囚われの状態から自由になる

Facebook清水 友邦さん投稿記事·

自分の本当の心の声を聞かずに人の意見ばかり従って苦しんでいるのなら最も重要なことは

囚われの状態から自由になること

それは肉と皮を剥がれるのを大人しく待っている羊から百獣の王であるライオンに変容する事を意味しています。

以下、羊の群れの中で育ったライオンの子が、見つけられたライオンに連れ出されて初めて咆哮する寓話「獅子の咆哮」

『羊飼い達は、毎日羊の群れをつれて、森や草原を歩きまわっていました。

あるとき、川辺で羊たちに水を飲ませていると、薮のかげから小さな動物の鳴き声が聞こえてきました。

不審に思って声のするほうに行ってみると、一頭のライオンが死んで、横たわっていました。

そして、そのそばに、生後まもないライオンの子供が、死んだ母親にすがりつくようにして泣いていました。

羊飼いはかわいそうに思って、ライオンの子をつれてかえり、それを羊の群れのなかにいれて育てました。

ライオンの子は、ほかの羊たちと同じように育てられました。

そして、ライオンの子はミルクを与えてくれる羊を母親だと思い、一緒にミルクを飲む羊を兄弟だと思いながら成長しました。

大きくなるにつれ、ライオンの子は、自分がほかの羊たちと少しちがっていることに気づきはじめました。たてがみのところにふさふさした体毛があります。

けれども、ほかの羊のように全身をおおっているわけではありません。

声も羊より低音で、すこし奇妙です。それになにより、草を食べてもちっともおいしいと思えないのです。

羊は一日中草を食べて満足していますが、ライオンはそうではありませんでした。

まわりの羊たちは、ライオンの子を病気の羊という目で見ていました。

ある朝、羊たちはいつものように草原に散らばって、草を食べていました。

そこに一頭の大きなライオンがやってきました。ライオンは羊の群れに襲いかかるために薮に隠れて羊たちに近づきました。そして、どの羊を襲えばいいのか、羊の群れを眺めました。大きなライオンは、そこに信じられない光景を目撃しました。

羊の群れのなかに一頭の若いライオンがいたのです。まわりの羊たちはその若いライオンを怖がるわけでもなく、一緒に草を食べながらたわむれています。

大きなライオンは自分の目を疑いました。こんな光景は今まで見たこともなかったし、聞いたこともありませんでした。大きなライオンは藪から飛び出しました。

「ライオンだ!」羊たちは四方八方に逃げはじめます。

自分を羊だと思っている若いライオンも、ほかの羊たちと同じように必死に逃げました。

大きなライオンは羊たちには目もくれず、若いライオンにむかって一直線に走りました。

若いライオンも全速力で走りましたが、大きなライオンの足にはかないません。

とうとう、追いつかれてつかまってしまいました。

全身を恐怖で震えながら、若いライオンは泣いて許しをこいはじめました。

「メエー、どうか私を食べないでください。お願いですから、みんなのところへ返してください。メエー、メエー」自分を羊だと思っている若いライオンは、哀れな声で必死に嘆願しました。大きなライオンは、若いライオンを押さえつけながら言いました。

「おまえ、なにをバカなことを言ってるんだ! 自分を羊だと思っているようだが、ほんとうはライオンなのだぞ」若いライオンは意味がわからないという顔つきで、言いました。

「私はライオンではありません。羊です。生まれたときから羊の母親のミルクを飲み、羊の兄弟たちと草を食べながら生きてきました」

言葉で説明しても無理だと思った大きなライオンは、若いライオンの首根っこをくわえて近くの沼までひきずっていきました。

「目を開いてよく見ろ! 私の姿とおまえの姿を見れば、 同じだということがわかるだろう」若いライオンは、水に映ったふたつの動物の姿を見ました。それは驚きでした。

水面に映っている自分の姿は大きなライオンの姿よりほんの少し小さいだけで、まったく同じ姿でした。若いライオンは、その瞬間、すべてを理解しました。

長いあいだ、自分でも何かがおかしいと思っていました。

いくら羊たちのように振る舞っていても、そこにはいつも違和感があり何かがおさまりきれないもどかしさ、苦しさ、葛藤がありました。

一陣の風が吹き、彼ははっきりと自分自身を認識しました。すると、突然内側から大きな力が湧きおこりました。そして、それは抵抗できないほどの強烈さで一気に爆発しました。

若いライオンは全身をブルルッとふるわせると同時に、「ガオー!」というライオンの雄叫(おたけび)びをあげました。

それは、本来の自分自身を知った歓喜の雄叫びでした。』

(「TALES & PARABLES OF SRI RAMAKRISHNA」VEDANTA PRESS)

