https://tenki00.exblog.jp/5934366/ 【戦争と俳句2007】より
八月は兵隊さんの句がふえる 天気
毎年8月になるたびに同じことを書いている気がするが、それでもやはり同じことを繰り返す。
8月になると、俳人さんたちは、やたらと、あの戦争のことを句にする。ネット上でもあちこちで、原爆忌/広島忌、長崎忌、終戦/敗戦記念日、八月十五日。
ずいぶん気楽なことだと、毎年思う。
こうした季語で句を捻る俳人(俳句愛好者)を、信用しない。
たくさんの人の死、大量虐殺、戦争という複雑な暴力……それが間接的な「知識」という脆弱な経験を通したものであっても、厳然と事実としてあった、ある、これからもありつづけるであろうことに対して、私自身は、できるかぎり真面目でいたい。こんなことを書くのが恥ずかしいほど、真正面から誠実でいたい。
その一方、そうした覚悟とはまったく関係のないところで、俳句を遊んでいる。
このふたつを、自分の中で結び合わせる気も意思もいっさいない。
たくさんの人が虐殺する/されるという事実に対するスタンスと、自分が、のほほんと生き、暮らし、俳句というどうでもいいものを遊んでいること、そのふたつは峻別しておきたい。峻別すべきと考える。
だから、原爆忌という「季語」にテキトーに七五をくっつけるという遊びは、絶対にやらない。それが、のほほんと生きさせてもらっていることに対して私ができる最低限の慎みと思っている。あわせて、例えば原爆忌や敗戦日の詠んだ句を、前述のように「ずいぶん気楽なことだ」と思う意外の反応は示せない。
情緒と理性という問題もからむ。戦争や暴力への忌避(反対表明でもなんでもいいけれど)の最初は、情緒的なものだろう。この手のことに理性から出発できるのは「神さま」くらいのものだ。人間なら、情緒から出発する。だが、それを情緒のままにしておくことは、蒙昧な自己愛にすぎないように思える(戦争に反対する平和主義者である自分、という自己肯定)。
戦争反対(平和)を情緒的に叫ぶ人たちと、戦争推進を情緒的に叫ぶ人たちとが、それほど遠い距離にいるとは、私には思えない。同じ顔ぶれの人々が、歴史のあるときは戦争推進の小旗を振り、別の時点では(情緒的・イデオロギー的)戦争反対のイベントに蝟集する。あるいは、テレビの前で「戦争はほんとうにイヤだ」と煎餅を囓りながら家族で話したりする。
いま戦争にまつわる俳句(戦争関連の季語に七五をくっつけた俳句)が大量に、ぽこぽこぽこぽこ生み出されるのを眺めていると、「気楽でノーテンキな俳人さんたち」と思うと同時に、「グロテスクで残酷な俳人さんたち」とも思う。なんでもかんでも俳句にしちゃうんですね。
もちろん、戦争関連季語で俳句を捻ってらっしゃる俳人さんのなかには、なんらかの信念と確信をもって、そうした俳句を作っているのだ、と胸を張っておっしゃる方もいるだろう。それはそれで、人それぞれの覚悟と選択である。
https://tenki00.exblog.jp/1499336/ 【戦争と俳句(1) あのさあ、峠谷さんの記事、読んだ? 】より
あめを:よお!
てんき:おっ、久しぶり。どうした?
