同人誌時評

http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3529&syosekino=15632 【評者◆志村有弘

ありし日の毅然とした母の姿と己の呵責を綴る水白京の秀作(「文芸復興」)――寺社奉行与力の友情を描く周防凛太郎の歴史時代小説(「ガランス」)】より

No.3529 ・ 2022年02月05日

■水白京の「去り際」(文芸復興第43号)は、余命宣告をされた母との日々と別れ、それに伴う呵責の念と寂寥感を綴る。水白は二〇二一年に他界した堀江朋子(小説家)の娘。水白は母のことを千冬という名前で書いている。これは堀江が作品の中で使用していた堀江自身と思われる人物の名。死に近い千冬の言動を凝視し、日々を過ごす優子(作者自身と見てよいと思う)。余命宣告を受けながら、「姿勢を変えなかった千冬」の毅然とした姿。作者は「自分の生命や人生をも普遍として捉え、千冬は最期まで千冬であり続けた」と記す。そうした畏敬の念とは別に、「優子にとっては生まれて初めての一人きりの正月」という文章が悲しい。「バチが当たったのだ。ずっと親不孝だった」と、自分を責める優子。「去り際」という題にも母に対する、作者の熾烈な思い入れ。無性に悲しい、しかし、優れた筆力で綴った秀作である。

 間島康子の「雨女――一葉の恋」(風の道第16号)が連載七回目で、いよいよ佳境の感。一葉の桃水に対する思い、葛藤を軸として、〈明治〉という時代の雰囲気がよく描かれており、随所に引かれる歌も作品を盛り上げる。

 歴史・時代小説では、周防凛太郎の「友なればこそ」(ガランス第29号)が、豊後府内藩を舞台に二人の青年寺社奉行与力(結城五郎兵衛と高橋理三郎)の恋と苦悶、友情を綴る。寺社奉行の松平平左衛門は、拷問を用いず、キリシタン信者を改宗させている二人を高く評価していた。平左衛門の娘のゆきに恋心を抱いた理三郎は、五郎兵衛にゆきの気持ちを確かめてほしいと願った。だが、ゆきは五郎兵衛に好意を抱いていた。キリシタン弾圧を強めていた、府内藩主竹中重義は、突然、所領没収のうえ、子息と共に江戸で切腹させられた。キリシタンの集合場所(そのとき、そこは若い信者の婚礼の場であった)に踏み込んだ理三郎は花婿(吉三)・花嫁(おしの)を刺殺した。吉三・おしのに隠れキリシタンの噂があったとはいえ、吟味もせずに殺した、と庄屋が訴え、藩の中でも理三郎への責任追及の声が高くなり、理三郎は脱藩することにした。追っ手として現われた五郎兵衛は、理三郎にゆきのことで力になれなかったことなどを詫び、おしのが自分の腹違いの妹であることを語った。二人は斬り結び、五郎兵衛は理三郎のもとどりを斬り下ろし、「おぬしは、今、この峠で死んだ。やがて府内は廃藩となるだろう、これからは亡き殿や、殺した者逹への回向行脚をしたらどうか、いつか、昔どおりの友として会おう」と伝える。異質の二人の青年を主人公に、寺社奉行の娘が隠れキリシタンであったという設定など、読ませる歴史時代小説。

 由比和子の「雪しぐれ」(九州文學第577号)の主人公おきよは、父親の治療費が払えず、医師・阿蘭陀通詞吉尾耕作の下女として働いていた。耕作には正妻の他に丸山の女郎上がりのおせんという妾がいた。おきよは叶わぬまでも、おせんに敵愾心を抱いている。やがて、おきよは妊娠し、男子を出産した。三浦梅園が登場し、松浦静山・平賀源内・杉田玄白らの名も見える。空を飛ぶことを夢見ている青年忠治の行動も面白みを加えている。

 短歌では、倉沢寿子の「夫と行きし最後の旅となりにけり秋の京都の哲学の道」(玉ゆら第74号)が、心に悲しく響く。

 詩では、宮川達二の「月影 ‐奈良にて‐」(コールサック第108号)が、印象深い。奈良の三笠山麓の法華堂へ向かい、阿倍仲麻呂に思いを馳せる。仲麻呂の望郷歌(天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも)を引き、「千二百年を隔て今も輝く奈良の月」と記す。古代と現代とを逍遥する場面の展開がよいと思う。金子秀俊の「萩の花咲きてありや」(九州文學第577号)と題する詩も大伴旅人と余明軍の歌を踏まえた詩。往時の二人の歌人の姿・心情を美しく、悲しく描く。『伊勢物語』を踏まえた詩を書き続ける大掛史子は、「詩霊」第15号に業平への思いに悩む女人と厚顔とも言える男(業平)の姿を綴る。とりわけ女人の姿が印象的だ。