羊がライオンに成長したのではなくてライオンは最初からライオンでした。

問題は羊の社会で育てられた為に自分の本性がライオンだと知らずに自分が羊だと思い込んでいることにありました。

ライオンは羊社会の中で育つうちに自分は羊だとプログラミングされました。

思考が作り出す羊という偽りの自己を自分と思い込みました。

自分が羊だと思っている考えが外からプログラミングされたとは全く疑いもしません。

羊の家族や羊の仲間がその考えを補強するからです。しかし、何かおかしい変だという感覚は常に付きまといます。周りの羊とは声も姿も違うからです。

しかし、頭にはすっかり羊社会の信念体系が刷り込まれて羊の自我が形成されています。

外からの教育や経験による条件付けによるプログラミングが脳を支配してしまっているのです。

羊と思い込んでいるライオンは努力して羊を演じ続けるのです。

これが私たちに起きている事なのです。

頭の中の考えを自分と思い込んでいるのが自我です。

自分が羊だと信じ込んでいるライオンを言葉だけで目覚させることは容易ではありません。

ライオンがライオンになる為に努力する必要はありません。

羊の群れにいる若いライオンは気づいていてもいなくとも最初からライオンのままです。

自分がライオンと思っていないだけです。

最初からライオンですからライオンだという本性に目覚めるだけでいいのです。

羊と思いこんでいる夢から眼をさませばいいのです。「ガオー!」

清水友邦著「覚醒の真実」より

羊だと思っている頭をつかわずに自分の本当の姿を見ることが呼吸道です。


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【更新】20世紀後半に誕生した生命科学は「人間は生きものであり、自然の一部である」ことを明らかにしました。これを基に現代社会の価値観を見直していく上で、中村桂子先生が注目したのはなんと「アニミズム」。動植物はおろか無機物にまで魂があると考えるアニミズムが、実証的であることを旨とする近代科学と相容れないことは言うまでもありません。中村先生の意図は果たして?

https://www.toibito.com/.../%e7%94%9f%e3%81%8d%e3.../3465... 【生きものとして生きるということ【前編】】より

中村 桂子

「どう生きるか」という問いは、人類の歴史上、幾度となく繰り返されてきたものでしょう。しかし今ほどこの問いが、切実になったことはないのではないでしょうか。暮らしの基盤たる共同体が解体し、宗教もかつての力を失った現代、多くの人びとが何の支えもないまま、競争と自己責任の日々を余儀なくされています。私たちはいったい何を間違えてしまったのでしょうか。そして、本当に生きるとはどういうことなのでしょうか。ゲノムを基本に生きものの歴史と関係を読み解く「生命誌」の創出者、中村桂子先生にお聞きしました。

二つの世界

――この社会の問題というのはいくつもあると思うんですけど、そのうちの一つに、多くの人が、どのように生きるかを見失っているということがあるように思うんです。インターネットやらAIやらで世の中はたしかにどんどん便利になっているけど、本当にそれだけでいいのかなって思う人が――私自身も含めて――最近やっと増えてきたようにも見えるのですが、まずはその辺りのお話からお聞かせいただけますか。

 私は、人間は生きものという当たり前のことを基本に置いています。人間は生きものです、だから生きものとして生きましょうと。私は別に、生きものは素晴らしいとは思っていません。へんてこです。私たちはしょうがなく、そのへんてこなものとして生まれちゃったわけです。でも、生きものはとても面白い。ある意味、へんてこだからこそ面白い。自分も含めてです。

 それに比べて、科学の世界は「ちゃんと」しています。お月さまが動く動き方もりんごが落ちる落ち方も、ニュートンの同じ方程式でびしっと書ける。アインシュタインの理論は宇宙のすべてに通じる。人間はその科学の法則を使って、人工の世界をつくってきました。ほとんどの人がその世界にはまり込んだのは20世紀の後半、日本だと太平洋戦争の敗戦以降だと私は思いますが、ともかく人工の世界のものは、自動車でもカメラでもコンピューターでも、法則に則ってつくられ、法則の通りに動く。そういうものはとても扱いやすい。科学は進歩したと言いますが、その扱いやすいものだけの世界が進歩してきたわけです。

――なるほど。

 生きものたちの世界はそれとは違います。式では書けない。生きものとは何かというと、お勉強してらっしゃる方はよくご存じでしょうけれど、膜で囲まれている、代謝をしている、DNAを基本に複製・増殖する、進化をする。生物学という学問の中での定義はそれです。それはとても大事です。私はこれを勉強してきましたし、これを否定する気はありません。ただ、これはやはり扱いやすい世界を考える考え方での定義です。コンピューターも自動車も否定する気はない。その世界はその世界としてある。だけど、お日さまが照り、雨が降り、その中で日々暮らしている生きものをうまく捉える考え方をしたいのです。

――法則では扱えないものを。

 フランソワ・ジャコブというフランスの分子生物学者――ジャック・モノーと共にノーベル生理学医学賞を受賞した人ですが――がそれをうまく言い表しています。ジャコブは、生きものとは何かと聞かれたら、一番目が予測不能。二番目がブリコラージュ、つまり寄せ集め、三番目が偶然、偶有性。この三つだと。

 私はずっと生きもの見てきましたが、本当に予測できないし、寄せ集めだし、たまたま起こった、たまたま何とかなったということでぜんぶできています。したがって、へんてこりんです。月や星の動き、自動車、コンピューターといった、法則で扱えることをやってきた人間からすると一番分かりにくい。だから学問はここが一番苦手で、ずっと放り出されてきていました。

