Facebook立岩 司さん投稿記事
陰謀論は私のライフワークの一つでした。もう三十数年経ちました。今のネット社会はにわか陰謀論者には危険すぎます。
過去形なのは「陰謀論」はワナだったということが分かったからです。
馬野周二氏の過去からの提言!<壊される日本> 「心」の文明の危機
馬野周二・著 プレジデント社 1993年刊 より抜粋
「終わりに」
ころは日本の幕末だった。今はむしろ世界終末の気配が濃い。いつの時代にも覚者は稀少である。だが幕末には数多くの志士が自らの想いに命をかけた。平成のとろけた若者はいったい何を思っているだろうか。
今われわれに必要なのは、真実を曇りなく見抜くことである。いつの時代にもそれは時の権力によって隠されるのが常であるが、現在は衆愚政治の広範化、金銭経済の肥大、情報技術の革命によって、事実の隠蔽、虚構の造作は驚くほど盛大に進行している。
今の世界権力とはいったい何なのか。いかなる目的を抱いているのか。――それを考える自由は誰にでも与えられている。だがそれに気づく者はほとんどいないのが実情である。世にこれ以上危険なことがあるものではない。
人間にはそれぞれ持って生まれた性能と背負った宿命がある。世の危険を予感し察知する能力は、少数の人たちにしか与えられてはいない。それを弁知し分析する知能を併せ持つ人に至っては、ますます少ない。さらにその危険の根因に思いをめぐらし、その正体を突きとめる人に至っては稀というべきだろう。
読者の身辺目先の話にたとえれば、先ごろのバブル(経済)の顛末を見通した人は稀だ。ところが問題はそこに留まらない。覚者の警告は大衆によって無視される。逆に世相の短気のベクトルを増幅して益もない言説を流し虚名を求める者たちは数多い。これらの者の吹く笛の音に迷わされ、どれだけの人が大金を失ったか。いつの世にも変わらない大衆の悲哀である。さらなる厄介は、稀少なる世の覚者を大衆は嫌がる。目先の欲得に水を注すからだ。
金を失うくらいならば大したことではない。個人であれ国家であれ、元通り心を入れ替えて働けば済むことだ。しかし、もしバブルがこれらから金を抜き取る計略であっただけではなく、日本の人と社会を壊滅させる計画の一環であったならば、実に恐るべきことだろう。読者の深考を促したいところである。
これからのわが国の政治、社会は腐敗の度を深めてゆき、長期暗夜の時代に入るおそれが大きい。かくて、どこにその根因があるかわからないままに、表面的な対症療法で時を過ごし、病巣はますます体内深く入り、ついに斃死するに至る。
殷鑑(いんかん=失敗の先例)はアメリカにある。これは200年前につくられた人工国家である。「人工」であるからには設計図があるし、工事を指揮した者がいるはずだ。それは誰だろうか。この国と社会はこの30年間にツルベ落としに落下した。この現象も「人工」であるはずだ。200年にして壊れるように設計してあっただろうからだ。
今にして思うのだが、日本もまた130年前、幕末維新の時、不完全ではあっても同じ手によって「設計」されていたのではなかったか。それを完成するのが「平成維新」ではないのだろうか。その手に悪魔の刻印が捺されていたとしても、それに気づく人は寥々(りょうりょう=非常に少ないこと)たるものだろう。
もとより建国や維新はその時代の要求に応じたものであり、それなりの必然性があった。それを否定することはできない。革命、戦争、恐慌もまた同じ。人心と体制は変化を拒む性質がある。しかし世は進む。変化は必然である。だが悪魔がその「間」に入ることにわれわれは注意しすぎることはない。
馬野周二氏の紹介
馬野周二氏の歴史工学概論 要約
①馬野周二歴史論=歴史工学:鉄鋼生産量、人口等のデータ推移を数学的に処理すると歴史が予測できる。