 俳句では、遠藤止観の「うつらひ」(文芸静岡第91号)と題する「ひたすらに祈るも癌の迅き冬」が悲しい。

 エッセーでは、秋田稔の「比佐芳武氏のこと」(探偵随想第139号)が圧巻。秋田が比佐から「七つの顔の男」である藤村大造(探偵)役の片岡千恵蔵の「明るい顔」を戦後の人たちが欲していたこと、最後に紙片に残す大造の言葉は「聖書をヒントにしている」と語ったことなどを伝えている。「佐佐木信綱研究」第12号掲載の清水あかねの総論的な巻頭言は、「心の花」に女性歌人が多く集まった理由を述べ、他に、堀亜紀の山川柳子、原口嘉代子の西郷春子歌集『塔』についての力作を掲載。「吉村昭研究」第56号は、第十二回悠遠忌の西口徹の講演「吉村昭の味と酒と」を掲載し、西口は吉村のカレーそばの話や飲酒の順序などをユーモアたっぷりに語る。同誌掲載桑原文明の「遠い日の戦争」等についての丹念な考察も見事。

 詩誌「時刻表」が終刊となった。同人諸氏の改めての健筆・健闘をお祈りしたい。「午前」第20号が山崎剛太郎、「飛火」第61号が中野完二、「文芸静岡」第91号が埋田昇二、「文芸長良」第43号が平光孝行、「文芸復興」第43号が丸山修身、「未来」第838号が岡井隆の追悼(追悼特集)号。ご冥福をお祈りしたい。

(相模女子大学名誉教授)


http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3532&syosekino=15705 【評者◆越田秀男

島尾敏雄、晩年の自己探求の核にあるもの(「群系」)――近代的自我は本来の自己を忘れ隠蔽した仮構物(「北方文学」)】より

No.3532 ・ 2022年02月26日

■石井洋詩さんは「群系」で島尾敏雄論を展開してきたが、47号は『島尾敏雄『震洋発信』を読む――晩年の自己探求の核にあるもの』、島尾のラストステージだ。前46号では『廃址』を中心に論述――《妻の発病の原因が戦時中の自身の中にある》ことに気づいた島尾は、“島”と正面から向き合い同化する道を歩み始めた。《妻の発作を自分の肉体の中で起こっていることとして感受する》、戦争体験も《地域住民の抑圧者》、加害者として自己を晒す。もはや島尾にとって自我の表出は文学的課題の埒外となった。

 榎本宗俊さんは自我について《近代の知的上昇とは、本来の自己を忘れ、隠蔽して仮の自我を構築することであった》(『民芸について』北方文学84号)。ならば本来に立ち帰るには? “民芸”という概念を提示する――《民芸とは民衆の「私を諦めたわたし」の衣食住の美》――《自我を横に超えていくこと》《〈自然〉とは………〈非知〉へと着地していく中にある》――浄土教美学と吉本隆明の思想のコラボ。横超の類例句歌に鈴木真砂女、芥川龍之介、種田山頭火、沢水禅師、岩淵喜代子、釈迢空ら、〆は妙好人お軽さん――〽只でゆかるる身を持ちながらおのが分別いろいろに。

 美の女神が微笑むか閻魔羅闍が嘲笑うか――『玩物喪志』(林達/青磁43号)。骨董の魅力に取り憑かれた男がその道の熟達者に師事してその奥深さを知っていく。登場する一つ一つの古美術品が、登場人物以上に個性をもって売る側、愛でる側双方を翻弄する。ものすごく目利きの廃品回収リサイクル屋や、車で移動中、外の景色に掘り出し物を見つけてしまう骨董商、なども登場。最後に「所持ったら死ぬ」古染付の皿。見せてもらおうと伺ったら「怖くて手放しちゃった」。

