https://1000ya.isis.ne.jp/1597.html 【虚子五句集 高浜虚子 岩波文庫 1996】より
ふ と し た る こ と に あ は て て 年 の 暮
今年もおしまひである。
済んでしまったこともあるが、済まないもの、澄まなかったこともある。もう少し控へたり、あるひは鷹揚にしたかった気分もあるけれど、人や仕事や事情が踵を接しすぎて叶はなかった。そのくせ危機や大事の兆候は放置できないタチで、ルーチンの手を抜くのも嫌ひだから、ついつい過密が続くことになる。それはそれでこれまでのなんだかんだの世事との関はりからして当然の応報といふものだから、それらを邪険にどこかに押し戻したいといふわけではない。
しかしその一方で、世の中と自分の周辺が少しずつ見へ方が変わってくるといふこともむろんあるわけで、そういふ見方からすると、言ひたいこと、自分に懇々と、あるひは昏々と言ひ聞かせたいことはしばらく前から続いてゐて、今年も(おそらく来年も)それを繰り返しておかなければならないと思へる。
以下、一年の始末に当たって高浜虚子のことを採り上げやうと思ふのは、そういふ気持ちからである。適当に旧仮名遣ひで綴ってゐるが、これは厳密ではない。あしからず。「っ」も「つ」ではない。
虚子を大いに認めたいという気持ちはずっと前からおこってゐた。句だけでなく、その人柄や生き方にも敬意を払いたいと思ってゐた。
ただし、ぼくの俳諧好みの流転のなかでのことを先に言っておくと、高校生の頃に「白牡丹といふといへども紅ほのか」などに惹かれて、ちょっと好きになってゐたのだが、すぐに離れたのだ。同じホトトギスでも誓子や風生や芽舎のほうがいいと感じたからといふこともあった。
いったんそう感じると、虚子は退屈至極だと言ひ切りたくなって、家にあった波郷(1003夜)や鷹羽狩行や藤田湘子の句集を開いたりしたものだ。おまけにそのあとは三鬼や耕衣(24夜)であり、不器男や赤黄男だったから、ますます虚子ではなくなっていた。虚子に戻るなら子規(499夜)を足場に、そこはそれ蕪村(850夜)、一茶(767夜)、芭蕉(991夜)なのである。
ところが、いつのどのあたりとは言へないのだが、虚子の花鳥諷詠の主客観をそのまま認めたいと思ふやうになった。誰しもに「自ら恃(たの)む」といふ心地があるものだが、たいてい揺動する。虚子はこれがまったくふらついていないのだ。
春惜しむ命惜しむに異ならず
一匹の蝿一本の蝿叩(はえたたき)
山寺に仏も我も黴びにけり
たとへばこの3句だが、ふつうならこういふ威張った句は俳諧の地面が割れるか、読まされた者が椅子から落ちるといふことがあるのに、そうならない。
そうならないのは「春惜しむ命惜しむに異ならず」で言へば、まさに惜春にふさわしい一点をめがけて一挙に主客を投じられたからであって、これは“ここだけが惜春いっぱい”の句なのだ。ぼくはおそらく虚子の8割ほどの句を見ている(読みこんではいないが)と思ふけれど、こういふ「春惜しむ」が「命惜しむ」に重なっていくといった連畳はほかでは使っていないし、「異ならず」もなかった。
「一匹の蝿一本の蝿叩」のほうも、きっと日頃は武道的でもなく、おそらく武蔵(443夜)や鉄舟のことなど委細かまわぬ輩だったらう虚子が、飛んできた蝿に手元の蠅叩きでとっさの手を動かしたことそのことが、こんな懸待一如の句になった。これも他では試みていない一閃だったらう。
3句目の「山寺に仏も我も黴びにけり」は、まず自分を仏に擬して「黴びる」と言ふのはずいぶん勿体を付けたもの、大袈裟か、自虐ナルシスな句になりかねないのに、ところがこのときばかりは「山寺に」「仏も我も」が一蓮托生になれたのである。だからゆっくり、堂々と黴びられたのだ。