あめを:うん。おしゃべりでもしようかと。
てんき:暇な奴っちゃなあ。
あめを:そうでもないんだが、こんな趣向もたまにはいいだろ? このあいだブログで書いてた戦争や原爆の俳句の件。あれ、もうすこし詳しく聞かせてもらおうかな。
てんき:ふむふむ。補足説明は必要かもしれん。
あめを:8月になると、ウジがわくようにうじゃうじゃ出てくる……といった筆致だったか。
てんき:そんな書き方はしてないぞ。けど、まあ、「なんだかなあ」とは思う。
あめを:峠谷さんもブログでその手のことを書いていた。
てんき:読んだよ。「この時期に、やたらと反戦・反核俳句が出てくるのは、なんとも、うんざり」というやつだろう? コメントも残してきたけど、記事は削除されてた。「暴言だ!」という指摘があったので、峠谷さん自身が削除したんだと。
あめを:暴言→クレーム→削除、というのは「峠谷研究所」の恒例行事みたいなものだ。
てんき:ここは、クレームさえ来ない。
あめを:嗤ってるだけ、ということだな。民衆とは、冷酷なものなのだ。
てんき:峠谷さんのブログ、読みたいと思ったときは、すでに削除の後で、想像が膨らむ。野次馬根性だけど、読者としては欲求不満。満たされないから、よけい読みたくなる。でもね、削除前の暴言記事というのをタイミング良く読めた試しがない。毎日のぞいているわけではないけど、とにかく、タイミングの悪いことに、ことごとく「削除後」なんだ。暴言なんて最初からなかったんじゃないの?と思ってしまうくらい(笑)
あめを:峠谷さんの狂言?(笑) それだと書き手として、周到。かなりの技術だ。それはともかくとして、過剰反応気味ではあるな。自分を追い込むのがお好きなようだ。
てんき:「平成のマゾッホ男爵」と命名した。
あめを:たしかに、あの自虐ネタは、今風に軽くはない。貴族的な退廃感がある。
てんき:社会的マゾヒズムなんだ。社会的な存在としての自分を追い込んでいく。
あめを:だから、性的には、極度のサディズムだったりする(笑)。
てんき:おいおい。勝手に決めてつけていいのか。
あめを:一般論からの類推。類推。愛想のいい小児科医や温厚な銀行員が、家に帰ると、嫁さんに暴力を振るうというのはよくある話。これはもちろん、峠谷さんのことではない。
てんき:当たり前だ。ところで、削除前の記事の内容は、もう知るよしがないんだけど……。
あめを:誰か、教えてくれないかなあ。コピーしている人いるんじゃないか。
てんき:それよりも「暴言だ」と言ってよこした人のほうが興味深い。
あめを:実在するとしたら、な。
てんき:市民運動家みたいな俳人?
あめを:あるいは戦争で恋人を亡くして、いまも独身を守っている俳人?
てんき:おい。そっちの方向に行くな。頼むから。
あめを:暴言だというメールが来るか? 妄言と言われるよりはいいと思うけど。それに、そんなメールが来たら、オイシイはず。どうせブログのネタにするんだろ?
てんき:うん、する。する。即刻する。
あめを:テーマが峠谷さんに変わっちゃった。話を戻す必要もないんだけど、ケリをつけて戻そうか。
てんき:結論は、峠谷さん、がんばれ!
あめを:削除する前に、その記事、メールでよこせ!
てんき:まあ、そんなところか。
あめを:話をほんとに戻そう。峠谷さんは、反戦俳句・反核俳句の作り手を「偽善」とおっしゃっている。だから、うんざりなのだと。キミも、そのへんは同じ?
てんき:ちょっと違う。「偽善」という言葉はふだんから使わない。物事をそういう切り取り方はしないんだ。「偽善だ」という糾弾は、言外に「真の善」を強要している。強要まで行かなくとも、期待はしている。言い換えれば、「偽善だ」と言う人の内部には、善と悪の二項対立が判然としている。道徳的に堅固な枠組みがある。でも、それって、どうなのかなあという感じが、どうしてもしてしまう。
あめを:なるほど。
てんき:それと、反戦・反核俳句という言い方も、まあ簡単に言ってしまえばそうなんだけど、ちょっと違う。「反対」というスタンスよりも、テーマとして扱うこと自体に抵抗がある。
あめを:そんなに嫌? 目を向けなければいんじゃないの? 関心のない句は、他にもたくさんあるでしょう? いちいち反応するのがおかしいと思うけど。
てんき:それはある程度正しい。他人様が何をしようが、他人様の問題だからね。でもね、「ちょっと待て」という感じはする。これは記事に書いたことだけど、「戦争」というテーマを情緒で扱うべきではない、というのが、私の中にあってね。これは珍しく明確な意思なんだ。
あめを:「べき」論? おかしいじゃないか。俳句に「べき」論を持ち込むのは嫌いなはずでしょう? 俳句は「なんでもアリ」と、ふだんから言ってるのに?
