「ホツマ伝え」考 ①

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/jyokodaico/hotumatutaeco/hotumatutaecowhat2.htm 【【馬野周二氏の「ホツマ伝え」考】】より

 秀真伝(ホツマツタヱ)が今年から数えて1870年前に編纂された文書であることは、諸方面からの検討によって確実である。しかもその内容の約7割は、さらにその時点を遡ること794年、神武天皇即位前8年(紀元前668)に書かれていたと推測して誤りないと思われる。全編12万余字から成るこの秀真伝は、その成立の深さ、伝承の深さにおいて、今日に完全な形で残る世界最古の古典と言えよう。始皇帝の焚書坑儒の故事にまつまでもなく、歴史書は常に時の権力によって弄ばれる。秀真伝もその例外ではなく、すでに仏教伝来、蘇我氏専権のころから受難が始まったのではないかとも考えられ、ついに道鏡専横の時代に社会の表面から秘匿されてしまった。ところが江戸時代安永年間(1772~1780)になって忽焉とその姿を現した。その間一千余年の消息は杳として知れない。琵琶湖西岸のいずこかに、密かに護持されてきたものであろう。実に不思議な生命力を持つとしか考えられない。

 しかしこのようにして一旦は露頭した秀真伝も前途多難であった。これを冥闇から世に出し多年困苦の研究の後、漢訳したのは、秀真伝作者である神武朝の大臣奇甕玉の命の、遥かな裔孫であると言う三輪安聡(和仁估安聡)であった。他にも律宗僧溥泉などが研究しているが、いずれも後継者を得ず再び世に隠れんとしたが、ここに伊予宇和島小笠原一族が現れ深く研究するに至った。小笠原家では江戸末期から大正年間まで秀真伝の研究が続けられたが、その後は中断状態になっていたところ、戦後になって松本善之助が奇縁をもってこの書物に出会い、以来鋭意専心研究に打ち込むとともに、散逸した諸本の蒐集に盡力された。同氏の業は単にホツマ研究に止まらず、国史の破邪顕正の上から大書すべき功績である。

 では古代日本の真正の歴史と道統を明らかに誌したこの文書が、なぜかくも長い年月の間、幾度も世に出んとして、しかも隠蔽されてきたのか。この疑問は日本古代史の核心に触れる問題を提起する。結論のみを述べれば、6世紀以来の外来思想、宗教、種族の流入によって古来の道統が廃れ、秀真伝が厳重に制止した《私》の利を計る《閥族》がはびこり、彼らは天皇家とその系譜、由緒、精神を明確に記した秀真伝を危険書として排除した。旧事紀、古事記、日本書紀は、この過程において出現した国定、即ち「閥族」定の史書であることは、秀真伝とこれらの内容を比較すれば直ちに判明する。我々はいまにしてこの旧紀、記、紀の忌むべき虚構と恣意しいを剔抉しなければならぬ。

 つまりこの三書では秀真伝に書かれている遠古から上古に至る真正の歴史は完全に捨て去られており、これらは秦氏、蘇我氏など閥族の都合により編纂されたものである。『秀真伝』と旧紀、記、紀を比較すれば、そのことは客観的に明瞭となる。記、紀は以後今日まで歪められた古代史像を政治、社会、学術の全面に亘って強制してきた。日本古代の道統を固守すべき古社が、記紀の束縛から一歩も離れ得ないと言うのは、まことに悲しむべき状況としなければならない。日本古来の道統を研究すべき諸大学の国史学科、特に神宮皇學館あるいは國學院が、記、紀の呪縛から逃れこの秀真伝の真価に一日も早く気付かれんことを願うものである。

 このような事実は記紀、すなわち国許、官製歴史に対しては、疑うべからず、ましてや一指も触わるべからずと言った、萎靡したその日暮らしの心理に、神道関係者が陥っていることを示す。一般の古代史学者に至っては全く驚愕すべき状況に長く止まっている。明治時代から秀真伝は勿論、その他上記、富士古文献、竹内文書などが世に出ているにもかかわらず、帝国大学国史学科を先頭として、アカデミーの世界ではこれらを完全に無視してきた。彼らにとってこれらは存在して、しかも存在しないのである。敗戦後の今日では事態はさらに悪化していて、虚構に屋上屋を重ねる状況に至っている。

