https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu22.basho.html 【芭蕉の心象風景】より
芭蕉の句は深層意識に映った光景をそのまま詠んでいる、と指摘したのは井筒俊彦だ。深層意識に映った光景というのは、井筒によれば分節以前の未分節の状態で、したがって混沌としたものだ。その混沌から余韻が生まれる。芭蕉の句の強みはその余韻にある。俳句とはそもそも余韻の芸術なのだ。芭蕉がその余韻を重んじたのか、あるいは余韻が芭蕉によって見出されたのか。どちらとも言えないが、芭蕉の登場によって、余韻の芸術としての俳句が成立したのは間違いないようだ。そこで小生は、芭蕉の句に一々あたり、そこにどのような事情が成立しているのか、考えてみたいと思う。考えてみたいというのは、とりあえずは井筒からもらったヒントをもとに、それがどのくらいの妥当性を主張できるかについて、いささか納得できるものを得たいと思うからだ。
分節とか未分節といった言い方をしたが、分節というのは、ものごとやことがらを理知的に認識することを言う。分別とも言い換えることができる。意識に現われて来る対象に、切れ目を入れて、あるものを別のものから区別し、そのものをそのものとして認識する作用が分節である。この作用があるおかげで、我々は理知的に経験世界を認識することができる。この作用というか、能力が働かないと、対象はそのものとして認識されない。あるものとほかのものとの区別がつかない結果、対象は混沌として輪郭を持たないものとなってしまう。こうした状態を、精神医学の言葉で統合失調症という。あるものを自己同一のものとして、認識できないとう状態を、この言葉で表現しているわけだ。さまざまに異なった現れを通じて、それが同一物の諸様相だと認識するのは、現象を統合する働きがあるからで、その統合がうまく働かない状態を統合失調症というわけだ。昔は分裂症と呼ばれていた。同一のものが同一のものと認識されないことで、同一物のさまざまなあらわれが、違ったものの別々の現われと映り、あたかも同一物が分裂しているような観を呈することから、そう名づけられたワケである。
したがって、分節とか分別というものは、我々が生きていくうえで不可欠のものであり、それが健全に働かないと、我々は統合失調症に似た状態に陥る可能性があるわけである。にもかかわらず、分節以前の状態、つまり未分節なものには、それなりの意義がある。その意義は多義にわたるが、芸術におけるものはその重要なものの一つだ、と井筒は考えていたようである。芸術は、人間における理智的な部分とは違った能力にかかわる。理智的な能力が人間の表層意識を舞台にして展開するのに対して、多くの芸術的な営みは深層意識を舞台に展開する。とりわけ俳句のような、余韻を生命にした芸術の場合、深層意識の働きは、決定的な意義を持つ。俳句は、理屈だっていてはならない、とはよく言われることだが、理屈というのは、まさに表層意識がひねり出すものだ。俳句は、表層意識にとどまっていては、なかなかいいものは出来ない。深層意識まで下りて行って、そこに映った世界を詠むようでないと、いいものは出来ないのである。
そこで、芭蕉の句をいくつかとりあげ、それが果たして深層意識と深いかかわりをもっているのかどうか、たしかめてみたい。
まず、「奥の細道」から次の句
しずけさや岩にしみいる蝉の声
これは、立石寺で詠んだ句だ。夏のさかりに、あたり一面に蝉が鳴く声が聞こえる。それが山寺全体の静寂とどういうわけか溶け合っている。蝉の声というのは、虚心に聞けばけっこううるさいもので、しかもそれが一斉に鳴いては、耳を弄するばかりの大音量に聞こえるものだが、この句ではなぜか、周囲の静寂に溶け込んでいる。この感覚はどこからくるのか。理智的に説明したのでは、説明にはならない。第一俳句というものは説明には馴染まないものなのだ。結局これは、蝉の声がそのものとして、周りのものから分節されて、蝉の声として理智的に認識される前の状態を詠ったのだととらえられるのではないか。つまり、芭蕉は表層意識で蝉の声を捉えているのではなく、深層意識で捕らえていたのではないか。深層意識でのことだから、山寺の静寂と蝉の声の大音量とは分節されていない。静寂と蝉の声とは、未分節の状態で渾然一体となっている。芭蕉はその渾然一体のものに反応したわけで、それをコトバであらわしたら上のような句になったということではないか。
