http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/jyokodaico/hotumatutaeco/hotumatutaecowhat2.htm【大宮司朗vs 武田崇元対談の「ホツマ伝え」考】より
「ホツマを語る 大宮司朗 vs 武田崇元」を転載しておく。
大宮 ホツマでいちばん興味深いのは、すべてが五七調の長歌というか和歌の形式で記されていることです。ホツマ研究の金字塔とも申すべき『完訳秀真伝』を完成された鳥居さんも「言霊ホツマ」とおっしゃっていますが、これは『言霊玄修秘伝』に一部を公開しました言霊の伝と深くかかわってきます。だいたい記紀でも秘事は歌に詠み込んでいる場合が多い。この言霊との関わりなんですが、ホツマはその由来として櫛甕玉命が編纂して淡宮に納めたというわけですが、淡宮はホツマの文脈では近江国多賀宮、つまり現在の多賀大社です。ところが、「多賀天津金木」という書物が存在するのです。
武田 天津金木学を復興した大石凝というのは甲賀の望月家で、多賀大社の神札を配っていたということですから、なにか大石凝系統の言霊学とホツマには共通のソースがあるように思われます。天津金木を組み立てた水茎文字とホツマ文字というのは、共通するところがあって、京都の陽明文庫に残っている「真澄の鏡」はホツマ文字で記されているのも不思議です。
大宮 いま淡宮(アワミヤ)の話をしましたが、そもそも「真澄の鏡」の75声は根の棚から天の棚という形でわけられていますが、その根の棚のところの根源は「アワヤ」なんですね。ですから、言霊、天津金木、ホツマというのは一連の脈絡があるわけで、これは史書という形をとっていますが、非常に霊的な内容のものだと思います。
武田 たしかに言霊学がわからないと解釈のつかないところが多い。そういう意味では、現代語訳や詳しい注釈がついておりますが、できれば原文を読んで自分なりの解釈というものができるぐらいになれば、思わぬ秘伝秘儀を発見することができるといえます。
大宮 ひとつ申しておきますと、アワというのは、渦巻なんですね。ホツマ文字では、それぞれ左廻り右廻りという形で天地の渦巻きを表している。アワはつまり天地の廻りによって森羅万象のものが出現することを意味している。渦巻きには左旋と右旋があり、さらに内聚と外発があります。この渦巻きによって生命の原動力が生まれます。これは太古神法においても重要な概念で、天津金木学でも、天の御柱を一本立てて、それの天火水地に合わせて天津金木を四本置いて、左旋右旋の渦巻きを、ひいては天地の根源のものを象徴するのです。秘伝秘儀ということでいえばいろいろありますが、たとえばホツマでは八方八降りのトホカミエミタメ八神について詳説しています。トホカミエミタメはトオカミエミタメと転化して禊教などで唱えられ、それ以前は伯家などでも奉じていましたが、さらに遡る口伝事項として「玄府感通秘辞」があって、そこでも唱えられていて、どうもその根源はホツマと関連しておるようです。八降り云々については、『玄秘修法奥伝』をよくお読みになれば、はっと悟られる処もあるかと存じます。やはり霊学というものは友清先生もいうように霊知学であって、知ることによって本当の力を得るというところがあります。ある秘辞をわけもわからぬままひたすらに唱えてもまったく効果がないわけではありませぬが、やはりその深い玄義を知るとは知らぬでは大きなちがいが出てきます。ホツマを読むことでいままでなにげなく唱えていた秘文が一挙に命をもったものとして立ち顕れてくるということも大いにあるわけです。
武田 ところで篤胤の『神字日文伝』にもホツマ文字が収録されていますね。
