マグノリアの木 宮沢賢治

Facebook清水 友邦さん投稿記事  「まことの幸福(ほんたうのしあわせ)」

春になるとイーハトーブ(岩手県)ではマグノリア(木蓮)の花が咲きます。

宮沢賢治は作品「マグノリアの木」でマグノリアの木を寂静印(じゃくじょういん)といっています。

仏教の言葉で煩悩の炎が吹き消された悟りの世界のことですが賢治の言葉で言えば「まことの幸福(ほんたうのしあわせ)」です。

「まことの幸福」の象徴がマグノリアの花です。

主人公はマグノリアの白い花(まことの幸福)を求めて厳しい山や谷をいくつもいくつも登ったり下ったり、沓(くつ)の底を踏み抜きながらも捜し求めます。

ところがマグノリアの白い花はいくら捜せど見つかりません。ついに疲れ果てて座り込んでしまいました。

ふと、今自分がいままで歩いてきた方向に目をやると、山谷の刻みいちめんにまっ白なマグノリアの木の花が咲いているのでした。

マグノリアの花はどこか遠い峰々に咲いているのではありません。歩いてきた道程すべてにマグノリアの花が咲いていたのです。煩悩に覆われて見えなかったのです。

主人公は永遠の幸福(あること・being)を求めて、旅(すること・doing)をします。

しかし、幸せを得ようと努力(すること・doing)を続ける限り、今ここ(あること・being)にいられないのです。これが探求の道で起きるパラドックスです。

水の中に住んでいる魚が水に気づかないようにいつもあたりまえに「まことの幸福」が目の前にあるために気がつかないのです。

思考というフィルターがかかっているために目の前のマグノリアの花が見えませんでした。

疲れ果てて座り込んだときに、思考が落ちてはじめて思考を通さずに見ることができたのです。

どこか遠くに「まことの幸福」があるわけではありません。歩いているいまここに「まことの幸福」があります。

探して歩いている時苦しんでいる時悲しんでいる時も「まことの幸福」の只中にいたのです。

賢治は作品「マグノリアの木」で覚者の善と言っています。

「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密林もこの河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や饑饉(ききん)や疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です」

賢治は天災や疫病や戦争のあらゆる災難を覚者の善と語ります。

すべ ての物事はお互いに無関係ではなくて相互に依存しています。

物事の現象は因縁によって起き、お互いが 溶け合ってひとつに繋がっています。

華厳経ではそれを「事事無礙(じじむげ)」といっています。

「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから そうです。ありがとう。私です。またあなたです。なぜなら私というものもまた

あなたの中にあるのですから」賢治・マグノリアの木

私たちの知覚はマインドによって制限されています。本来の姿から遠く離れた状態で過ごしています。あるがままの世界を分離して見ています。

私たちの本質は永遠の至福(ほんたうのしあわせ)です。

どんな困難な状況でも宇宙を信頼して絶えず変化していく存在の流れに身を任せることができれば、その出来事全体のプロセスは心と体と本当の自分の統合をもたらすでしょう。

宮澤賢治 マグノリアの木 - 青空文庫

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不安や怖れは自我防衛のためにエネルギーの流れを思考と体で遮っている事によって起きています。

心の痛みは「まことの幸福」に通じる扉でもあります。

心が沈黙して明け渡しが起きると各チャクラの間で停滞していたエネルギーは背骨を通って上昇して頭頂を貫きます。

宇宙からはエネルギーが頭頂から入ってきて体の中心を通って地球の中心まで下降して循環することで自分はエネルギー(まことの幸福)そのものだと気がつきます


https://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10529950256.html 【マグノリアの木 宮沢賢治】より

諒安は、霧がじめじめ降る、険しい山谷のきざみを渡り続けていたが、そのうち、疲労が彼を襲い、体を投げ出し眠ってしまう。誰かが彼の耳の近くで次のように叫んだ。

「これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色なのだよ。」

目を覚ました彼の目の前には、険しい灌木の崖があった。それをよじ登ると、「そらいっぱいにきんきん光って漂う琥珀の分子のようなものを」見る。山谷の刻み一面に真っ白なマグノリアの木の花が咲いていたのであった。

