俳句で平和教育を

https://nordot.app/800257789285285888?c=39546741839462401 【俳句で全身がびりびりする平和教育を 終戦インタビュー】より

 テレビ番組で人気の俳人夏井いつきさん(64)は、俳句の世界に入り、戦争を生々しく感じるようになった。「五・七・五」と「季語」を通して、戦争を疑似体験することで、平和教育にも役立つと信じる。今年は日米開戦80年。終戦の日へ寄せる思いを聞いた。(共同通信=西蔭義明)

インタビューに答える俳人の夏井いつきさん

 ▽絵空事でなく

 ―俳句と平和への思いは。

 俳句は五感を使う能力をトレーニングできます。例えば「梅雨」という季語。聞いたら、じめじめした感じとか、雨のにおいとか、音とか、そういうのを、いっぺんに体が再生してくれますよね。

 戦争も同じで、そこにいたらと考えてしまいます。沖縄戦で、ガマ(自然壕)に逃げ込んだ住民に米軍が爆弾を投げ込む―。壁の手触りはこうだろう、武器を持った兵士からこんな音が聞こえるに違いない、立ち込める草いきれ…。

 俳句を始めて、私にとって戦争は絵空事ではなく、生々しいものになりました。

 ―2018年に98歳で亡くなった俳人の金子兜太先生と生前親交があった。

 兜太先生は自らが体験した戦争を俳句にし、二度と起こしてはならないと俳人の領域を越えて活動し、若い人たちにも伝えようという意思をお持ちでした。

 私は学校の先生方に俳句を使った平和教育を提案していましたが、一方で、戦争経験者の中には、体験していない人が俳句にすることに抵抗を感じる人が、現実的にいます。兜太先生が80代後半のころ、「どうお考えですか」と聞きました。

 先生は「反発を持っていた時期もあったけど、それが80歳を過ぎてから許容できるようになった」とおっしゃった。同時に「あんたのやろうとしていることは間違っていないと、今の俺は思う。戦争というものを体験していないから、忘れていいっていうことは絶対にあり得ないんだから」と背中を押してくれました。

 ▽概念だけではもったいない

 ―俳句で平和教育をする上で大切なことは。

 季語は生ものなので、持つ意味が変わっていきます。「八月十五日」や「原爆忌」という季語はもちろん、日本人の中で第2次世界大戦後、8月の季語は大きく変わったと思います。

 学校や修学旅行で平和教育を受け、胸を突かれたことを俳句にして疑似体験するためには、お題目として捉えるだけではいけません。子どもたちが作ったものを見せてもらうことがありますが、「戦争は駄目ですね」「やってはいけませんね」という概念だけの句が多い。それではもったいない。その現場を想像しただけで全身がびりびりするような再生能力が必要です。それが、戦争をしないという、心の中の抑止力になるのではと思います。

 ―夏井さん自身も平和や反戦を願い、俳句に詠んでいる。

 16年にミニ句集「旗」を作りました。巻頭言は「平和を希求する小さな旗を一本、ここに掲げる」。世界中の人が戦争はしていけないと分かっているのに、やってしまう。いまだに普通の人が普通に暮らせない国もある。平和のために掲げる小さな俳句の旗をみんながいっぱい立ててくれたらと、願っています。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/154389 【「無心に一句」から 厭戦、生死、いのちを詠む 池田澄子さん(俳人)】より

 俳人池田澄子さん(85)にとって、二〇二一年はとにかく忙しかった。第七句集『此処(ここ)』(朔(さく)出版、二〇年)で読売文学賞などを受賞。これまでの優れた功績を顕彰する現代俳句大賞に選ばれた。雑誌などに発表した句は約三百五十に上る。年末にはエッセー集『本当は逢(あ)いたし』(日経BP)を出した。多忙な一年を経て、新たな年にどんな思いを抱いているのだろう。

