http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-439.htm 【 天地に自在なり―尼僧俳人・田上菊舎―】より
俳 人 岡 昌 子(まさこ)
俳人・田上菊舎顕彰会会長。一九九七年、菊舎の文台(ぶんだい)を継承し、一字庵十一世ならびに菊舎顕彰会会長となる。二○○三年、菊舎著「手折菊(たおりぎく)」を復刻し、菊舎誕生二五○年記念事業を開催。
浄念寺住職 中 川 真 昭(しんしょう)
一九三五年奈良県生まれ。竜谷大学国文学科卒業。朝日放送に勤務し、九五年退職。奈良県浄念寺(浄土真宗本願寺派)住職。著書に「新・仏教童話全集」など。
ききて 中 村 儀 朋
ナレーター: 江戸時代、生涯を旅に明け暮れた一人の女性がいました。頭陀袋(ずだぶくろ)を首に提(さ)げ、雨の日も風の日も、焼け付くような夏の日も、雪の舞い散る冬の日も、ある時は他人に一夜の宿を乞い、またある時は星を仰いで野宿をしながら旅を続けた女性。その人は八千キロとも一万キロとも言われる途方もない旅の道すがら俳句を詠み続けました。俳人田上菊舎(たがみきくしゃ)。長門(ながと)の国、今の山口県に生まれ、江戸時代中期から後期にかけて生きた女性です。二十九歳の時に得度(とくど)し、尼となった菊舎は、家を持たず、富や名誉も求めず、全国各地を歩き続けました。三十年の旅の間残した俳句は三千以上に及びます。
どの道へけふは行ふぞ日永時(ひながどき)
かんこさへ聞ぬ日もありひとり旅 (註、かんこ・・・カッコウ)
浜寝して見るめ涼しきいさり哉
菊舎が歩いたのは、故郷の山口を出発点に、東北から関東、そして九州。その旅の途上で、自然やいのちを見つめる俳句を多く詠みました。また旅先で出会ったさまざまな人々との触れ合いの中で、自分の心の奥底を見つめた句も多く残しています。
月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして
行かふ年も旅人なりとかや
我は山水の過客にして
国を定めず
境を限らず
飄々悠々
物あり物なし
(菊舎の書付から)
風のように雲のように、何物にも縛られない心持ちを目指したのです。菊舎が生まれ育った長門(ながと)の国、田耕(たつき)村―現在の下関市豊北町です。この村の旧家で長府藩(ちょうふはん)の藩士だった田上家の長女として一七五三年に生まれました。生地は日々の暮らしの中で篤く信仰が息づくところであり、また俳句の盛んな地で、菊舎は若い頃から俳諧の席に連なっていたと言います。川で生き物を捕まえても、すぐまた川へ放してやるという心優しい少女でした。しかしその人生は幼い頃から悲しみに満ちたものでもありました。五歳の時、妹が亡くなり、十三歳の時には、弟も四歳で他界しています。小さな命を見つめ、愛おしむ心を培いながら、菊舎は育ちました。生家からほど近い妙久寺(みょうきゅうじ)は、妹が嫁いだ寺です。寺を見守る岡昌子さん。岡さんは俳人で、菊舎の研究を三十年近く続けてきました。日々の暮らしの中で、さまざまな問題に直面した時、岡さんは菊舎の俳句に心を解きほぐされてきました。菊舎の生き方とその俳句に支えられてきたのです。
岡: 私は、高校時代に大病致しまして、高校休んで、自宅で療養していた時があるんですけれども、その時に実家の客間の床の間の掛け軸がパッと目に飛び込んできまして、大変爽やかな絵だったんですね、それが、
朝な朝な 眼も覚安し 窓の梅
というのが、実家に一幅ある菊舎の軸でありました。
中村: 絵は?
