一指李承憲@ILCHIjp
私たちは鼻で虚空を吸い込んでいます。身体の外に虚空があるように、身体の内にも虚空があります。2つの虚空は互いにつながっていて、身体の外の大きな虚空が病めば、身体の内の小さな虚空も病みます。
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL) 投稿記事
無位
自分探しという言葉(行為)が流行しましたが、いまも続いているようですね。
ただ、時代によって、ニュアンスが変るようです。以前は、自分とはなにか、生きる意義とはなにかという語りかけでしたが、現在は自分が本当にやりたいことや自分にあったことを探すという意味合いが強いように思います。
「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、どう答えますか? 簡単な質問ですが、難しいですね。名前を聞かれているようでもありませんし、仕事の種類や会社名、学校名を聞かれているようでもありません。国籍や性別でもなく・・・そういう付属のもろもろを外すと、どういう返答ができるのでしょう。
こんなとき感心するのは、ネイティブアメリカンの命名の仕方です。「朝の少女」とか「永遠に花咲く」とか「ともだち」とか「翼を持った」など・・・。やはり「実体」ではありませんが、名刺に記入する肩書きよりも、人となりに近いように感じます。
一無位の真人(いちむいのしんにん)という言葉があるようです。価値判断のつけようのないまことの人間という意味ですが、「あなたはだれですか?」の問いに照らし合わせると、「わたしは、わたしです」。
無位=位(価値)のつけようがないというか、位(立場や名誉や属性)などは真の人を示すものではないと言っています。そのような考え方から抜け出して楽になれ、とも読み取れます。
「それでいい」「わたしはわたしで、それでいい」。つまりは、「あなたはあなたで、それでいい」。
世の中は、自己主張や、無数の正義であふれています。自己主張や正義を語らない者は遅れをとるような錯覚もあります。高じると、「私のほうが○○(高い、偉い、立派、幸福、低い、貧しい、不幸・・・)」の罠にはまり、悩みや苦しみを生みます。
みな、それぞれに「わたしはわたしで」「あなたはあなたで」それでよいのですね。自分の尊さというのは存在がすべてなのですね。いたずらに世間の価値観にふりまわされず、自信を持って自分に向き合うということでしょう。むろん、見たくない自分とも付き合わねばなりませんが、それが、まるごとの自分。気づきのはじまりでしょうか。
https://iyasi355.blog.fc2.com/blog-entry-90.html 【自分探しの旅から、帰ってこよう】より
4月8日配信メルマガ「こころの栄養@さぱりメント」
ポエムセラピーのこぼれ話。http://www.sapariment.com/mag/01_049.html
「自分探し」や「居心地のいい場所」を求めることに熱心になる時期は誰にでもあると思う。とくに思春期や社会に出て働くことを意識し始める時期。
家庭の中だけにいる主婦や定年間近になったお父さんなんかもそうかもしれない。
自分の人生を充実させたい!というのは誰もが共通の願いだから、意識的にしろ、無意識的にしろ、「自分探し」「居心地のいい場所探し」はどんなときでもしているのだろう。
だけど、あまりにも「本当の自分」や「自分の居場所」にこだわると、かえってそこから遠ざかってしまうようにも感じます。
誤解を恐れずに言えば、「本当の自分」や「居場所」なんてどこにも存在しないんだ、と思ったほうが、むしろ生きやすいのかもしれません。
なぜって、「本当の自分」も「居場所」も、究極的には探している「自分」という人間の中にしか存在しないから。
だから、自分以外のほかのところをいくらウロウロしても、つかめずにさまようばかり。
でも、現状を打破しようと、もがいたり、動くことは無駄ではない。
大事なのは、そのとき感じた自分の心を置き去りにしないこと、だと思う。
そんな瞬間瞬間の積み重ねが、自分をつくるし、自分の居場所をつくるきかっけになるのではないだろうか。
(たとえイケていなかろうが)どんな自分だって、「本当の自分」の一部なのだし、(たとえちっぽけでつまらなかろうが)どんな場所だって、心がけ次第で「居心地のいい場所」に変えることは可能なのだから。
サルトルbot@jpsartre_bot
私たちはみなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです。『嘔吐』 それは選ぶもの創造するもの♪
【敗者の幸せ 】
殺人は真実に悪でしょうか?森鴎外著の「高瀬舟」には自殺ほう助をした男の話が綴られています。尊厳死の問題はどうでしょう?それに伴う安楽死の問題をどのように考えればいいのでしょう?