②同歴史論によると現代活きている文明は第Ⅲ文明の日本文明およびヨーロッパ文明と、第Ⅳ文明のアメリカおよびソ連、のみである。第Ⅲ文明は第Ⅱ文明の辺境地域の日本(中国文明の辺境)と西ヨーロッパ諸国(ギリシャ・ローマ文明の辺境)で同時発生した同種文明である。
③第Ⅰ第Ⅱ文明は死滅してしまった。各文明の寿命は2000年~3000年である。第Ⅰ文明:エジプト、メソポタミア、インダス文明、第Ⅱ文明:ギリシャ・ローマ、インド、中国文明、である。
④第Ⅳ文明のアメリカおよびソ連は第Ⅲ文明の高度技術を広大な未開地に移植促成栽培したものであり寿命は短く20世紀末に滅亡する。(ソ連は1991年に滅亡したので予想は的中した、アメリカは生存中であるが衰弱していて滅亡は近い)
⑤21世紀は日本の時代である。
⑥中国、韓国、香港、台湾、インド、等は古い死滅した文明圏に属し文明を主導するような創造活動はできない。
⑦ここ200年間、世界を支配してきたのはイルミナティであり過去の大戦争は全て彼らが引き起こした。ナチス、ソ連、アメリカは彼らが支配した。
⑧日本の最大の敵国はアメリカである。このライバル関係は相手が死滅するまで止まない。
⑨現代は核兵器の登場で先進国どうしの戦争は不能であり、経済戦争にとって替わった。
⑩太古の縄文時代以前は日本は世界の先進地域であった。中国文明は日本の思想から成立した考えられる。日本の歴史書の古事記と日本書紀は大きく改竄されている。日本の正史は戦後発見された秀真伝である。同書によると天照大神は実在の人物であり男性である。全ての優れた技術や思想および人種は海外から渡来したと言うのは誤りである。そして日本には漢字の輸入以前に文字があり、秀真伝はホツマ文字で書かれている。
陰謀論は私のライフワークの一つでした。もう三十数年経ちました。今のネット社会はにわか陰謀論者には危険すぎます。
過去形なのは「陰謀論」はワナだったということが分かったからです。
https://www.sankei.com/article/20161215-3TPXALJJ2JLODFZS6TDOWXIACA/ 【日本最古?の神話「ホツマツタヱ」とは…古事記、日本書紀より古い?学界は疑問視も愛好家の研究盛ん】より
多くの謎に包まれた古代史の世界で、50年前に国内で発見された「ホツマツタヱ(秀真伝)」という歴史書が一部の愛好家たちを惹きつけている。漢字が伝わる以前の日本にあった「ホツマ文字」という文字でつづられ、古事記や日本書紀よりも古い書物…と愛好家は信じる。もちろんさまざまな矛盾点から学界では疑問視する声が強いが、研究熱は止まず、11月には発見50年を記念した全国フォーラムが同書の全巻が見つかった滋賀県高島市で開かれた。関係者は「ホツマ文字」で書かれた文献はまだどこかに眠っている、と大真面目だ。歴史ファンを熱くする「ホツマツタヱ」っていったい何?
古代の国造り描く!?
「再発見50高島ホツマツタヱ縄文ロマンの集い」と題したフォーラムをのぞくと、全国から集った約400人の愛好家たちで熱気に満ちていた。ホツマツタヱの研究会は、東京、滋賀、岩手、徳島など全国10数カ所にあり、数百人が所属しているという。
隔月発行の同人誌「検証ほつまつたゑ よみがえる縄文叙事詩」の編集長、原田武虎さん(54)によると、「ホツマツタヱ」は「天・地・人」の3部で構成する約12万文字、全40巻の書物。古事記、日本書紀の「記紀」と同様、古代の日本の国造りを描いているとされる。
発見された書は江戸期に製本されたもので、○や△のような形で表した「ホツマ文字」で書かれ、隣に漢文の「翻訳」がついている。「アマテラスオオミカミ」や「イザナミ」に相当する人物も登場するといい、記紀を下敷きにしているのでは、との自然な疑問が生まれるが、原田さんは「皇室関係の系図がより明確に描かれ、歴史の理解が進む」と話す。
全40巻発見!!