こうした詠みは、思想ではない。虚子は思想や思潮から詠むといふことはしなかった。それなのにその臨場に(その場に臨んで)、心がなにがしか去来できるときだけは、すっぱり思想を五七五に放り込めたのである。
こうして、これはやはりのこと虚子をそのまま受容したいと思うようになったのだ。一挙にそういうコンバージョンをしたのではなく、あへて薄々そういうふうに得心できるやうに仕向けていったとおぼしい。
それで、いったん虚子を受容すると決めてみると、ごく初期の明治20年代後半の、たとへば「風が吹く仏(ほとけ)来給ふけはいあり」や「しぐれつつ留守守(も)る神の銀杏かな」がすばらしいものに見へてきた。また晩年の、こんな芸当もしてみせるのかといふ「地球一万余回転 冬日にこにこ」も、虚子の俳諧三昧もしくは風流懴法だと感じられたのである。
そうこうしているうちに、虚子に集中していてぼくには拡散しているのは、次のやうなことかと思ふやうになった。
ここに幹をやや傾けて、泰然自若と冬を過ごさうとしてゐる立ち木がある。まあ、巨きい。空は碧い。よくある光景だ。それを虚子がぢっと眺めてゐる。冬ではあるが少し暖かい。しかし傾いた樹木などべつだんめづらしいわけではない。けれども何かここでは退(しりぞ)けないものを感じ入った。どう、詠むか。
大空に伸び傾ける冬木かな
なるほど、こうなるのである。冬木だが、極寒ではない。ちょっと暖かい。だから「伸び」である。けれども「大空に伸びる」ではいかにも常套であって、アマチュアの俳人たちだってこんな詠み方をしない。ところが「伸び」に「傾ける」が連なって「伸び傾ける」(傾くではなく傾ける)でいいと思へたとたん(あるいは推敲をして)、ふいに「大空に伸び傾ける」というふうにした。そうなればしゃあしゃあと「大空に」なのである。
仮にぼくが「伸び傾ける」を思ひ付いたとして、この「大空に」を据え置けない。それを虚子はポーンと置ける。もう少しべつの例を見る。
一片の落花見送る静(しづか)かな
湖もこの辺にして雁渡る
これは「一片の落花」「落花見送る」「見送る静」といふ一連の“感じ見たイディオム”が「静」によって連結して、「静」の一字の力によってふいにオムニシエントな上空に引っ張り上げられて、五七五につながったといふものだ。まさに虚子の修辞的カメラワークがそうなったのだが、それを「静(しづか)かな」で結んで平気なのが、ぼくにはどうやら足りないのである。
次の「湖もこの辺にして雁渡る」は、もっと決定的だ。「湖や」でもなく「湖を」でもなく「湖も」ときて、雁を「この辺」で放っておくこの余裕綽々が、ぼくにはかなり欠如している。いや、句の技といふよりも生き方が綽々とできていなかった。
いったい虚子はどこでこんな俳句の生き方を会得したのだらう。おそらくは同じ故郷で子規が先行し、そして倒れ、『ホトトギス』を創刊することになっても碧梧桐が編集と指導を引き受けていたことが大きかったのではないかと思ふ。虚子は遅れたので焦ったのだが、そのあとはこの二人の先行的恩愛をちゃんと自身の葛藤の中に招じ入れたにちがひない。
そこへもってきて虚子は当初は小説を書いてゐた。冗長でも散漫でもないが、筋書きはたいしておもしろくもない小説だ。ただ「風雅」をめざしたいといふ決意はあった(漱石は「低徊趣味だね」と評した)。子規が亡くなり、碧梧桐が独り立ちしていって、虚子はいよいよ何か、コンティンジェントな別様の方法で自分の行方を濃縮する方途に向かい、それがさまざまな錬磨を受けて、あのやうになったのだらうと思ふ。きっと、そうするしかなかったのだ。しかし、その覚悟は潔いものだった。
ホトトギス