 「あの、間違いじゃないですかって言ったの」。東京・杉並の閑静な住宅街。冬日の差す庭に面した洋間で、池田さんが受賞の連絡を受けた時の驚きをユーモラスに語る。「あはははは」。たびたび上がる明るい笑い声に飾らない人柄がのぞく。

 じゃんけんで負けて蛍に生まれたの (『空の庭』)

 前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル (『たましいの話』)

 初明り地球に人も寝て起きて (『拝復』)

 春寒の灯を消す思ってます思ってます (『思ってます』)

 私生きてる春キャベツ嵩張る (『此処』)

 戦争、3・11東日本大震災、あらゆるいのち…。こうしたものを見つめる池田さんの句は、平明でいて、その奥行きに思いを巡らせずにはいられない。現代俳句大賞の選考理由には「文語調・口語調を駆使した多彩な表現技法」「エスプリを内包した独特の俳句世界」などの評価が並ぶ。

 俳句と出会ったのは三十八歳の時。毎日新聞の記者だった夫の転勤で横浜に住んでいたころ、俳句雑誌で見た阿部完市さん(一九二八〜二〇〇九年)の難解な句に「こういうのも俳句なんだ」と衝撃を受けた。以来「毎日、俳句のことを考えてる」。

 敬愛する師・三橋敏雄さん(一九二〇〜二〇〇一年)には「今までにない新しいものでなければ意味がない」と教えを受けた。例えば、初期の代表作であるじゃんけんの句は最初、文語で書いた。「口語にしたら」と助言され、何回か書き直した後に「よし。これがイケスミ調」と言ってもらえた。

 句作の根底には、父を奪った戦争がある。軍医だった父は一九四四年八月、漢口陸軍病院で、流行していた腸チフスにかかり三十四歳で亡くなった。当時、池田さんは八歳。「生まれたら元気に生きて、というのが当たり前じゃないことが、体にしみちゃったんじゃないかと思う」

 <前ヘススメ>の句のような厭戦(えんせん)という主題は、戦中に弾圧を受けた新興俳句から出発し、戦争への怒りを詠み続けた師と重なる。さらに、戦争だけでなく、「いのちを脅かすものはみんな嫌だ」という池田さんの思いは、あらゆるいのちへのまなざしにつながっているのだろう。

 3・11以降の折々に、自らの句を交えてつづったエッセー六十編余りを収めた『本当は逢いたし』でも、戦争、生死、いのちに思いをはせる。自作句<本当は逢いたし拝復蝉(せみ)しぐれ>から取ったタイトルは、コロナ禍のいま、人々の心情そのものだ。最後の一編「父の顎」は、中国・武漢でコロナが広がり、急ごしらえの病舎で奔走する防護服の医師らの映像を目にした時、武漢の一部である漢口でいのちを落とした父の姿が重なったことを書いた。

 俳句を始めて四十五年以上。池田さんは「何をどう書くかを考えることが、俳句を書くということ。いまもどうやったらいいか、一句一句悩んで、じたばたしてる。でもね、こう書けばいいとわかったと思ってしまったら、もう終わりかなと思ってるの」と率直に語る。

 昨年の受賞機会は図らずも、これまであまり意識してこなかった年齢をあらためて見つめるきっかけにもなったという。これから俳句に向かう気持ちをこう打ち明ける。

 「知らないところを知りたい。それには、わからないところから、無心に一句を書くしかないかなって。せっかく年取ったんだから、年を取らないと詠めない句というのが詠めれば一番ありがたいよね。これから私、何書くんだろう、どういう書き方するんだろうって、興味津々だわ」(北爪三記)