同じく「奥の細道」から次の一句。
さみだれを集めてはやし最上川
これは雨の中を船に乗って最上川を下ったときの感慨を詠んだものだ。蝉の句に比べるといくらかわかりやすい。情景としても思い浮かびやすいし、また実際芭蕉は雨の中を船で河を下るサスペンスを感じたのであろう。この句から思い浮かぶのは、降るさみだれ、その雨を集めながら流れる川の速さ、そしてその川がほかならぬ最上川だということだ。最上川に焦点を当てれば、これは五月雨の時期の水量豊富に流れる最上川の状態をスケッチ風に詠んだものということになるし、さみだれに焦点をあてれば、川を増水させ、船を早く運び去る水の勢いを詠んだものということになる。さみだれというのは、土砂降りに降る雨のことだから、勢いがある。その勢いが川を暴れさせる、というふうに受け取れる。だがそれは、やや理屈が勝った解釈だ。実際にこの句を詠んでの印象は、さみだれと最上川とが渾然一体となった風景ではないか。五月雨が最上川に降りかかっているのではない、あるいは最上川が五月雨を集めて早く流れているのではない。五月雨と最上川の水とが渾然一体となっている、そういう光景ではないか。そういう意味合いでこの句も、芭蕉の深層意識に映じた、渾然とした心象を詠んでいると受け取ることができる。
次は、芭蕉の句のなかでも最も有名な一句。
古池やかわずとびこむ水の音
これは、古池に蛙が飛び込んだ、その水の音が聞えたという具合に、写実的なものとして読んだのでは、何ということのない凡庸な句に聞こえる。これが写実を超えたものとして聞こえるのは、古池と水の音との間に断絶があるためだ。この断絶があるために、古池と水の音との間の因果関係が断ち切られ、古池と水の音とは無関係なものとして、並列的に見えて来る。本来無関係なものが並列され、しかもそこに余韻のようなものが生まれる。その余韻がこの句を味わい深いものにしている。俳句には、かならず断絶を入れろという鉄則があるが、これがないと句が説明調になって、すらすらと理智的に読めてしまう。余韻などは生じる余地がない。余韻を生じさせるにはかならず断絶を入れることが肝要だ。そう言われるわけだが、断絶を入れることによって、俳句に詠んだイメージをいったんごちゃまぜにするという効果が生まれることを、この鉄則は知らせてくれるわけだ。そのごちゃまぜは、深層意識に映った未分節なものに通じるのである。
次は、芭蕉の辞世の句とされる一句。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
この味わい深い句は、旅に病んで床に臥せったときの芭蕉の気持を正直に詠んだものだろう。病んで意識が朦朧とした状態で、夢を見ることがあるのか、あるいは思い浮かぶことがことごとく夢のように見えるのか。この句を詠んだ時の芭蕉には、そうした分別はなかったに違いない。自分の意識に映じたものを、理智をまじえずにそのまま詠んだということではないか。その時自分の意識に映じたものは、分節以前の混沌とした世界だった、というふうに芭蕉は感じたのではないか。この句には、死にゆく芭蕉の深層意識に映じた混沌とした世界が、走馬灯のように駆け巡っていたさまが垣間見られるのである。
https://ncode.syosetu.com/n2873ck/ 【極私的俳句論。その24 客観写生?それとも、、心象風景?】より
作者:観不思議境 非想天
子規、、虚子から始まるいわゆる近代俳句に於いては写生が重視された。
写生とは、、読んで字のごとく、見たありのままを俳句にするということです。
さらに、もっと写生を突き詰めると「客観写生」とか言って見えた通り見た風景だけを俳句にしなさい、なんて一派が輩出するのである。
この一派は、たとえば、、猫の歯茎をよーく見たら、、なんとそこに猫蚤が一匹張り付いていた、なんて句を作ってこれこそ客観写生の神髄だなどと唱え出したのである。
だがさすがにここまで至るとそんな些細な、、細かすぎる際日だけの俳句ではたして良いのか?という疑問が噴出して次第にこの一派は衰退したのだが、、。
まあ、あまりにも細かすぎて、、顕微鏡でのぞいたような俳句ばかりでは、、困りものですよね。穏当なところでせいぜい「花鳥諷詠」くらいで良いでしょう。
さてところででは?俳句で虚構を、、つまりフィクションを歌ってはいけないのだろうか?