 三番じゃダメなんですか――『異国の風』(花島真樹子/季刊遠近)。パリ旅行、リヨン駅で〈私〉を出迎えてくれた彼女は十日後にピアノコンクールを控えていた。プロが保証されるのは二位まで。実はプロを目指していたのは姉で、受験に失敗して病んでしまった。姉は母の果たせなかった夢の代役、彼女は代役の代役。結果は三位。その後消息を絶ち、東京に現われるとホテルでジャズをピアノ演奏していた。画家志望の彼氏と南フランスで生活する計画だ。日本はダメなの? 父は外交官で一時日本の学校を経験したが酷いいじめに遭った。ジメジメ、鬱陶しい日本よさようなら。

 犬は嫌いだ、猫も鳥もハムスターも人間以外みんな!――『微熱』(渡邊眞美/龍舌蘭204号)。語りの節々に孫の話を挿入。確かに孫は可愛いさ……短期間預かった? あぁ若夫婦、いろいろ大変。で? 孫と折り合いがつかない? 手に負えない? あぁそれで犬猫の話をネ、あっ? 孫は人間ですよ!

 すれ違うけど交わらない、って何?――『エスカレーター』(遠山茜/層135号)。20年ぶり本社勤務、エスカレーターでいつもすれ違っていた片思いの女を20年ぶりに発見、大声で呼び止め追っかけ探した。で? 喫茶店で会うことに。ほぉ、うまくいきそう? 振られた。なんで? エスカレーターの関係だから。

 79歳になる今でも母から貰った手鏡を身近に置いている――『鏡の中』(中田重顕/文宴136号)。満州で父が結核に罹り職を失い一家は帰国。終戦まもなく父・妹が相次いで亡くなり、主人公も脊椎カリエスで小二小六中三の三度もギブスベッドに。手鏡が映し得る極端に狭い世界に閉じ込められた。思春期での発症。粗相をした。夢精だ。厳しい母がその時は優しく始末してくれた。美人の母に言い寄る男は多かったが、毅然としてはねのけ、母子家庭を守り抜いた。

 スーパームーン、最後のお月見――『ひしゃげた月』(片山響子/北斗684号)。《暗闇に両手を突き出してみる。手のひらをひらひらさせて見る。なにも見えない………両手で頬を、身体を、触ってみる。ある、ある》。ひしゃげた月が見納めとなった。片山さんの創作活動への真摯な取り組みは、言葉を紡ぐことの初心に私たちを連れ戻してくれる。

 死んだ父が生きていた?――『恭平の家』(宮川泉/槇44号)。主人公の親は離婚し母に育てられたが再婚、義父に馴染めず、高校卒業後家を離れて自活。三年ぶりに母が、父の死の知らせを持って。主人公は父の家に向かう。と、父が出てきた……しかしそれは幻夢の中の再会であり、やがて解けると、骨壺との対面。幻夢ではあったが、父の確かなぬくもりを得て、父の住んでいたあばら家からの再出発を決意する。槇の会は、房総発文学の一層の興隆を目指し新人賞を創設。『恭平の家』はその第一回受賞作。

 余命宣告――『去り際』(水白京/文芸復興43号)。告知された母は《何か言葉を発するでもなく、うろたえるでもなかった………まったくもって平常で、動揺や悲しみを隠すといったものではない》。母は堀江朋子さん、作者は堀江さんの娘さんで、小説仕立てで母の最後を綴った。不幸が重なった。堀江さんの後を継いで文芸復興代表となった丸山修身さんも昨年九月急逝。同誌は、昨年発足の全国同人雑誌協会が設けた第一回全国同人雑誌賞の特別賞を受賞、授賞式が行なわれる矢先であった。新たな代表には西澤建義さんが就いた。

(風の森同人)


http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3541&syosekino=15913 【評者◆志村有弘

