https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/m/201512 【俳句評 俳句を見ました(5) 鈴木 一平】より
しばらく前に知り合いにすすめられてエズラ・パウンドの詩論を読んだのですが、とくに「イマジズム」を巡って展開される、イメージ概念に関する言及がなかなかおもしろくて、気に入っています。彼が俳句から受けた印象をつよく反映しているといえばいいのか、勘のよさみたいなものが際立っていて、イメージとはなにかを考えるうえで見逃すことのできない問題を、的確に言い当てているような気がします。
「イメージとは瞬間のうちに知的・情緒的複合を表現するものである」と、パウンドは当時の心理学なんかを経由しながらざっくりと説明しているのですが、これは要するに、イメージはまず複数のばらばらな要素によって構成され、かつ目に見えないもの、視覚に還元できない要素を含んでいるということです。
私たちがかつて知覚したなにかを思い浮かべるとき、思い浮かべられる像は目に見えるものとして存在していません。アメリカの神経学者アントニオ・ダマシオによれば、思い浮かべることで私たちが感覚するものは、対象を見る際に発火した神経パターンと、それを再び生成させるよう働きかける指示的表象と呼ばれる回路との連携によって構成されている、といいます。つまり、イメージとは画像のように保存されているものではなく、対象の認識に用いられたその手続きを再度、出現させることで組み立てられる。こうしたイメージは一回こっきりのパターンから引き出されるものではなく、思考の方向に応じてこれまで生きられた膨大な経験を横切りながら、修正と変換の操作を繰り返しおこなう、動的なプロセスそのものです。
この理論と芸術におけるイメージの体制を紐付けるには、表象に対する私たちの意味付けがどのようにイメージ生成のプロセスと絡んでいるかを考える必要がありますが、とりあえずモデルとしては役に立つのではないかとおもいます。ここで重要なのは、イメージが保存された画像とそれを見る私という構図をとらず、私がそれを見たという経験において踏まれた手続きの再現というかたちをとるということです。
先ほどのパウンドのイメージ概念にもうすこし付け足して、イメージとは知覚や思考、情動を司る複数の論理が連携しあって行われる計算そのものとして、そのつど立ち上げられるものであるといってみましょう。この複数の論理は、互いに異なる階層に位置づけられているため、イメージは複数の回路の連携として生じつつ、回路同士の階層間をつなぐインターフェイスとして、不可視の星座を仮構している、といえるのかもしれません。こうして求められるイメージは感覚的な知覚を含んだ、生身の計算として私たちに到来します。であれば、この目に見えない空間に満たされた計算の奥行き、通常なら同居しがたい異なる論理同士の織り成すネットワークこそが、私たちにイメージの強度を経験させるのではないでしょうか。
●
すっかり長くなってしまいましたが、何度めかの連載をへたいまになっても、俳句を素手で読むことができずにいます。絶えず自分が俳句を読んで感じる手応えをたしかめながらも、手応えの支えになる枠組みが上手くできずにいるといえばいいのかもしれません。
逝く人の枕につなぐ鶴遠し 安井浩司
冒頭で述べたイメージの厚みとは、要素の隣接によって生じるギャップに、私たちの思考が補填されることで生じるものであると言い換えられます。またしても人からすすめられたものであれですが、安井浩司の作品はどこか、安易な結像を撥ね付けるような、凄味のあるものが多くていいな、とおもいます。まさしく、イメージを読み取ることと句を計算することが同居している感じがします。この句は、「逝く人」と「鶴」のあいだを字義通りの「遠さ」によってループをつないで、「逝く」ことがなんらかの距離感をもって生起しつつ、そこにギャップ=「逝く人の枕」に対する「遠」さでありつつ、「逝くこと」=「遠くなる」を呼び込む「鶴」が重ね合わされる、その手つきが鮮やかです。
行く秋の池残響の鮒ふたつ
この句はまず、「行く秋の池」において秋に動性が付帯されつつ、それが池のもつ不動性と結ばれるところに緊張が走ります。とはいえその緊張は、「残響の鮒」という奇妙な要素の接続がなければ果たされないものであることはいうまでもありません。というのも、「残響の鮒」において与えられる折り解きがたい抽象性が、波紋によって歪められる魚影という素朴な視覚像を喚起させつつ、「行く秋の池」を単なる叙情性とは別の領域に引き上げる反響として働くからです。つまり、「行く」が過ぎ去っていく季節の比喩表現として機能しながら、同時に字義通りの移動を意味する「行く」を孕み、「秋の池」に「残響の鮒」と同程度の性質を重ね合わせるわけです。それは「行く」と「残響」とのあいだになにかしらの類似性が見られるというよりかは、「残響の鮒」がもつ像のいびつさを経由して、「行く秋の池」の様態を修正するという手続きを踏んでいるのかもしれません。また、この「残響の鮒」は蛤の殻ように「ふたつ」に分化していることで、「残響」をたがいに跳ね返しあうように内面化します。「行く秋の池」と「残響の鮒」のあいだに結ばれた動性を、「残響の鮒」同士の循環がさらに加速していく感じといえばいいのでしょうか、鮒が自身の放つ残響を再帰的に取り込み、その性質を計算するかのように、安定した像への収斂を絶えずゆるがすような動きがあって、おもしろいとおもいます。
