかき合わせたのは、おそらくちょいとした緊張と寒さのせいだったものと思われる。それがどんな状況であれ、いかにもシックな女性らしい仕草ではないか。ふと気づいた月の出ではなく、月の出を今か今かと待っているのであり、出を待たれている月があるという、かすかで濃い時間がそこに刻まれている。えりもとをかき合わせるという仕草によって、さりげないお色気もここには漂っている。たまは多くの俳句を残しているが、月を詠んだ句に「はろばろと空の広さよ今日の月」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
月夜つづき向きあふ坂の相睦む
大野林火
詩を書こうとするときには、最初から遠くを見るのではなく、できるだけ近くの、小さなものから書いてゆこうと心がけています。細かいものを、正確に文字にうつすのが創作の間違いのない道筋であると、いつの頃からか確信を持ってきました。抽象的な概念を、大上段に振り回して事の真理を作品化してみようなどという行為が、少なくともわたしには、手にあまるものであると、経験から学んできたからです。だからなのでしょうか。大きな世界を、しっかりと描ききった作品を見ると、うらやましくもなり、それだけで深い感銘を受けてしまいます。今日の句も、坂が向き合う姿をダイナミックに描いて、わたしたちの前に示してくれています。むしろ俳句という、これだけ小さな世界だからこそ、大きなものを描くことに適しているのかもしれません。穏やかな秋の夜に、小さな商店街の並ぶ一本の谷を挟んで、二つの坂道が両側へ上っています。「相睦む」の一語が、読者へやさしく傾斜してくれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)
生年を西暦でいふちやんちやんこ
上原恒子
体裁が良かろうと悪かろうと、一度身につけたらなかなか手放せないのがちゃんちゃんこ。最新のヒートテックインナーも、あったかフリースもよいけれど、背中からじんわりあためてくれる中綿の感触は、なにものにも代え難い。掲句の「生年を西暦」に、昭和と西暦の関係は25を足したり引いたり、などと考えながら巻末を見れば作者は1924年生まれ、和暦で大正13年生まれである。作品の若々しさから、もっとずっと若い方を想像していたが、たしかに〈子が産んで子が子を産んで月の海〉などからは、子が生む子がまた生む子という長い時間が描かれている。それにしても、便利ではあるが、なにもかも西暦にしてしまうことには、違和感も抵抗もささやかながらあるものだ。掲句の西暦で言う理由には、「どうせ年齢を計算するんだったら、分かりやすいほうで…」なのか、または「大正って言うのはちょっと…」なのかは分からないが、わずかな逡巡が胸に生まれたため「西暦で言った」ことが作品になったのだろう。そして、西暦を使いこなすことによって、下五のちゃんちゃんこが年寄りめいて見えない。ちゃんちゃんこはベスト型の袖のないものをいうが、ここには「ものごとを手際よく(ちゃんちゃんと)行うことができることから」という意味があるという。あくまでも機能的にアクティブなファッションなのだ。ところで、西暦は下2桁のみ答えることも多く、たとえば1963年生れを単に63年と省略したときに、昭和63年もあるのだから分かりにくい、と言われたことを、ふと思い出した。お若く見える皆さま、お気をつけくださいませ。〈睡蓮は水のリボンでありにけり〉〈げんまんは小指の仕事さくら咲く〉『水のリボン』(2009)所収。(土肥あき子)
鹿の眼の押し寄せてくる月の柵
和田順子
明日の夜が十五夜で仲秋の名月。そして満月は明後日。十五夜が満月と限らないのは、新月から満月までの平均日数は約14.76日であるため、15日ずつでカウントする旧暦では若干のずれが生じることによる。理屈では分かっていても、どことなく帳尻が合わないような気持ち悪さがあるのだが、来年2011年から2013年の間は十五夜と月齢満月が一致するというので、どんなにほっとしてこの日を迎えられることだろう。掲句は前書に「夜の動物園」とある。光る目が闇を漂いながら迫ってくる様子は、鹿の持つ愛らしい雰囲気を拒絶した恐怖でしかないだろう。浮遊する光りは、生きものの命そのものでありながら、異界への手招きのようにも見え、無性に胸を騒がせる。安全な動物園のなかとはいえ、月の光りのなかで、あちらこちらの檻のなかで猛獣の目が光っているかと思うと、人間の弱々しく、むきだしの存在に愕然と立ちすくむのだ。タイトルの『黄雀風(こうじゃくふう)』とは陰暦五、六月に吹く風。この風が吹くと海の魚が地上の黄雀(雀の子)になるという中国の伝承による。〈波消に人登りをり黄雀風〉〈海牛をいふけつたいを春の磯〉『黄雀風』(2010)所収。(土肥あき子)
満月のあめりかにゐる男の子
小林苑を
今日は満月。時差はあれ、世界中の人が同じ月を見るんだなぁ、そう思うと甘酸っぱい気持ちになる。考えれば太陽だって同じなのに、そんなふうに感じないのはなぜだろう。「空にいる月のふしぎをどうしよう」という岡田幸生の句の通り夜空にかかる月は神秘的な力を感じさせる。掲句「満月の」の「の」は「あめりか」にかかるのではなく、上五でいったん軽く切れると読んだ。自分が見上げている月をアメリカの男の子が見上げている様子を想像しているのだろう。例えばテキサスの荒野に、ニューヨークの摩天楼の窓辺にその子は佇んでいるのかもしれない。この句の作者は少女の心持ちになって、同じ月を見上げる男の子へ恋文を送る気分でまんまるいお月様を見上げている。「あめりか」の男の子にちょっと心ときめかせながら。カタカナで見慣れた国名のひらがな表記が現実とはちょっと違う童話の世界を思わせる。『点る』(2010)所収。(三宅やよい)