 でも、私たちの日常がどこにあるのかと言ったら、お月さまの世界でも、コンピューターの中でもない。地球上の、生きものの中にあるんです。私たちはずっとそこで生きてきたから、本来日常で暮らすのは得意です。お隣やご近所の方と一緒に暮らすっていうなら、何の問題もなく、楽しくやっていけるようにできています。

――そうですよね。

 ところが、世界を動かしている人たちが、あたかも法則で動く世界こそがこの世界のすべてであるかのように決めつけて、ぜんぶここでやれ、早く答えを出せと子どもたちを教育する。そういう世の中をつくってきた。

 私は生きものの世界の方が素晴らしいとは言いません。こっちの方が面倒です。面倒だけど、ここで生きるということが本当に生きることじゃありませんかと言いたい。どんなに面倒でも、わけが分からなくても、お互いに信頼し合いながら毎日を暮らして、一生を送りましょう。それが生きるってことじゃありませんかっていうのが、私がこの半世紀ずっと言い続けてきたことです。

――今の世の中はその真逆ですね。効率や便利さだけをひたすら追い求めてきました。

 法則や論理で世界を捉える、それも大事なんですよ。私も科学を勉強しまして、私の頭の中には論理があるわけですから、わかったことを活用していくのは大事だし、とても暑かったら熱中症にならないように空調を入れるとか、ご飯を炊くのにかまどじゃなくて炊飯器を使う。それは当たり前のことです。でも、人間を機械のように見てはいけない。この世界をまるで機械の世界のごとくに考えて、子どもまで機械のように育てようというのは違うでしょうって、ずっと言い続けてきたんです。残念ながら、世の中はどんどん機械の方に行ってしまった。

マルかバツか?

 この間、不登校の子どもたちのところへ行ってお話をしてきました。先生方はいじめなどで命が大事にされていないとお思いになり、私に、命は大事で素晴らしいという話をしてほしいとおっしゃいました。でも私は、命は大事で面白いとは言うけど、素晴らしいとまでは言いません。先生は命は大事とおっしゃいます。私もそう思う。だけどきみたち、今日、給食を食べたでしょう? そこに豚肉が出てきたよね。あれって何? 生きものでしょう? みんなそれをぱくぱく食べたじゃない。大事だから殺してはいけないと思いながら、そのお肉を食べないと、私たちは生きられない。

 たとえば私がダイヤモンドを大事で素晴らしいと思ったら、ずっと大事にできる。でも、命が大事って言っておきながら、次の日には殺して食べている。だから、命っていうのはとても複雑で分かりにくい。簡単に素晴らしいなんて言えない。

 大事は大事なんです。ブタの命だって、アリ1匹だって大事なの。いい加減につぶしちゃいけない。それは私が本当に大切にしていることで、たとえばその辺にある機械は1週間とか、どんなにかかっても数カ月とかで作れるでしょう? でも一匹のアリは、地球上に生きものが生まれてからの38億年という時間がなかったらここにいない。すべての生きものには38億年という時間が入っているんです。その時間への責任は、そんな簡単に取れませんよ。

――はい。

 でも、すべての命を大事と思いながら、それを奪うこともせざるを得ない。だから、命はマルかバツかでは決まらないのよという話をしました。そしたら中学2年生の男の子が手を挙げて、もう一回、マルかバツかっていうところの話をしてほしいと言うんです。「僕はこれまで学校でずっと勉強してきたけど、マルかバツかじゃないことがあるって、今日初めて聞きました。僕はそれをもっとよく考えたいから、もう一回話してほしい」って。きっとその子は、これまでにもとってもよく考えてきて、とってもよくわかってるから不登校になったのかなと思いました。でも中学二年生まで、学校でマルかバツかしか聞いたことがないというのが信じられない。

――すべてに「正解」があることを前提にして、子どもたちに知識を詰め込んでいくのがいまの教育だ、というお話はよく耳にします。

 学校ではマルかバツかで答えなさいと言われる。マルって言った人はよろしい、バツが正解ならバツって言った人はよろしい。その結果「マルかな、バツかな、そうじゃないこともあるよな」って一生懸命考えている子ははじかれてしまう。でも実際には、マルかバツかだけで世界がわかるわけないでしょう。マルかバツかでわかるのは機械の世界、そして、お月さまやお星さまの世界です。なぜ、いまここの世界のことを考えないの? そしてここの世界を考えるのに一番いいのは日常なんです。

――学問ではないと。

 学問はそれのお手伝いはできます。さっき38億年と言ったのは、でたらめではなく、私が一生懸命ゲノムの研究をしてきたから言えることです。この時間のことを考えたらアリでもいい加減に殺すことはできないし、子どもにもちゃんと殺しちゃ駄目よと教えられるでしょう。

 だからと言って蚊が腕にとまったときに「これも38億年だから」と言っていると、もしかしたら悪い病気になってしまう。アフリカだったらマラリアを運んでくることもあるから、ぱちんとたたかなければいけない。この辺はやぶ蚊が多いので、私は始終たたいてます。そのときに、あなたも38億年ねって言いながらたたく。命は大切だからたたかない、ということはできない。

