Facebook西尾仁さん投稿記事·
生かされて 生きるや 今日のこの命 天地(あめつち)の恩 限りなき恩
元京都大学総長『平澤 興』
---真の教育者に出会った感動で体が震えた---
元京都大学の学長であった『平澤 興』恩師とお会いしたのは、安保闘争の真っ只中であった。 京大が極左暴力集団達に占拠され、学長を吊るし上げている。
大きな声で学生たちに叫ばていた。平澤 興学長が毅然として背筋を伸ばし、
「君たちの言うことは断じて聞けない ・・今・・私が君たちに屈すると今後、君たちが社会に出てどんなことも、思い通りになると思うと困るからだ」
・・・今ではない、10年後の君たちは私ががんと聞かなかった理由がわかる・・・・
とつぶやかれた。
2日間の徹夜の監禁にも、平澤 興学長は、断固として過激派学生に屈服しなかったことは有名である。
多くのヘルメットをかぶり、角材を持った学生に 「何故君たちは正しいことを言うのだったら顔を隠すのか・・ 何故正しいことを言うのに角材がいるのか?」 と静だが厳然と言い放った。
平澤学長はさらに
「今・・君たちの数の論理に屈服し、君たちに従うことは、将来の君たちに、暴力と数の論理が民主主義だと思うようになる・・・ だから私は殺されても屈服しない」と言われた。
学長を極左暴力集団から奪還したが、 平澤学長は、学生の逮捕も希望されず
「10年経てばこの子達も自分たちの過ちに気がつくでしょう」 と微笑まれた。
すばらしい学長だと感動した。
Facebook澤江 昌範さん投稿記事 〜本当に、そうだなと思う…💕〜
心に刻んでおきたいメッセージ!自分にとって節目の日なので、改めて再度投稿…🙇🏻🙇🏻🤗
【写真は私ではありません🙇🏻】
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戦争産業の人というのは、目的が、はっきりしています。ものを破壊し、人を殺しても、自分たちが、世界を征服しよう。彼らの精神が、そこで、ぴたりと一致しています。だから、その力は、ものすごく強い。
ところが、平和産業の人たちは、みんな理想主義者です。つい、お互いを、批判し合う。
たとえば、『 どうやって平和を獲得するか… 』という議題でも、長々とディスカッションします。『 あなた方の考えは、間違っている!』『 こうしなきゃ、平和は、勝ち取れない!』
というように、平和産業の人たちは、お互いに批判することに、時間を使って、戦争産業の人たちのように、意見を、ぴたりと一致させることが、なかなか、できません。
エネルギーを、会話や議論に、費やすばかりで、一致団結して目的に、向かっていくことができないのです。それだから、平和産業の人は弱い。
平和に向かって、進むのなら、まずは、お互いを、理解しあうことです。
あなたと違った立場の人でも、その人は、あなたと同じ、平和を愛する人なのだということで、『 平和を、愛してくれて、どうもありがとう 』と、まず、受け入れてみてあげてください。あなたのやっていることも、私がやっていることも、とにかく、私たちが、平和産業に参加しているだけで、ありがたい…。だから、人間として、お互いに、認め合う。
それから、愛し合う、尊敬し合う。何も、特別な平和運動を、していない人でも、
『 平和産業に、入っている 』というだけで、尊敬してあげる。
道を清掃している女の人でも、花屋さんでも、それは、平和産業の活動の一環なのです。
だから、その人も、その行為も愛し、尊敬していることを、伝えてあげてください。
そうやって、エネルギーを、互いに認め合い、愛し合うことに使えば、平和産業も、強くなれるのです。
『 それだけじゃ、だめでしょ!』と、あなたは、言うかもしれません。
でも、それが、基本なのです。そこから始めなければ、何も始まりません…。
〜オノ・ヨーコ〜
FacebookYorico-p Shimizuさん投稿記事 黄泉比良坂(よもつひらさか)
念願の場所、黄泉とこの世の境に行って参りました。