 この幾重にも重層された虚構のもとは、蘇我氏専横の時代に、彼らの国権纂奪の野望を遂げんとして、太古以来の天皇家の比類ない遠い歴史と高い精神を湮滅させるべく、偽りの歴史、旧事紀が聖徳太子、蘇我馬子、秦河勝によって編まれ、以後その史観が、諸種の理由によってそのまま踏襲され、一世紀後の古事記、日本書紀に至ったものであろう。以後今日までの長大な時間の間、記紀神話が疑うべからざる真理として社会に固着した結果、これを真向から否定する秀真伝が、世に出るべくして出られなかったのは良く分かる。

 奇怪と言おうか当然と言おうか、敗戦後この記紀神話は心無き歴史学者によってますます歪曲の度を強め、日本の所謂神代史は醜いものに作り上げられてしまった。なかんずく悪質なものは、最も尊貴であり人類の精神文明の根元に連なると結論される天皇家について、朝鮮半島から移動してきたと言った賎しむべき説を公布して得々たる特定の国史学教授輩である。日本書紀を忠実に解釈すれば、必ず天皇家の出目、日本国の根據について疑を抱くようになる。つまり記紀はそのために編纂されている。文献批判の学者・津田左右吉は記紀を冷静に分析して、そこに書かれている天皇家を否定したが、それは当然であった。

 ここで考えて見なければならないのは、なぜ千年の完全な埋没の後、安永年間になって秀真伝が地中から姿を現し、以来断続的に露頭し、維新前後に高度な研究が世に出、そして敗戦後の今日、ようやく本格的に研究が興るようになったのか、という理由である。すでに述べたように、今日の世相はむしろますます古代の高度な精神性から離れる様相を増していると言うのに、少数ではあるが高度な研究者が現れるに至っていると言うことは、アナクロニズム、一時の徒花ではないか、と問うのが一応の事情を知った人達の心の内であろう。世の本質に関わる事物は、決してそれ自体の稟質のみによって顕れるものではなく、その時代の性向、思潮の内奥の動きから、自ずから隠顕するものと思う。私の文明理論によれば、世界文明は全体として或る統一的プログラムに沿って変動展開して行く。日本とヨーロッパの歴史は、巨視的には同時的に相似であり、概ね同時代に同様の社会状態になる。安永年間はヨーロッパでは産業革命が興り、政治革命が始まり、過去の遺制(アンシャン・レジーム)が崩壊していく時代であった。アメリカの建国もフランス革命もこの時に起こっている。日本での政治変化はなお極めて微温的ではあったが、社会思潮の上からははっきりと同期した変化が認められる。秀真伝が千年の眠りから揺り起こされたのは、正にこの世界普遍的社会潮流のなせる業なのである。徳川中期から国学が勃興し、維新前に強烈な国粋理論家平田篤胤 が活動したのも、西洋の力が日本に打ちかかる事態に対する歴史の一つの仕組であろう。

 このような歴史理解から現在を眺めると、幾人かの高度な研究者が現れ、発行部数が万を超える秀真伝解説書が出ると言うことは、それが正しく歴史必然を示していて、その延長上には、現在とは異なった世界が開けてくることを黙示していると考えられる。

 すでに私が他の書で述べたように、黒船に始まった日本VS西洋の対決は、文明の全相に亘ってその最終相を、いよいよ露呈してくる筋合いである。この衝突に際して、日本も西洋もその依るべき本源は自らのアイデンティティであるより外はない。日本の宗源は天皇であり、これが外来であると言った証言に惑わされていては、敗亡の運命が待つだけである。秀真伝は皇室と日本民族の由来が千古に亘って一系であることを、精密に、そしてあふれる詩情をもって伝えている日本の聖典であり、この書が18世紀後半以来姿を現わしてきて、その研究が末広がりの状況になってきていることは、そこに一つの歴史の構造を見る気がする。