 だから、マルかバツかじゃないんです。それがいちばん基本的なこと。お友達との関係だってそうじゃありませんか。今日はなんだか気に入らないこと言うなって思っても、次に会ったときには楽しくお話している。そういうことでしょう? それがこの頃はヘイトスピーチだとかで、マルかバツかになってしまうのは困ったことです。

――近ごろは人間のあり方まで、単純化してしまっている気がします。

 技術はどんどん進んできましたから、遠くの方とオンラインでお話をするとか、コンピューターを使って世界を広げていくのが悪いことだとは思わない。でも、それをやってるが故に思考方法までもがマルかバツかになってしまうのは駄目でしょう。

 コンピューターの中にあるのはすべて既知のことです。でも、自然の中を少し歩いたら未知のことだらけですよ。私たちはもともと、未知の中に暮らしてるんです。生物学なんて、何か質問されたらほとんどがまだわかってません、ですよ。38億年前に最初の細胞が生まれた。そのことはいろんな状況証拠があるから言えますけど、じゃあ、いつどこで生まれたのかっていうのはわかってない。生きもののことはまだ99%はわかってはいません。

――そうなんですね。

 一つわかるというのは、わからないことが100出てくるってことです。10わかると、今度は1万わからなくなる。研究というのは、やればやるほどわからない世界が広がっていくんです。

 世の中の人は間違っていて、科学者は答えを出す人と思っていますでしょう? 今回の新型コロナにしても、科学者に答えを求める。でも本当は誰もわかっていないんです。それなのにわかってることを言えと求められるので、仕方なくインチキを言ったりします。わかりませんって言えばいいんです。だって、わかってないんですから。

 じゃあ、わからないのになんで科学なんてやってるんだと言われたら、私はわからないことが増えるのが楽しい。だって、全部わかってしまったら怖いでしょう? もしも自分が生まれてから死ぬときのことまでがぜんぶ書いてある本があったとしたらお読みになります?

――読まない、というか読めないですね。

 でしょう。わからないことがあるということくらい、生きてる意味はないじゃないですか。勉強するほど、わからないことは増える。3歳のときよりも1年生の方が、中学校よりも大学に入った方がわからなくなる。それを楽しいと思う人が学者になるんですけど、わからないことを大事にするのは、どの世界でも必要なのではないかと思います。今はわかってるということをあまりにも大事にし過ぎてる。

――「正解」をどれだけ知っているかで競い合っている感じですよね。

 なんでそんなことが面白いんでしょう。誰も知らないわからないことを考えている方が面白いのに。

性と死

――先ほど38億年前に初めての生きものが生まれたというお話がありましたけど、それはどのようなものだったのでしょうか。

 最初に生まれた生きものは、今でいえばバクテリアのような単細胞生物でしょう。それが無性生殖、つまり分裂を繰り返して生きていたのですが、今から20億年くらい前に、大きな細胞の中に小さな細胞が入ってミトコンドリアなどをもつ「真核細胞」が生まれました。やがてこれが多細胞になって体を構成し、オスとメスができて、有性生殖で子どもが生れるようになる。と同時に、個体の死というものが生まれた。つまり、性が生まれなければ死もなかったわけです。

――もともと死はなかった?

 単細胞生物は、ほぼ無限に分裂する能力を持っています。乾燥して死ぬということはありますが。

――自分と同じものが分裂によって増え続ける。それはつまりゲノムが同じということですか?

 そうです。でも、オスとメスができたことにより、それぞれのゲノムが合わさって、唯一無二の個体が生まれるようになった。そこが面白いですよね。つまり命の続き方が、自分が分裂する方法から、自分は死んで次につなぐ方法へと変わった。なぜそうなったのかは知りませんけど、生きものの世界ではそういうふうになってきたんです、たまたまね。

――面白いですね! 自分が分裂するんじゃなく、子どもに自分のゲノムを託すと。

 そのときに、細胞として続くのは卵細胞です。精子はそこに入って自分のDNAを渡すけれど、細胞としては卵。だから女性は、分裂した自分の細胞が子どもになる。本当に続いてるんです。自分は死んでも、自分の細胞は続いてる。つまり、生物の世界はメスでつながってる。それは別にオスが駄目だということではなく、仕組みとしてそうなっています。

――その受精卵の細胞が分裂を繰り返して体を作っていくわけですね。

 DNAは変異しやすいので変わった細胞があちこちにいたりもしますが、もともとは受精卵の細胞です。だから私たちの体は、父親から半分、母親から半分もらったもので出来上がっている。親子というのはそうやってつながっています。

――生きものの定義のひとつは「進化する」ということでしたが、その進化はDNAが変わることで起きるということですか?