見たもの、みた風景だけを素直に詠いなさい。まあこれはこれで結構な提言ですが。そもそも俳句も創作でありつまり大きいくくりではドキュメントとか新聞記事でなないですね。
あくまでも作者の感性というフィルターを経て生み出された創作物であり創造物であり
つまりということは、、フィクションなのですよ。
言うまでもなく事実そのままの報告が俳句ではないです。
見た風景見えた事物を一端、作者の感性の中に取り入れて、それを咀嚼して作者なりの色付け?を施してつまり脚色して敷衍して、そののちに575の俳句形式で吐露する。
表白する。それが俳句ですよ。
見た事実そのままを新聞記事のようにただレポートしてもそれでは俳句になりませんね。
その過程で錯書の感性のせんっべつ作業が施されてこそ俳句となりうるのです。
ということは、俳句とは、、つまり有り体に申せば「フィクション」そのものです。
写生といってもタダそのままの生煮えの?風景描写では誰も感動しませんよね。
そこに作者なりの情意とか、空想とか、敷衍とか、、そういう創作活動を施さなければ俳句にはなりません。
というわけで俳句とは「創造されたフィクション」である。という結論になります。
それで正解というかそうしなかったら、先ほどの猫蚤のような句ばっかりになって味気ないこと限りないですよね。
あの芭蕉だって実際経験したことに+想像を敷衍して脚色してあの名句に結晶させているんですからね。
たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」というあまりにも有名な句がありますが、、あれなど虚構の最たるものですね。
芭蕉が古い池に来てカエルがぽちゃんと飛び込んだのを見て作った?と信じますか?
そもそも。池に小さなカエルが立った一匹跳びこんだくらいでは、、音なんか聞こえないでしょ?
それが芭蕉には聞こえた?というか芭蕉の心の耳には聞こえたという、、そういうイマジネーションの句なんですよ。
実際の風景なんかではないです。
あくまでも芭蕉の創作であり終えて言えば完全なフィクションです。
まあとはいえ芭蕉には見えた?というか芭蕉の心象風景にはそう見えたということに於いては事実?でもあるわけですよね。
まあざっくりまとめてしまうと、、俳句とは作者の心の眼とか心の耳に、、見えた、、聞えた、、心象風景である、、、。という結論であるといえるでしょう。
http://haiku-ashita.sakura.ne.jp/zuisou04.html 【第4回 写生句と心象句】より
舞台では賑やかなバンドの後にコミカルなコントが演じられています。もう4つも続いた喧騒とドタバタに、観客は笑いながらも生あくびを繰り返しています。ところがコントが終わると突然舞台は闇に包まれ、やがて一筋のスポットライトが、ギターを抱えたソロシンガーを浮き上がらせます。ギターの音色に合わせて抑えの聞いた澄んだ声がスローバラードを歌い始めました。観客が息を呑んで見守る中、今までと丸で違った静謐な時間が流れはじめます。そして歌が終わった瞬間、割れんばかりの拍手と賞賛の嵐に包まれます。しかし、もしもこの後、同じような趣向の出し物が長々と続けば、観客はまた先ほどの賑やかであった舞台が続いた時のように飽き飽きするでしょうし、再び賑やかな笑いを切望するかも知れません。
俳句の中には、写生句と人情句、叙景句と抒情句、具象句と象徴句などがありますが、どちらが優でどちらが劣という優劣の関係ではなく、バランスの問題ではないかと思っています。したがって、俳句を鑑賞する立場に立てば、すべてが写生句の句集を詠みたいとは思いませんし、全て抒情句の句集もまた同じことであると思います。それ故、俳句は全て写生句であるべきという主張に与するつもりはありませんし、全て心象句、象徴句でなければならないという主張にも与したくはありません。世には様々な事象があり様々な人間模様があります。思わず一句ひねりたくなる風景もあれば、打ち明けたい心情もあるでしょう。それらを自分なりに自由に詠むことこそが俳句の醍醐味であると思っています。今回は「写生句と心象句」をテーマとしますが、それは心象句や象徴句と対比される写生句や叙景句との二者択一の問題ではなく、あくまでもケースバイケースであり、自由に選ぶことのできるものであるべきと思っていることをまず申し上げたいと思います。
この立場に立って、近代俳句の提唱者、正岡子規、その精神を受け継いだその後の日本の俳句結社の系譜を考えれば、心象句を述べる前に、やはり何故写生句に拘るのか、という点についても考察する必要があるように思います。