夏至の花雲の表裏も交代し
「雲の表裏」の交代とはどのようなものなのか、考えてみると容易にはイメージしにくいところがあります。「雲の裏側」として想像されるのは、通常私たちの目に晒されている側ではない、たとえば飛行機にのって、上空から見下ろされる側であるとおもわれます。裏返るのではなく交代する。表裏の「反転」ではなく、「交代」として表現されるところに、この句の印象の強さがあります。一方で、この「雲の表裏」の交代は、「も」として付随するものであることから、「夏至の花」を介して強められた印象であると考えられます。つまり、日の長さのピークであると同時に夜の長さへの交代でもある「夏至」の提示によって、それ自体としては不鮮明ではありながら、「雲の表裏」の「交代」に結像の感覚が生起する。ここで、「夏至」に対して私たちが抱く「一年のなかで、昼の長さがもっとも長い日」という認識は、視覚に起源をもつというよりも、日照時間に関する知識として把握されるものであると考えれば、「雲の表裏」の交代という具体的でありながら視覚的に再現しにくいイメージの様態は、「夏至」との関係において強められるに足る親縁性があるといえます。もちろん、「夏至」と「雲の表裏」とがもつ論理は、自明な共有を前提としていません。そもそも、一つの句のなかに同居する二つの様態は、一方では形式的な連続性を与えられながらも、言語の仕組み上、それ自体としては不連続なものです。空間と呼ばれる概念が、不連続な対象間に連続性を仮構するために要請される形式であるように(そうした時間と空間に対する認識は、「雨燕時間系みな異なりぬ」のように、別の句でも提示されています)、私たちは「夏至の花」と「雲の表裏」とのあいだにあるギャップを前にして、 両者が連続性を得る水準を、まずはそれが形式的に、かつ事後的に同居しているという点において設定します。ですが、ここで互いの関係が切れているという様態も重ね合わされているわけですから、両者の因果関係はぽきぽきと折り畳まれながら、ひとつのまとまりを形成しています。並列的な論理のまとまりのなかで、私たちは「夏至の花」と「雲の表裏」への計算を立ち上げる。そこで互いの類似性を意味の変換操作によってつくりだすことで、ひとつの解としてのイメージを生成させのではないでしょうか。
というわけでその他、印象的な句をいくつか列挙したいとおもいます。
白桃のすでに形は地に落ちて
春の雲交叉の棒ら入れにけり
孤鳥もぐる浮き穴はあり春の海
野の石に死勢の見える秋の風
古池や遊母去りまた深くなる
春の水遠く背をもつものが海
藁の王焼けば夕雲あぶられつ
女旅人体を曲げて入るつりがね
枯野はや昼月へ水引きあげて
https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/f9aa66cbf2f608c5b2f09b966a35bc2f 【俳句評 俳句を見ました(6) 鈴木 一平】より
俳句の入門書的なものをいくつか買ったのですが、入門書は作例として載っている作品にいいものがあって助かります。『俳句技法入門』?という本に載っていた作品からひとつ。
物置けばすぐ影添ひて冴返る 大野林火
物の下に影が落ちている、という距離感に動きがあたえられていて、しかも、影そのものが意識を持って動いているかのような不穏さが、「すぐ」と「添う」によって強められているところがいいとおもいます。解説をすると同じ言葉を二回くり返すしかないような簡潔さが十七字のなかに収まり、作品を読む時間と作品の意味を了解する時間が一致してしまうぎりぎりのところで生まれる認識のだまのようなものが、影の輪郭を強める「冴返る」に送りつけられる手前でうごめいている感じ。影に対する注目が、影に注目する私を用意せずに完結できるところに、俳句の怪物的な力があるようにおもいます。
話はずれますが、読んでいる時間とその意味を了解する時間が一致してしまう、という感覚は、作品に対して自分の取りうる動作があらかじめ先取りされているかのような感覚、経過していたはずの時間が宙に浮いたような感覚を引き起こしますが、言い換えればそれは、この作品を読んでいる時間が作品に還元できない、という感覚でもあります。写生のめざす方向のひとつである現在時の瞬間性は、作品の了解の成立の瞬間性である一方で、現在時がそれを生きる私の外にはどうしても記録できないものであるということが、意味するものと意味されるものとの一致(の感覚)によって成り立っている、といえます。写生とはこの襞のようにもたつく時間の還元できなさをとおして獲得される、俳句の外が準備する持続をこそ意味するのではないのではないか、とおもいます。
攝津幸彦『攝津幸彦選集』を読んで、次の句に目が止まりました。
「悔い改めよ」野鼠の夜が又来るぞ 攝津幸彦