てんき:ううむ。そのへんを衝かれるとツラい。戦争というテーマに気構えてしまっているのかもしれない。これは俳句観というより、戦争観の問題かもしれない。
あめを:なるほど。話が込み入ってきそうだ。今回は、これくらいにして、次回に回そうか。情緒、つまり気持ちだな、それと戦争の関係について。これが次回のテーマだ。
てんき:まあ、どんなことがしゃべれるか。わからないけど。
あめを:それにしても暑い。
てんき:ああ、夜になっても蒸す。おっ、そうそう。郵政民営化法案否決。解散総選挙。か。
あめを:郵便局ねえ。どうでもいい。とりあえず、郵便夫諸君は、郵便を無事届けてくれれば、それでいい。中身を抜きとったりせずに、な。
てんき:誤配も多い。
あめを:まあ、小さな望みだ。じゃ、また。近いうちに来るわ。
てんき:ちょっと待った。帰る前に、これ。人気blogランキング クリック、クリックゥ~。
あめを:バカだろ? じゃ、な。
https://tenki00.exblog.jp/1537858/ 【戦争と俳句(2) あしたあたりからわんさか出てくるんだろうねえ】より
あめを:よお!
てんき:おっ、また来たな。
あめを:話の続きだ。8月15日がやってくる前に聞いておきたいと思ってな。戦争を詠う句が8月になるとうじゃうじゃ出てくるという話から、情緒と戦争の話。そこで、キミのスタンスとして、戦争は、情緒でなく、理性で扱うべきものだという話だった。
てんき:そんな話したっけ? あんまり興味ないけど?
あめを:まあ、そういわずに、話にケリをつけよう。
てんき:よくある退屈な原則論だけど、いいの? それにさあ、情緒で戦争を語って、ロクなことはないということは、みんなわかってるんじゃないの?
あめを:情緒的に「戦争反対」「平和」を訴えても、世の中は動かない。
てんき:そういう意味もあるけど、「平和のため」じゃない戦争というのは存在しないでしょう? 戦争の主たる栄養分のひとつが「平和のため」という熱情だったりする。お題目としての「平和」は、むしろ戦争を推進する。
あめを:民衆が「平和」「平和」と叫べば叫ぶほど、戦争にとっては好環境が整うというわけか。
てんき:そういう面もあるんじゃないの?という程度だけど。
あめを:<私たちの平和>を守るためには<彼ら>を殲滅するしかない。「平和」を望むと、「戦争」が起きる……変な理屈のような気もするが、なんとなく言いたいことはわかる。それなら、戦争反対のデモや集会は意味がない?
てんき:わからない。でも、ひょっとしたら「表明」が大事なのかもしれない。デモの字義通りに。
あめを:「私、戦争反対です。平和が大好きです」という表明。
てんき:それなら私も同じ。戦争なんて、いろいろな意味でヤだ。でも、ヤだから、とりあえず、考えてみることにしている。で、考えてみた結果、情緒で扱う問題じゃないな、と、とりあえず感じた。だから、戦争について、情緒的に語ること、情緒に訴えた表明を、信じたりしない。
あめを:だから、理性や論理で扱うということか。それはできているわけ?
てんき:どうだろう。自分なり、というだけ。というよりも、そういうスタンス。それに、戦争と平和について、一年中、四六時中、思考するわけにはいかない。いろいろすることがあるからね。それに、ハードディスク容量やCPU(演算処理)能力の範囲内でしか考えられないわけだから、大したアウトプットが出てくるわけじゃない。ま、誰も、ボクが戦争と平和について考えた「結果」を求めているわけではないし。
あめを:それだと、戦争を理性で扱うことに、なんの意味がある?
てんき:わからない。意味はないかも。
あめを:俳句に話を戻そうか。戦争、まあ、この時期8月の戦争と言えば、60年前に終わった戦争だ。それからまた広島と長崎に落とされた原爆のことを、俳句はさかんに詠む。それはやはり情緒的なアプローチということになるのかな。
てんき:俳句という短詩は、その成分が理性(論理)よりもやはり情緒でしょう? べたべたに情緒を押し出している句か、抑制のある句かは別にして。
あめを:まあ、そうかな。
てんき:だから単純な話なんだ。私は、戦争や原爆を情緒の分野で扱わない。同時に、情緒で扱ったものを信じない。
あめを:なるほど。しかし一方で、ボクはね、原爆忌とか敗戦忌を使った俳句を、キミのように違和感や抵抗感を感じずに読めたりもする。反戦でも反核でもなく、忌日俳句として読む。つまり、死者への挨拶だ。8月になれば、「あの戦争」で死んだ人たちに挨拶をする。そう考えれば、そんなに嫌気もささない。もちろん巧く出来ている句に限ってだけどね。
てんき:ふうむ、なるほど。
あめを:忌日という季語本来の働きに限って読む。
てんき:そこには反戦も反核もない?