われをつれて我影帰る月夜かな
山口素堂
この句の意味は説明するまでもありません。また、どういった思考経路によってこの句が生み出されてきたのかも、明瞭です。自分についてくる影と、自分の立場を、単純に逆転しただけの作品です。しかし、解説すれば単にそれだけのものでも、作品が持つ力は意外に強く読者に迫ってきます。あたりまえの逆転でも、読めばふっと驚いてしまうし、色の濃い影が実体をひきずってとぼとぼと帰宅する様子は、視覚的にも印象的なものです。創作というのは、多くの解説によって複雑に説明されるものがよいとも限らないのだなと、この句を読んでいると改めて認識させられます。ありふれた発想から生まれた句が、かならずしもありふれた句にはならない、ということのようです。実体を覆すほどの描写は、おそらくこれからも、あたりまえの思考経路から出来てくるのでしょう。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
不思議なり生れた家で今日の月
小林一茶
漂泊四十年と前書あり。木と紙で出来た建物でも数百年は持つ。神社仏閣のみならず民家でもそのくらいの歴史ある建物は日本でも珍しくないのだろうが、映像でヨーロッパの街などで千年以上前の建物があらわれてそこにまだ人が住んでいるのを見ると時間というものの不思議さが思われる。僕自身も子供のころから各地を転々としたので、ときにはかつて住んでいた場所を訪ねてみたりするのだが、生家はもとよりおおかたはまったく痕跡すらないくらいに変化している。その中で小学生の頃住んだ鳥取市の家に行ってみたとき、そこがほぼそのまま残って人が住んでいたのには驚いた。家の前に立って間取りや階段の位置などを思い起してみた。二階から見えた大きな月の記憶なども。まだ妹は生まれてなくて三人暮し。その父も母ももうこの世にいない。『一茶秀句』(1964)所載。(今井 聖)
一月の魯迅の墓に花一つ
武馬久仁裕
作者が中国へ旅したときに作った句。国内での吟行とは違い海外で句を詠むとなると日本での季節の順行や季の約束ごととは違う世界へ出てゆくことになる。作者は「俳句と短文の織り成す言葉による空間を満足の行く形で作ってみたくなったからである」とこの句集を編むに至った動機をあとがきで述べている。風習の違いや物珍しさで句を詠んでも単なるスナップショットで終わってしまう。(もちろんそれはそれで楽しさはあるのだが)作者は現在の中国を旅して得た経験と歴史や文学で認識していた中国を重ねつつ「日常であって日常でない」世界を描き出そうとしている。一月、と一つという簡潔な数字の図柄が世間の人々に忘れられたかのような寂しい墓の風情を思わせる。その墓の在り方は「藤野先生」や「故郷」といった魯迅の作品に流れる哀感に相通じているように思える。真冬の魯迅の墓に添えられた花の種類は何だったのだろう。「玉門関月は俄に欠けて出る」「壜の蓋締めて遠くの町へ行く」『玉門関』(2010)所収。(三宅やよい)
吾家の燈誰か月下に見て過ぎし
山口誓子
作者の位置はどこに在るのだろう。自分が家の中に居るとすれば、外の闇の中を過ぎる人影が視認できたとしてもその人が自分の家の中の燈を見たとまでは断定できぬであろう。自分が外に居て第三者が「吾家」の燈を見ているところを目撃したとするなら燈と通りかかった人と自分の位置関係ははっきりするが、自分が自分の家の燈を外から客観的に見ているのも変な状況である。そんなことを考えているうちにこの句は過ぎしのあとに「か」を補ってする鑑賞がいいのではないかと思い到る。吾家の燈誰か月下に見て過ぎしかというふうに。夜の道を行き交う人が、「私」の居る家の燈を見て過ぎたであろうと思っている。留まるものつまり今ここに存在する「吾」の前を過ぎていく諸人がいる。優れた句は日常を描いて寓意に到る。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)
河港月夜白きのれんにめしの二字
大野林火
河港と月夜はすこし間を置いて読むのではなく、かこうづきよと一気に読むのだろう。そう考えると河港月夜というのは一個の名詞。作者の造語ということになる。枯木星というのは確か誓子の造語、ガソリンガールというのは風生だったか。目にしてみれば極めて自然に思える言葉も作者のオリジナルな工夫がほどこされているのだ。こんなところにも独自性への真摯な希求がある。こんな小さな詩形のそのまたどこか一部に、かけがえのない「私」が存在するようにという作者の願いが見えてくる。朝日文庫『高濱年尾・大野林火集』(1985)所収。(今井 聖)
目薬さし耳栓をして月の出待つ
田川飛旅子