以前 痴呆で寝たきりの老人の 延命装置を外して 殺人罪に問われた医師のことが報道されました。
フィジー島では人肉を食べる習慣が あります。
戦争下においては敵とみなされた相手を殺すことは善とされます。
善悪優劣はまさに比較が作る実態のないものといえます。
然し私たちの今生きている社会は 競争原理が強力な規範となっています。
競争原理に則って生きれば 当然敗者とみなされる人々が生まれるわけです。
敗者が 卑屈な被害者意識に陥らず [まさに失敗は成功の元]とばかりに失敗から学びながら 成長してゆくには どうしたらいいのでしょう?
1.失敗(負)を通して 本来の役割、ライフビジョンを知った人は沢山います。
そんな一人に 知人の戦友 酒井雄哉さん 。比叡山の大阿舎利です。
結婚しても2年で妻は自殺、事業も失敗、何もかも失敗で仏門に入り 大成した方です。
食事はお蕎麦と信者さんにいただくお茶 、いつ死を迎えてもいいように 葬儀用のお金を常に身につけ野山を駆け巡り 修行をされるそうです。
知人は毎年 お正月には彼の焚く護摩に預かり続けていたそうですが 阪神大震災のあった年のお正月にはこのゴマが消えたそうです。
酒井さんは「災いが起きても 心を騒がせないように]と言われたそうです。
比叡山1000年余りの歴史の中で3人目の 二度の千日峰行やり遂げた人だそうです。(700日は自利の為 残りは利他の為)
2.宇宙という 全体の意志と目的のために 調和とバランスの為に
宇宙の一部である私たちには役割があり個性があります。
全体の有機的なダイナミズムの中で神仏がよしとした 掛け替えのない私を愛する(足るを知る)とは神仏を愛することといえます。
私が痛めば宇宙が痛む 。
小宇宙と言われる人体を見れば一目瞭然です。
小指が痛めば身体全体が痛むとは聖書にも記されていることです。
相互に関連し、相互に循環しあっている私たちは 皆で高め合う以外に幸せになりません。
競争原理の強い社会で「弱肉強食にしないで 皆で高め合う」とは どの様に成り立つのでしょう。
みなさんはトロプスという言葉をご存じでしょうか?トロプスとはスポーツを逆読みした言葉です。
不思議なことにスポーツの殆どは勝敗を競いますね。(勝敗を競わないスポーツをご存知ですか?)
トロプスとはダンスや体操 トレーニングのように 「勝敗なしの運動を 皆で楽しみましょう」という主張です。
トロプスは 良いライバルとともに切磋琢磨し、共に楽しみながら、皆で高め合うことを目的とします。
タラントを持った色々な人 (その得意分野での勝者)をサポートしながら敗者も勝者になっていく生き方は敗者の卑屈を払拭してくれます。
競争の対象を他者ではなく自分に置き換え、克己と努力をなすこととも言えます。
みんなで高め合って みんなが勝者になれるといいですよね。
優劣の字を観ると優は人が憂うと書き 優しい、優れていると読みますよね。
劣は少ない力 :力まない自然体とか 聖書の山上の垂訓にある「心の貧しい人は幸いである」という句を連想します。
更に優の字は大人、劣の字は子どもを連想させます。人生もトロプスのように楽しめるといいですね。
3. 弱さは強さです。
私は世知に疎いです。
お金を無くしても 気づかないことがあるので いきなり出てきて得をした気持ちになったことが沢山あります。最高200万円です。(これは預金)
財布やバックは何度もなくしました。クレジットカードやキャッシュカードごとです。
面倒な手続きは夫がしてくれたので あまり凝りなかったようです。
それでも家計は皆私が預かっているという不思議もあります。
市役所とか 煩雑なこの世の手続きは 夫がみんなしてくれました。
私に来た年賀状も 返信は夫がしてくれました。
方向音痴は堂にいったもので 新しい地に出かけるときは 切符の手配は夫が皆し、道順まで調べ、「こっちの電車に乗ると反対に行くから」と忠告されれば見事に反対の電車に乗ったりもしました。
多くの人から「貴女って しっかりして見えるのに ドジね!!」といわれます。
世知に疎いことで たまには侮蔑の目で見られることもありますが 皆がそれを補ってくれます。
できないで通せば 誰かがしてくれるという 怠惰な得も あるということかもしれません。
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