あめを:巧くできている句は、そうだと思うけど?
てんき:それはそうかもしれない。
あめを:キミは、戦争や原爆についての俳句で「いいな」と思った句はない?
てんき:んんん、あるね。過去には。若干数。
あめを:それなら、そう堅く考えることもないでしょう?
てんき:まあ、そうかもしれない。
あめを:明後日は8月15日だ。明日あたりから日本全国で、それからネット上で、終戦・敗戦の句がわんさか出てくるんだろうね。まあ、そのうち、それくらいが死者への素敵な挨拶になっているかわからない。ほとんどは、どうしようもない句だろう。
てんき:それを見物しようというわけか。
あめを:キミは、あした句会に行くんじゃないの?
てんき:うん、麦の会の例会。行くかもしれない。
あめを:いっぱい出てくるんだろうねえ。うふふ。
てんき:どうなんだろうね。ボクはそんなに楽しみじゃないけどなあ。
あめを:まあ、そう言うな。
てんき:最後に、キミの戦争観が聞きたい。
あめを:あ、それはただひとつ。「やるなら、うまくやれ」。それだけ。
てんき:なるほど、戦争は政治だ。ヘタを打つなよ、ということだな。
あめを:今夜はこんなところか。あんまり盛り上がらなかったなあ。
てんき:最初から乗り気じゃなかったからね。
あめを:ま、いいや。この話題は、また!
てんき:まだ、やるか?
あめを:うふふ。おやすみ。
てんき:じゃ、いつもの、これ、これ。クリック、クリックゥ~
あめを:わかった、わかった。
https://tenki00.exblog.jp/1544596/ 【戦争と俳句(3) 結局は個人の問題か。退屈なとこに落ちるなあ】より
あめを:おかえり!
てんき:な、な、なんで、出迎える? ああ、びっくりした。
あめを:句会、どうだった? 戦争の句はいっぱい出たかね?
てんき:「八月十五日」1句、敗戦日だったか終戦日だったかが2句、「原爆忌」1句。上手な句もあり、そうでもない句もあり。上手な句には点数が入り、それなりに句評も盛り上がってた。
あめを:盛り上がるって?
てんき:巧くできていても、よくあるスタイル…といった意見も出て、結局、「八月十五日」という季語は難しい。そんな話だったかな。
あめを:ふうむ、難しい? ツキスギを避けて、距離を出して、あっさりした素材を持ってくれば、それなりにかたちになる。
てんき:そう気楽に考える人もいれば、そう考えない人もいるということだろう。それより、俳句をどう作るかという議論に終始したのが、ボクには興味深かった。きっと、昭和20年8月15日という日を、個人的な事象に還元できるのだろう。作った人はきっとそうだろう。自分の体験の中の一日という感じだ。だとすると、ボクが考えていたような「平和」や「反戦」という意味合いは背後にフェイドアウトする。
あめを:なるほど。自分自身の「その一日」ね。それだと、「死者」もフェイドアウトする。
てんき:ボクらは、その日、まだこの世に生まれていない。だから、戦争と死者とを結びつけて考えすぎるのかもしれない。
あめを:なるほどね。
てんき:また、その死についても、あまりにも漠然かもしれない。
あめを:その点では、東人さんの記事が興味深い。
てんき:ああ、読んだ。「死はいつも他人事」にしても、それが経験の中で、くっきりと実像や質感をもつことがある。
あめを:そうした瞬間が、句になる可能性もあるのか?
てんき:それはよくわからない。もしも、ボクの中で、ある経験が実感をともなって像をむすんだとしても、とりあえず、そうしたものを俳句にしようとは思わない。「なんでも俳句になる」というふうには考えない。なんでも俳句にする必要もない。下世話にいえば、俳句に不向きのことを俳句にしようとしてもがくまえに、俳句向きの素材で充分、自由に遊べるという感じが、このところ強い。
あめを:キミにとって、戦争というテーマは、俳句向きではないという、きわめて個人的な問題に落ちちゃった。
てんき:落ちたねえ。まあ、いたしかたがない。議論のテンションは保てなかったということか。
あめを:まあ、そんなに悲しい結論にするな。では、このへんで、「八月十五日」で一句!
てんき:「阪神の移動日八月十五日」。字余りのお粗末。
あめを:ほんと、お粗末。
てんき:じゃ、そろそろ、例のあれ。人気blogランキング クリック、クリックゥ~。
あめを:そればっかりだなあ。
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