濡れた抒情と乾いた抒情というふうに分類するとこういう句は後者。即物リアルと言いかえてもいい。即物リアルを狙う場合、即物の「物」自体に情緒があればそれほど乾いた抒情にならずに済む。その語が従来的に背負っているロマンを醸してくれるからだ。問題はこの句のように目薬や耳栓のような「物」が従来的なロマンを背負わない場合だ。乾いた抒情は限りなく只事に接近する。しかし、誰も手をつけなかったいちばんの「美味しい」部分はその境目ではないか。『使徒の眼』(1993)所収。(今井 聖)
同じ月見てゐる亀と兎かな
天野小石
水曜日の夜の月は、兎の耳だけをのぞかせていよいよふっくらとして来た十日の月だった。この句の月は仲秋のくっきりとした名月、今年は十二日の月曜日が十五夜で満月でもある。四季折々友人と、いい月が出ています、というメールをやりとりすることがある。それが今別れたばかりの人でも、しばらく会っていない人でも、同じ月を見ているという、その時のほんのりとした距離感は変わらない。ウサギとカメ、といえば寓話の世界では手堅く努力したカメが隙だらけのウサギに勝つわけだが、そんなウサギは月でちゃっかり餅など搗いている。亀と兎の絶妙の組み合わせが、同じ月を見ている時の距離感と感覚を思わせ、誰も彼も月をただただ見てしまうのだ。『花源』(2011)所収。(今井肖子)
胃は此処に月は東京タワーの横
池田澄子
澄んだ空に煌々と月が光っている。ライトアップされた東京タワーの横にくっきりと見える満月は美しかろう。ただ、この句は景色がメインではない。胃が存在感を持って意識されるのは、胸やけを感じたり、食べ過ぎで胃が重かったりと、胃が不調の時。もやもやの気分で、ふっと見上げた視線の先に東京タワーと月が並んでいる、あらっ面白いわね。その瞬間の心のはずみが句に感じられる。どんより重い胃とすっきり輝く月の対比を効かせつつ、今、ここに在る自分の立ち位置からさらりと俳句に仕立てるのはこの作者ならではの技。ただその時の気持ちを対象にからませて述懐すれば句になるわけではない。この句では「胃は此処に」に対して「月は東京タワーの横(に)」の対句の構成に「横」の体言止めですぱっと切れを入れて俳句に仕立てている。短い俳句で自分の文体を作り出すのは至難の業ではあるが、どの句にも「イケダスミコ」と署名の入った独特の味わいが感じられる。「今年また生きて残暑を嘆き合う」「よし分かった君はつくつく法師である」『拝復』(2011)所収。(三宅やよい)
月下婦長病兵をうち泣きにけり
秋山牧車
この句には前書がある。「戦場における看護婦の献身には感銘せり。いま一婦長大いなる荷を背負い三、四十名の病兵を引率す。『あなたはそれでも帝国軍人ですか』と叫びて」。前書は具体的だが、この句だけでも意は尽くしている。看護婦が兵を「うち」、泣く。このリアルが胸を打つ。大本営から最前線に派遣された職業軍人としての述懐である。戦後、戦争責任追及の嵐が吹き、戦中は反戦の立場であったと証しするか否かが文学者としての決定的な踏絵となった。俳人も例外ではない。戦後になって戦中に作ったという反戦の句を発表する者、戦中に作った軍人への追悼句や日本軍への応援句を句集から削除する者。負けるのはわかっていたという者、終戦の詔勅を聞いてホッとしたという者、これらはみな処世の策とみることも出来よう。勝てないまでも負けないで欲しいと願ったと振り返った俳人を知っているが、これがぎりぎり正直なところではなかったか。病兵を叱咤して打つ婦長も兵もみな被害者だという図式はわかりやすい。では加害者は誰なのか、ひとり「軍部」にその責を負わせるのか。そんな問いかけは過去のみならず。今も未曾有の「人災」の総括が問われている。『みんな俳句が好きだった』(2007)所載。(今井 聖)
罪なくも流されたしや佐渡の月
ドナルド・キーン
日本文学研究の第一人者として知られるキーンさんが架け橋となり、ロンドン大英博物館で1962年に発見された説経浄瑠璃「越後國柏崎弘知法印御伝記」が300年ぶりに復活した。掲句は、繰り返し新潟へ足を運んだおりに出来たものだと、酒席でさらさらと書かれた一句である。普段俳句は作らないが、佐渡を見たときに胸に湧いた言葉は紛れもなく俳句であったという。このほど日本国籍を取得し、日本を人生最後の旅先と決めた。数年前、東京で地下鉄の駅の行き方を尋ねられたことがとても嬉しかったという。日本のなかで、外人ではなくただの人間になれた、と。年齢を重ねると顔立ちは国柄より人柄を放つようになる。東京の地下鉄で途方に暮れた女性にとって、キーンさんはひとりの優しそうな男性だったのだろう。今宵の月齢は13.7、天心に輝くのは23時。きっと日本のどこかで、ただの人間として美しい10月の月を眺めていることだろう。(土肥あき子)
刃は波に波は翼に月は東に
中村安伸
落語の『千早降る』は、町内一の物知りと言われる隠居が、百人一首の「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」を珍解釈するという噺だ。「千早という遊女にふられた相撲取りの竜田川が……」と解釈されていくのだが、以下の今日の句の解釈も、負けず劣らずのものかもしれない。というのもどういうわけか、この句を読んだ途端に、私は国定忠次(忠治とも)が赤城の山を捨てる決意をした芝居のシーンを思い浮かべてしまったのだった。場面は忠次が「赤城の山も今宵限り……可愛い子分の手めえたちとも、別れ別れになる首途だ」と名科白を決めたあとで愛用の脇差を抜き、雁の飛ぶ空に浮かんだ月の光で、じいっと刀身に見入るという泣かせ所である。刀には焼き刃の際につく刃文という模様がある。波形が多い。したがって「刃は波に」である。そこで刀への視線を上げていくと、刀の尖の空には波形が翼に転化したような姿の雁が鳴きながら飛んでいく様子が見て取れる。つまり「波は翼に」なのであり、下句の「月は東に」は説明するまでもないだろう。「加賀の国の住人小松五郎義兼が鍛えた業物、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ」。忠治万感の思いの情景を読んだ句といったん思い込んでしまうと、他の解釈は浮かんでこなかった。「俳壇」(2011年11月号)所載。(清水哲男)