 DNAという物質はいろんな条件、たとえば紫外線が当たったりすると変化する性質を持っています。変わっちゃ困るよって言っても変わっちゃうわけです。だから、体の中でも変化していて、時にはがん細胞になってしまったりもするし、卵になるときに変化して進化につながりもする。DNAという物質が環境の影響によって変化するのだから、誰の意図でもありません。だから予測なんかできない。進化はこれからどうなりますかと言われてもNo one knows.です。

――進化というのはあくまでも結果であって、起きているのは物質の変化だってことですね。

 そうです。DNAの変化が現象の変化につながったときに、進化として認識される。だけど、どう変わるかはわからない。進化学という学問がありますが、それは地球上で事実こういうことが起きましたという話で、必ずこういうことが起きるということではありません。たまたまそうなりましたという話。

――DNAが変化しても生きものの形質は変化しないということもあるんですよね?

 DNAが変わったって何も起こらないことはいくらでもあります。

――それがちょっと意外というか、そうなんだと思いました。

 DNAにはA・T・G・Cという4つの塩基が並んでいますが、そのAがTに変わることで性質が変わることもあれば、そこが変わったところでどうってことないというケースもたくさんあります。ひとつの経路だけではなく、ものすごく複雑な経路でできてるんで、ここが駄目になったら、こっちが働くといったことも起きるわけです。それ故になかなかわからないのですが、この複雑さはコンピューターの中のことよりもはるかに面白いですよ。

「ふつう」とは何か

――今さら基本的な質問になっちゃうんですけど、DNAとゲノムっていうのはどう違うんですか?

 ゲノムというのは一つの細胞の中に入ってるDNAのすべてのことです。私たちはだれもが自分のゲノムを持っています。ヒトとしてはほぼ共通なんですけど、ちょっとずつ、ぜんぶ違う。一卵性双生児は生まれたときは同じものですけど、生きていく間に変わっていくでしょうから、まったく同じゲノムの人はいません。77億人のうち、自分と同じゲノムを持つ人間は一人もいない。これはとても大事なことです。

 以前『「ふつうの女の子」のちから』という本の中で、「ふつう」という言葉を使うのはとても難しいということを書きました。みなさんはよく自動車をイメージします。ベンツでも何でもいいのですけれど、自動車工場から組みあがった自動車が出ていく。それは全部同じ物です。もしも他と違っていたら不良品にされてしまう。それが自動車です。でも、人間はそうではありません。

 ヒトゲノムの配列解析が終わったのは2003年ですが、ヒトのゲノムを調べましょうというときに一番問題になったのは「誰のゲノムを読むのか」でした。誰のを読んでも、誰のとも同じではない。自動車だったら1個調べれば全部同じだけど、人間の場合は全部違う。

――それは確かに問題ですね。

 でも逆に言うと、誰のを調べてもいい。自然のものはだいたい正規分布するので、生きものの性質を決めるゲノムも正規分布の山を描きます。背の高さでもなんでも。そしてそれは日本人、アメリカ人、中国人、フランス人、肌の黒い人、黄色い人、白い人……、どれでやろうと変わらない。このことを「ふつう」と言うわけです。その性質の中にはもちろん、障害を持つということも入ります。

 DNAの中に本来の働きと違うものを持ってない人は一人もいません。それがたまたま具合の悪いところにあたると、たとえば目が見えないということになって、生活がとてもしにくいですよね。だからそういう方を身障者と位置付けて、その方たちが暮らしていけるように社会をつくっていく。こういう人がいて、私もここにいて、あなたもここにいるんだから、社会はそういうみんなが生きていく場としてつくらなきゃいけない。私が言う「ふつう」はこれなんです。

――DNAで見ると誰もが欠陥を持っているんですね。

 みなさんはそれこそ機械の世界に毒されているから、工場から出てくる規格品がふつうで、欠陥のあるものはふつうじゃないとお思いになるんですけど、そうではありません。欠陥があることが生きもののふつうなんです。だから、欠陥のある人はいけないと言ったら、全員消えなきゃいけない。欠陥のある人は存在する価値がないという言葉を発する人は、その人自身も消えなきゃ。

 目の見えない方、足の不自由な方がいない社会をつくる方が楽かもしれません。でも、欠陥のあることがふつうなんだからそれは許されない。つまり、社会をつくることは面倒なんです。だけど面倒なことに意味があるんだし、それをやることが生きることなの。手を抜いてどうするんですか。手を抜いて生きる意味なんてあります?と聞きたい。もちろん、赤ちゃんが泣いてるときにかまどでご飯を炊くのは大変ですから、炊飯器のスイッチを押して赤ちゃんの面倒を見る。そういうのは助けとしてはいいし、機械を否定はしません。使うのはいいけど、機械の見方で自分たちの生活を捉えるのはやめましょうと。

 もう一つ言いたいのは、目が見えなかったり、足が不自由だったりというのは状態であって、個性ではないということ。「誰々さんが……」ではないんです。私だって、明日、自動車にぶつかって足が不自由になるかもしれない。そうならない保証なんてありません。だから社会として対策しておいてもらわないと困る。私もなるかもしれないから、私の税金を使って対策してくださいということ。福祉という特別のことでなく人間が生きる社会として。とても当たり前でしょう? 私は当たり前のことしか言ってないんですけど、今の社会があまりにも、当たり前じゃなさ過ぎるんです。


https://www.toibito.com/interview/natural-science/chemistry/2716 【生きものとして生きるということ【後編】】より

