心に火をつけるボケ除け俳句

https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/m/201512 【俳句評 俳句。4 小峰 慎也】

 今回(最後)は、菅野国春『心に火をつけるボケ除け俳句――脳力を鍛えることばさがし』(展望社、2015)である。

 この本は、俳人が書いた俳句技法書とは、異なっている。あくまでも(と書きたくない気もするが)、「ボケ除け」を目的とした、俳句によるトレーニングを推奨するものである。

 類書もいくつかあるようだが、この本の、「ボケ除け俳句」の概念の打ち出し方、その割り切り方が興味深い。

 「上手とヘタを気にしない」とし、「言語の芸術」としての俳句を追求するのではなく、あくまでも、俳句の形式に従って、言葉の組み合わせをあれこれ考えることで、脳が活性化することをよしとしている。それを名づけて、前者「純俳句」、後者「通俗俳句」。

 「すばらしい俳句」を書こうとしない、といいきっている。

 「通俗俳句」の特徴として3つの点が挙げられている。

①だれが読んでも理解できること

②句の中にドラマ性があること

③意識的に面白味を狙うこと

 「すばらしい俳句」を書こうとしないといっても、わざとつまらないものを作る、という、負の圧を自分にかけて書くということとは、少し異なっているようだ。句を作るときの、目指すポイントを変えているのである。

 特に強調されているのが、②のドラマ性である。ドラマ性とは、「一行の中から、人間の営みが感じとれる」こととしている。例として、(これは「名句」であると断った上で)芭蕉の「一つ家に遊女も寝たり萩と月」を挙げている。逆にドラマ性のない句として、同じく芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」というのを挙げ、これは「写生の句」としている。

 「ドラマ性」は、③の「面白味を狙う」へとつながっていく。「芸術性より娯楽性に視点を置く」として、(通俗俳句は)「つくって面白く読んで愉快な俳句」であるとしている。面白味といっても、「ギャグやユーモアという意味ではない」。「通俗小説のような面白味のある俳句」ということになる。こうなってくると、なかなかむずかしいような気もしてくる。

 ところで、この本の後半部分(後編)は、アンソロジーになっており、徹底していることに、同じテーマ・季題で書かれた、「名句の例句」と「ボケ除け俳句の例句」を比較・併記していくというかたちになっている。例えば、「春浅し(初春・浅い春・早春・春きざす)」(原本では、「春浅し」が大きな字で書かれ、ほかのはかっこなしで小さな字で書かれている)という項目では、「病牀の匂袋や浅き春 正岡子規」ほか3句を挙げた横に、「ひと恋ふもプラトニックや春浅し」「口笛にこめし思いや浅き春」というように、「通俗俳句」であるところの「ボケ除け俳句」が例示される。この句自体は筆者の作と思われる。

 前編に戻る。

 ここまでのところで見ると、人によくありがちなひとこまを、俳句のルールに従って書けばいい、というようなことになるか。

 序章につづく「ボケ除け俳句で遊ぶいろは」という章に、もう少し具体的に作り方が書かれているかもしれない。と期待して読んだが、マニュアル的なことはほとんど書かれていなかった。

 最初に書かれるのは、「俳句の基本」は守れということだ。約束ごとの中で頭をひねって作るから「ボケ除け」になる。

 そのあとに、通常の俳句にも適用できるが、「まったくの初心者のための俳句をつくる上でのヒント」と断った上で、「一、見たままをつくる写生句」「二、季語と言葉の取り合わせでつくる俳句」「三、表現や題材の面白さを狙った俳句」「四、人生を考えさせる俳句」の4つを挙げ、それぞれを説明している。これは、あくまでも「ヒント」であり、手取り足取りの何かではない。ここまで読んできて、そんなことをいってもどうやってつくればわからない、という人のために、いくつかの力点を説明しているということだ。ただ、(中で筆者の「通俗俳句」を例に挙げて説明してるところもあるが)、ここでの「説明」が俳句全般に関するものになっており、「通俗俳句」の急所にしぼりこまれていないことに、どうにもぼやけた印象を受けてしまう。だいたい、さっき、「通俗俳句」の「ドラマ性」を説明するために、「写生」を排除していたではないか。混乱させられる。

 さらに次の項では、名句の模倣の推奨をしている。「通俗俳句」をめざしていたのではなかったのか。

 この章の最後の項「一句ができあがるまでの思考の回路――俳句はこうしてできあがる――」が、俳句のできるまでの過程をある程度具体的に書いている箇所ということになる。ある俳句会で「薄暑」という兼題が出された。筆者は、そこで「暑気払いの昼酒」をイメージとして浮べた。まず最初に「昼酒を呑んでくだまく薄暑かな」というのが浮かぶ。だが、「俳句として芸がなさ過ぎる」と思い直し、「昼酒で世相を呪う薄暑かな」と作り直す。さらに、「呪う」が「ストレート過ぎる」と思えてきて、「昼酒で世相を嘲(わら)う薄暑かな」とし、またさらに、「これでは句に動きが少なすぎると反省」、「大の字でくだまく昼の薄暑かな」とした。結局のところ、句会に出したのは、「昼酒で世相を嘲(わら)う薄暑かな」だったということだが、後日この俳句のヒントから「相撲甚句大の字で聴く夏座敷」という句が生まれ、やっと筆者の中で俳句の形が整ってきた、というのである。

 次の第二章は、季語を中心とした俳句の話で、マニュアル的なものではない。そのあとはもう後編に入り、アンソロジーの部になっているので、実質、手ほどきはここまでということになる。

