Facebook石井数俊さん投稿記事 『非物質存在に委ねる』
頭脳で考えるということは、ロボットがプログラムされたことを実行するのと同じです。
それに気付いたのは、素晴らしいと感じる創作をした人は決まって「一瞬で閃いた」とか「自分の身体を神の一部としている」などと話していたからです。
私は音楽に傾注していたので判り易い話をします。
譜面の読み書きもしないし音楽理論も全く知らない人が、直感から湧き出るままに創った曲には名曲が多い。
音楽大学を出て理論に強い人が作った曲は聞いていてすぐにそれと判ります。
考えて作っているので、誰の何を参考にしているとかがすぐに憶測されるだけで何も感動しません。
もうおわかりいただけましたでしょう。
頭脳は模倣をするためのパーツで、ハートは創造をするパーツなのです。
学校教育とは人間を機械のようにコントロールするためのもの。
直感や良心とは、心が非物質情報を受信している信号です。
高学歴な人ほど創造性に乏しいのはそれを目的としているのだから当然の結果です。
創造的な人には義務教育でさえも苦痛となります。
その事に気付き出す人が今の調子で増えれば、人間社会はもの凄い勢いで変わります。
ケン ウィルバーbot
わたしは、すべての優れた芸術に共通のものを思い出す。それは息を呑ませる力だ。文字通り、事実として、あなたは内面的に息を止める。一秒か二秒の間、芸術が文字通り、あなたを打つ。(p.276)
息を吐き切れば 自然に沢山の息が入ってきますね。沢山の感動を世界から受け取ることになるのでしょうか?
自分の呼吸に意識を向けて ゆったりと深い呼吸をすれば 命のつながりを取り戻すことになるでしょう。
息の仕方は生き方。
https://www.shichida.jp/ogikubo/archives/389 【豊かな感性を育てる俳句の暗唱のすすめ】より
本日は、七田式に通う子どもの成果をご紹介します。
横浜港北教室に通うM.Hちゃん、4歳。
この冬についに小林一茶の俳句100句をすべて暗唱できるようになったのです。
俳句の絵を見た瞬間にその句をすべてイメージして、すらすらと言葉にして出すことができるそうです。
俳句の暗唱はその記憶力を高めることも効果としてとても高いですが、それより更に感性の部分や表現力へとても効果的に働きかけてくれます。
皆さんは落ちた葉っぱを踏んだ時に聞こえる音に耳を傾けたことがありますか?
俳句の暗唱を頑張ってくれたお子様に何の音に聞こえる?
と聞くと様々な答えが返ってきます。
「コンフレークを踏む音に聞こえた!」「葉っぱや地面が歌ってる!」
俳句を暗唱することで、物事をいろいろな角度から感じ取れるような豊かな感性を育ててくれます。
鳥が数羽、木にとまっている様子を見たときに、
「鳥が枝にとまっている」と事実だけを感じるのではなく、
「鳥が木々の葉っぱでかくれんぼしている!」と感じ、表現できる力を育ててくれます。
M.Hちゃんは100句すべて暗唱をし、培った表現力を使って七田式コンクールの詩部門へ応募をしてくれました。
そして見事入選!入選作品をご紹介させていただきます。
【入選作品】 おふろだいすき
わたしおふろだいすき シャワーはあめみたい だっておみずがたくさんふってくるから
じゃぐちはおはなみたい だっていろんないろがはなびらみたいだから
シャンプーとかはしゃぼんだまみたい だってあわがたくさんでてくるから
おふろはうみみたい またみんなでいきたいな おふろってたのしい
いかがでしたでしょうか?
ぜひ、日々の取り組みの中で俳句の暗唱を取り入れてみてください!
http://mokuenn.jugem.jp/?eid=203&PHPSESSID=2vhbvlh9v7oh5ll4v1gkun6uf0 【感性と理屈】より
句会で議論が白熱することがある。
寒晴やかすかに蓮の乾く音 健治
この句は多くの票を集めた。多分、「蓮の乾く音」という措辞が静かで殺伐とした蓮池を連想させ、凛とした季語「寒晴」と相俟って、枯れゆく蓮の生命の終焉を美化した処に心を惹かれたのだと思う。私も、その一人であった。しかし、異論が出て来たのだ。”「蓮」といえば「蓮の花」のことであり、「寒晴」の季節に蓮が咲くことはない”と、いう意見である。この「蓮は蓮の花のことである」と云う断定にも問題が有るが、もっと大切なのは、「寒晴や」と上五に詠っているから、「蓮」といえば「枯蓮」を想像するのが普通であり、これが感性であり、理屈を述べてはいけないと思うのである。しかし、この異論者は言を強くして、引き下がらなかった。
枯蓮
俳句は「詩」であるから、理屈を貫けば答えられないことがある。
閑さや岩にしみ入蟬の声 芭蕉
『おくのほそ道』に所収されている立石寺での芭蕉の句であるが、理屈をこねる人は「硬い岩に、蝉の声が入る訳が無い」と云うであろう。「しみ入る」と感じるのは芭蕉の感性であり、理屈では説明できないものである。そこを理解できる人でないと、この句の良さは分からない。やはり、一つの句を理解するには、読者の感性も磨かねばならないと云うことであり、理解できたと云うことは、作者と同じ域に達したと云うことであろう。虚子は「選は創作である」と云った言葉が、胸に響く。
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