「再発見50高島ホツマツタヱ縄文ロマンの集い」の井保國治実行委員長(51)によると、昭和41年8月、出版社「自由国民社」の編集長などを務め、古代史の研究者でもあった故松本善之助氏が東京・神田の古書店で「ホツマツタヱ」の一部の写本を発見したことが、今につながる研究の始まりだった。
松本氏は知人の国学者などに冷ややかな目で見られながらも、独自に研究を進める。全40巻を探し求めるなかで、四国の旧家に残っていた写本に「高島郡の某から借りて写した」との記述を発見、滋賀・高島市を訪れる。そこで知り合ったのが、土地の旧家の井保家だ。今回の実行委員長を務めた井保さんも一族にあたる。
そして平成4年、高島市安曇川の日吉神社の蔵から全40巻が発見された。実は井保家の先祖が漢訳を完成させ、神社に納めていたのだ。書籍には安永4(1775)年と制作年代の記載があった。全巻が見つかったことで、一気に「研究」が進んだ。
日本古来の文字!?
内容はほとんどが古事記、日本書紀と同じ時系列、同じ内容で描かれている。違う点は、記紀はすべて漢字で表記されていることに対し、「ホツマ文字」が使われていることだ。
古代から高度な文化水準を誇った日本では、漢字以前に独自の文字を持っていたとする説もある。その疑問に答えるのがホツマ文字と「ホツマツタヱ」であると愛好家は口をそろえる。
ホツマ文字とは点や線で表される子音と、丸や三角で表される母音を合わせて発音がつくられる。それぞれの記号には風や水などの意味があるとされ、象形文字の要素もある。愛好家によって「ホツマ48音」という現代の50音表に相当する表も作られた。
アカデミズムからは…
ただ、現代のアカデミズムの世界では、記紀より古い時代の文字だとするホツマ文字はほとんど研究対象になっていない。記紀や万葉集などの分析から、当時は現代の5母音より多い母音で音が構成されていたと考えられている。
母音が5つで、しっかりと現代の50音に対応しているホツマ文字で書かれたホツマツタヱは「真偽があやしい」と、上代日本を専門とする関西地方のある大学教授は話す。「古代からかなりくだった時代に、誰かがこうあってほしいと思ったことを記したのだろう」と。
また、ホツマ文字だけで書かれた文献や、江戸期以前に書かれたホツマツタヱの書籍は見つかっていない。井保さんも「もっと古い時代に書かれたホツマツタヱが出て来れば信用度も増すのですが」と話す。
高島の“ブランド”に!?
学術的な評価という点では分が悪いホツマツタヱだが、「固定ファン」をしっりつかんでいる点では古代史の奥深さを感じさせる。全巻が見つかった「聖地」の高島市も、地域活性化に活用したい意向だ。
今回のフォーラムを後援した高島市教委は「信憑(しんぴょう)性が判断しづらい」としつつも、「そもそも研究は自由で万人に開けたもの。市外の方々が高島市に来ていただけるのはありがたい。今後もイベントを後援するなどの形で積極的に見守りたい」とする。
前述の大学教授は「学生時代にホツマを知ったとき、古代に独自の文字があったのだと想像してロマンは感じた」と話す。教授によると、ホツマツタヱのように、古事記以前に書かれたという歴史書は、東北で見つかったとされる「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」など複数あるという。
万葉集など古代から豊かな出版文化を育んできた日本。真偽はさておけば、さまざまな「歴史書」の作成は、その一端を表したものともいえそうだ。
https://blog.goo.ne.jp/teruyasu2012817/e/2ca7d90e9896ccea0f3a16e3e538749a 【秀真伝え~が、隠蔽(いんぺい)され続けてきた、政治的理由 】より
*************************************************************************************************
現在の日本において、古事記の位置づけはキリスト教における、聖書のように、神道の基軸となっています。それに対して、”秀真伝え”の研究がこれほど、一般的になってきたにもかかわらず、古事記の正統性に反論する立場をとるのは、これまで避けてきたところでもありました。
しかし、私は5年ほど前に、幽体の聖徳太子とのリーディングを行ったことを、今日ここに、初めて書きたいと思います。