岡: 絵は、丸い窓に机があって、とっても興味がそちらの方に持ちまして、父に、「誰の句だ」と訪ねましたら、その時に「田上菊舎と言って、江戸時代の女性俳人である」ということを父が教えてくれまして、その時に初めて「菊舎」という名前を聞いたということなんですけれども。ご縁がありまして、この寺に嫁いできましたけれども、実は菊舎と縁(ゆかり)のある寺だとか、生誕地だとか、そういうこともちっとも忘れておりまして、嫁いできたら、菊舎の妹がここのお寺に嫁いで来ていた、ということで、ご縁があったわけですね。やはり菊舎とご縁のある、縁(ゆかり)のある家ということで、研究されたり、調査されたりされる方が、ちょこちょこお客さんでお越しになりますね。そうすると、自然の成り行きでしょうか、「菊舎って、どんな人だろう」ということで知りたくなった、ということかも知れませんね。私は海の側で育ったんですけれども、ここの山の方の空気というものは、やはり朝に夕にこう見て目に触れるもの―木々の緑ですよね、そういうものが、朝に夕に違っていく。やはり山のこの自然界の満ち溢れたこの山の生活というのは、大変私は好きでした。菊舎の生まれたこの土地というものは、旅をしていて「生涯この故郷の山や川や風景が菊舎の心を和ませてくれた」ということも、菊舎自身も書いていますので、この田耕(たすき)という土地というのは、自然に恵まれた本当に素晴らしい生誕地だったのかな、と思いますね。少女時代は小さい川もありますし、自然を駆け回って本当に自然豊かな中で、川の中に入っては蟹を捕まえたり、沢蟹を捕まえたり、そしてまた武士の娘ですので、そういう読み書きソロバンとか、そういう武士の娘としての教養を身に付けさせる。そういうことも怠りなく教育を受けていた、と思いますね。
中村: 岡さんが俳句を始められたのは?
岡: 私は、俳句を始めたのはほんとに三十九歳で遅いんですけれども、まあご縁がありまして―大変ここの菊舎の生誕地は、俳句が盛んな地でありましてね―俳句を教えて頂いて、その仲間に入れて頂いて、俳句もやり始めて、そういう関係で菊舎のことがもっと身近に味わえる。菊舎の俳句が味わっていけるようになったんですね。
中村: 岡さんの心を捉えた菊舎さんの魅力は、どういうところを感じましたか?
岡: そうですね。やはり前向きで、女性でありながら本当に男性女性の性差を越えて、あの封建時代に飄々と雲の流れのように生きていったという、そういう女性で、生まれだった、と思います。また大変心のいろいろ葛藤もあったと思いますけれども、そういうものを乗り越えて、風雅な道を一本貫いていった女性として大変尊敬をしているんです。菊舎が最初に旅立つ時に、「俳諧の世界は、老若男女(ろうにゃくなんにょ)貴賤(きせん)都鄙(とひ)の差別無し。これが俳諧の世界だ」と聞くわけですね。そういう世界というのは、大変菊舎は憧れた、と思います。俳諧の世界には、老いも若きも、男性女性の区別もない。都会も田舎もない。そういう差別のない世界が風雅な俳諧の世界である、ということを聞きまして、本当に菊舎はその中に身を置きたい、と願ったと思います。そしてそれを実行に移した、ということだと思いますね。私は、菊舎さんとはもう二百数十年という隔たった時間がありますけれども、本当に時空を超えて、私の側(そば)にいらっしゃる。一緒のような―「同行(どうぎょう)」と言いますが―本当に遠い存在の人ではない。日常の生活の中に、菊舎の句がふっと湧いてきますし、「あ、そうだそうだ、菊舎さんが言っている通りだ」と頷いて、菊舎の俳句に頷いている。そういうほんとに近い、距離感のない菊舎というものですね、私にとっては。そういう思いが致します。
ナレーター: 菊舎は、十六歳で隣の集落に嫁ぎ、幸せな暮らしを送っていた、と言います。しかしその八年後、二十四歳の時、夫を亡くします。子どもがなかった菊舎は、夫の亡き後も家が取り潰されないように養子を迎えます。そして自らは嫁ぎ先の家を去り、実家へと戻りました。その後、菊舎は両親とともに静かに暮らしていました。しかし三年後、旅に出ることを決意します。『手折菊(たおりぎく)』菊舎が俳句や紀行文を纏めた書です。この中で旅に出る思いを記(しる)しています。自分は若くして夫に死に別れ、また家を継ぐ子どももなかったので、今は自由になる時間ができた。そこで全国津々浦々の名高い神社仏閣に詣でてみようと思い立って一人旅路に赴(おもむ)くことにした。菊舎は、再び他家へ嫁ぐという道も、実家に安住するという道も求めず、両親のいる家を後にしました。天明元年(てんめいがんねん)(一七八一年)の晩夏(ばんか)、菊舎二十九歳の時、諸国行脚の旅に出たのです。
月を笠に着て遊ばゞや旅のそら
菊舎旅立ちの句です。旅の目的の一つは、松尾芭蕉(1644-1694年)が歩いた足跡を訪ねることでした。菊舎は奥の細道をその結びの地、美濃の大垣から逆に、北陸、東北、そして江戸へと旅立ちます。芭蕉の俳句の心を極めたいと思ったのです。菊舎は、旅に出て間もなく萩の寺で髪を剃り落とし、得度して尼となりました。山を越え、里を通り、川を渡って旅を続けました。
秋風に浮世の塵を払(はらい)けり
初雁(はつかり)や越す遠ふ山の雲も澄み
山中や笠に落葉の音ばかり
秋たつや何所へか散(ちり)て宵の雲
岡: 菊舎さんは、本当に写真がない時代ですので、実物の写真というものはわからないんですけれども、絵姿はちょっと残っております。それには笠と杖を突いて、そして頭陀袋(ずだぶくろ)―これはやはり旅の最少限度、あまり荷物は持って歩けませんので、ほんとにそういう三つは持っていたんではないでしょうかね、そして草鞋と。草鞋がけで。
中村: 頭陀袋というのは、どんなものですか?