 秀真伝の言文を初めて見る人は、誰しも怪訝の感に打たれる。奇怪な文字で綴られているからだ。私もまた同様であったが、いろいろ考えて見ると、これは素晴らしい構造性、理論性を持った、世界に冠絶する、超越した最高の文字であることが判ってくる。友人である米国の文字学者は、これがイギリスで数世紀前まで残っていたルーン文字に似ていると言い、ユーラシア大陸の両端の島にこのようなものが残っている事実に注意したいと述べていた。

 文字がすでにこのような超越的合理性を具えているが、さらにその内容に到っては、真に驚倒すべき古代史の実相を伝えている。すなわち記紀では空漠たる神の座にある天照大神は、現実には男性の人体であり、神武天皇の生誕より暫く前、猿田彦に洞穴を掘らせて自ら隠れ給うた。後年の日本の尸解仙の伝統をここに見ることができる。

 さらに驚くべきことの一つを挙げれば、かの西王母が天照神在世中に3度に亘って来日している記事がある。中国に穆天子伝という古書があり、東周穆王(紀元前1001~947)が遠く西遊して西王母と瑤池に觴したと出ている。今日の、天山北路ウルムチの西方46キロの天山山脈中に天池という所があり、往昔、穆王と西王母が会したところとする伝承が今に残っている。

 ここに詳細を述べる余裕はないが、深く考究した結果、私は秀真伝の記述も穆天子伝の記事も正しいと結論する。すると天照神はきわめて高齢まで生きておられたことになる。秀真伝を書いた時、著者大直根子は234歳と述べている。余りの長寿に信を置かない人が多いだろうが、大昔の日本は非常に清浄な霊地で、この程度の寿命は実際にあったものと思う。秀真伝の他の記述の厳密性から見てこの年数は信頼し得るであろう。勲功を加齢をもって報いた風習もあったかもしれない。

 心なく頭脳薄弱な今日の古代史家、考古学者によって、日本古代は蒙昧な縄文時代と片付けられているが、それは現代人の倨傲であって、すでに今日発掘されている遺跡、遺物は高度の文明の存在を証している。多くの栽培植物の存在、山形、富山、福井で発見された穴を穿った柱、朱漆塗の櫛などは秀真伝の人達の日常生活を彷沸させるものである。能登半島には巨大な木造遺構が見出されている。いずれも5千年以上前の古代に遡る。さらに最近は驚倒すべき5千5百年前の大遺跡も現れている。

 秀真伝によれば、イザナギ、イザナミももとより人体であって、日本列島全体を騎乗巡回し「アワ(天地)の歌」を教え住民の言葉を正した。言葉の乱れは社会の乱れなのである。かくして和歌の淵源は遥かに遠く深い。万葉集に見るような秀れた修辞は、当時のゆっくりとした時代においては、その完成に数千年を要したであろう。和歌の起源は遠く縄文時代奥深く遡る。

 もとより秀真伝の時代、縄文を深く遡るころから、列島は全域一元的に天皇家によって統治されていた。虚心に諸方面の情報を総合して、これは正しい。神武天皇の紀年はおろか、その存在まで否定するのが現在の歴史学会の趨勢すうせいである。

 不逞言うべからざる学匪の猖獗としなければならないが、錯誤乱脈の根因は、彼ら個々の頭脳の問題であるのみでなく、日本の学会の因循姑息にある。今の歴史学会の状況が続き、誤った日本古代史が引き続き世にはびこって行くならば、日本は遠からず危殆に瀕する。

 われら日本人にとって秀真伝は自らの根源を明らかにする史書である。それは尊貴高潔で、しかも情緒深く、さらに霊界との交流がほの見える人倫の至極を歌っている。この日本の本質と源郷を明らかにする秀真伝を今こそ広く江湖に進めなければならぬ。ここに秀真伝が一刻も早く世に広まらんことを祈念する所以である。