中村 桂子

複製の是非

――ここ最近のAIの発展に伴って、AIが人間の知能を上回るみたいな議論がありますが、それについてはどう思われますか。

 AIは機械の世界、人間は生きものの世界です。超えるわけがないじゃありませんか。もちろん、人間にはできないほど大量のデータ処理をしてくれるのは助かりますよ。生きもののことは式で書けませんから、データをたくさん処理して考えるより仕方がないので、それをお手伝いしてくれるのは有難い。でもそれは人間を超えることではないでしょう。

 もしもAIを研究している方が「人間を超える」という言葉を使ったとしたら、それは間違いです。違うカテゴリーのもの同士を比べることを「カテゴリー・ミステイク」といいますが。たとえば生きものの中でも、アリとライオンを比べてどっちがすごいかと言ってもしょうがないでしょう? アリの社会生活はなかなかすごいですよ。アリは世界中にいます。地球上でアリがいないところはない。そういう意味で言ったら、アリはすごいです。でもライオンは百獣の王で、やっぱりすごい。それでいいじゃないですか。

 同じように、AIはAIですごいね。人間は人間で、へんてこだけど、すごいところ、面白いところがあるよねって言えばいい。このふたつを一緒にして、一方がもう一方を超えるとか超えないとか言うこと自体が間違ってる。

――なるほど、よくわかりました。

 私が今、悩んでいるのは、アンドロイドはモラトリアム、一端止めるべきだということです。絶対にやっちゃいけないかどうかはわかりません。でも、一端止めるべきだと思います。美空ひばりさんの、ご覧になりました?

――見ました。

 どうお思いになります?

――あまりいい気持ちはしないですね。

 私は冒涜だと思います。人型のロボットはいいんですよ。OriHimeとかASIMOといった人型のロボットがお手伝いしてくれる。これはいっぱいやってほしい。でも、アンドロイドはやる意味がない。人間の世界は人間の世界、ロボットの世界はロボットの世界にしましょう。

――この場合のアンドロイドというのは、特定の個人を作るってことですね。

 そう。そっくりさんを作って、そっくりさんにさせる。これはやっぱりどうなんだろうと思います。ろう人形ってありますよね。私はあれもあまり好きではないのですが、まったく違う世界だというのがはっきりしてるから、みんな納得してるんです。だけど、声帯まで調べて同じような声を出させたり、歌を歌わせたりというのは……。アンドロイドの夏目漱石にしゃべらせるのは、漱石さんへの冒瀆だと思います。さっきも言った通り唯一無二なんです、人間って。だから、まったく同じものを作るという発想はない。

 ただ、これは私の意見です。正しいか正しくないかは、私は決められません。だから一回止めてみんなで考え、いいか悪いか、やるかやらないかを決めていただきたいのです。このままなし崩しにやっていったら、社会が壊れると思います。

――機械の世界と生きものの世界を混ぜてしまってはいけない。

 そう思います。私の言っていることが絶対正しいなどとは言いません。私は生きものが大好きで、長い間生きもののことを考えてきました。生きものってへんてこりんで、面倒くさいけど、面白い。だから私は生きものの世界で生きていたいし、この世界に機械の世界のものを混ぜてほしくない。それは私の願いです。みんなもそう考えなさいなんて言うつもりはありません。正しいか正しくないかはわからない。

 この頃はペットのクローンを作るといった動きも出てきています。人間のクローンは倫理的にNOだけど、ワンちゃんやネコちゃんなら……。そういう願望を持つのはわかります。可愛がっていたペットが死んでしまった。何とか戻ってきてほしい。それで、もしもクローンが作れるならと。ただ、恐らくあまりうまくいってないんだと思います。もしもうまくいってたら、もっと広がっているでしょう。そこまでは私はわかりません。私自身はそんなことをやるつもりもないし、しないほうがいいとは思いますけど、それも頭から否定しません。ただ死というものを考えると、それのもつ大きな意味がありますね。亡くなった人やペットが思い出の中で生きることの意味を奪うのは恐いです。最低限、アンドロイドはモラトリアムということだけは今提言したいですね。

人間だけの能力

――人間は生きものなんだから、生きものとして生きるべきというのはおっしゃる通りだと思います。一方で生きものには「多様性」があると思うのですが、人間が他の生きものと異なるのはどういうところだと思われますか。

 生きものがへんてこりんだという話は最初にもしましたけど、人間はもうもうへんてこりんの究極ですよね。人間には「明日」というものがありますが、他の生きものにはありません。みんな今を生きてるんです。実は私もあまり未来のことを考えない、子どもの頃から大人になったら何になるかなんて考えたこともないのですが、それはともかく、他の生きものは先のことを考えて思い悩むなんてことはありません。今を生きることに一生懸命。自分が生きていく、そして子どもに命をつなげることで一生懸命です。

 でも人間は明日や未来を考えたり、お金というものをつくってそれを儲けようとしたり、権力の座につこうと画策したり……、もう面倒くさいことをいっぱいしていますよね。こういうのも含めてどう生きるかを考えなければならないので、こんな面倒くさいヤツはいない。でも、そんな人間のことを考えるのが私にとってはある意味楽しいというか、考えることがいっぱいあるなって。