イザナギとイザナミが、千引きの岩を挟んで、事戸(コトド)、別離のコトバを交わし、一日に千人の人が死に、千五百人の人が産まれると言う、人口の増減の由縁となった神話の舞台です。
黄泉比良坂は、また、伊賦夜坂(イフヤサカ)とも言われます。
Facebook矢加部 幸彦さん投稿記事
生は死によって、死は生によって支えられるが如く、高天原は根之国によって、根之国は高天原によって支えられている。よって根之国の働きはまた産み出すことで、高天原の働きと表裏一体。故に、イザナギイザナミの両神は、永遠に共同作業されておられるのです。。
生は死によって、死は生によって支えられるが如く、高天原は根之国によって、根之国は高天原によって支えられている。よって根之国の働きはまた産み出すことで、高天原の働きと表裏一体。故に、イザナギイザナミの両神は、永遠に共同作業されておられるのです。。
http://www.kumanotaisha.or.jp/ohanasi/ohanashi.htm 【御祭神おまつりするかみさま】より
伊邪那伎日真名子いざなぎのひまなこ 加夫呂伎熊野大神かぶろぎくまのおおかみ 櫛御気野命くしみけぬのみこと
「伊邪那伎日真名子」とは国生みを始めて生きとし生けるものを生かし、その主宰の神をもお生みに
なられましたイザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子の意です。
「加夫呂伎」とは神聖なる祖なる神様であります。
「熊野大神櫛御気野命」とは、この熊野に坐します尊い神の櫛御気野命という意です。
この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別神名であります。
ご神名は神格の本質を表しますことから、ご祭神の本質は人々の食して生くべき食物に霊威をみちびき、農耕生産の豊穣を約束して、人々の営む万般の生業の発展を保障され、人の世の繁栄と平和、人々の幸福をみちびかれる深厚高大な霊威を発顕具現されるところにあります。
スサノオノミコトは、出雲の簸の河上で八岐大蛇を退治された神話に見られますように、人間社会を洪水の災害から救われて稲田の豊穣をもたらされ、人の世を和楽にみちびかれました。
スサノオノミコトは不思議な霊威をあらわして成りと成り出づるものが豊富であるようにと世の人々を導かれたのであります。
これは、人間社会につきまとう人間であるが為逃れられない不安と苦悩を取除いて、人間の営む社会生活の繁栄と平和をもたらされたということを意味しています。
●スサノオノミコトは人間の幸福を約束される愛の神
●スサノオノミコトは人間の願望期待に応えられる救いの神
●スサノオノミコトは身を犠牲にして他を救われる愛の神
●スサノオノミコトは人の世の幸栄のムスビの神
スサノオノミコトに見守られています限り、人の世は立ち栄えるのであります。熊野大神の御神縁に結ばれる人々は、その御手振りに神習いまして、御神光があまねき世に輝きわたるように神意奉行を尽くさせて戴きたいものであります。
神 話しんわ
神話は遠い遠い昔から私たちの祖先たちが言い継ぎ語り継いで生活の精神的ハシラとしました、いわゆるイノリの物語であります。見えないものに生かされて生きる有難さを思う心のあらわれであります。
青森県国張遺跡は約4,000年も昔の縄文時代の先祖の生活の遺跡です。そこからは日本唯一の”合掌の土偶(土で作った人形)”が先年に出土しました。縄文の祖先は何に祈ったのでしょうか。
生かされて 生きるや今日の この生命(いのち)天地(あめつち)の恩 かぎりなき恩
との道歌があります。
http://www.kumanotaisha.or.jp/ohanasi/sinwa.htm 【神話で見る大神様】より
御誕生―ごたんじょう―
イザナギノミコトが妻のイザナミノミコトがいる黄泉の国から帰られ筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原においでになられて御身を禊ぎ祓われました。