根場至の島崎藤村の詩を踏まえた秀作(「私人」)――秋吉好の松永久秀の戦いと心裡を綴る歴史小説の力作(「異土」)】より

No.3541 ・ 2022年04月30日

■現代小説では、根場至の「小諸なる」(私人第106号)が、構想豊かな秀作。小諸の酒・古城の醸造元・藪塚酒造は天保年間の創業で、古城販売担当の藪塚酒店は、藪塚酒造の分家。古城の銘柄は、島崎藤村の詩「小諸なる古城のほとり…」(『落梅集』)に由来するのではなく、この銘になったのは、戦後のことで、元の名は佐久錦。古城を販売する藪塚眞實は、中学教師であったが、プロレタリア文学の魁と思う作品を生徒に読ませたと注意され、新しい生活に入りたいと思い、藪塚家に婿入りした。後に眞實夫妻は跡継ぎがいないことから、本家に古城の銘は残して欲しいと願い、販売店を返上する。作中、霜沢医師が眞實に「暮行けば浅間も見えず、ですか」と語る言葉も、「小諸なる」の詩文を踏まえたもの。生徒にプロ文学の魁と思う作品を読ませた、と学校から注意された場面で、内容は全く異なるものの、私はふと藤村の「破戒」を想起した。

 西山慶尚の「穴居記」(海峡第47号)も心に残る。西原伸介は東京の整体院を閉じて愛媛の山間に帰り、祖父の掘った横穴を掘り広げて穴居生活を始めたが、離婚した庸子から東京でやり直さないか、と言われる。学生時代、友人の岸本は学生運動自治会の委員長になり、伸介も執行部の役員になったけれど、岸本は四年生になると、学生運動から身を退いて大学院に進学した。伸介は運動にのめり込んだまま留年し、大学院の試験も不合格となる。心に残る岸本へのコンプレックス。後に岸本の行方を探すと、岸本の妻から、岸本は四年前に他界したが、ずっと伸介を懐かしんでいた、と伝えてきた。伸介は岸本に勝手にライバル意識を抱き妬み恨んだ末に逃げ帰ったことに気づき、東京でやり直そうと決意する。人生とは何かを考えさせられる作品。木澤千の佳作「ロッキングチェアーとゆりかご」(あかきの第5号)は、心温まる作品。夫の遺品のロッキングチェアーが少女の心に潤いを与えるという内容がすばらしい。木下径子の「梅の実」(街道第39号)は、庭の思い出と亡き母への思いを綴る。「母にもっと優しくしてあげればよかった」という瑞江の気持ちが、パイプオルガンの響きと美しく調和する。同じく木下の「夜の地震」(街道同号)も友人の孫(ピアニスト)の演奏が作品に静かな旋律を奏でる。二篇とも掌篇の佳作。

 歴史小説では、秋吉好の「松永軍記‐大仏炎上の章‐」(異土第20号)が、戦国期の武人・文化人松永弾正久秀を描く。久秀は三好三人衆と謀って足利義輝を二条御所で弑し、戦いで東大寺大仏殿を焼いた人物。義輝殺害について、久秀に「御所巻きだけでよかった。公方様を殺してはならなかった」と語らせているのは、作者の思いでもあろう。重厚な文体で綴る字義通りの力作。続篇を期待したい。小泊有希の歴史小説「落魄の山河」(九州文學第578号)は、大友宗麟の妻由布や毛利への輿入れを嫌う麻矢など女人の毅然とした姿が印象的だ。小泊の大友連作は今回で終了するというが、惜しい気がする。

 エッセーでは、吉留敦子の「『蝉丸』考」(AMAZON第511号)と根本明の「小督伝説のこと」(hotel第2章第47号)に注目。吉留の論は蝉丸・源博雅・人康親王に関する詳細な考察。根本の論は『艶詞』など古典文学を精読し、藤原隆房の心情に視点を置く。

 詩では、麻生直子の「物置小屋にて」(潮流詩派第268号)に、人の心の恐ろしさを感じた。森の木が伐られ、「わたし」は息子と浜辺の集落で海藻を取って暮らし、「山の人」から「海の人」となった。働き者の息子のところに来た嫁は「わたし」が風邪をひいたとき、「うつるから」と、納屋に移して鍵をかけ、一日に一度、息子がおむすび二個を戸口からさしだした。だが、裏山の焚き木を取ると盗伐者、川・海の魚介を取ると密漁者、荒地を耕すと土地侵入者となり、息子は多くの汚名と共に「住人」ではあっても「住民」ではなかった。嫁は夫や納屋を見張り、「可愛い息子は やがて隔離小屋の住人の/犯罪者になる」という作品。「わたし」は無残な死を遂げたらしいが、「木目の穴」から、朝夕、「夜空の月や星」が「優しく美しいうたをうたう」のを聴いていたらしいから、ここに辛うじて救いがある。作品の背景に近・現代の中のある事件が存在するのかとも思われ、冷酷な人間性、法律等が人間を拘束する悲劇を感じた。「りんごの木」第59号掲載の東延江の二篇の詩「病めるひと」と「生きることをやめたい」も哀しい内容だが、完成した作品。「病めるひと」の、その「ひと」は子や夫のこと、自分の名もわからなくなったといい、詩人は「病はいつか/あの人を無垢な清浄の地へと手招く」と、哀しく優しい詩文で結ぶ。詩人の優しさと諦念。「生きることをやめたい」も家族から孤立し、「ぐち」を言い続ける「ひと」の哀しい状況と当惑する詩人の心。