――人間だけが「いまここ」から離れることができるわけですね。

 そういう想像力を持っているのが人間だけなんです。「明日」というのは現実にはないわけですけど、人間はそのないものを考えることができる。

 チンパンジーは人間に一番近いと言われていますが、本当に賢いですよ。認知能力は人間よりも上です。チンパンジーのアイちゃんと競争をしたことがありますけど、完璧に負けました。彼らは森の中で果物を見分けなきゃいけないから、認知能力がとても重要なんです。チンパンジーだけじゃなくカラスだって賢いし、生きものはそれぞれみんな賢い。でも、人間だけにできることは何かと言われたら、やっぱりイマジネーションですね。

――なるほど。

 イマジネーションというのは、明日だけじゃなく、他の場所で何が起きているかということも考えられるわけですよね。私たちは今食べる物がちゃんとあるけど、アフリカの子どもたちはどうなんだろう。アフリカまで行かなくたって、日本にも今、ご飯が食べられない子どもがいる。目の前のことだけじゃなく、いろんなことを考える能力が私たちだけに与えられている。それをフルに生かすのが私たちのやることです。

 私が今の時代に生きてて良かったなと思うのは、世界がイメージできること。昔はこの山の向こうに誰がいるか分からない、もしかするととんでもないヤツがいるかもしれないからといって戦っていたし、まだ誰のものでもない土地があったから、早く行って取っちゃえ、みたいなことがあった。私が子どもの頃はまだ、世界地図のアフリカの辺りには白いところがありましたよ。リビングストンという人が探検をしましたという文が国語の教科書に載っていました。

 それが今ではGoogleマップを見れば、ぜんぶ見渡せるわけでしょう? こんな時代に私たちはいるんですよ。そこで想像力を働かせれば、アフリカのことだってイラクのことだってインドのことだって、自分のこととして考えられるじゃないですか。それなのに戦争をするなんて、私はないと思う。

――精度の高いイマジネーションができるようになったのに、戦争はなくなっていませんね……。

 生物学は77億人の先祖は一つだということを明らかにしました。だから戦争は全部きょうだいげんかなんです。きょうだいでも小競り合いとか、あまり生意気なことしたら頭をこつんとやるとか、それくらいのことはありますよ。でも、核兵器を使って殺し合うなんて、それはないでしょう。

――おっしゃる通りです。

 人間は他の生きものと共通する部分と、とんでもなく異なる部分を持っている。それを重ね合わせた存在としてどう生きるかを考えるのが私のテーマです。答えは多分ないでしょう。でも考えなきゃいけない。毎日考え続けるしかない。「みなさん、こういうことでございます。ですのでこうなさってください」という本が書けるとは思いません。でも、考え続けることが大事ですよと申し上げることはできるし、考え続けない人が今多過ぎませんかと言うことはできます。

プロセスを生きる

――自分の命が過去から続いてきているものだというのは何となくはわかっていたつもりだったんですけど、ご著書『生命誌とは何か』(講談社)の「あなたのゲノムには、生命誕生以来の長い歴史(38億年以上とされる)が書き込まれている」(P78)という部分を読んで、そのことが物質としてわかるのはすごいなと改めて思いました。

 私たちの細胞のゲノム(DNA)と他の生きもののゲノム(DNA)とを比べると歴史が見えてきます。みんな同じDNAをもっているので。機械はそんなことないですよね。私が子どもの頃のラジオは真空管で動いていましたが、今はそんなものどこにもないでしょう? カセットテープも、フロッピーディスクも、どこかへ行っちゃったじゃないですか。機械の世界では古くなったものを捨てていくけれど、生きものではそれが残っている。どこかへ行ったりしないんです。絶滅はしますよ。恐竜はあるとき絶滅したけど、そのDNAは鳥の中に残っている。だから、機械の世界とは全然違うんです。

――科学は価値判断ができないということはよく言われますが、お話をお聞きしていると、何を意識すべきかが見えてきたように思います。

 数字やデータの世界では、確かに価値判断はできません。でも、私の日常と重ね合わせての価値判断はできる。それは科学のではなく、私の価値判断です。科学に価値の基準はなくても、一人ひとりの科学者は人間なんですから、各自が価値判断をしていかないと。

――学問分野を融合させるのではなく、さまざまな学問を科学者の中で融合させなければいけないという議論もなるほどと思いました。

 私には違う分野のお友達がたくさんいて、ケルト芸術文化の研究をしている鶴岡真弓さんともお話しましたけれど、お互いに学び合うことがたくさんありました。それはケルト文化と分子生物学が融合するのではなく、鶴岡さんと私の中で融合するんです。それをいろんな人といろんな形でやればもっと融合して、とても面白いことができる。