岡: 頭陀袋の中にはほんとに旅に必要なものだけを入れていた、と思います。そうたくさん入りませんのでね。
中村: それは肩に提(さ)げるんですか。
岡: いや、首からこう提げて、
中村: 中に何を入れていたんですか?
岡: 最初、奥の細道へ旅立だった時には、紹介状―地方地方の宗匠(そうしょう)に宛てて、「こういう人が行くから親切に教えてやってください。そして宿を貸してやって、そして俳諧を教えてやってください」という師匠の紹介状―添え書きですね―紹介状を入れて、これは大事だった、と思います、最初の旅は。
中村: 菊舎の旅というのは、どんな旅だったんでしょうね?
岡: やはり関所で止められたり、そして山の中を彷徨(さまよ)ったり、まあいろんな想像に絶する旅ではなかったかと思いますね。
中村: まず中国山地を南へ向かって峠を越える。それはどんな心境だったと思いますか?
岡: 私は、菊舎さんがまだ若いですので勇んで弾むようにしてその峠を通ったと思いますね。美濃の朝暮園(ちょうぼえん)傘狂(さんきょう)の方に弟子入りをしました時も、やはりやっと解放された。そしてこれからの夢の方が大きいですので、「これから歩くぞ」という、なんか肩に力が―やはり当時の女性ですので―肩に力が入っていたと思います。ですから美濃に着きまして、いよいよ奥の細道の跡を辿るという時に、師匠の傘狂が、
和らかに見られて進めおぼろ月
と頭陀袋に書いてくださった。やはりここには菊舎の肩に力が入っていると言いますか、男性の中に伍(ご)するわけですから、その当時は俳句をしている人は男性が多く、俳諧の席はほとんど男性だというような時代ですので、やはり力が入っていた。自然と力が入っていたと思うんですね。それを見た師匠の傘狂は、「和らかに見られて進めおぼろ月」と頭陀袋に書いてくださり、笠には、
一日も旅なり花に着る笠は
と笠の裏書きに書いてくだった。この俳句を胸に生涯旅をしたということで、菊舎のこれからの期待感とに胸一杯になっているという姿が見えてまいります。
中村: 心の中に抑えきれないものがあったという。
岡: 弾むものがあったと思いますね。でも少しずついろんな方と出会い、そしていろんな方のご親切を受けて旅をするうちに、少しずつ旅で見えてきたもの―人の情けとか、そして自然の風、雲の流れとか、川の流れとか、そういうものを見て行きながら、いろんな自然の中に生かされている私、そしてたくさんの人の中に生かされている私だったという、そういう優しさというものが出てきたんではないでしょうかね。
ナレーター: 菊舎の旅には、もう一つの目的がありました。幼い頃から敬い続けてきた親鸞縁(ゆかり)の地を訪ねることでした。俳人田上菊舎を研究している僧侶の中川真昭(なかがわしんしょう)さんです。仏教文学の作家でもある中川さんは、菊舎の旅の人生を一冊の本に纏めています。
中川: まず二十九歳の時に、長府を出発し、それから萩で得度をし、そしてまずやって来たのがこの京都。そして西本願寺の報恩講であった、ということが、菊舎さんの原点であろうというふうに思います。菊舎がずっとこれから旅をして行くわけですけれども、この報恩講にお詣りして、
報恩をおもへばかろし雪の笠
と詠みました。当然そのお詣りした日には、雪がたくさん降っておったんでしょう。その雪が笠に積もった。笠に積もったその雪が重い。しかしその重さに比べて、私をここまでお育てくださった親鸞聖人の御恩を思えば、こんな笠の雪なんか一つも重くないんだ、と。有り難いことだなあ、と、西本願寺の御正忌(ごしょうき)報恩講に、菊舎は熱い熱い心の思いを持ってお詣りしたんではなかろうか、というふうに思います。
ナレーター: 菊舎には、京都に来ると、時折宿を頼むところがありました。この小さな寺光隆寺(こうりゅうじ)です。住職一家と親しい関係を持ち、年越しをすることもありました。菊舎縁の寺を中川さんと訪ねました。
中村: 菊舎のことを最初に知った時は、どんな思いがされました?