かじかむや寄る七星はひくくして
棟方志功
寒い夜の北斗七星が、それぞれ特別に身を寄せ合っているというわけではない。けれども寒さが厳しいから、あたかも身を寄せあっているように感じられるのであろう。しかも空気が澄んでいるから、星がことさら大きく地上にずり落ちそうに、迫っているように低く感じられるというのである。実際、七星は春夏には北斗星よりもずっと高い位置にあるが、秋冬には地平線まで低くずり落ちて、見えにくい位置になっている。板木(志功は「版木」とは呼ばなかった)に、全身這うように顔をこすりつけるようにして描きあげ、彫りあげてゆく志功独特の制作の姿が、この句にかぶさり重なっているようにさえ感じられる。ノミを握る手はかじかんでいるから、いっそうダイナミックに大胆に彫りあげているものと思われる。志功は俳句を二十代で始めたが、原石鼎や石田波郷、永田耕衣たちの作品に触発された美術作品を発表していた。とりわけ前田普羅との付き合いが深かったと言われる。「渦置いて沈む鰻や大月夜」という句などは、志功の絵そのものの力強さを感じさせる。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)
松籟を雪隠で聞く寒さ哉
新美南吉
立春から二週間あまり経ったけれど、今年の春はまだ暦の上だけのこと。松籟は松を吹いてくる風のことだが、それを寒い雪隠でじっと聞いている。「雪隠」という古い呼び方が、「寒さ」と呼応して一層寒さを厳しく感じさせる。寒いから、ゆっくりそこで落着いて松籟に耳傾けているわけにはゆかないし、この場合「風流」などと言ってはいけないかもしれないけれど、童話作家らしい感性がそこに感じられる。今風のトイレはあれこれの暖房が施されているけれども、古い時代の雪隠はもちろん水洗ではなく、松籟が聞こえてくるくらいだから、便器の下が抜けていていかにも寒々しかった。寺山修司の句「便所より青空見えて啄木忌」を想い出した。南吉は代表作「ごんぎつね」で知られている童話作家だが、俳句は四百句以上、短歌は二百首ほど遺している。また宮澤賢治の「雨ニモマケズ」発見の現場に偶然立ち会っている。他に「手を出せば薔薇ほど白しこの月夜」がある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)
月の出や総立ちとなる松林
徳永山冬子
月の出を、松林が総立ちとなって迎えています。日の出をみることはあっても、月の出をみるのは稀です。さて、この月は、海から出たのか、山から出たのか、それとも他か。松林とあるので、三保の松原のような海辺の情景として読んでみたいです。もしそうならば、作者は、月の出をみるために、展望のよい宿の上階に部屋を用意したのではないでしょうか。東の水平線がよくみえる、海辺の宿です。これで、掲句を成立させるための空間的条件は整いました。もう一つ、時間的な条件です。松林が総立ちになるためには、いったん日が没して、闇の時間が必要になります。たとえば、本日、2012年9月2日の東京の日没は、18:07分、月の出は、18:44分。いい感じです。残念ながら満月は一昨日でしたが、それでも、日没から月の出までの37分間、夕暮れから夕闇へ、夕闇から夜の帳(とばり)が降りはじめるころに、月は突然現れます。月の出は、たぶん、突然やってくる。夜明け前はあるけれど、月の出前は、ほとんどない。動的な太陽光に比べて、月光は限りなく静かだからです。それまで、闇に包まれ、帳の降りた松林に、突然、海から月が昇って、松林は月光を浴びて立ちあがります。その動きは、かなり速い。朝礼の起立のように「おはよう」と言っています。月の出は、夜の朝の始まりです。太陽の光を受けて月は輝き、光合成で松林は生い繁る。太陽が沈んだその裏側で、その光は、静かに動き出しました。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)
湾かけて風の名月飛ぶごとし
多田裕計
この場合の「かけて」は「懸けて」の意味であろう。たとえば東京湾でも伊勢湾でもいいけれど、大きな港湾を股にかけて風がダイナミックに吹きわたっている。夜空には名月が皓々と出ていて、まるで風にあおられて今にも飛ばされんばかり、というそんな光景である。「湾」という大きさに「飛ぶごとし」というスピードが加わって、句柄は壮大である。あるいは、少し乱暴な解釈になるけれど、「かけて」を「駆けて」と解釈してみたい気もしてくる。湾上を風が疾駆し、名月も吹き飛ばされんばかりである。ーー実際にはあり得ないことだろうが、文芸作品としては許される解釈ではないだろうか。風も名月も湾上を飛ぶなんて愉快ではないか。なにせ俳句は、亀が鳴いたり、山が眠ったり笑ったりする世界なのだから。そんなところにも俳句のすばらしさはある。蛙が古池に飛びこんだくらいで驚いてはいられない。裕計は俳句雑誌「れもん」を主宰した芥川賞作家で、他に「夢裂けて月の氷柱の響き落つ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