大宮 あれについては、ちょっと面白いことがあって、篤胤がホツマ文字として挙げているのは全部で4種類あって、そのうち四国から出土したという「土牘秀真文土秀真文」と「御笠山傳記」の二つは現存のホツマ文字と同じですが、「出雲国石窟神代文字」という別の文字が掲げられていて、出雲大社の近辺の晝島に石窟があって、その壁にこの文字が彫刻してあり、大己貴命がお作りになったと書かれています。ところが、これが宮地水位先生の伝と深い関係があって、詳しくは『玄想法秘儀』の83頁に記しておきましたが、水位先生の友人に川村茂之助という人があって、この人が大病したとき、その母親から家伝の巻物を託されるわけです。これがじつはホツマ文字の異体字ともいうべき出雲文字で書かれた一種の禁厭秘辞の巻物で、「外より感げたる病を禁厭ひ治す大名持の奇しき告辞」云々と書いてあったわけです。それで、ホツマに関しては偽書説もあるわけですが、水位先生はこう述べておられます。「偽書と字せるものの中に玉真を種として偽を加えたるが多し」「正真と思ふ物の中にも『日本書紀』の如きは偽りたる事多し。偽書と思ふ中にも正真なるものも含入せし事あれば書籍は見様がごく大事なり」と。
武田 これは大切な言葉ですね。偽書といわれているもののなかに案外と真伝が秘められ、そうかと思えば正史といわれる日本書紀のなかにも偽りが多い。だから古書に向かうときには鑑識眼が大切である。つまりこういう意味ですが、聖書などでも外典、偽典などといわれているもののなかに存外と重要なことが記されていたりするようです。それで、ひとつ気になっていることがあって、ホツマが伝えられたという三尾神社は、日本書紀に出てくる継体天皇の三尾別業のあったところだと考えられるわけですが、記紀は、武烈-継体で王権が実質的に切り替わったことを伝えており、このあたりがもっと考察される必要がある。ホツマではアマテラスが女神ではなくて男神であり、12人の后がいたと伝え、また卵から生まれたという卵生神話を伝えています。どうもこのあたりが、神道家のなかでもホツマを疑問視するひとつの根拠にもなっているようですが、わたしは時代を飛び越えて大本神話の変性女子、変性男子を連想するわけです。王仁三郎聖師によれば、アマテラスは霊魂はあくまで男性、スサノオは女性なんです。これが体のレベルではそれぞれ反対に女性、男性になってあらわれるということであって、これからすればホツマのアマテラス男神論というのもあながち根拠のないことではない。それで、王仁三郎の故郷の穴太の高熊山、ここで王仁三郎は初発の霊的体験をするわけですが、この高熊山には中央の政争に破れた武烈天皇の皇子が隠れ住んだという伝承があることを王仁三郎は『霊界物語』の冒頭でわざわざ記し、暗黙のうちにみずからを穴太の皇子に引き寄せているわけです。ここでごくごく対比的にいうと、『霊界物語』はスサノオ神話であるのに対して、いっぽうホツマはアマテラス神話、王仁三郎が武烈の皇子を象徴化すれば、ホツマは継体王朝を匂わせるという奇妙な対比が成り立つわけです。『霊界物語』とホツマというのはちょっと突拍子もない比較かもしれませんが、ホツマは全編これ長歌形式ですし、『霊界物語』でも非常に長歌形式が多用されていて、奥伝とされる「天祥地瑞」はほとんど長歌形式で語られているということは、何か時代を越えて共通する語り部の様式というものがあったのかもしれません。
大宮 ともかく『言霊玄修秘伝』でも明らかにしておきましたが、和歌の形式というのはもっとも言霊の発現に適しているわけで、出口王仁三郎が一日何百何千という歌を詠んだというのもやはりゆえあることなのです。
武田 いずれにせよ、ホツマの裾野は想像以上に広く奥の深いものがあるわけですが、幸いに本書は、現代語訳も親切な注解もあって誰でもかんたんにホツマの世界へと入っていけるわけです。どうか一人でも多くの人のご講読をお願いする次第であります。
【大宮司朗vs 武田崇元対談の「ホツマ伝え」考】