 この、できあがるまでの思考の回路であるが、「通俗俳句」的なポイントとしては、何があるのだろうか。まず「薄暑」という兼題に対して、「暑気払いの昼酒」というイメージを思いついたのは、「無類の酒好き」の筆者にとって、すぐに思いついたもののようである。この時点で、筆者はあれこれいじりまわしてはいない。連想の安易さを肯定している。ここに一つの「通俗」が見える。そのあとの「俳句として芸がなさ過ぎる」という点検は、「通俗俳句」ではなくてもやることである。ここは、上手下手を気にしないといいつつ、兼題からの安易な発想をそのままもらせばいい、ということとは違っているということを示している。ただし、その点検は具体的ではない。どこが悪いとか、ここをこうしたほうがいいという方針があるわけではない。「芸がなさ過ぎる」というぼんやりした点検なのだ。これぐらいのところにとどめないと、すぐに「芸術」への道に向かってしまう。あるいは、書けないという道に向かってしまう。

 「呪う」を「嘲う」に推敲する際の「ストレート過ぎる」というのは、特に「通俗俳句」特有のものではない。先の「芸がなさ過ぎる」という点検に近いものであるが、こちらは部分に着目するもので、より具体的な点検になっている。「伝達」の面、「ストレート過ぎる」ことばでは、「伝達」のはたらきだけに傾いてしまい、句が表現としてとどまることをさまたげる、というような感じか。いや、それよりも、筆者の思いつきと表現の間に、「ため」がないという方のことかもしれない。思いついたことをそのまま書く、ということが避けられている。

 「動きが少なすぎる」というのは、「通俗俳句」と結びつけられるか、微妙でもある。筆者自身は突っ込んではいないが、「ドラマ性」ということをはっきりさせる、という意味に取れないこともないからだ。

 そして、最終的には、「相撲甚句大の字で聴く夏座敷」にいたっている。筆者の説明によると、「大の字で寝るというイメージから、夏座敷というイメージが触発され、大の字で聴くのにふさわしいのは相撲甚句だと、筆者の中でやっと俳句の形が整ってきた」というわけだ。「薄暑」からはじまって、イメージの連鎖と、句としてどうかという点検と、そもそも表現としてどうかという点検と、を繰り返して、「薄暑」から抜け出すところまで持ってきている。イメージの連鎖に重点があるようにも思えるが、どこまでやればいいのか、句としての点検については、など、例は具体的だが、マニュアルとしては定式化されていない。ただ、一度、句会では提出しても、「後日」、飛躍と完成が起こっていることには注目したい。

 では、やってみよう。

 一人でやるから、兼題は、歳時記の中から。現在、11月の半ばなので、季節は初冬、そのまま「初冬」にしてみる。

 まずすぐに連想したのが、「こたつ」である。ただ、これは、両方使うとなると、季重なりになるのではないか。あまり汎用性の高い季語にすると、そこから安易に連想したものはすべて季重なりになりかねない。とりあえず、「手足を縮こまらせて椅子に座っている」という連想にしてみようか。「手と足を縮こまらせる初冬かな」と(1)俳句のかたちに当てはめる。たしかにこれはあまりにもあまりである。何があまりにも、なのか。「手と足を縮こまらせる」というのが、ほとんど、普段、俳句以外のところで使われているものと変わりがなく、そして、かつ、組み合わせられている「初冬かな」が、その普段のことばを、別の驚きをもって見させるだけの組み合わせになっていない、といえる。普段どおりのことばを使って何が悪い、悪くない、けど、普段どおりのことばを、普段どおりの文脈に置いたのでは、なににもならない。句を作る過程、そして完成で、「ボケ除け」のスパークが起こらなくては意味がないのである。ただし、ここでは「通俗俳句」を目指しているわけだから、あまりにも意表をついた組み合わせというのは望まれていない。となると、「手と足を縮こまらせる」の文言を、意味は通じるが、(2)少しだけ普段度を調節してみたらどうなるか。「手と足はかたくなりたる初冬かな」。似たようなものだが、少し突き放しが出てきたか。だが、たしかにこれでは、「動きが少ない」。「ドラマ」という意味でも、もう一要素がほしい。そこで、初冬で手足がかたくなってきたということを、中七までに入れて「手と足は初冬に置いて」としてしまい、「昼寝かな」ぐらいの(3)人事をつけくわえたらどうだろう。ここで、いったん手足を(4)「物」化することで、普段、手足に対して使えることばから、より広い用法へ踏み出してみた。ただ、「置いて」が耳で聞いただけでは、「於いて」と聞こえるかもしれない(アクセントは違うが)。「物」化した手足を、冬の連想から、薪のような「物」へと(5)転化してみる。「手と足を初冬にくべし昼寝かな」。すると、ちょっと表現に懲りすぎてわかりにくく、「通俗俳句」とはずれてしまった。「手と足は初冬に入れて昼寝かな」と(6)少し表現を普通の方向にぶれさせてみたが、いまいち、初冬になって手足が縮こまるという意味がすんなり入ってこないものになってしまった。ドラマ性ということも薄い気がする。そこで、(7)ことを先に起こして、時系列順的に配置しなおすことで、ドラマの型を意識してみた。「芋買って初冬に入りし手足かな」。できたという感じはしないが、句会の場だとしたら、時間がないので、これぐらいのところから選ぶのかもしれない。

 最後の飛躍をどうするか。筆者の説明では、作句の過程で出てきた「大の字で寝る」というイメージを、「夏座敷」「相撲甚句」のイメージへと連想させている。飛躍は飛躍だが、「大の字」を中心にして、まとまったイメージに収束している。

 椅子の上で寒さに手足を縮こまらせているところから、ストーブを連想、それをつけるかどうか迷っている状態に、ドラマ性を少し帯びさせて、「ストーブをつけるか親の手足かな」としてみた。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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