洞穴をねぐらにしていた原始人がその洞穴に描いた動物の絵を絵画(芸術)のスタートとするならば、やはり初めは目についたものの描写から始まるのは当たり前のように思います。やがて、単なる描写から、動物の怖さを強調した絵、動物の気持ちを汲んだ絵、その抽象化したもの等と発展するはずです。人間が文字を生み出した後の詩歌や文学も同じステップを踏んだのではないでしょうか。
十九世紀にヨーロッパで生まれた潮流であるリアリズム(写実主義、文学では自然主義)は絵画や文学において客観写生を高々と標榜していました。またその後のシュールリアリズムは、超現実や非現実(もっとちかい現実、現実の向こうにある現実)を表現しようとする運動でした。十九世紀末の日本は、明治維新後、列強からの侵略の脅威を前に脱亜入欧とばかりに、まずは西欧を真似るところから始めて急速な近代化を進めていました。明治期の著述には、岡倉天心や新渡戸稲造などの例外はありましたが、おしなべて西欧礼讃亜細亜蔑視の傾向があったと思います。そのような潮流の中、子規の俳論に西欧のリアリズムが影響を与えないはずはなかったと思います。子規の「病牀六尺」の中に大要、次のような記述があります。「写生は画を画くにも、記事文を書くにも極めて重要である。西洋では用いられていた手法であって、日本ではこれをおろそかにしている。理想をとなえるひとは写実を浅薄なこととして排除するが、その実、理想の方がよほど浅薄である。なぜならば、理想は人間の考えを表すのであるから、その人間が非常な奇才でないかぎり類似と陳腐を免れないのは必然である。これに反して写生は天然を写すのであり、天然自然が変化しているだけ、写生も変化できる。写生に弊害がないとは言わないが、理想の弊害ほど甚だしくはないように思う。理想というものは一呼吸に屋根の上に飛び上がろうとして、かえって池の中に落ち込むようなことが多い。写生は平淡である代わりに、そのような仕損いはない。」
かつて、あしたの会の句会において、宇咲冬男先生が船で世界一周の旅に出られて不在の折、代行を務めさせていただいた時期がありました。その時、心象句と称して、「心」「思い」等、心象そのものを安易に表す言葉の句は採らないという方針を打ち出したことがありました。その主旨は、このような言葉を使うと、子規の言う「類似と陳腐を免れない」句のオンパレードになりかねないと危惧したからでした。話を子規に戻します。子規は俳句の改革の核に「客観写生」を据えて、その実践もしました。しかしその後の句には「幾たびも雪の深さを尋ねけり」のような写生を超えた主観の佳句もあまた残しています。俳句は客観写生でなければならないと主張する一方、生きる上での心情の吐露を俳句で行おうとするならば避けられなかった当然の帰結かと思いました。
さて、子規が客観写生の先達として大いに持ち上げた蕪村に対して、子規が酷評した、心象句、象徴句の先達である芭蕉は、宇咲冬男先生の言をお借りすればシュールリアリズムの先駆者ということになりますし、現在の俳句史の中でもその見解はすでに定まっているように思います。しかしこの芭蕉ですら、初めからシュールリアリズムに到達していた訳ではありません。連句の精神同様、一歩も後戻りすることなく猛スピードで変化し続けました。「マグロとイワシは会話ができない」という喩え話がありますが、新幹線並みのスピードで泳ぐマグロと自転車やオートバイ程度のスピードで泳ぐイワシは、ほんの一時点では接点があっても、あっという間に離されてしまいます。芭蕉には沢山の弟子がいましたが、彼の生涯を通して師事できた弟子がいなかったことは、その証明になるかも知れません。それだからこそ昇華された俳諧が残ったとも言えます。生き残るため、何かを進化させるためには自らが変わらなければならないのは、人も企業も同じであることを、この激動の世にあって、しみじみそう思います。そんな中、客観写生に拘り続けることの適否は、やはり改めて問い直されるべきではないかと思わずにはいられません。
さて、わが『俳句同人誌あした』は、その掲げた旗に「心象から象徴へ」と記しています。では写生句は詠まないのか、という問いが出てくるかも知れません。この問いに私はこう答えたいと思います。「俳句が俳句である限り、森羅万象の全てを詠みます。その中で、むろん心象も詠みます。そして心象を超えた象徴性の高い、心に響く句を目指したいと思います」と。
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