「『ホツマツタエ』について 」(2013-02-24)を転載しておく。
http://ameblo.jp/brb03010/entry-11477771137.html
昭和40年代の初め、松本善之助氏が「ホツマツタヱ」を発見されてからすでに30年をこえる。またちょうど同じ頃、ホツマ文字で記された大量の古代文書が福島県の山深い谷あいにある古い温泉宿で発見された。この文書は現在、宮内庁で保管され解明中の模様であるが、まだ発表されていない。「ホツマツタエ」はおそらくこの文書の中でも中核をなす文書と考えられる。千数百年を経た今日、まったく時を同じくしてこれらの文書が発見されたということに、私は神の配意があるように感じられて不思議な思いにかられる。
いま私たちが手にしている「ホツマツタヱ」は今からおよそ三千年前、イサナギ・イサナミの二神が、現代につながる稲作による国造りを始められ、その御子天照大神が大山本(大倭)に宮居を築いて国を開いた頃から政事の留書として書き継がれてきたものを、神武天皇の御代に、第六代大物主クシミカタマ(櫛甕玉命)が子孫のためにまとめて書き綴っておいたものに、その子孫大田田根子命(三輪氏)が景行朝において、ヤマトタケ(日本武尊)が東征の帰途、病を得て三重県能褒野で身罷られたのを悼んで、その後の歴史を書き加えて天皇に奉呈したものである。この折、もうひとりの大臣、大鹿島命(中臣氏)は「ミカサフミ」(神戴山紀)を書き記して、「ホツマツタヱ」と共に奉呈した。さらにこの時、天皇家では「カグヤマフミ」(香久山紀)を編んでおり、これらも宮内庁で保管されている文書の中に入っているものと推測される。
これら「ホツマツタヱ」などの文書は、奈良時代の壬申の乱(西暦六七二年)の後、「古事記」「日本書紀」の編纂による歴史改ざんの折、禁制の書として隠されてしまった。この時、三輪氏はこの歴史改ざんに反対して野に下ったものと考えられる。三輪氏の名はこの後、ふたたび歴史の表舞台に登場することはなかった。しかし、その子孫たちはひそかに「ホツマツタヱ」を書き継ぎ後の世のため残してきた。それが江戸時代末期、三輪氏七八世の裔孫という和仁估安聰(わにこやすとし)によって書き記された「秀真政伝紀」(ほつまつたゑ)を筆写した四国宇和島の住人小笠原通当(みちまさ)や一族の長弘、長武らによって世に出そうと図られたのであるが受け入れられなかった。
昭和の世になって松本善之助氏がたまたまこの一部を東京神田の古書店で発見し、それを辿って四国宇和島の小笠原家において全巻を見出し、世に広めようとして努められ今日にいたっている。その後、平成四年五月、和仁估安聰直筆の「秀真政伝紀」原本が滋賀県高島郡安曇川町鎮座日吉神社の神輿庫で、安聰の子孫にあたる井保吉兵、孝夫両氏によって発見された。この文書の復刻版は松本善之助氏をはじめとする同志の手によって出版された。拙著「ほつまつたゑ 全」はこの安聰本と底本として原文対照の現代文による訳文を掲げたものである。
「ホツマツタヱ」日本肇国歴史を古代ヤマトの文字と言葉で綴った全編一万行をこえる一大叙事詩であるが、それは単なる歴史書ではなく、祭政思想の書として天地創造・人類誕生の哲理と過程、国の形とそのあり様、夫婦の務めから子どもの教育の基本的考え方までも教えた文書である。この書のなかにはこれまでわれわれが知らなかった、あるいは誤解していた日本の文化、言葉、地名、風俗、習慣、行事などについての起源、成り立ち、神社の由緒など百科事典といってもよいほど多くの事柄が記載されている。「「ホツマツタヱ」を学ばずして日本文化を語るなかれ」といいたい。
『「ホツマツタヱ」がわかる本』平成十一年八月
『ほつまつたゑ 全』編著者 鏑 邦男
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