子規逝くや十七日の月明に
高浜虚子
子規が亡くなったのは明治三十五年九月十九日だった。この句にある十七日は陰暦八月十七日の月という意味だという。夜半過ぎに息を引き取った子規の急を碧梧桐、鼠骨に告げるべく下駄を突っかけて外に飛び出た虚子は澄み切った夜空にこうこうと照る月を見上げる。「十七夜の月は最前よりも一層冴え渡つてゐた。Kは其時大空を仰いで何者かが其処に動いてゐるやうな心持がした。今迄人間として形容の出来無い迄苦痛を舐めてゐた彼がもう神とか仏とか名の附くものになつて風の如くに軽く自在に今大空を騰り(のぼり)つゝあるのではないかといふやうな心持がした」と子規と自分をモデルにした小説『柿二つ』に書きつづっている。子規が亡くなって110年。病床にいながら子規の作り上げた俳句の、短歌の土台の延長線上に今の私たちがいることを子規忌が来るたび思う。講談社「日本大歳時記」(1971)所載。(三宅やよい)
月の海箔置くごとく凪ぎにけり
三村純也
やや遠景、しんと広がる月の海。満ちている一枚の月光の、静かでありながら力を秘めた輝きをじっと見つめている時、箔、の一文字が浮かんできたのだろう。箔の硬質ななめらかさは、塊であった時とは違う光を放っている。句集ではさらに〈一湾に月の変若水(をちみず)凪ぎにけり〉〈月光に憑かれし魚の跳ねにけり〉と続く。変若水、憑、作者と供にだんだん月に魅入られていくような心地である。これを書いている今日、ふくらみかけた月を久しぶりに仰いだ。はじめは雲もないのにどこか潤んでいたが、やがて秋の月らしく澄んできた十日月だった。週末の天気予報はあまり芳しくない様子、投げ入れた芒を見ながら月を待っているが、果たして。『蜃気楼』(1998)所収。(今井肖子)
月光を胸に吸い込む少女かな
清水 昶
昶さんの『俳句航海日誌』(2013・七月堂)が上梓されました。2000年6.13「今は時雨の下ふる五月哉」に始まり、2011年5.29「遠雷の轟く沖に貨物船」に終わる927句が所収されています。日付順に並ぶ一句一句が、海へこぎだすサーフボートのように挑み、試み、言葉の海を越えていこうとしています。所々に記された日誌風の散文は、砂浜にたたずんで沖をみつめるのに似て、例えば「現代詩が壊滅状態にある現在、俳句から口語自由詩を再構築する道が何処にあるのかを問わなければ、小生にとって一切が無意味なのです。」という一節に、こちらもさざ波が立ちます。句集では、「少年」を詠んだ句が10句、「少女」が7句。少年句は、「湧き水を汲む少年の腕細し」といった少年時代の自画像や「少年の胸に負け鶏荒れ止まず」といった動的な句が多いのに対し、少女句は、「ゆうだちに赤い日傘の少女咲く」「草青む少女の脚の長きかな」というように、そのまなざしには遠い憧憬があります。なかでも掲句(2003年8.19)は憧憬の極みで、少女は月光を吸って、胸の中で光合成をしているような幻想を抱きます。少年の動物性に対する少女の植物性。少女を呼吸器系の存在として、その息づかいに耳を遣っているように読んでしまうのは的外れかもしれません。ただ、この一句に翻弄されて、言葉の海の沖の向こうに流されました。ほかに、「『少年』を活字としたり初詩集」。(小笠原高志)
橋多き深川に来て月の雨
永井龍男
深川…江東区一帯には河川や運河が多い。したがって橋の数もどれほどあるのか詳しくは知らないけれど、大小とりまぜて多いはずである。まだ下町情緒が濃く残っていた時代、月をめでながら一杯やろうと意気ごんで深川へやって来たのだろう。ところが、あいにく雨に降られてせっかくの名月が見られない。あるいは雨はこやみになって、月かげがかすかに見えているのかもしれない。そうした情緒も捨てたものではないだろうけれど、やはりくっきりとした名月を眺めたいのが人情。下五を「雨月かな」とか「雨の月」などと、文字通り月並みにおさめずに「月の雨」としたことで、句がグンと引き締まった。口惜しさも嫌味なくにじんでいる。「秋の暮」ではなく「暮の秋」とするといった伝である。龍男の句は多いが、月を詠んだものに「月知らぬごとく留守居をしてゐしが」「月の沓萩の花屑辺りまで」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
高稲架やひとつ開けたるくぐり口
染谷秀雄
稲穂の波が刈り取られ、乾燥させるために稲架を組む。5段も組めば大人の身長はゆうに越え、規則正しく組まれた黄金の巨大な壁が出来あがる。一面の青田も、稲穂も、そして稲架もあまりに広大すぎると、まるでもとからそこにあったかのように景色に溶け込んでしまうが、高稲架にくぐり口を見つけた途端、ここを行き来する人の生活が飛び込んでくる。この広大なしろものが、すべて人の手によるものであったことに気づかされる。ひ弱な苗から立派な稲穂になるまでの長い日々が、そのくぐり口からどっと押し寄せてくる。苦労や奮闘の果ての人間の暮らしが、美しく懐かしい日本の風景として見る者の胸に迫る。〈月今宵赤子上手に坐りたる〉〈鳥籠に鳥居らず吊る豊の秋〉『灌流』(2013)所収。(土肥あき子)