 短歌では、「十月」が題詠「金」として、お金に限らず、金色・金木犀など、「金」の文字を入れた歌を詠んでいる。題詠は面白い。

 「人間像」が終刊となり、「絵合せ」が創刊された。ともあれ、同人諸氏の今後のご活躍をお祈りしたい。「遠近」第78号が佐藤芳彦、「季刊文科」第87号が瀬戸内寂聴、「九州文學」第578号が椎窓猛、「月光」第70号が川俣水雪、「層」第135号が滝澤忠義、「たまゆら」第122号が竜崎攻、「人間像」終刊号が福島昭午、「笛」第298号が池田星爾、「ほほづゑ」第111号が鈴木糸子とハンク・アーロン、「未来」第841号が岡井隆(追悼特集)、「みらいらん」第9号が新倉俊一、「吉村昭研究」第57号が遠藤雅夫の追悼号(含訃報)。心からご冥福をお祈りしたい(文中、敬称略)。

(相模女子大学名誉教授)


http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3545&syosekino=16006 【評者◆越田秀男

カフカ『城』はグローバル・デジタル・ファシズムを予見(「カプリチオ」)――アルル人の死者祈念儀礼(「てくる」)/バチュラー八重子歌集(「現代短歌」)】より

No.3545 ・ 2022年06月04日

■卐=Z、すなわち非卐化=非Z化。彼らは彼らの鏡像を虐殺している。カフカ『流刑地』の処刑機械で自らの黒白をつけるべし。

 草原克芳さんは、「カプリチオ」52号でカフカの『城』を『永遠の測量技師Kは、何を「測量」しているのか』と題し論述。《カフカ的世界は、荒涼とした「序列と力関係」の続く迷宮》であり、測量師Kは城の《位階と権力の遠近感を測定》し得ても《中心に到達することはできない》。ドン・キホーテの「風車」は「城」となり、現代の「コンピュータ・アルゴリズム」に変貌し、グローバル・デジタル・ファシズムを予見。カフカ最晩年、未完の『城』、冒頭の「Kは永いあいだ、国道と村を結ぶ木橋の上に立って、何も見えないかなたの空をあおぎ見ていた」に対し、《世界と自己という永遠の謎を前にして、不安なまなざしをした少年のように佇む……最後の自画像》と結んだ。

 「てくる」では30号の節目に「声」をテーマに作品募集、その中で、さあらりこさんが『紡ぎだされる声』と題し、アルル人のミレル・アグワラ(死者祈念儀礼)を小説形式で紹介している。太鼓のリズムにアグワラ(木の横笛)の“泣く歌”――その音は“声”であり、「太鼓からアグワラへ、アグワラから人へ」伝わり、人々の歌詞となる。アルル人はウガンダ共和国とコンゴ民主共和国に分断された民族で、ウガンダ側でミレル・アグワラが行われたのは一九八六年が最後とされる。その復活の試みなのであった。詳細は『死者祈念儀礼をとおして生起する共同性』(田原範子・四天王寺大学)、Web上に公開。

 《亡びゆき一人となるもウタリ子よこころ落とさで生きて戦へ》――「現代短歌」90号では「アイヌと短歌」を特集、バチュラー八重子歌集『若き同族に』全編を誌上復刻、天草季紅さんが『歴史の闇をこえて生きつづける民族のうた』と題し解説。三人(新村出、佐佐木信綱、金田一京助)の碩学の「序」も載せ、天草さんは、いずれも日本の和歌に連ねて評価するに留まり、特に金田一はアイヌ語の〈モシリ〉を「大八州国」、〈カムイ〉を「天皇陛下」と訳注するなど、これは検閲逃れの術? と辛辣。八重子の歌の韻律分析を行い、ユーカラクル(伝承者)達の《磨き上げてきた技を受け継ぎ》生き継ぐための戦いの歌であると結論した。