 平成8年5月30日 馬 野 周 二

【原田実・氏の「ホツマ伝え」考】

 原田実・氏の「秀真伝が語る太古ヒタカミの神々」を転載しておく。

 歴史は日高見から始まる

 一九九四年、青森市郊外の三内丸山遺跡で今から約四五〇〇年前(縄文中期)の巨大木造建築跡が発見されるという事件があった。残された木柱の太さから推定して、そこにあった建物は高さ十メートル以上にもなったはずだという。さらに同じ遺跡の住居跡等の調査により、集落そのものの発祥は、その建築よりもさらに一五〇〇年ほど前(縄文中期)まで遡ること、しかもその集落の規模は縄文時代としては全国最大級であることなどが判明した。また、その柱穴の間隔は規則的で、八戸工業大学の高橋成侑教授はそこから三五センチもしくは七〇センチを基礎単位とする「縄文尺」の存在を推測している(『東奥日報』平成六年七月二九日、九月十五日、他)。

 これまでにも石川県のチカモリ遺跡や真脇遺跡、群馬県の矢瀬遺跡などで木柱跡が見つかっており、縄文時代の巨大建築の可能性がささやかれてはいたが、三内丸山遺跡での発見はそれを裏付けるものとなった。だが、太古東北地方における巨大建築の存在は、すでにある文献によって暗示されていたのである。その文献こそ、日本のイリアッドとも言われる叙事詩『秀真伝』である。『秀真伝』第二紋によると、天地開闢、陰陽が別れた時に始めて現れた神をクニトコタチ(国常立尊)という。そして、この神が治めた国土をトコヨクニ(常世国)といった。クニトコタチはト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メという八降りの神を生み、それをトコヨクニから諸国土に派遣して治めさせた。これが諸国の王の始まりだという。各々の割り当ては明記されていないが、その内「ト」の神はハラミ山(富士山)に都を定めたという。

また、「カ」の神が治めたという国から、ニシノハハカミ(西王母)が来日したという記述があるため、その範囲が西域方面を含む中国大陸であることはまず間違いない。

 『秀真伝』の特徴は、この始源の場たるトコヨが天上の理想郷であるとともに、具体的な地上の国土でもあると見なしているところにある。それは陸奥国、ヒタカミといわれる領域であった。つまり、世界は日本、それも東北地方の一角から始まったというわけである。そして、『秀真伝』によるとその日高見国はまた天皇家の原郷・高天原でもあった。『秀真伝』では繰り返し、古代の東北地方に巨大建築が造営されたことを語っている。その一つはクニトコタチが人民を生み出すための産屋としてであり、それはまた神社建築の起源でもあったという(第二一紋)。また、出雲の国譲りの後、津軽岩木山のふもとに隠退したオオクニヌシが、造営したという大本宮の話もある(第十紋)。

 六国史などの正史では、東北地方といえば、大和朝廷による侵攻と征服の対象としてのみ語られており、そこに高度な文化があったことは認められていない。そうした東北地方観は今もなお尾を引いている。たとえば現代の蝦夷征伐といわれる六ケ所村核燃基地問題などにも、東北地方への蔑視が再生産された形で反映しているのではないか。それだけに『秀真伝』の日高見高天原説は、単に古代史の異説として興味深いだけではなく、現代的な意義さえ帯びているといえよう。

 タカミムスビの日高見国統治

 「日高見国」という国名の文献上の初出は『日本書紀』景行天皇二七年、東国視察を終えた武内宿禰の報告の中にある。「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並びに椎結け、身を文けて、為人勇み悍し。是を総べて蝦夷と曰ふ。亦土地壌えて広し。撃ちて取りつべし」。また、景行天皇四十年には、日本武尊が東国遠征からの帰途、陸奥国から常陸国に入るところで「日高見国から帰りて」という一節がある。これで見ると景行紀では、日高見国は常陸国よりも北にある国土とみなされていることが判る。ちなみに北海道の地名「日高」は明治時代、景行紀の日高見国にちなんでつけられた名である。