一本の大きなほおの木の下にうすものを身につけた二人の子どもと、一人の大人と出会った諒安は彼らと対話を交わす。諒安が、マグノリアの木は寂静であり、「覚者たち」にとって尊いものであることを話すと、その人は「みんな」にとっての善であるという。「マグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です」。二人は恭しく礼を交わす。

霧の底から山の頂上まで登り続けた諒安が見つけたマグノリアの木とは、「覚者の善」である聖なる花である。そこで出会った「その人」はそれを「みんなの善」であると言う。諒安にとっての覚者とはすなわち仏陀のことである。「その人」は「覚者の善は絶対」であり、覚者の善は森羅万象に及ぶものであると主張する。「けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です」と諒安に言う。小乗仏教と大乗仏教の対話を見る思いがするが、そもそもこの会話には答えなどないことを二人は了解している。だから、主人公と「その人」は恭しく礼をするのである。

この作品は、賢治が物語を構成する際に用いる基本的な手法を含んでいる。まず、主人公が覚醒している状態から眠りを経ることで(作品によっては風が吹くなど気象の変化によって表される)今までとは異なる次元に身を置く状況を設定していること。また、主人公が努力を続けた末に自身が願う地点に到達する場所に作品の主題があること。

安智史は、作品の主題に「個人レベルでの解脱を、そのまま社会問題にまで拡張してしまう、性急さをはらむ問題」があると指摘するが、大乗仏教と小乗仏教の問題が本作品の成立する数百年前からあることを考えると、氏の指摘するポイントは考慮に値しない。

現存する草稿は「四百字詰原稿用紙九枚、やや青いインクで清書したのち、1 同じインク、2 黒っぽいブルーブラックインク、3 鉛筆の順に手入れされている」。もともと「私」を主人公とする一人称として書かれたものであったが、途中で「諒安」を主人公とする三人称として構成し直される。


https://www.ytv.co.jp/michiura_time/contents/202104/m834834upx0kr5zh.html 【8017「モクレンとコブシとマグノリア」】より

3月の下旬、毎日のようにいく会社のテラスに、「モクレン(木蓮)」の白い花が咲いていました。きれいだったので写真に撮りました。その日SNSを見ていたら、同じ花の写真が出ていて、そこには、「コブシの花が咲きました」とあるではないですか!え?あれは、

「コブシ(辛夷)」だったの?「モクレン」じゃなくて?と思って調べてみたところ「花びらの数が違う」のが見分ける一つのポイントのようです。つまり、花びらの枚数が、「コブシは6枚、モクレンは9枚」と「モクレンのほうが多い」のですね。

そして、もう一つ驚いたのは、「英語」では「モクレン」も「コブシ」も、「magnolia(マグノリア)」なのだそうです。『ジーニアス英和辞典』を引くと「magnolia」は、「モクレン、タイサンボク」とありました。「タイサンボク(泰山木)」、聞いたことあるけど、よくわからない。

今度は『広辞苑』を引くと、「モクレン科の常緑高木。高さ約10m。北アメリカ南東部の原産(以下略)」とありました。そしてこの花は、アメリカの「ルイジアナ州とミシシッピー州の州の花」だそうで、「the magnoria」と「the」が付くと、「ミシシッピー州の愛称」なのだそうです。そういえば昔、『マグノリアの花たち』という映画があったな。見てないけど。あれはアメリカ南部の小さな町が舞台で、ウィキペディアによると「マグノリア」は、「アメリカ南部を象徴する花木・タイサンボクを指す」と書かれていました。そういうことだったのか。

今、「新型コロナウイルス」のせいで海外には行けないけれど、「マグノリア」のお陰で、少し「アメリカ南部に行った気分」になりました!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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