https://ameblo.jp/zonomori/entry-12732555287.html 【「戦争と俳句」② 池田澄子を読む】より

大阪は今日は雨。肌寒い、かなり。昨日のユキヤナギ。白い花の面積が一気に広がってきた。明日晴れたら、全面、白いかも。

 月・雪・花そしてときどき焼野が原  池田澄子

 前へススメ前へススミテ還ラザル

「雪月花」だから日本のことだろう。でも、世界ととらえる方がいいかな。

穏やかな時代もあるけれど焼野が原の時代がいつもある。

なんとも皮肉な言い回しで平和への思いが描かれている。

戦争をもっとクローズアップしてとらえたのが「前へススメ」。

威勢よく進んで行くのはいいけれど、還ってこなければどうしようもない。

池田さんには反戦あるいは平和を願う作品が数多くある。

いまの戦争をどういう風にとらえ自分の思いをどう表現するのか。とても難しい。

そのためにも池田さんの作品を読んでいる。

https://ameblo.jp/zonomori/entry-12732734071.html 【「戦争と俳句」③ 三橋敏雄を読む】より

今日は3連休初日。あいにく曇り。肌寒い。写真は近くの中学校のグランドを覗く父兄たち?グランドでは野球の試合が行われている模様。毎年この時期、こんな風景が見られます。新チームになって?我が子の活躍を見ようと集まってくるのですね、きっと。

 出征ぞ子供等犬は歓べり  三橋敏雄

 死の国の遠き桜の爆発よ

出征するのに喜ぶものはだれもいない。それを前提として「歓べり」としている。

ここに反戦の気持ちが込められている。「死の国」とはどういうことか。

川名大さんの解説によると原爆でできてしまった「死の国」ということらしい。

そこで「爆発」が活きてくる。

この桜の国は原爆で死の国になってしまった。

そう解釈すればいいだろう。

「戦争と俳句」といういささか大げさなタイトルで俳人たちの作品をほんの、ほんのちょっと紹介して読んでいる。

他にもっと有名でふさわしい作品があるかもしれない。

三橋敏雄なら

 いっせいに柱の燃ゆる都かな  この作品がそれにあたるだろう。

そこは私の気分、感性で今日はこの句がいいな、と選句しているので

的が外れたらお許しのほどを。

ウクライナとロシアの戦争をきっかけにこういう読み方を始めた。

同時に、この国では九条問題がさらに注目を集め始めた。

改憲は絶対に反対である。

その立場をはっきりしてその感性で選句をしていこうと考えている。

https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/c6b2bac3f47a5c14c3919e5316762eee 【戦争にたかる無数の蠅しづか 敏雄】より

 敏雄は一九四三年、招集を受け横須賀海兵団に入団するが、船乗りの経験から戦後は運輸省所属の練習船事務長として日本丸、海王丸などに勤務した。しかし一貫して戦争に対する嫌悪感は持ち続けた。〈戦争と畳の上の団扇かな〉や〈あやまちはくりかへします秋の暮〉などの代表作はあるが、鑑賞句はより戦争の本質を語っていないだろうか。

この句の蠅は何と「戦争」に集っている。その数えきれないほどの蠅が音も立てずに静かになにかを待っている。無気味な静謐。この静謐を装っている蠅こそ狡猾で危険一杯な生き物なのだ。戦争を潜り抜けた敏雄は直感的に戦争への危機を感じたのだろう。軍需産業を後ろ盾にした政治家だけでなく、欺瞞的な宗教家だっている。そしてなによりも戦争を仕掛ける武器商人だ。敏雄は戦場の死体に集る蠅の姿と、平和主義を唱えながら戦争の勃発を静かに待つ政治家や暗黒を舐めて豊満になる武器商人の姿と重ねたのである。

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★三橋敏雄の文を紹介します★

「戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)」

http://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/mitsuhashi/2011-08-27-11202.html 【戦後俳句を読む(9-1) ―テーマ:「精神」― 三橋敏雄の句 / 北川美美】より

戦争と疊の上の團扇かな

掲句から句集名を採った『疊の上』が蛇笏賞を受賞する。敏雄69歳の時である。

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉

敏雄が、俳句形式に立ち向い、白泉の句に対峙する代表的な戦争俳句である。

戦争にたかる無数の蠅しずか

戦前の一本道が現るる

戦火想望俳句に没頭した三橋青年が「戦争」という歴史的事実を思いつづけた重みが背景にある。戦争を詠むことは敏雄にとって終生のテーマであった。

戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)