 一方、『釈日本紀』『万葉集注釈』所引の『常陸国風土記』逸文には、日高見国とは常陸国信夫郡の古名であるとされている。『常陸国風土記』序文には「古の人、常世国といへるは、蓋し疑ふらくは此の国ならむか」という一節があり、常陸国と常世国を結びつける伝承もあったことがうかがえる。しかし、『秀真伝』に関する限りでは、そのヒタカミおよびトコヨは陸奥国を指すとみるのが妥当である。

 クニトコタチからヒタカミを受け継いだのは、記紀神話でもおなじみの高木神ことタカミムスビ(高皇産霊尊)であった。タカミムスビはヒタカミから富士山をはじめ世界各地に降臨した天八降りの神の統治を助けた。その時、タカミムスビはトコヨを象徴する木である橘を富士に植えさせたため、富士山は橘香るカグヤマ(香久山)として讃えられた。タカミムスビの第五世は、天上に座す四九柱の神々をヒタカミの地に勧請して祭った。以来、ヒタカミは地上の高天原となり、国は栄え人々の暮らしはうるおった。そのため、タカミムスビ五世はトヨケと呼ばれることになる(伊勢外宮の祭神・豊受神のこと)。

 ある時、トヨケは人民の数が増え過ぎたため、それを統治できるだけの神がいないことを嘆いていた。トヨケの娘イサナミは、その父の嘆きを鎮めるため、自ら世嗣の御子を産みたいと申し出た。トヨケは喜んで、葛城山に斎場を造り、天からの子種が得られるように祈った。これは現在の奈良県葛城山系、金剛山の中腹にある高天彦神社(祭神・高皇産霊尊)の起源説話であろう。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地として鳥越憲三郎から注目された所である。

 男神アマテルの誕生

 さて、イサナミは夫のイサナキと共に諸国を廻り、神々を産んだ。二人の結婚の儀が行われたのは常陸の筑波山であった。しかし、その最初の子は女子であったため、岩楠船に乗せて捨てられ、摂津国の住吉神に育てられた。この女神をヒルコ(蛭子)またはワカヒメ(和歌姫)という。この漂流譚は現兵庫県西宮市の西宮神社、通称「エベッさん」の起源説話らしい(祭神・蛭子神)。

 イサナミは次の子を流産した後、富士山でイサナキとの婚儀をやり直し、ついに望む男子を産んだ。それは日神たるウヒルキ(大日霊貴)である。この神はアマテル(天照大神)とも呼ばれ、富士山に留まることになった。なお、記紀では周知の如く天照大神は女神であったとされている。この神を男神とするのは『秀真伝』の特徴である。ちなみに記紀の天照大神の女性的要素が、『秀真伝』では、ヒルコの属性とされているらしい。次にイサナキたちは筑紫でツキヨミ、熊野でソサノヲを産み、この一女三男の神に天下をまかせることにした。

 さて、『秀真伝』第四紋によると日神は生まれた時、エナに包まれ、まるで卵のような姿で生まれたという。トヨケはそれを瑞兆として喜び、自ら櫟の木の枝でエナの中から御子を取り出すと、シラヤマヒメ(菊理媛ともいう。加賀一の宮白山神社の祭神)に預け、産湯をつかわせた。神官の持つ笏が櫟に定められたのは、この故事によるという。これは中国や朝鮮の神話によく見られる卵生伝承(王朝の始祖が卵から生まれたという神話)を連想させる。また、イタリアの歴史学者カルロ=ギンズブルグによると、エナを被ったまま生まれた子供は長じて優れたシャーマンになるという観念はヨーロッパから東アジアまで汎ユーラシア的分布を示しているという(竹山博英訳『ベナンダンティ』せりか書房)。いずれにしろ、この種の異常出産は聖者の誕生にはつきものの話である。