まだ、秀真伝えが、これほど、世に知られていないときでした。ネットにもほとんど、その情報はありませんでした。或る日、霊能力者のかたと、談笑していたとき、突然、私の目の前に、姿なきエネルギーがあらわれて、頭を軽く垂れて、霊能力者の方は、”須田さんに何か、このかた、謝っていらっしゃる素振だけど・・”と、いぶがしげに、その事態を見てつぶやきました。
”しょうとくたいし”と言われている・・・とても、小柄な方なんですね・・・と、彼女には
そのエネルギーの幽体としての姿も見えていたようです。
”なぜ、ここに、聖徳太子?”と私が、いぶかった瞬間、あるメッセージを、受け取りました。
それが、今日、ここに書こうとしていることです。
秀真伝えの勉強会で、疑問が出ることは、”古事記、日本書紀など、日本には、多くの古文書が存在するが、いったい、’秀真伝え’とは?”、”古事記とどのように異なるのか?”、というような疑問を、多くの方が抱いています。
この答えを探るには、古事記のできた歴史的背景を、把握する必要がありそうです。
まず、”なぜ、秀真伝えが、日本の正当な古代からの精神文化をつたえているのか?”ということを考えてみましょう。そのお話しは、聖徳太子の時代に遡ります。
聖徳太子のお仕えした、天皇は推古天皇、女性天皇でした。蘇我馬子の姪御にあたる方です。その際、日本初の女性天皇、推古天皇を擁立するためには、秀真伝えの存在はネックになっただろう、ということです。
このブログで何度も取り上げてきましたように、古事記と’秀真伝え’の大きな違いの一つとしては、皇室の御先祖である”天照大神”は、古事記では女性神であり、’秀真伝え’では男性神であるということです。
’秀真伝え’が、その時まで、神道の古文書として、正統的価値を保っていたからこそ、天皇は、古代より男性であったという、超古代史の存在は、女性天皇を擁立するためには、不利になったことでしょう。
では、なぜ、女性天皇の擁立が必要であったか? 言い変えれば、それは、誰にとって、メリットであったのか?
といえば、当時の権力者、帰化人である、蘇我一族の為であったといえるでしょう。
その権力が肥大したため、聖徳太子亡きあと、”大化の改新”を起こした、中大兄皇子が、中臣鎌足とともに蘇我家を滅ぼし、日本古来の天皇制の国体に戻そうとしたことは、歴史上の大きな転換でした。
聖徳太子の時代は、仏教の伝来を奨励して、神道はそれまで日本の宗教柱でしたが、この頃から様相が変わっていくことにもなります。
それでは、なぜ、そうした大陸文化に重きを置いた政策を、聖徳太子が取ったのでしょう?
ここからは、私の受け止めたメッセージからの判断ですので、歴史的に、正しい見解か否かは、わきに置いてお読みください。
さて、聖徳太子が仕えた、推古天皇は、蘇我一族の血をひく、純粋血統から出ています。
母上は、蘇我稲目の女、そして、聖徳太子とともに、政治運営の実権を握っていた、蘇我馬子は、この推古天皇の叔父にあたります。
蘇我氏が権力を充分ふるうためには、まず、それまで残っていた、日本精神のよりどころや、行動基盤などを書き記した秀真伝えは、世の中から、消されました。
つまり、蘇我氏に都合の良い、新しい、日本古代文化史を編纂する必要があったのです。
それが、古事記であるというのには、時代が少し、異なります。古事記編纂は、712年です。
聖徳太子、蘇我馬子が活躍した時期は、600年前後ですから、この100年間の間のズレが気になります。
実は、古事記には、その大本となる文書が存在していました。
一つは、天皇系譜に関してまとめられた、”帝皇日継”と、古くからの伝承をまとめた、‷先代旧辞”です。
この二つの本が、秀真伝えに代わって、当時から活用されて、新しい規範となっていったと思われます。
実は、これらの本は、620年に蘇我馬子によって、記されたものです。当時の政治的権力の頂点にたつ、蘇我馬子が、”これこそが日本の、本来の歴史書と文化書である”と宣言すれば、誰もそれに反対はできなかったでしょう。
これらの本をもとに、百年後に太安万侶(おおのやすまろ)が、現代の神道の正統本とされる、”古事記”を編纂したのです。
簡単に言えば、蘇我馬子は’秀真伝え’を、封印して、古事記の大元になる、二冊の改ざんされた、天皇系図と日本古来からの伝承文化の歴史を、自ら、書き記したということになります。そこには、天照大神は、女性神として表現されていますから、馬子の姪御を、推古天皇として、推挙することが可能になりました。