生き残った敏雄がいる。

「団扇」は夏の風物詩であるが、悪霊を払うもの、軍配を決めるもの、多様な意味を持つ。「戦争にたかる無数の蠅しずか」「戦争が廊下の奥に立つてゐた(白泉)」に呼応し、誰が戦争の蠅(悪霊)を追い払うのか、誰が戦争を裁くことができるのか、という読みもできよう。団扇を手にするかどうか、それは読者次第かもしれない。

歴史上の重いテーマであり人々の脳裏に様々な映像、概念を内包する「戦争」という言葉、そして小津安二郎のカメラ目線の低いアングルが感じられる日本の日常風景である「畳の上の団扇」が、「と」で結ばれ「かな」で言い切られている。

新興俳句作品は切れ字の使用が極端に少ない。三鬼の影響が濃く反映している『まぼろしの鱶』(昭和三十年代の項)での「かな」の使用は皆無だった。しかし『眞神』から「かな」使いが復活している。初学より「新しさは歴史を通じて生き得る」(『太古』序)の確信の元、新興俳句弾圧後に古俳句研究に親しんだことに加え、高柳重信の下五「~かな」の影響が強いと感じる。この点について、『新興俳句表現史論攷』(川名大)に同意である。また古俳句の二物の「取り合わせ」「付け合せ」をみると、「や」を用いるケースが多く、「閑さや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)」「名月や畳の上に松の影(其角)」「鶯や下駄の歯につく小田の土(凡兆)」などがある。敏雄の句も「戦争や畳の上に置く団扇」となりえるところを、「と」で結び「かな」で感慨を言い切っている。「かな」の使用はないが、新興俳句の旗手である高屋窓秋に「山山の蒼き日と夜舞扇」がある。

掲句はある意味、高橋龍氏の「疊の上の団扇と戦争の出会い」(『弦』33号2011.7.1 遠山陽子編集・発行)という言葉を発展させ、いささか飛躍が過ぎるが「ホトトギスと新興俳句の邂逅」と思える。そうなると、この「と」は、偉大なる格助詞ということになる。ホトトギスから分裂し、弾圧により消滅した新興俳句の種子が木になったような、ある到達点を感じることは確かだ。敏雄の切れ字、助詞の使い方には、俳句の可能性がみえてくるのである。

余談になるが、今年に入り、中近世国語語彙・俳文学研究者の小林祥次郎氏から筆者所属俳句誌『豈』『面』をご覧になられた感想を頂いた。「現代俳句は、あまり読んだことも無いのですが、『や・かな』を使っているので、少し心が和みました。」と綴られていた。氏の執筆箇所、『俳文学大辞典』(平成7年初版・角川書店)・切れ字の項は確かに、「新興俳句以降は、『や・かな』などで簡単に詠嘆することを嫌う傾向が強い。」とあった。敏雄の『や・かな』使いが、新興俳句以降の俳句史にどう影響を与えていくのか。変化を見て行きたいと思う。

『眞神』(昭和48年)以降に感じた作者の遠い彼岸からの視点が、『巡禮』(昭和54年)『長濤』(昭和54年)あたりから徐々に、そして『疊の上』(昭和63年)では確実に現生の遠い視点に転換されている観があることも付け加えたい。恐らく『三橋敏雄全句集』(昭和57年)が発行されたあたりに敏雄の視点は地上に降りたという気がする。

敏雄の後記の言葉として有名なくだり「志して至り難い遊び」(『まぼろしの鱶』後記)は、新興俳句、そして戦友・句友を悼み、戦後日本への問い、俳句とは何かという問いでありつづけた。それを敏雄の精神と理解したい。

タグ: 三橋敏雄, 北川美美

      

                  

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