 「詩遊」72号に載せた永嶺幸子さんの詩『カンプーの人』。《ウンケー(旧盆の入り)の午後/ふりそそぐ陽ざしの中/日傘をさして故郷の丘に立つ/産土の感触が過去の扉をひらく》――母が商いにでかけると子等を見守るのは曾祖母。白髪のカンプー(沖縄女性の髪型)に銀のジーファー(簪)、紺地の琉球絣、ハジチ(入れ墨)の手が幼い手をぎゅっとにぎっていた。オオジョロウグモの観察記も添えられている。台風もなんのその、吹き飛ばされても巣を張り直す元気蜘蛛姫。

 「月光」71号では「マスク」を特集。この中で岡部隆志さんが角川令和四年版『短歌年鑑』から歌を選びコメント。《人類は「パンツをはいたサル」であり「マスクをつけたサル」ともなった》(香川ヒサ)――栗本慎一郎さん今80歳。〈マスク〉が〈パンツ〉レベルに? 〈スマホ〉ならもうかなりが穿いてる。《ヒトわれら到底出来ぬ改革を推し進めてるウイルス達が》(奥村晃作)――世界規模の蔓延はグローバル資本主義社会に起因。《布マスク縫う日が我にも訪れてお寿司の柄を子は喜べり》(俵万智)――ママの手作りマスク。

 指は口ほどにモノを言う?――『指の音』(出町子/詩と眞實873号)。〈涼子〉の母は難聴で、父と三人、家族の会話は手話中心。手話は翻訳的、ワンクッション効果で家族関係良好。でも大学に進学すると違う風が欲しい、家を出て学生寮へ。寮の友とその彼氏、三人でカラオケ三昧。なぜか友は彼と別れ、二人カラオケに。ある日、彼が約束したのに来ず、落胆? いやこれ幸い、一人カラオケ。疲れて近くの公園で休んでいると、自分の手指が勝手に動き出し、何かを喋り出した!

 極楽浄土はあの世、桃源郷は浮世、どこに浮いてる? チベットのカラカル山の麓――『楽園の人』(武田久子/SCRAMBLE42号)。〈私〉はスマホ誤操作、大学時代の教授に繋がってしまう。二人はかつて、ある冒険家を支援する会の仲。生き様への共感……冒険家は北極の氷の割れ目に嵌って果てた。電話で先生は、眼を悪くして施設に入った、来てみないか、と誘う。施設の名は“シャングリ・ラ”。入所者のあらゆる希望をメニュー化し提供する。ただ、世間とは隔離され様々な挑戦も“ごっこ”。束縛はないが自ずと何らかの役割にはめ込まれる。先生は悟りの境地、世捨て人に。

 子供の頃の記憶は童話のごとし、怪獣? 英雄? 変なおじさん――『銀蔵の家』(妹尾多津子/あらら13号)。〈由紀子〉の住む長屋の大家、銀蔵は大地主。40代の無骨者で近所のかみさん連には嫌われ、子供達は遠巻き。美人の嫁さんが来た! 金で買った? 怒鳴り散らしてすぐ離婚。と、由紀子の弟が足繁く銀蔵の屋敷へ。由紀子も友達と潜入してみた。立ち並ぶ仏像、巨大な仁王像、修行僧の出で立ちで読経……潜入が露見! 鬼がこっちへ! やさしい顔で、饅頭食うか旨いぞ。

 「長崎くんち」は七年に一度の諏訪神社の祭礼。36人の益荒男が担ぐ太鼓山は、なんと一トンもの重量――『モッテコーイ』(後藤克之/絵合わせ1号)。〈ぼく〉は太鼓山担ぎに憧れていた。父はそのエキスパート。しかしその役に選ばれた時には萎えていた。担ぐことの過酷さと、生まれ育った町からの脱出願望。実は、豪雨、川の氾濫で母の溺死、父の新たな女性……しかし拒否できずにいるうちに、担ぐことが身につき始める。と、父が身体を故障。引退を契機に、シガラミをこそ引き受ける、と決意。〈ぼく〉の心の成長を〈ぼく〉の内側から自然に描写。

 なお、同人誌名「絵合わせ」は庄野潤三の同名小説にちなんだもの。

(風の森同人)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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