一方、なぜ、ここで、聖徳太子という、純粋なる、日本の皇族の血を引いた方が、こうした忌々しき事態を、黙認されたのか・・・それには、深い理由があるようです。
ブログ冒頭にも述べましたが、5年前、私の目の前に、聖徳太子様とおぼしき方が、顕れました。
それをご覧になった人が、いつも、このブログで登場する、霊能力者のRさんです。
なぜか、聖徳太子とおぼしき方は、頭を垂れて、詫びを入れている風情でもありました。
そのとき、私は、古事記と、秀真伝えの、”位置替え”が、聖徳太子の時代に行われたことを、察知いたしました。
”位置替え”とは、’秀真伝え’に書かれている内容は、隠蔽されて、ほかの文書が、正統な日本の神話であると、認められたのです。
’秀真伝え’という、当時まで残されていた日本の超古代史本は、本来の日本人としての教育をうけたことが無い、帰化人、蘇我馬子によって書かれた二冊の上本にその正当性において、差し替えられたということです。
古事記と’秀真伝え’の中身には、確かに、共通した逸話などは沢山あります。しかし、古事記で読む逸話は、どうしても、ギリシャ神話のような、”神様のことを書いたつくり話”風の感が否めません。
神様の生まれ方、出現の仕方、その他にも、秀真伝えに、詳述されている内容は、かなり省かれているからでしょう。
一方、’秀真伝え’に、書かれている、天地創造から描かれる日本人のDNAの特性、農耕民族としての誇り、現代も伝統文化として残されている、和歌の心や、日本人の和合の精神や、赦しの精神;それは、はたれ魔という、魔性の存在と神の闘いの中に描かれ、科学的写実、たとえば、胎内の赤子の成長の仕方、天文学、宇宙の成り立ち、などなど、一言でいえば、”天なる道[天成神道]"を、現代にも通じる形で秀真伝えが、伝えていることは読んだ人誰でも、納得できるところだと思います。
さらに、干支の起源や、バラモン教から仏教、密教と、日本に伝わってきた印の組み方など、仏教や中国文化から伝来したと言われているいろいろな点が、実はすでに日本古代に
存在していた~つまり、むしろ、それらは日本から、世界に発信されたものではないか、
と思えるほどです。
こうした高度な文化を誇っていた事も、日本人としてとても誇りに思えるところであります。
今は、愛国心が薄れていると言われる昨今、イギリス歴史学者トゥインビーが言っていたように、こうした、古代から伝わっているお話しは、その民族の特性と誇りと愛国心を喚起するためには、大切だとも、感じるのです。
話を戻します。
このとき、顕れた聖徳太子のメッセージは、聖徳太子が摂政時代に、やむを得ず、秀真伝え’を、古事記の原本となる、蘇我馬子がしたためた古書と、真逆の立場に差し替えなければならなかった~ことへの複雑な想いでした。
どうして、そのようなことになったのか・・・太子の声なき返答はこうでした。
”大和を守るため”。
当時の富国強兵対策の鏡となる大国は、日本の対馬海峡を隔てたすぐ傍の、大陸にありました。それらの国々と、どこかで、妥協しながら、共存する道を選ばなければ、きっと、日本は、大陸から、植民地的な属国として、攻められたり、成り下がる可能性もあったのかもしれません。
聖徳太子は、帰化人である、蘇我氏を政治の執務者として容認し、しかし、共に働きながら、その動向をうかがい、日本を守るという極めて、戦略的な立ち位置をバランスをとりながら、保持していたのだろうと推測しました。
こうして、現代、さまざまな角度で多くの研究者が、”秀真伝え”の本を取り扱える時代に
なるまで、秀真伝えは、長い間、隠されて守られてきました。
たとえば、徳川家の血をひく、四国の小笠原家の蔵に、あるいは、滋賀県の琵琶湖
湖畔の田中神社という、小さな神社の中で・・・
小笠原家は、’小笠原流礼法’として 日本伝来の作法流儀を現代人にも伝え続けています。
こうして、’秀真伝え’を守り続けてきたということも、その流儀の奥深さを忍ばせる要因でも
あるでしょう。
一つ一つの、伝統作法の裏に、こうした、ご先祖様たちが守り通してきた、秀真伝えの
古代日本精神が、脈々と息づいていることを、とても、尊く感じます。
以上が、秀真伝えと、古事記の関連性と、大雑把な、歴史的背景のひとこまです。
0コメント