俳句は、わりあい台詞と親和性がある媒体なのではないかとおもいます。括弧は地の文との時間および空間的な解離の指示を意味するところに由来し、「ここに収まっている私(言葉)は、そうでない言葉とは別のレベルに属する存在である」という指示を持っています。けれど、この間接性の提示は同時に、括弧で示される記述が引用という手続きを経由しながら、記述それ自体として表面化する、あらゆる言い換えを否定してあらわれる度外れな直接性の露出でもあります。「悔い改めよ」の、どこか笑えるようなハッタリを含んだ不気味さは、それがだれか(出典元)の声でありながら、だれの声かわからない(補足的な「野鼠の夜がまた来るぞ」という呼びかけは、せいぜい作中主体を仮構するとしても)、発話者をもたない声としてあるといえます。とはいえ、声は「それが声である」という認識さえあれば、特定の発話者を持たなくてもとりあえず声として解釈できるもので(だからこそ、だれもいないはずのところから声がするとこわい)、俳句もまた、ある記述が俳句として成立するためのルールに則ってさえいれば、とりあえず俳句として読めてしまえます。この論理を突いて、正体不明の「悔い改めよ」は、底が抜けたまま不気味に立ち上がってくる。だれの声かはわからないが、聞こえてしまった声である「悔い改めよ」とは、逆説的に神の声として定位されることになるのかもしれません。
その他、「蛇が〈隠れて生きよ〉と人妻に」もよかったです。
『阿部完市句集』(砂子屋書房、1994年)所収の「あべかんの難解俳句入門」に、おもしろいなとおもった話がありました。
実際に俳句を読む場合を考えてみる。「五七五」と一行に書かれている俳句を読み下すとき、一音をすべて同じ長さで読むことはまずない。(…)決して指折り数えて一歩一歩ーー音歩という言い方そのもののように読みすすむことはまずない。そして反対に「字足らずの句」「字余りの句」必ずしもつよく音の不足、過剰が意識されることなく五七五に読みおさめられるのである。「俳句に向けての音歩律、音数律」による読みは事実として絶対のものではない。(…)定型はこのようにかちんかちんの鉄製の容器ではなく、ゆるい「定型感」とでもいう一種の直感であって、少々の伸縮は可能あるいは許容されるのがその実態である。
ここで、著者は「自分の読みあげる自分の作品」と「他人が読みあげる自分の作品」が異なる調子で読まれてしまうことにおどろいた、という歌人のエピソードを引っ張っていますが、それは定型であることが特定の音数であることを基準にしないということ、五七五のリズムは作品の内部に埋め込まれているものではなく、読み手と作品のあいだ、その間取りにおいて生み出されるものであることを意味します。つまり、リズムは客観的な相関物を持ってはおらず、おなじ作品から異なる調子がいくらでも出てくる可能性があるということであり(蕪村「遠近をちこちとうつきぬた哉」とか)、それは単に複数の読みを可能にする向きがある一方で、あるひとつの作品がひとつの作品として読まれる機会を持てなくなる、ということでもあります。制作の過程において作品をつくる上でその基調になっていたリズムが、他にもありえたバリエーションのうちのひとつとして、反転してしまうこともあるのでしょう。すぐれた作品が正しく暗記されずに覚えられてしまうとき、それは読み手の記憶力の問題なのかどうか。
考えてみると、定型が一定の柔軟性を持ち、著者の作品「しら帆百上げる十一月末日の仕事」が五七五として読まれうるのであれば、逆にまっとうに五七五で分かれるように書かれた作品でも、定型としては不十分なものでありえるという話になります。俳句とは常につくられた作品の達成を前にしてしかありえない、という話なのかもしれませんが、ここで定型は一般的に言われる意味とはちがうものに化けてしまうような気がします。表現をその内に搭載する器のようなものから、それ自体が常に表現をとおして実現されるものへと変化する感じ。そうなると、定型とは俳句にとってのものではなく、(作品の完成度と絶えず判断がすり替えられつつも)当座の作品にとってのものとして妥当であるかが問われるわけで、作品の数だけ定型が異なるという見方もできます。そこで、個々の作品から差し向けられる一貫性があるとすれば、理想形としての定型をしめすことになるのでしょう。「俳句はなぜ五七五なのか」を問うのではなく、「五七五とは何か」を考えるきっかけになる、いい話だとおもいます。
著者の作品をいくつか引用します。
芍薬のうつらうつらとふえてゆく
むらさきの他人ふたりがみてとおる
夕べ痛いと言つて自転車とおるなり
もくれんの花はたいせつ蔵にいれる
茶の花けしき雨のまねしてとおるなり
昼顔のか揺れかく揺れわれは昼顔
天飛ぶやひよどりはなかまなりけり
木ぶしの山をみみずはゆれてとおるなり
わがからだ虫かごであり大きい
うす曇りかもめの心にさわるかな
鮎たべてそつと重たくなりにけり
妻産めば雲いたわりに来る夜明け
ほろほろと人いるよ雲追ったりす
草木より病気きれいにみえいたり
ふたごいる白い模様をいつぱいもち
夕方流れていればすぐ会う八咫烏
この野の上白い化粧のみんないる
0コメント