1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊。創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』。子規、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが選者であった。夏目漱石が小説『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。
さて、今夜は年の瀬である。いろいろあった一年だったが、折角なので虚子の冬の句を拾ってみようと思ふ。
虚子には『五百句』『五百五十句』『六百句』『六百五十句』『七百五十句』といふ句集区切りがあって、岩波文庫の『虚子五句集』上下はそれをすべて収めていて、年代順かつ月日順になってゐる。そこから、冬の句や去年今年(こぞことし)の句や、少し新年に入った句を選んでみることにする。
虚子の代表句を案内するのではない。ぼくが「こういふ虚子」を受け入れたといふことを示したくて、選んだ。表記上、ときに一字アケにしてあるのはぼくが勝手に読みやすくしたもので、もとはそうなってはいない。
ついでに、もうひとつ。虚子はよく短冊を書いた。ぼくの父も何枚か持っていた。昭和33年には84歳の高齢にもかかわらず、便利堂に頼まれて自選自筆の『虚子百句』を上梓した。すべて短冊になってゐる。幾つか掲げておくことにする。虚子の筆はまるっこくて、破綻がなく、おそらくは光悦のやうになりたかったのだらうが、そうはなれないでゐる。そのぶん、何だか掌(たなごころ)めいていて微笑ましい。
元朝の氷すてたり手水鉢(明31)
遠山(とおやま)に日の当たりたる枯野かな(明33)
冬の山 低きところや法隆寺(明38)
桐一葉(ひとは) 日当たりながら落ちにけり(明39)
鎌倉を驚かしたる余寒あり(大3)
冬帝(とうてい)先づ日をなげかけて 駒ケ嶽(大9)
北風や石を敷きたるロシア町(大13)
庫裡(くり)を出て納屋の後ろの冬の山(大14)
大空に伸び傾ける冬木かな(大15)
虚子の句はどんなに凄い句なのかと期待していると、たいてい柔らかく外される。何食わぬ顔でやられる。それで、何でもない句だと思っていると、今度はこちらが怯むことになる。
虚子にそんなことができるのは、はっきりしているのは「眼がまっすぐで、腹が坐ってゐる」といふ所為だ。上に挙げた句でいへば、たとへば「遠山に日の当たりたる枯野かな」である。これは星野立子によると「父が好きにしていた句だった」やうで、「父の人格だと自ら考へてゐた」とも言ふ。そうだらうと思ふ。ぼくが虚子を容れたいと思ったのもこの句の見方によるところが少なくない。
けれどもどこかでこれに似た句を句会で提出されたとして、ぼくがそれを選ぶかといふと、あやしい。明治33年、子規の死期を感じてゐた虚子にして、「遠山に日の当たりたる枯野かな」なのだ。
このことは「冬の山低きところや法隆寺」にも「鎌倉を驚かしたる余寒あり」にもあらはれてゐる。「冬の山低きところの法隆寺」ではなく「低きところや法隆寺」と切れ字をここに使ってゐるのが虚子なのだ。
薮の池 寒鮒釣(かんぶなつり)のはやあらず(昭2)
鉛筆で助炭(じょたん)に書きし覚え書(昭5)
神近き大提灯や初詣(昭10)
かわかわと大きくゆるく寒鴉(かんがらす)(昭10)
大空に羽子(はね)の白妙(しろたえ)とどまれり(昭10)
観音は近づきやすし除夜詣(昭10)
物売も佇む人も神の春(昭11)
人に恥ぢ神には恥ぢず初詣(昭11)
枯るる庭 ものの草紙にあるがごと(昭12)
人形の前に崩れぬ寒牡丹(昭13)
右手(めて)は勇 左手(ゆんで)は仁や 懐手(昭13)
襟巻に深く埋もれ帰去来(かえんなん)(昭13)
金屏にともし火の濃きところかな(昭13)
「大空に羽子の白妙とどまれり」は「大空に伸び傾ける冬木かな」の大空に畢竟する。「観音は近づきやすし除夜詣」は好きな句だ。のちに「永き日のわれらが為の観世音」とも詠んだ。こんなふうに観音を詠みたいが、ぼくはこうではなかったのである。