内緒話皆聞こえさう月の道
牧野洋子
女子会という言葉が一般化しています。掲句はまぎれもなく女子の句です。なぜなら、作者が女性だからです。いや、そんな単純なことではありません。男子の内緒話なら、もっと淫靡で句にうしろめたさが醸し出されそうですが、それが全くない明るさがあるからです。女子が内緒話をするなら、恋話(コイバナ)でしょう。恋話は、つねに未来形です。これは、『源氏物語』以来の伝統なのではないでしょうか。この物語が、貴族の子女たちの未来の結婚と男女の関係を教育する物語であり、少女漫画が、恋愛の予防接種のような役割を果たしているように、女子は、男子よりも数年先を生きる性です。だから、一般的に、夫よりも妻の方が年下なのかもしれません。ただし、これには多くの異論があります。内緒話をしながら月の道を歩くのは、二人か三人。内緒話だから、ひそやかな声だから、それは心の声なので、皆聞こえそう。聞かれては困るけれど、この気持ちは届いてほしい。月の道を歩きながら、この心の輝きを月が受けとめて、かの人を照らしてほしい。今は女子会といいますが、これは、乙女心という言葉がふさわしいでしょう。「内緒話」の字余りに、心に余る思いを託しています。また、上五から、漢字五文字を続けたことで、乙女心の複雑さを暗示しています。『蝶の横貌』(2014)所収。(小笠原高志)
まづ月を見よと遅れて来し人に
安原 葉
東京の十五夜はあいにくの天気だったが、九月九日十六夜の満月は美しかった。その夜は雑居ビルの一角でがやがやと過ごしていたが、八時を回ったころから入れ替わり立ち替わり連れ立っては月を見に表に出た。まさに月の友であるが、ビルの壁と壁の間の狭い空に見える月もなかなかいいね、などと言い合いながら数人で空を見上げてぼーっとただ立っている様は、傍から見ればやや不審だったかもしれない。俳句に親しむ人々はことに月に敏感で月を好む。掲出句も佳い月の出ている夜の句会での一句だろう。句意は一読してわかりやすいものだが即吟と思われ、省略の効いた言葉で一場面を切りとることで、句座の親しさとその夜の月の輝きを思わせる。『生死海(しょうじかい)』(2014)所収。(今井肖子)
京に二日また鎌倉の秋憶ふ
夏目漱石
漱石の俳句については、ここで改めて云々する必要はあるまい。掲句は漱石の未発表句として、「朝日新聞」(2014.8.13)に大きくとりあげられていたもの。記事によると、明治30年8月23日付で正岡子規に送った書簡に付された九句のうち、掲句を含む二句が未発表だという。当時、熊本で先生をしていた漱石が帰京して、根岸の子規庵での句会に参加した。この書簡は翌日子規に届けられたもの。そのころ妻鏡子は体調を崩し、鎌倉の別荘で療養していた。前書には「愚妻病気 心元なき故本日又鎌倉に赴く」とある。東京に二日滞在して句会もさることながら、秋の鎌倉で療養している妻を案じているのであろう。療養ゆえ、秋の「鎌倉」がきいているし、妻を思う漱石の心がしのばれる。未発表のもう一句は「禅寺や只秋立つと聞くからに」。こちらは前書に「円覚寺にて」とある。同じ年、妻を残して熊本へ行く際、漱石が詠んだ句「月へ行く漱石妻を忘れたり」は、句集に収められている。(八木忠栄)
月の夜のワインボトルの底に山
樅山木綿太
人がワインを手にしたのは古代メソポタミア文明までさかのぼる。醸造は陶器や革袋の時代を経て、木製の樽が登場し、コルク栓の誕生とともにワインボトルが普及した。瓶底のデザインは、長い歴史のなかで熟成中に溶けきらなくなったタンニンや色素の成分などの澱(おり)を沈殿させ、グラスに注ぐ際に舞い上がりにくくするために考案されたものだ。便宜上のかたちとは分かっても、ワインの底にひとつの山を発見したことによって、それはまるで美酒の神が宿る祠のようにも見えてくる。ワインの海のなかにそびえる山は、月に照らされ、しずかに時を待っている。〈竜胆に成層圏の色やどる〉〈父と子の落葉けちらす遊びかな〉『宙空』(2014)所収。(土肥あき子)
どろどろのマグマの上のかたき冬
水岩 瞳
マグマといえば、噴火で流れ出た溶岩を思うが、本来は地下の深部にあるもの。あらためて地球の内部構造の解説を見てみると、今から約46億年前に誕生して以来、地球はマグマの海に覆われ、そののちゆっくりと表面が固まったと説明されている。地球の直径は1万km以上で、人間が掘ったもっとも深い穴は10kmほどというのだから、地球の内部のほとんどを人間はまだ見ていないことになる。宇宙も神秘だが、地中も神秘に満ちている。地球の薄皮一枚の地表の上で、冬が来たと右往左往する人間がことさらが愛おしく思えるのである。〈この道の草に生まれて草の花〉〈円かなる月の単純愛すかな〉『薔薇模様』(2014)所収。(土肥あき子)
マラケシュに水売る男つばくらめ
中島葱男
