山背国の東寺めぐり① ~伏見稲荷大社御旅所~

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山背国の東寺めぐり① ~伏見稲荷大社御旅所~

京都・東寺(とうじ)の500メートル東にある伏見稲荷大社御旅所(ふしみいなりたいしゃおたびしょ)です。

東寺の住職となった空海は五重塔などの建設資材を稲荷山から調達したといわれ、伏見稲荷大社を創建したのも稲荷信仰をひろめたのも空海であるという伝承まであるようです。

そうした関係から稲荷祭(いなりまつり)では伏見稲荷大社から5基の神輿がわたり

御旅所に20日間ほど滞在するといいます。

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https://ameblo.jp/navihico-8/entry-12748700045.HTM【山背国の東寺めぐり① ~伏見稲荷大社御旅所~】

京都の東寺(とうじ)をめぐります。まずは、東寺の500メートル東にある伏見稲荷大社御旅所(ふしみいなりたいしゃおたびしょ)です。

社名のとおり伏見稲荷大社の御旅所であり4月~5月におこなわれる稲荷祭(いなりまつり)では伏見稲荷大社から神輿(みこし)が渡御するといいます。

かつては、八坂(やさか)神社の祇園祭(ぎおんまつり)上賀茂(かみがも)神社・下鴨(しもがも)神社の葵祭(あおいまつり)とならんで京都三大祭のひとつとされていたようです。

伏見稲荷大社から御旅所へ渡る御神事を神幸祭(しんこうさい)といい、20日間ほど御旅所に滞在したのち御旅所から伏見稲荷大社へ戻る神事を還幸祭(かんこうさい)というようです。

滞在中は、御旅所もおおくのひとでにぎわうといいます。

御旅所の滞在中に5基の神輿はそれぞれ氏子区域を巡幸するといいます。

「下之社」は塩小路・中堂寺をめぐり「中之社」は西九条をめぐり「上之社」は

東九条をめぐり「田中社」は不動堂をめぐり「四之大神」は東寺・八条をめぐるようです。

5基は伏見稲荷大社の祭神である5柱の神々を乗せているのでしょう。

伏見稲荷大社では、下社(中央座)・宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

中社(北座)・佐田彦大神(さたひこのおおかみ)

上社(南座)・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)

下社摂社(最北座)・田中大神(たなかのおおかみ)

中社摂社(最南座)・四大神(しのおおかみ)を祀るといいます。

古事記・日本書紀にはこれらの神々についてほとんど載っていないのでこの神々がいったいどういった存在なのか議論がつづいているようです。

ホツマツタヱによれば稲荷信仰は『ハタレの動乱』にはじまるらしくハタレ(反乱軍)の一団・キクミチ(狐憑き)が皇軍カダのもとにくだってカダの祖先にあたるウカノミタマ(ウケモチ)を祀るようになったといいます。

カダはのちに荷田(かだ)氏となって伏見稲荷大社の社家とされたようです。

伏見稲荷大社の祭神をハタレの動乱にあてはめてゆくなら佐田彦大神は『サタの宮』(佐太神社)で作戦会議をひらいたイフキドヌシ(伊吹戸主)ソサノヲ(素戔嗚尊)のことでしょうか?

【5基の神輿をおさめる奉安殿】

大宮能売大神はカダの娘にあたるアチコ(天照大神の妃・北の局)やオロチとなったモチコ・ハヤコ姉妹(天照大神の妃・北の局)のことでしょうか。

彼女たちは、天照大神が京丹後のミヤヅ(宮津)に御幸したさいにつき従って身の回りの世話をしたらしく京丹後には大宮賣(おおみやめ)神社がのこっています。

田中大神は、ソサノヲの子・オホナムチ(大己貴命)が田の豊穣を祈ったり稲虫払いをおこなう「カセフ祭」にはじまり祭祀をになうものをタナカ(田中)神といったようですね。

ですから、オホナムチを田中神といったのでしょうか。

出雲(松江)の佐太(さだ)神社では田中神社が摂社として祀られています。

日本に「田中」姓が多いのは田を守る祭祀にあやかってのことなのでしょうしひとびとの暮らしを守ったオホナムチ(大己貴命)にあやかってでもあるのでしょう。

ホツマツタヱでは、「宝(たから)」の語源は「田から」とされていますから田は、豊穣のみなもととして重要視されていたようです。

四(し)大神は子(し)の大神とすればモチコ・ハヤコ姉妹と天照大神との御子にあたる長男・ホヒ(天穂日命)長女・タケコ(田心姫命)次女・タナコ(湍津姫命)三女・タキコ(市杵島姫命)という4人の御子ことでしょうか?