中川: ただ一人の俳句を詠む女性ではなしに、非常にスケールの大きい女性だということで、まずビックリしたんですね。俳句だけではない。漢詩も読む。お茶もやる。七弦琴も弾く、と。いろんなことをやっている。昔でいう「文人(ぶんじん)」とこう言われる、そういう性格を持った女性だった。その中で特に一番ビックリしたのは、お念仏に生かされている菊舎さん。お念仏を喜んで生ききった菊舎の姿が、その全集の中から浮かび上がってきた、と私自身が今思っております。
中村: 彼女の得度、剃髪というのは、一体どういうようなものだったんでしょうか。
中川: どうでしょう。当時の女性が剃髪するというのは、「甘剃(あまぞり)」と「深剃(ふかぞり)」なんですね。ですからツルンと剃ってしまうんではないんです。伸ばしている髪をこの肩の辺で切る深剃(ふかぞり)か、肩から背に近いところを切る甘剃(あまぞり)の二つなんですね。菊舎さんの肖像画というのは残っていませんけれども、これが菊舎だ、という後ろ姿を見てみると、どうも肩から背に近いところを切っている甘剃(あまぞり)という、そういう切り方をして、そして旅に出て行った。ですから自分自身が修行をして仏になっていこうという、尼僧になってお寺に入るという姿ではなしに、どっちかというと、そういう姿を捨てて、そして自分自身一人の姿を見つめるための旅に出て行った。だから修行を捨てた、ということですね。修行を拒否した、ということが言えるんではないかなと思いますね。ですから、もしもお寺に入って、そこで修行をしながら仏になっていく姿であれば、ヒョッとしたらその方が菊舎さんにとっても楽であったかも知れない。女性としても楽であったかも知れない。しかし歩きながら一歩一歩いのちを見つめながら、いのちと出会いながら歩いて行った。ただ歩いたんでしょうね。探し求めて歩いたんだと思うんですね。いのちを刻みながら歩いて行くその中で、菊舎さんは感じとっていくというか、「そうだ。これが旅の目的だったなあ」ということを、いろいろと感じていかれたに違いない、と思うんですね。
中村: 菊舎さんの旅とは、いったい何であったのか、と、中川さんは思われますか?
中川: そうですね。菊舎は、自分自身を見つめ発見する旅ではなかったか、ということが、まず一つ思いますね。ですから旅をすることによって、今まで気が付かなかったこと、気が付かなかった自分の姿、自分の心、そんなものに菊舎さんは、一歩一歩こう足を進めていくその中で、しっかりと見つめていくことができたんじゃないか、と。自分自身を見つめる旅ではなかったかな、ということを思います。菊舎さん自身のそれまでの、俳人として出発するまでの生き方と言いますかね、そして自分の周りで起こってきたいろんなことがありますね。例えば弟妹が早く命を終わっていった。嫁いでいった、その嫁いだ先のご主人が若くして亡くなっていく、という。普通では考えられない幸せな中の絶頂からどん底へ突き落とされるような、そういう生き方を体験するわけですね。ですから普通であれば、幸せに過ごしていけた筈の私が、何故このような悲しみの中に身を置かなければならなかったのか。その悲しみの中に身を置く私自身が、その悲しみだけに沈んでいくんではなしに、その悲しみを乗り越えていくものは何だったのか、と。こういうことをきっと菊舎さんは考えたに違いない。それはやっぱり旅に繋がっていく一つの大きな動機だったように思いますね。
ナレーター: 季節が移ろいゆく中を、ひたすら歩き続けた菊舎。それは自然のただ中に身を置いたからこそ、心を寄せることができたであろう生きとし生けるもののいのちに触れる旅でした。
咲く中に茨(いばら)交(まじ)るや女郎花(おみなえし)
咲(さく)花に今届く手のただ嬉し
蝶々やとまり替へても花のうへ
かほる中の風にもまれよ若竹も
岡: やはりそれは歩いているからこそ見えてくる世界ではないでしょうか。今のように自動車で、さっと通れば見落としてしまう世界。歩けば休んだり、そしてまた歩けば草花。名もない草花、そしてしゃがんで、それと目線を同じくして、しゃがんでそっと顔を近づけて匂いを嗅いだり、そして触れてみたり、そういう自然との接点ですね。それはやはり菊舎が肌身で感じている。五感を随分働かせ、五感を研ぎ澄ませていくという旅。いのちというものですね。なんか植物とか天体とか宇宙というもの、家には鳥も居、生きとし生けるもののいのちに深く関わっていくのが旅ですね。家に居てはわからない、その世界。そういう風、光、すべてですね。その中の宇宙の中の私はただ一介の一人で生かされているんだなあというというのは、これは実感ではないでしょうかね。やはり生きとし生けるのは、同じ天地のあわいの中に生かされている。本当に「同行(どうぎょう)」という言葉がございますけれども、同じ人間だけではなくて、生きとし生けるもの―「衆生(しゅじょう)」と申しますけど、そういうありとあらゆるものと、いのちの交換といいますか、そういうものの目線というものが育てられていったんじゃないかと思います。持たない生活、持たない暮らし、というものの身の軽さと言いますか、心の自在さというのは、あまりにもたくさんものを現代人は持ちすぎたなあということを、菊舎の生き方から、それは痛切に思いますね。反省もさせられますね。