マラケシュはモロッコ中央部の都市。アトラス山脈のうち最も険しい大アトラス山脈の北に位置し、「南の真珠」と呼ばれてきた。そんな地方に生を受け一生をそこに埋める土着の生活がある。その日その日を糧を得るだけ働き明日の事を考えない。この男も水売りとして何疑う事なく日々を過ごしている。そんな男の傍らを翼を展ばしたつばくらめがすいすいと飛んでいる。そして又明日は旅の鳥となって山脈を越えてゆくのであろう。さて土着と旅と二つの営みの選択をどう選ぼうか。他に<うぶごえはそのみどりごのゆめはじめ><草清水きららの石を積みにけり><月天心まつすぐ跳ねるマサイ族>など。「丘ふみ游俳倶楽部」(2008年号)所載。(藤嶋 務)
翼あるものみな飛べり夏の夕
井上弘美
鳥類は空中を飛ぶために前足を発達させ翼を得たと言われる。翼あるものみな飛ぶ、飛行機だって両翼を持っている。ギリシャ神話のイカロスは鳥の羽を集めて、大きな翼を造った。高く、高く飛んでしまったため太陽に近づくと、羽をとめた蝋(ろう)が溶けてしまったそうだ。とある夏の夕暮れにねぐらへ帰る鴉を飽きることなく見送って妄想を燻らせる。わが人体を如何に浮遊させんか、、、さてそれからの吾が夢は一体どこへ羽ばたくのやら、夜が短い。他に<母の死のととのつてゆく夜の雪><月の夜は母来て唄へででれこでん><花食つて鳥は頭を濡らしけり>などあり。『井上弘美句集』(2012)所収。(藤嶋 務)
消えかけし虹へペンギン歩み寄る
金子 敦
ペンギンは主に南半球に生息する 海鳥であり、飛ぶことができない。海中では翼を羽ばたかせて泳ぐ。海中を自在に泳ぎ回る様はしばしば「水中を飛ぶ」と形容される。陸上ではよちよちと歩く姿がよく知られているが、氷上や砂浜などでは腹ばいになって滑ったりする。飛ぶことを失った鳥。話は逸れるが、小生の周りにパニック障害に苦しむ者が居る。自分の行動が自分の意のままにならないのだ。勤めに出ようにもそこへ向かう一歩が硬直して踏み出せない。今空へ向かって飛出せないペンギンの姿が重なって見えてくる。真っ白な南極に七色の虹が掛り今消えかかっている。普段見慣れぬ虹に見とれていたペンギンが、もう少し夢の時間を惜しむかのように歩み寄って行った。もしも飛べたなら空へ向かって羽ばたいたろうか。それでもペンギンは消えかけた虹へ向かってよちよちと歩み寄って行くのであった。他に<メビウスの帯の中なる昼寝覚><月の舟の乗船券を渡さるる><白薔薇に吸ひこまれたる雨の音>などあり。『乗船券』(2012)所収。(藤嶋 務)
名月やマクドナルドのMの上
小沢麻結
切れ字が効いています。それは、遠景と近景を切る効果です。また、月光と人工光を切り離す効果もあります。句の中に二つの光源を置くことで、「名月」も「M」も、デジタルカメラで撮ったように鮮明かつ双方にピントが合った印象を与えています。視覚的にはフラットなイメージを受けますが、名月を詠むからには、自ずと先人たちの句を踏まえることになるでしょう。名月を入れた二物を詠む場合、先人たちは山や雲や樹や水面など、自然物と取り合わせる詠み方がふつうでした。例えば、其角に「名月や畳の上に松の影」があります。これも、切れ字によって空間を切り分けていますが、掲句と違う点は、光源が名月だけである点と、時の経過と風の有無によって「松の影」が移ろう点です。これに対して、「マクドナルドのM」は停電しないかぎり変化しません。それは、都市の記号として赤い電光を放ち続け、街々に点在しています。ところで、句集には「月探す表参道交差点」があります。これをふまえて掲句を読むと、「名月」は、あらかじめ作者の心の中に存在していただろうと思われます。その心象が現実を引き寄せて、都市の記号M上に、確かに出現しました。それは、Meigetsuと呼応しています。『雪螢』(2008)所収。(小笠原高志)
人の灯を離れて神の月となり
内原弘美
月もいよいよ細くなり本日の月の出は午前三時過ぎだが、今年は佳い月が楽しめた。ことに満月、自宅ベランダから見ていると、新宿のビル群とその先の東京タワーの間に見え始めてからしばらくの間妖しいほどに赤かった。〈ビルにぶつかりながら月昇りけり〉(内原弘美)。ゆらりゆらりと街の灯を脱ぎ捨てながら昇ってゆく月は、濃い闇の中で次第に強く白く、孤高の存在となっていった。地上にゆらめく灯はそこに生きとし生けるものと共に存在し、天心に輝く月は変わらず神々しい光を放ち続ける。人の灯、神の月、短い一句の中にある確かな表現が大きい景を生み、人と月との長く親しい関係をも思わせる。掲出句はいずれも『花鳥諷詠』(2015年10月号)所載。(今井肖子)
門近く酒のいばりすきりぎりす
木下杢太郎
酒呑みならば、誰もが心当たりのあるような句である。「酒のいばりす」とは言え、まさか酒そのものが小便をするというはずは勿論ないし、「いばりすきりぎりす」とは言え、きりぎりすが小便をするというわけでもない。今夜どこぞでしこたまきこしめしてきたご仁が帰って来て、門口でたまらず立ち小便している。(お行儀が悪い!と嘆く勿れ)そのかたわらできりぎりすがしきりに鳴いているーーという風情である。そろそろ酔いも覚めてきているのかもしれない。もう少し我慢して家のなかのトイレで用をたせばいいものを……敢えて外で立ち小便するのがこたえられないのである。わかるなあ! しかも、かたわらではきりぎりすが「お帰りなさい」と言わんばかりに鳴いている深夜であろう。今夜の酒は、おそらく快いものだったにちがいない、とまで推察される。飲んだとき、秋の俳句はこうありたいものだと思う。杢太郎が詠んだ俳句は多い。ほかに「ゆあみして障子しめたり月遅き」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