 アマテルはヒタカミのヤマテ宮で、トヨケから天の道を学び、長じては富士山に最初の都をおいた。その後、アマテルは伊勢の伊雑宮に遷都し、皇太子オシホミミを得た。だが、アマテルの十二后の一人、ハヤコが熊野のソサノヲと密通し、彼をそそのかして反乱を起こさせた(第七紋)。反乱が鎮圧された後、反省したソサノヲは今度はハヤコの怨念が凝り固まった八岐大蛇と戦い、さらに反乱軍の残党を自ら討って朝廷に赤心を示した。こうしてソサノヲはヒカワ神の名を賜い、出雲に鎮まったという(第九紋)

 このあたり、『秀真伝』の語り口は、素朴な神話というよりも、浄瑠璃の王代物を思わせるものがある。実際、このソサノヲの活躍には、近松の『日本振袖初』から借りたとおぼしきモチーフが見られるのである(拙著『もう一つの高天原』参照)。ちなみに出雲大社本殿の背後には須佐之男命を祭る社がある。また武蔵一の宮氷川神社の祭神も須佐之男命である。

 ヤマテ宮はどこか

 オシホホミは即位後、都をトヨケの故地、ヒタカミのヤマテ宮の跡に置くことにした。その都はまたタガのコフとも名付けられたという。さて、このヤマテ宮とは、いったい何処のことであろうか。「ヤマテ」を仙台の訓読みとすれば、それは現在の宮城県仙台市方面に求められることになるであろう。『秀真伝』においては、漢語をむりやり読み下したような語彙は、他にもしばしば見受けられるところである。また、仙台をあえてヤマテと読むことで「邪馬台国」と関連付けるつもりだったのかも知れない。

 日本では新井白石や本居宣長が研究を始めるまで、邪馬台国の名は魏志倭人伝よりも、むしろ日本の未来を予言したという『邪馬臺詩』の方でよく知られていた。「タガのコフ」を多賀の国府、すなわち多賀城(多賀柵)のことだとすれば、そこから仙台市までは十キロほどしか離れていない。有名な多賀城碑文によれば、この城は神亀元年(七二四)、陸奥按察使の大野東人によって置かれたものだという。もっとも仙台とは、もともと青葉城が国分市の居城時代、千代城と呼ばれており、それを伊達政宗が仙台城と置き換えたところから生じた地名だそうだから決して古いものではない。多賀城の国府もまた、当然ながら神代まで遡りうるものではない。この種の時代錯誤は「古史古伝」では珍しいものではなく、むしろその真の成立年代を考察する上での貴重な手掛かりとなりうるものである。

 日高見国の衰退とヤマトタケ東征

 だが、オシホミミが皇子のホアカリとニニギを西方に派遣した後、ヒタカミは次第に衰微し、逆に西日本ではニニギの子孫である大和朝廷が勃興してきた。『秀真伝』第三七紋によると、タジマモリは垂仁天皇からトコヨに派遣されたが、彼が帰朝した時、天皇はすでに崩御していた。彼は嘆き悲しみ、朝廷がヒタカミとふたたび友好を結ぶための方策を遺言してこの世を去った。タジマモリの常世国往来は記紀にも語られているが、その所在は明らかにされていない。それに対して『秀真伝』はそれをヒタカミと明記している。

 景行天皇の皇子ヤマトタケ(日本武尊)は、タジマモリの遺言に導かれて、東征の旅に出た。ヒタカミの長ミチノクは津軽の長シマヅミチヒコ、東北諸国の国造五人、県主百十四人とともにヤマトタケの征旅を阻もうとした。ミチノクは筑紫から出て大和を奪い、いままたヒタカミをも奪おうとする大和朝廷の侵略性をなじった。

 それに対してヤマトタケは、神武天皇の東征はナガスネヒコの反乱を鎮めるためのやむを得ない措置だったと述べ、ミチノクにその用いている暦を聞いた。ミチノクが伊勢の暦だと答えると、ヤマトタケは、日神を祭る伊勢の暦を用いている以上、その伊勢の暦を用いるのは当たり前だと説いた。ミチノクは抗弁することができず、ヤマトタケに服することになった。ヤマトタケはミチノクとシマヅミチヒコを改めて現地の長に任じた。