しゃくなのは「枯るる庭ものの草紙にあるがごと」で、久保田万太郎なら軽く詠むだらう「ものの草紙」を、この一句のみで「枯れ庭」にあてはめたのが虚子だった。
大正5年ころ、鎌倉の虚子庵にて。
左より虚子、年尾、真砂子、宵子、いと、友次郎、立子
『新潮日本文学アルバム 高浜虚子』(新潮社)より
鎌倉の虚子庵にて、いと夫人と
『新潮日本文学アルバム 高浜虚子』(新潮社)より
虚子の句は長らく「写生俳句」とか「客観写生」と言はれてきた。「鉛筆で助炭に書きし覚え書」や「人形の前に崩れぬ寒牡丹」はあきらかに写生の真骨頂である。いまも続くホトトギス派はみんなこういふ写生俳句をめざしてきた。それはそうなのだが、写生のあとこそが虚子になるとぼくは見る。
写生のあととは、虚子はよく「とりのけ」(取り除け)と言ふのだが、これがなければ写生は力を失ふ。取捨選択といへば取捨選択、推敲といへば推敲ではあるが、観察しているあいだ、そこに居るあいだにも高速に「とりのけ」をする。たいへん重大な引き算なのだ。だいたい写生といっても、そこにある全部など写生できるわけがないのだから、絵筆で写生するときがさうであるやうに、最初から取り除けるべきなのだ。
ちなみにぼくは「客観」といふ言葉はふさはしくないだらうとも見ている。あへて言へばベルクソン(1212夜)の持続ののちの客観かもしれないが、虚子はカテゴリーが得意な人ではなかったから、できれば理屈好きの弟子たちがもっと言い換ヘてあげればよかったのである。
といふことで、上の句で最も虚子らしいとぼくが感じてきたのは、実は「金屏にともし火の濃きところかな」の「ところかな」なのだ。この「ところ」がなんとも虚子なのである。
これは「冬の山低きところや法隆寺」の「ところ」とはやや違ふ。5W1Hのところではない、それらをまたぐところなのだ。実はぼくも「そのへん」「そのところ」「このあたり」をよく使うのだが、なかなかに五七五で費ひ切れるものではない。しかも白隠(731夜)や盤珪のやうに禅めいて言ふのならともかく、この「ところ」を日常の諷詠に忍ばせる。これは虚子の「自ら恃む」といふ心地でなければ費へない。
高々と枯れ了(おお)せたる芒(すすき)かな(昭14)
この後の一百年や国の春(昭14)
炭斗(すみとり)や個中の天地おのづから(昭14)
大寒の埃の如く人死ぬる(昭15)
墨の線一つ走りて冬の空(昭15)
懐手して人込みにもまれをり(昭15)
惨として驕らざるこの寒牡丹(昭16)
枯蓮(かれはす)の池に横たふ暮色かな(昭17)
末枯(うらがれ)の原をちこちの水たまり(昭18)
うかとして何か見てをり年の暮(昭18)
川の面(も)にこころ遊びて都鳥(昭18)
その蔭のほのとあたたか枯づつみ(昭19)
その辺を一廻りしてただ寒し(昭19)
大根を鷲づかみにし五六本(昭20)
どこやらに急に逃げたる冬日かな(昭20)
ホトトギスの表紙
戦時中に戦争らしきものをほとんど詠まなかったのは、虚子が批判される難点だった。けれど、このことについて岩波文庫の『虚子五句集』の解説を書いた大岡信と話したことがあって、そのとき大岡さんが「虚子は綿密でしょう。当時の戦争は噂ばかりだから、虚子は詠みやうがないですよ」と言ってゐたのが印象的だった。あへて見れば虚子の戦争は「この後の一百年や国の春」といふところだらう。やはり虚子は昭和18年の冬であっても、「うかとして何か見てをり年の暮」なのである。
だいたい虚子は動機と目的とを切り離さなかった人だった。いまは岩波文庫に入っている『俳談』といふ随筆と口述を集めた一冊があるのだが、その中の「花鳥諷詠」に、「花鳥諷詠を動機と言うのも目的というのも、そう切り離しては考えられない」と言ってゐる。