中村: 地球の上にそれぞれいのちを全うし、みんな尊いんだ、という視線ですね。
岡: やはり時には欲も起こり、腹立ちも起こったと思いますけれども、そういう時に、立ち返り立ち返り自然とそういう思いに至ったんだろうと思います。決して最初から菊舎が、聖人君子的な、私どもの手の届かないような、そういう人物ではなかった。私どもと同じように、悩み苦しみ、欲の心も起こしてみたり、そういう時に立ち返っていくという。それは教えもございますけれども、やはり自然の中を歩きながらも学んでいった、ということではないでしょうかね。この肩肘を張ってる傲慢さとか、いろんなそういうものを打ち砕かれていくというか、そういう旅の中で、そして歩きながら川辺で休んだりします時には、柳を見たりすると、
流れよるものははずして柳かな
とこう詠んでいますが、「流れよるものははずして柳かな」柳が水に浸かっております。ここに上流から流れてきたゴミが、柳の先にひっかかっているけど、パッと思ったらもうさっと流れている。何かそういう川辺で休んだ時の柳を見ての一句ですけれども、そういう柳を見ながらも、自分の生き方というものを、その柳の中に見出しているという。自然の中で教えられていくというか、感じていくといいますかね、そういう世界を積み重ねていったのが、旅ではなかったかと思います。
中村: 柳の句はなんかしなやかに生きるというか、いろんなものを受けて入れて生きていく。
岡: 逆らわないと言いますか、張り替えじゃないと言いますか、もう一つですね、
雪の竹やちらす力はありながら
というのもございますね。「雪の竹やちらす力はありながら」これは言われて、その後すぐ私たちは弁解したり、そうじゃないよ、と言いたくなる。弁解したくなりますが、そういう時に張り替えていく。言われたことにすぐ答えよっていく。それは「俗中の俗なり」という言葉を聞きまして、「あ、そうだ、そうだ。ほんとにそうだった」という。ですから雪にしなだれている竹を見ながらも、我が胸にまた問うてくるという、そういう句が菊舎は多いですね。やはりそれは歩いているからこそ見えてくる世界ではないでしょうか。菊舎さんはやはりいろんなことは見ながらも、いろんな欲の心を起こしたり、いろんなそういう自分の胸の抑えられない時でも、必ず外に向いていた目が、自分の方に、いつの間にか自分の胸の方に、我が身の我執とか欲―「煩悩(ぼんのう)」と申しますが―そういうものに思いが、向きが変えられてきている、ということが、彼女の凄さじゃないでしょうかね。素晴らしいところだなあと思う。やはり旅をするということは、やはり守られているわけでは決してないですね。宿も借りなければいけません。みなさんの恩恵とか自然の恩恵、そういう恵みというものを一身に浴びなければ旅はできませんですね。ですから人一倍に、そういう御恩と言いますかね、そういうものに感じて有り難く、それが終生蓄積されていって、肩肘張っていった旅が、三十八歳の時には、
薦(こも)着ても好きな旅なり花の雨
と詠んでいます。ですから本当に三十八歳の時には、旅が好きな女性、「薦(こも)着ても好きな旅なり花の雨」と詠んだぐらいに、旅が日常になっていた、ということだと思います。旅がほんとに住処(すみか)。だから、旅の概念は菊舎はなかったんではないでしょうか、日常が旅ですから。だから旅にあるんだ、というような、私どもは家をすみかとして旅に出ますけれども、そういう感覚ではなかった、と思います。
中村: 旅をすみかとして。
岡: そうです。
ナレーター: 菊舎は、訪れた旅先でさまざまな人たちと出会い、さまざまな暮らしに触れました。記録によれば二千人もの人々と出会ったと言います。そうした出会いの中から、菊舎は命の重みを深く見つめるようになっていきました。
中川: 菊舎がいのちに対して、どのように自分の人生の中で味わいを深めていったか、という句がありますね。それは、
花に遊ぶ約束むなし野辺送り