また、出雲では四大神といえば能義神社(のぎじんじゃ)熊野大社(くまのたいしゃ)

佐太神社(さだじんじゃ)出雲大社(いずもおおやしろ)のことだそうです。

祭神には諸説ありますが能義神社では長男・ホヒ熊野大社ではソサノヲ(素戔嗚尊)佐太神社では佐太御子大神(イフキドヌシ?)出雲大社ではオホナムチ(大己貴命)が祀られています。

このように、ハタレの動乱と稲荷信仰は深い関わりがあるようです。

ではなぜ、そんな伏見稲荷大社の神々が京都駅ちかくまで遠出するのかというと東寺の住職となった弘法大師・空海(くうかい)との関係によるといいます。

空海は、東寺の五重塔や講堂などの建築資材を伏見稲荷大社のある稲荷山(いなりやま)から求めたそうです。

方位から、守護として稲荷山を選んだようですが一説によれば、空海の母方はカダ(荷田)氏の出身ともいわれるらしく空海とカダの関係もなみなみならぬのものがあるようです。

稲荷山には、かつて荷田竜頭太(かだのりゅうとうた)が暮らしていたといいます。

昼は田をたがやし夜は山で薪をとったらしく田をひらいて稲を荷う(かつぐ)ものから荷田といったようです。

稲荷山の山神であり顔は龍のようで頭のうえには光を放つものがあり夜でも明るかったそうです。

空海は竜頭太から稲荷山をゆずりうけたともいうようですね。

また、竜頭太の面を彫って東寺の竈戸殿においたともいうようです。

さらに、東寺には稲荷大神が空海を訪ねてきたという伝承もあるようです。

稲荷大神は、稲を荷った(かついだ)翁の姿で空海の人生の節目にたびたびあらわれたらしく空海は仏法を弘めるために守護を願ったといいます。

はじめて出会ったのは唐に渡っていたころですから空海31・2歳のときのようです。

つぎは、帰国してすぐ大宰府で足止めされた34・5歳のときだそうです。

さらに、高野山(こうやさん)をひらいた空海が43歳のときにもあらわれたといいます。

そして、最後が東寺の住職となった空海50歳のときだそうです。

稲を荷った翁の姿でふたりの婦人とふたりの子どもをともない東寺の南門からやってきたといいます。

空海は翁たちを手厚くもてなし御饌や菓子を献じたといいます。

さらに、ちかくの八条にあった二階観音堂(にかいかんのんどう)に住まわせた(祀った?)ともいうようです。

これは、いまでは泉涌寺境内に遷ってしまった善能寺(ぜんのうじ)のことらしく善能寺の境内には日本で最初に祀られた稲荷大明神があるといいます。

稲荷の翁のことを柴守長者(しばもりちょうじゃ)といったのか、二階観音堂の地にあった邸を柴守長者の邸といって稲荷翁を招いたのか諸説あるようですが、二階観音堂の地柴守長者の地というのがここ、伏見稲荷大社御旅所の地だといいます。

柴守長者の地は柴守長者の子孫にあたる薩摩守(さつまのかみ)・良峯(よしみね)に譲与されたといいます。

良峯といえば、桓武天皇の御子である良岑 安世(よしみね の やすよ)がいるそうですが、関係あるのでしょうか?

東寺によれば、伏見稲荷大社の創建も空海にはじまるらしく空海が唐よりもちかえった真言密教(しんごんみっきょう)の荼枳尼天(だきにてん)を稲荷神として世に広めたとされるようです。

こうした関わりからいまでも稲荷祭では神輿が東寺にたちよって饗宴を受けるといいます。

御旅所にある社殿は南北にならんでいますが、参道中央には稲荷大神を祀る稲荷社があります。

そして北側には上命婦社・下命婦社があります。

命婦(みょうぶ)とは天皇に仕える女官のことですがここでは稲荷翁につきしたがっていた

2人の婦人のことでしょう。

南側には神宮社があり天照大神と豊受大神が祀られていますがこれも、もともとは稲荷翁がつれていたふたりの子どもが祀られていたのではないでしょうか?

御旅所の地はかつて坊門猪熊(ぼうもんいのくま)に中社と上社が七条油小路に下社がそれぞれあったといいますが豊臣秀吉の太閤検地のさい柴守長者の邸の地に遷されたといいます。

東寺と伏見稲荷大社空海と稲荷信仰のふかいふかい関係をみることができる場所ですね。

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