いささか微妙な言ひ方で戸惑ふが、ぼくはこれは虚子なりの「時分」(世阿弥の言葉だがいまは広く使っている)といふものではないか、動機も目的も渾然たる「時分」になっていくからではないかと思ってゐる。時分が難しいといふなら「按配」でも「結構」でもいい。どっちにせよ、そのへんだ。
それが上の句では、動機とも目的ともつかないやうな、「懐手して人込みにもまれをり」や「その辺を一廻りしてただ寒し」や、また「どこやらに急に逃げたる冬日かな」なのである。
田一枚一枚づつに残る雪(昭21)
二冬木(ふたふゆき)立ちて互にかかはらず(昭21)
去年今年追善のことかにかくと(昭22)
冬籠(ふゆごもり)われを動かすものあらば(昭22)
我ここにかくり終わりし大冬木(昭23)
庭のもの急ぎ枯るるを見てゐたり(昭24)
元日に田毎(たごと)思ひし古人はも(昭25)
去年今年貫く棒の如きもの(昭25)
山並の低きところに冬日兀(こつ)(昭26)
暖き冬日あり甘き空気あり(昭27)
こうして選んでゐると、なんでもない句も多くて、いや、捨てた句にひょっとしてぼくの焦りがあるのかとも思ふのだが、もしあるとすれば、それはぼくが約70年を生きてきてそこかしこに失礼をしてきたことの反映なのである。
これは如何ともしがたいもので、じたばたするものでもない。虚子は『俳談』では「埒を越えたものは俳句ではなくなる」と言った。「埒外」が好きなぼくからすると、埒に居続ける虚子の動じない生き方は、たいへんな脅威なのである。
俳句といふものはけっこう怖しく、僅かに手がゆるむだけでとんでもなく正体が砕けてしまふ。俳句も埒との闘ひだが、句を選ぶということにもそれは臆面もなくあらはれるのだ。しかし虚子はそういふことは存分に知悉してゐたから、どう転んでもちゃんと「二冬木立ちて互にかかはらず」と、「庭のもの急ぎ枯るるを見てゐたり」と詠んでいた。いかにも埒ぴったりだ。
我が仕事炬燵の上に移りたる(昭28)
眠れねばいろいろの智慧夜半の冬(昭28)
短日のきしむ雨戸を引きにけり(昭29)
冬山に隠れ住むともいふべかり(昭30)
去年今年一時か半か一つ打つ(昭30)
一本の芒(すすき)ほほけて枯るるまで(昭和31)
冬日あり実(げ)に頼もしき限りかな(昭32)
ほこほこと落葉が土になりしかな(昭32)
斯くの如く只ありて食ふ雑煮かな(昭32)
ふとしたることにあはてて年の暮(昭33)
元日や午後のよき日が西窓に(昭33)
虚子筆「句屛風一双」
疎開時の謝礼として虚子が小山家に送ったもの。
手前右より正月〜12月までの句が書かれている。
『新潮日本文学アルバム 高浜虚子』(新潮社)より
それでは最後に一言。
虚子の花鳥諷詠は南無阿弥陀仏だったのであらうと思ふ。それは子規が早くに逝ってしまったときからずうっとそうなのだ。ただ、この人は思想ではなかったから、こんな大事なことを仏に匹敵するだとか、柳宗悦(427夜)のやうに妙好人でありたいとか言はなかっただけなのだ。
ぼくのほうはいまさらであるが、この70余年の続きはもっともっと思想することになる。ときに俳諧したり書画したりもするだらうが、「冬山に隠れ住むともいふべかり」とか、「冬日あり実に頼もしき限りかな」とは捨ておけまい。ましていよいよ80歳を迎へやうとする虚子が「短日のきしむ雨戸を引きにけり」と、これだけを詠むといふことには至れない。
ともかくも、今年も暮れたのである。ぼくはさすがにまだ暮れてはいないと思ひたいけれど、それはそれ、今年はこれで大つごもりを迎へたい。みなさまがたには、いろいろ容赦されたいこともあるが、宜しく去年今年を送っていただきたい。
去 年 今 年 貫 く 棒 の 如 き も の
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