という句があります。「花に遊ぶ約束むなし野辺送り」これが小さな子どもと、「来年もまたこの花を見ながら遊ぼうね。この花と一緒に遊ぼうね」と約束をして江戸を離れているわけです。そして一年後に江戸へ戻って行った時に、目の前で野辺送りが始まるわけですね。ですから菊舎は愕然とするわけです。その子が亡くなったんですね。その子の野辺送りであった。あの時あんな元気であったあの子が、今こうして野辺送りをされている。命の儚さと言いますか、命の儚さは当然菊舎は小さな頃から心の中にはあった筈ですけれども、また今まさに命の儚さを突き付けられた、ということを、菊舎は思ったんでしょうね。ずっと忘れておったんです。弟と別れたこと、妹と別れたこと、夫と別れたこと、命の儚さを旅の中でやっぱり忘れておったに違いない。いろんな浮き世の塵の中で大事なことを忘れておった。その大事なことが今またこの目の前で起こっている。小さな子の野辺送りの姿を通して、「あ、そうだった。まさしく命、儚い命、無常の命、というものが、真実の人間の姿である」ということに気付かされた。ですからいのちに対する菊舎の思いというものは、この句を通して深く深く味わえるんではないかな、と。自分自身の生き方だけにしか目がいかなかった。自分の悲しみにしか目がいかなかった。自分の今まで生きてきたその姿にしか思いが至らなかった菊舎にとって、「いや、こんな生き方をしている方もある。この人はこんな生き方をしながら私にこんな大事なことを教えてくれた。こんな優しい心を見せてくれた」という、そういう人と人との出会いがありますね。そんなことを通して、菊舎は大事なものを教えられ、学んでいったんではなかろうか、ということを思いますね。それが、菊舎が肌で感じながら一歩一歩歩いて行った。足の裏を通していのちを感じていった姿ではないか、ということをしきりに思いますね。
中村: 足の裏を通して感じるいのちの重さ、いのちの形、
中川: それが大事なんですね。今の我々にとって何が大事かというと、そういういのちへの関わり方、いのちの感じ取り方。一歩歩く毎に、その一歩の周りの世界が変わっていくわけです。また一歩歩くと、また違う世界が広がっていく。違う世界がどんどん広がりながら、その中でいのちを考え、そして自分が生かされているいろんなものたちの小さないのち、そこに咲いている名もないような雑草の花から、ここにもこんな小さな花が咲いているんだな、こんなに一生懸命生きているな。虫が走っているその虫からも、それがいのちを感じているわけですね。そういういのちの感じ方というものが、今の現代から僕は完全にこうスポンと抜けてしまっている。いのちに対する―言葉では言いますよ―「いのちというものは重い」「いのちというものは尊い」「いのちというものはみんな等しいんだ」と言葉ではなんぼでも言いますけれども、そんなものは百遍、二百遍、一万遍言ったところで何の役にも立たへんですね。やっぱり自分の身体を通して、花を通して、足の裏を通して感じていくいのちでなければ、それはやっぱりいのちを感じる生き方にはなってこない、と、私は思います。どんな小さないのちも、それぞれお互いに関わりおうて、お互いに生かし合いながらここにあるんだ、ということ、そのことに気付いていこうではないか。そのことが大事な大事なそれぞれのいのちを生かし合う大事なことではなかろうか。その一つのきっかけになるのが、菊舎さんのその俳句であり、生き方ではなかろうかな、ということを思うようなことですね。
ナレーター: 諸国行脚に明け暮れた菊舎は、六十四歳の時、両親の住む町に草鞋を脱ぎました。その後は遠出の旅をすることもなく、俳句を詠み、茶を楽しむなどして、穏やかな晩年を送りました。
想い見る夜や二千里を蚊帳の月
寝ざめ寝ざめ果は寝過す夜長哉
岡: 六十四歳の時に京都、大阪から帰って来ますが、この旅が最後の遠出の旅に終止符を打つ年です。六十四歳ですね。実はその時に、その旅を止めるきっかけとなった書き付けが見つかったんです。これは、菊舎の遠出の旅を止める、という一つのきっかけになるかと思います。これは、
おのれが旅好を留めんとて
天地是(これ)我(わが)廬(ろ)という文字をしめしたまふ
即時に感伏して郷の一字庵に
落ち着きくつろぎて心を遊べ
天涯比隣(ひりん)冬ごもり 菊舎
と書いています。これが文化十三年で、菊舎が六十四歳の時ですね。ですから仲冬(ちゅうとう)ですから、菊舎が京、大阪の長旅から帰って来て、そしてこの年にはお母さんが七月に亡くなっております。ですからそのお母さんが亡くなった後ですね、菊舎は少し寝込んでおります、病床に就きますね。やはりお母さんが亡くなったということで力が落ちたのかも知れませんが。そしてお母様の百ヶ日が過ぎた頃になると、病気が治ります。また旅に出ようとするわけですね。その時にある方が、「天地是我廬(てんちこれわがろ)」という。天地はどこに居ても、旅に行かなくても、ここの長府に落ち着いても、みな旅に出なくてもいいんじゃないか。心が自在に遊んでいたらいいんじゃないか、ということで、「天地是我廬(てんちこれわがろ)」という、この言葉が大変菊舎の胸に響いた。
中村: 「廬(ろ)」というのは?