御身に着けておられる物をお脱ぎになられた時に御杖からはツキタツフナドノカミ、御帯からはミチノナガチハノカミ、御裳からはトキオカシノカミ、御衣からはワヅライノウシノカミ、御袴からはチマタノカミ、御冠からはアキグイノウシノカミ、左の御手の手纒からはオキザカルノカミ、オキツナギサビコノカミ、オキツカイベラノカミ、右の御手の手纒からは
へザカルノカミ、へツナギサビコノカミ、ヘツカイベラノカミの12柱の神がお生まれになりました。次に中瀬におりてお漱ぎになられた時に黄泉の国に行かれた穢れによってヤソマガツヒノカミ、オオマガツヒノカミの2柱の神がお生まれになりました。その穢れを直すためにカムナオビノカミ、オオナオビノカミ、イヅノメノカミ、水底でお漱になりソコツワタツミノカミ、ソコツツオノミコト、水中でお漱ぎになりナカツワタツミノカミ、ナカツツオノミコト、水上でお漱ぎになりウワツワタツミノカミ、ウワツツオノミコトの9柱の神がお生まれになりました。
そして左目を洗われた時にお生まれになりましたのがアマテラスオオミカミ。右目を洗われた時にお生まれになりましたのがツクヨミノミコト。そして鼻を洗われた時におうまれになりましたのがスサノオノミコトです。
最後にお生まれになった3柱の神を見てイザナギノミコトは「三貴子(3柱の貴い御子神)がお生まれになった」とたいへん喜ばれました。そしてイザナギノミコトはアマテラスオオミカミに天上の国をツクヨミノミコトに夜の国をそしてスサノオノミコトに海原の国を治めるように言いました。
―『古事記』より―
高天原での素戔嗚尊―たかまのはらでのすさのおのみこと―
海原を任せられたスサノオノミコトは海原を治めず髭が胸まで伸びるまで大きくなられても泣いてばかりいました。
そのようすは、青々とした山がすっかり枯れてしまいよくない事が次々と起こるようになりました。
見かねられたイザナギノミコトは何故泣いているのかをお聞きになりましたところ、「母の国に行きたいので泣いています。」
とお答えになりました。イザナギノミコトはお怒りになり「それならばこの国にいることはゆるさない」とスサノオノミコトを追放してしまいました。
そこでスサノオノミコトは自分の力で母神を訪ねようと決意され姉神のアマテラスオオミカミに事情をお話しておこうと高天原に向かいました。しかし高天原にのぼってこられる様子が山や川を動かすほどの勢いだったのでアマテラスオオミカミは「私の国を奪いにきたのかもしれない」とお考えになり、沢山の武器を身にまとい足を踏みとどろかせて待ち構えておいででした。
スサノオノミコトは高天原を奪うつもりはない事と母神のいる国へ行くことを告げましたがなかなか信じてもらえなかったので「誓約(うけい)」をしてご自身の清き明き心を証明されることになりました。
はじめにアマテラスオオミカミがスサノオノミコトの十拳剣(とつかのつるぎ)をおとりになり3段に打ち折って天の真名井でお漱ぎになり、噛みに噛んで吹き棄てになった狭霧からお生まれになったのがタギリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメの3柱の女神であり、宗像三神と呼ばれます神です。
スサノオノミコトはアマテラスオオミカミの八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)を同じようにして吹き棄てなさってお生まれになった神が、アメノオシホミミノミコト、アメノホヒノミコト、アマツヒコネノミコト、イクツヒコネノミコト、クマノクスビノミコトの5柱の神です。
アマテラスオオミカミは、先に生まれた三神はスサノオノミコトの物から生まれたのでスサノオノミコトの御子で、後に生まれた五神は私の物から生まれたので私の御子だとおっしゃいました。スサノオノミコトは「女神が生まれた事によって私の方が正しい事が証明された。」とおしゃいました。
スサノオノミコトは勝ちに酔われたのか田を荒らし、祭殿を汚し、神様の衣を織る神聖な織機まで汚す罪を犯されました。
アマテラスオオミカミはいたく悲しまれ天石屋戸(あめのいわやど)にお隠れになってしまわれました。すると常夜の世界になってしまいました。また、よくない事が次々と起こるので沢山の神が集まり知恵を絞りやっと天石屋戸からお出ましになりますが、スサノオノミコトを高天原から追放なされてしまいました。