どうせなら月まで届くやうに泣け
江渡華子
どうしようもなく泣く赤子に焦燥する母の姿というと竹下しづの女の〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎〉があるが、いくら反語的表現とはいえ世知辛い現代では問題とされてしまう可能性あり。ひきかえ、掲句のやけっぱちなつぶやきは、おおらかでユーモアのある母の姿として好ましいものだ。赤ん坊の夜泣きとの格闘は、白旗をあげようと、こちらが泣いて懇願しようと許されない過酷な時間だ。愛しいわが子がそのときばかりは怪獣のように見えてくるのだと皆、口を揃えるのだから、今も昔も変わらぬ苦労なのである。続けて〈「来ないで」も「来て」も泣き声夏の月〉や〈笑はせて泣かせて眠らせて良夜〉にも母の疲労困憊の姿は描かれる。とはいえ、子のある母は若いのだ。健やかな右上がりの成長曲線は子のものだけではなく、母にも描かれる。100日経ったらきっと今よりずっと楽。がんばれ、お母さん。『笑ふ』(2015)所収。(土肥あき子)
菜屑など散らかしておけば鷦鷯
正岡子規
鷦鷯(ミソサザイ)は雀よりやや小さめの日本最少の小鳥である。夏の高所から冬の低地に移り住む留鳥である。根岸の子規庵は当時の状態に近い状態で保存されている。開放されているので訪れる人も多い。そこに寝転んで庭を眺めていると下町の風情ともども子規の心情なんぞがどっと胸に迫ってくる。死を覚悟した根岸時代の心情である。病床の浅い眠りを覚ましたのはミソサザイのチャッツチャッツと地鳴き。これが楽しみで菜屑を庭に撒いておいたのだ。待ち人来るような至福の喜びがどっと襲う。ここでの句<五月雨や上野の山も見あきたり><いもうとの帰り遅さよ五日月><林檎くふて牡丹の前に死なん哉>などが身に沁みる。高浜虚子選『子規句集』(1993)所収。(藤嶋 務)
冬空は一物もなし八ヶ岳
森 澄雄
前書に、「甲斐より木曽灰沢へ 十句」とある中の四句目です。二句目に「しぐれより霰となりし山泉」があります。山あいの泉を訪ねているとき、しぐれは霰に変わり、寒さの実感が目にもはっきり見える趣きです。この二句目は、しぐれ、霰、泉という水の三つの様態を一句の中に盛り込んでいて、掲句の「一物もなし」に切れ味を与えています。諏訪盆地あたりから見た八ヶ岳でしょうか。独立峰ではなく連山を下五に置くことで、広角レンズで切り取ったような空の広さを提示しています。この冬空は、水気が一切ない乾燥した青天です。ところで、当初は七句目の「山中や雲のいろある鯉月夜」を取りあげるつもりでしたが、単独で読むと句意も季節もはっきりしないので、断念しました。「鯉月夜」は、たぶん造語です。木曽谷の山中に移動して、月夜の空を見上げると、雲の色彩によって、それが鯉の鱗のように見えたということでしょうか。鯉の養殖が盛んな土地でもあるので、今宵の食卓に鯉こくを期待する心が、雲を鯉に見立てさせたのか。恋しいに掛けたわけではないでしょうが、鯉月夜という語が食欲と結びついた風景なら、茶目っ気があります。なお、十句目の「やや窶(やつ)れ木曽の土産に山牛蒡(ごぼう)」以外は叙景の句なので、鯉こくを食べながら月夜を見ているのではなさそうです。と、ここまで書いて、「ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん」という声が聞こえてきました。「鯉月夜」とは、池の水面に雲と月が映り込んでいるその下で、鯉がひっそり佇んでいる。そんな写生のようにも思えてきました。宿の部屋から池の三態を眺めているならば、これも旅情でしょう。『鯉素』(1977)所収。(小笠原高志)
香水に思い出す人なくもなし
清水哲男
増俳満了まであと6日。今日が最後の火曜日です。読者であった10年と、書き手となった10年の思い出が錯綜します。パソコンにはショートカットキーなるものがあります。ことによく使われているのがundo(アンドゥ)と呼ばれる復活のコマンドです。左隅のCtrlキー(macだとコマンドキー)を押しながらZを押すと、ひとつ前の動作に戻ります。これを覚えておくと、うっかり消してしまった画面や、誤った選択をしたとき元に戻ることができるのです。人生にはたびたびこの復活のコマンドが使えたらどんなによいかと思う瞬間が訪れます。掲句で思い出される人とは、遠い過去の知り合いでしょう。香りの記憶はさまざまな思い出を引き連れて、やや強引に迫ってきます。下5の言い回しは作者特有の恥じらいと、すべて思い出すことへのためらいを感じさせます。作者はふっと横切る香りのなかで、復活のコマンドを使うことなく、おそらく固有名詞さえ思い出すことを封じて「なくもなし」と完結します。清水さんの俳句作品には〈四股踏んで雀の学校二学期へ〉〈だるまさんがころんだ春もやってきた〉のような相好が崩れる愛らしいものと、掲句や〈釣忍指輪はずして女住む〉〈糸の月人に生まれて糸切り歯〉のような臈長けた色香が混在することも特徴です。ときに甘やかに、ときにクールに、絶妙な匙加減で読者を楽しませてくれるのです。『打つや太鼓』(2003)所収。(土肥あき子)
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