岡: 「庵(いおり)」ということだと思うんですが。ですからどこに居ても私は仮住まい。「廬」というのは、仮住まい。ですから人間はどこに居ても、この世に生まれてきましたけども、生まれて出てきたこの世は所詮仮住まいである。いずれこの世は去っていくわけですが、その間の仮住まいだよ、ということ。ですから、なんかお坊さんがお示しくださったのかな、と私は思うんです。で、このお示し頂いた言葉に大変感服を致しまして、遠出を、「なるほどそうか」ということで、これを額にして、自分の茶室などに掛けて、これをいつも眺めて、この元で茶を立てたり、子どもたちと遊んだり、という晩年を、長府で十年ばかり送るわけですね。天地―私自身の我が身というものも、すべてですけども、「この世は仮住まい」という、そういう無常観とか、そういう「諸法無我(しょほうむが)」とか、仏教ではいろいろ申しますけれども、そういう私の物というものはない、という。
よしあしに渡り行世(ゆくよ)や無一物
という菊舎の俳句がございますが、本来私は無一物で生まれてきた。何も「私の物というものはないんだ」と。ですから、私どもは我執にとらわれて、「私の物」と、もう取り込みますけれども、裸で生まれてきた身で、このように仮住まい。また帰って行かねばならない、という。ですから旅にあろうと、この家に居ようと、もう同じだよ、と。心は自由に、あなたの心は自由に遊ばせることができるよ、という。やはりどこにいても、心が遊んでいる。自在であれば、鳥にもなれるし、ほんとに植物にもなれるし、同化していける、自然万物とですね。心がここにたといあっても、心がこう遊ぶというのは、障りがない、と言いますかね、こうしなければこうならない、というのではなくて、我が心というのは、本当に解き放たれたように、はからいで私どもは縛っておりますね。そうじゃなくて、はからいを取り払えば、自由に飛べるんだ、という。どこへでも、どんな世界でも、身は行かなくても、どんな世界でも旅をしているのと一緒だよ、ということではないでしょうかね。
中村: やっぱり菊舎さんの心の中には、生きているものがいずれ死んでしまう、と。そういう儚さとか、無常観とか、
岡: そうですね。私の好きな俳句の中に、「昨日は去り、明日は来し難し」と前書きを書いた俳句がございまして、
けふは今日に咲て芽出たし花槿(むくげ)
という句がございます。ほんとにそこの心境ですね。その心境に至ったと思います。一瞬だ、と。「一生一瞬」と申しますけれども、一日一日瞬時瞬時が人生である、ということで、「今日は今日に咲いて芽出度い」という。そのいろんな恵みの中で、今日生かされて生きている、という喜びが、「芽出度し」という。私は大好きですね。花槿は一日花。一日咲きまして、そして夕方には畳んでポトッと落ちていく。この花槿を見ながら、かくありたいな、という菊舎の心持ち。「今日一日一日を精一杯生かして貰う」ということで、私は、世間では「人事を尽くして天命を待つ」と申しますね。菊舎の生き方は、むしろ逆で、「天命に委せて人事を尽くす」という生き方ではなかったか、と、私は想像致します。つまり「まず如来様にすべてをお委せして、我がはからいを捨ててお委せして、そしてそのうえで、今日一日一日の花を咲かせていく。精一杯いろんなことしていく」という遊び。菊舎は、「遊び」と申しておりますけれども、そういう一日一日を花を咲かせて生きていくという、生き方というものが大変魅力的だ、と思っています。
中村: その旅の中で、菊舎さんは何をして、何を得た、と思われますか?