―『古事記』より―
八岐大蛇退治―やまたのおろちたいじ―
高天原から天降りされたスサノオノミコトは肥川(斐伊川)に箸が流れてくるのを見られ、上流に人が住んでいることをお知りになり訪ねてみようと川をさかのぼって行かれました。そうしますと女神を囲み泣いているアシナヅチ、テナヅチと云う老夫婦に出会いました。
2神が言われますには「私たちには8神の娘がいましたが、八岐大蛇が毎年やってきて娘を食べてしまうので、今ではクシイナダヒメ1神だけになってしまいました。そしてまた大蛇の来る時期になってしまいました。」と嘆いていました。
スサノオノミコトはその大蛇はどのような形をしているのか尋ねられましたら「眼は真っ赤なホオズキのように大きく赤く、身には8つの頭と8つの尾があり、背にはコケとヒノキとスギが生えており、8つの谷、8つの峰にわたってずっと続いており、腹はいつも血でただれています。」と言うことです。
哀れに思われたスサノオノミコトは大蛇を退治することを決意されました。8つの酒船を準備し、そこに酒を満たしてクシイナダヒメを聖なる櫛に変えて自分の髪におさしになり大蛇を待ち伏せしました。
やがて大蛇が現れ酒があることに気づき、これを飲んで酔って寝てしまいました。スサノオノミコトは隙を見て、十拳剣(とつかのつるぎ)で大蛇を退治し、体を切り刻んでいますと大蛇の尾を切られた時に、剣が何かに当り欠けてしまいました。何かとお思いになり尾を開いて見ますと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という立派な剣がでてきました。
スサノオノミコトは「この剣は私が持っておくにはもったいない」とおっしゃってアマテラスオオミカミに差し上げられました。
その後スサノオノミコトはスガの地に宮を造られ、「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」という歌を詠まれ、クシイナダヒメとご夫婦になられて、末永く仲良く暮らされました。
―『古事記』より―
蘇民将来と巨旦将来―そみんしょうらいとこたんしょうらい―
スサノオノミコトが南の海にいらっしゃるという女神をお求めになってお出かけになられましたところすっかり日が暮れてしまいました。一夜の宿を貸してもらおうと民家を探されたところ、2軒の家があり兄弟がそれぞれ住んでいました。兄は蘇民将来、弟は巨旦将来と申しました。兄はとても貧しく、弟は富み栄えており倉が100もある程でした。
スサノオノミコトはまず弟の巨旦将来にお頼みになられましたが、弟は物惜しみをして、泊めてはくれませんでした。
そして貧しい兄の蘇民将来は、快く引き受け、粟で作った御座にお座りいただき、粟でつくった御飯でおもてなしをしてさしあげました。
一晩お泊まりになったスサノオノミコトは出立してから数年して、またこの地へ8柱の御子をつれて、お帰りになりました。
そして兄の蘇民将来の家を訪ねられ「私はあなたのためにお礼をしたいと思います。あなたの家には子か孫がいますか。」
とお尋ねになられました。蘇民将来は「私には妻と娘がいます。」とお答えになりました。
するとスサノオノミコトは「茅がやで、輪をつくって腰につけなさい。」とおっしゃいました。
蘇民将来は言われた通りに茅の輪をつけましたところ、その夜のうちに弟の家は流行病で途絶えてしまいましたが蘇民将来の家は無事に流行病を免れることができました。
スサノオノミコトは「吾は、タケハヤスサノオノカミぞ。後の世に、ひどい流行病がはやったならば『蘇民将来の子孫だ』とおっしゃい、茅の輪を腰につけなさい。そうすればどのような流行病も必ずまぬがれるであろう。」とおっしゃいました。
以後、蘇民将来の家は流行病もまぬがれ、繁栄し幸せに暮らしました。
―『備後国風土記』より―
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