 以上の問答は『秀真伝』第三九紋に記されている。話は飛ぶが、『将門記』によると平将門が挙兵して新皇を称した際、彼はその王城に八省百官を置いたが、ただ暦日博士だけを置くことはなかったという。時間の支配は国家の特権である。逆に言えば時間に支配を及ぼせない国家は将門の坂東国家の如く不徹底なものにならざるを得ない。ヤマトタケはミチノクのその不徹底さをついたというわけである。

 ヒタカミとの国交を回復したヤマトタケは、帰朝の途上で死ぬ。皇子の死を悲しんだ景行天皇はその足跡をたどって東国を巡行し、夢にヤマトタケがヒカワ神(ソサノヲ)の転生であることを悟って、『秀真伝』全四十紋は終わる。その結末を見ると『秀真伝』とは本来、ヤマトタケに捧げられた長大な鎮魂歌だったのではないかと思われてくる。

 『秀真伝』の可能性

 『秀真伝』は近世以降、一部の僧侶や神道家の間で、神書として珍重されていたものである。それが「古史古伝」研究者の話題に上るようになったのは、昭和四一年、松本善之助が古本屋の片隅でその写本の一部を見つけ、解読と探究に乗り出してからである。その著者はオオタタネコに仮託されている。記紀によればオオタタネコは三輪氏の祖、三輪山の神の子もしくは子孫であり、崇神天皇の御代に流行った疫病を祓ったという人物である。『秀真伝』はそのオオタタネコが景行天皇に捧げたものだという。

 しかし、先述したような時代錯誤の記述や近世以降の語彙なども散見されるため、実際の成立ははるかに新しいものと思われる。おそらく、これを最終的に完成へと導いたのは、安永年間(一七七二~一七八〇)の修験者・和仁估容聰こと井保勇之進であろう。この人物は家伝の書と称する『秀真伝』を、近江国高嶋郡産所村の三尾神社(現在は廃社)に奉納した張本人であり、さらに宮中にも献上せんとしたと伝えられている。彼が住んだ高嶋郡一帯には、『和解三尾大明神本土記』『嘉茂大明神本土記』『太田大明神本土記』『子守大明神古記録』『三尾大明神略縁起』『万木森薬師如来縁起』など、内容や用語に『秀真伝』と共通性のある寺社縁起が数多く残されている。これらは一見、『秀真伝』の傍証となるようだが、実は、井保勇之進は大正十五年の『高島郡誌』で、すでに寺社縁起偽作の常習者として、名指しされているのである。偽書作成に際し、傍証となる品を神社などにあらかじめ納めておくのは、よくある手口の一つにすぎない。

 しかし、『秀真伝』の現存テキストが安永年間頃の成立だとしても、それでこの文献のすべてが無価値になってしまうというわけではない。今から十五年も前、『秀真伝』の再発見者たる松本を囲んで、この文献の研究者たちが座談会を開いたことがあった。その席上で、ヒタカミの所在を旧満州方面に求めようとする鹿島曻氏に対して、松本は次のように答えている。「私は反対です。その一つの根拠は、(陸奥国に)式内社が百もあるという事実です。千年も前に百社もあったということは、東北がかなり前から開けていたことの証拠であります。それから縄文土器が東北にたくさん出ておりまして、西の方よりも早く開けたということが言えると思います。しかも『秀真伝』全体の感触から言って、日高見というのは他の国よりもずっと古い。高皇産霊神から始まっておりますから、東北ということは動かないと思うのであります」(「『秀真伝』の諸問題(続)」『歴史と現代』第一巻二号)

 弥生時代以降はいざ知らず、縄文時代までの日本文化が東高西低であったことは、すでに考古学的に証明されている。三内丸山遺跡の発掘はそのダメ押しホームランに他ならない。『秀真伝』はこれを予見していたのである。特異な伝承の書として、あるいは近世の神道神学の書として、『秀真伝』は今後いっそう研究される必要があるだろう。

 2000  原田 実

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000