岡: そうですね。自分の力というものの限りのあるということを悟った、と思いますね。
秋風に浮世の塵を払けり
そういう若い時はですね、浮き世の塵を払いけり、と。そのようにして得度を致しますね。浮き世の塵というのは、心の内を見つめていく旅をしながら見つめていく、という。しかし旅を長い間続けて、いろんなものに出会って、巡り会いながら、やはり我が力というものに頼るという。おのが力で自分の心を綺麗にして、「自分で」というその「我(が)」というものが、少しずつ剃り落とされていった。気付いていった。そういう力が抜けてきた。最初は力が入っていた。旅の出発はそうだった、と思いますが、長い間の旅の中での出会いとか、巡り会いによって、そういう「我執(がしゅう)」というものが打ち砕かれてきて、肩の荷を下ろして、このままでお救いに預かる、という。このままの私。お念仏を喜んでいたということだと思います。菊舎自身は「雲遊(うんゆう)」という言葉を使っています。雲の流れのように遊ぶという。私が、菊舎に惹かれるところは「遊ぶ」ということだと思っていますね。ほんとに私どもから見たら、凄く向学心に燃えた女性であって、一歩修行のような感じを受け取りますが、本人は大変遊び、と。遊びに孜孜汲々(ししきゅうきゅう)とした、と詠っていますので、そういう遊び心―現在失われている私ども―遊び心というものを、私は菊舎がとっても楽しんでこの世は終えたのではないか、と思いますね。
中村: 菊舎さんを学ぶことで、岡さんは何を得てきたんですか?
岡: やはり「大らかさ」と言いますかね、そして「あまり物に固執(こしゅう)―とらわれていない」と。前向きと言いますかね、一日一日を精一杯生かさせて頂こう、というのは、随分私の励まし、いろんな問題に出会う時には、菊舎の句に立ち返り立ち返り、ほんとに菊舎に出会いて良かったな、と、私自身は思っています。もうほんとにその傍ですね、もう一緒という感じで、菊舎のことならば何でも知りたい。もうほんとに先輩というか、同行というか、仲間と言いますか、こんな言い方はおかしいかも知れませんけども、遠い存在では決してない。距離間のない、私の傍に、私の胸に、いつも生き続けているという。そしていつも声を、何かの時には肩を叩いてくださるような、そういう身近な存在ですね、今。
中川: どうでしょう。頭陀袋を菊舎自身の自分の身体というものに重ね合わせたとしたら、初めの間はいろんな思いをそこに入れていたかも知れないですね。それは自分の生きていく姿であるとか、自分の将来であるとか、行く先々でのいろんな方々との出会いであるとか、なんか浮き世の塵ですね。しかしだんだん頭陀袋が軽くなっていったと思うんですね。ですからそれがどんどんと菊舎の身体から消えていくわけです。消えていくということは、それにとらわれていない、ということですね。人間というのは割合にいろんなものにとらわれながら生きているんです。菊舎が花火の句を詠んでいますね。
跡に念のないが花なる華火かな
バーンと真っ暗な闇の中に、美しい花火が咲くわけですね。しかしパッと咲いたら、跡はまた真っ暗な世界に戻っていく、と。本来ならば、その美しい花火がいつまでも続いてほしいというか、いつまでもあってほしいというのが、人間の思いなんですよ。しかし花火のように、私は生きたい、と言った。ということは、そういういろんなものを、そういう思いとか、そういうものは全部捨てていったんでしょうね。こんなものを持っておったところで、何の役にも立たない。そのものを役に立たせようという生き方は、俳諧の道からは外れているであろう、という。そういうことだった。ですから頭陀袋は最後の最後になると、だんだん軽くなっていくし、ひょっとしたら何もなかったかも知れないという。ですから捨てなければならんものを、よう捨てずに生きているのが、はっきり言えば私自身であり、やっぱりこの世の中全てだ、と思うんですね。捨てなければならないものに拘っている、という。その拘りが本当の人間の生き方、もっと言えば、人間のいのちへの思い、そのものを曇らせているんじゃなかろうか、と。その曇っているその曇りを取ってしまうということが、やっぱり私たちの生き方にとって大事なことかな、と。育てていったのはやっぱり大事な人間の本質でしょうね。ですからいのちへの思い、生き方、それはやっぱり育てていったに違いない。
中村: 中川さんにとって、この菊舎という存在というのは、どういう存在ですか?
中川: 菊舎のようになりたいですね。なれないと思いますね。なれないですけれども、菊舎さんの生き方を学びたい、ということはしきりに思いますね。これはみんなそう感じて頂けたら、ほんとにもっともっと違う世の中、社会というものが実現するのではないかなという気がしますけれども、なかなかそこへいけるような私たちではないというふうに思いますけれども、できるだけ近づきたい、という思いはしきりに致します。
ナレーター: 旅の果てに故郷長門を終(つい)の棲家(すみか)と定めた菊舎。一所(ひとところ)に住み、浮き世の塵の中に身を置いても心さえ自由であれば、そうした境地に至って、菊舎は一八二六年秋、七十四歳の生涯を閉じました。
田上菊舎の辞世の句、
無量寿の宝の山や錦時(にしきどき)
仏の慈愛が降り注ぎ、野山が錦で飾られるかのような秋。美しい季節に浄土へと旅立つ幸せ。その喜びを静かに味わいながら菊舎は瞼を閉じたのです。
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