 私はプロセスが好きなんです。生命誌研究館では随分いろんな舞台をやりましたけれど、最後に『セロ弾きのゴーシュ』の人形劇を作りました。

――私も大好きな話です。

 あるとき、研究館の20周年でそれをやろうと思いつきました。それでまずはプラハで活躍している――プラハは人形劇がとてもさかんな所なのですが――お友達の沢則行さんに連絡して「やってくれる?」と聞いたら「うん」と言ってくれた。じゃあ、ゴーシュはどうしようかと考えて、研究者仲間の息子さんが京都大学の大学院まで行ってからチェリストになったのを思い出した。彼――谷口賢記さん――ならゴーシュをやれるかもしれない。『セロ弾きのゴーシュ』の舞台は山ほどあるけど、本物のセロ=チェロ弾きがゴーシュをやった舞台は一つもない。じゃあ、私が初めてやってみよう。そういうこと考えてるときがとても楽しいんです。

 舞台で使う人形は京都芸術大学のヤノベケンジさんとそこの学生さんたちがボランティアで作ってくれることになり、彼らと一緒にお人形さんを作ってるときも新しいアイデアがどんどん出てくる。そういったプロセスが私は大好きなんです。出来上がった舞台を見たみなさんは素晴らしいと褒めてくださって、それはもちろんうれしくないわけではないんですけど、そのことより、作っていくプロセスのほうが断然楽しい。

――すごくよくわかります。

 ね、それが生きてるってことでしょう? だから、みなさん、プロセスをもっと楽しみませんかって思うんです。仮に結果が失敗だとしても、プロセスが楽しめたらそれでいい。

――今の社会はとにかく結果、特に数字を求められますよね。偏差値だったり、売り上げのノルマだったり……。その結果、お金を儲ける以外にやりたいことないという人が大半となってしまったように思います。

 私は新自由主義と金融資本主義が大嫌いです。この中では本当に生きることはできない。明らかに選択を誤ったと思います。私は初めから反対で、これは違うって言ってたけど通じませんでした。理想的な社会なんてないので、いつでもいろんな問題はあるけれど、新自由主義と金融資本主義は生きものとしての人間を生きにくくしますのでやってはいけないことだったと思います。

――さっきの多様性の話で言うと、新自由主義ってまさにアリとライオンを同じ土俵で比べるようなものですよね。

 すべてを数値に還元して競争させ、駄目なものは蹴落とす。こんなの、おもしろくもおかしくもないじゃないですか。全然おもしろくない。

――ただ、社会がそうなってしまっている以上、多くの人がその価値観に従っているのが現状です。

 なんでこんなことになったんだろう。若い人や子どもたちには、本当にお詫びをするしかない。私は今、自分の一生を振り返って何が思い出せるかといったら、いつもいい大人がいたということです。あらゆる時点でいい大人を思い出すことができる。私が競争に興味がないのは、生まれつきの性質もあると思いますが、両親に競争を強いられたことがないのが大きいと思います。何かをしなさいとか、あそこの学校に行きなさいなんて、一度も言われたことがない。

 それに、小学校、中学校、高校の全部でいい先生を思い浮かべることができます。大学や大学院、その後もずっといい先生ばかりで、本当にいろんなことを教えていただきました。自分がこういう年になってとても心配なのは、今はいい大人がいないんじゃないかと。

――それは私も痛感しています。

 学者だって今はお金が欲しいとか、そういうとこでしか動いてない。表立っては言わないけれど、そうじゃないでしょうって思うようなことをやっちゃうんです。私が尊敬したり、学者として素晴らしいと思ってる人まで。だからといって、やっちゃいけないなんて勝手なことは言えないから黙って見ていますけれど、ちょっとつらいですね。それが新自由主義と金融資本主義です。本当に非人間的なシステムだと思う。

――多様性を消す仕組みですよね、本当に。

 多様性を消す仕組み、プロセスを消す仕組みです。

――極端な話、狩猟採集時代とかの方が、人間にとって、今よりもある意味幸せだったんじゃないかって思うことがあります。そのときは人間も他の生きものと同じように、生きることに一生懸命だったわけですよね。もちろん食べ物が見つからなかったり、自然の脅威にさらされたりで大変なことはいっぱいあったんでしょうけど、少なくとも自然との一体感だったり、生きている実感だったりというのは、今よりもはるかにあったんじゃないかって。

 そのときにも辛さはいっぱいあったでしょうからどっちが幸せかというのは言えませんけど、生きものとしてはそっちの方が自然でしょうね。だから現在のよさを生かしながら本来の生き方を求めるという、ある意味ぜいたくなことを求めているのが「生命誌」なのです。

――なるほど。

 今の社会はあまりにも結果だけを重視しすぎています。結果がどうでもいいとは申しませんけど、大事なのはプロセスでしょう。教育でも、研究でも、芸術でも、政治でも、もっとプロセスを大事にしてほしい。生きることはプロセスなんですから。


なかむら けいこ

中村 桂子

JT生命誌研究館 名誉館長

JT生命誌研究館名誉館長。1936年東京都生まれ。東京大学理学部卒。理学博士。国立予防衛生研究所、三菱化成生命科学研究所、早稲田大学人間科学部教授、東京大学客員教授などを歴任。2002年JT生命誌研究館館長に就任し2020年まで務める。おもな著書に『自己創出する生命』(毎日出版文化賞)『生命科学から生命誌へ』『生命誌とは何か』『科学者が人間であること』『ゲノムが語る生命』ほか多数。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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