https://japanknowledge.com/articles/kkotoba/01.html 【季節のことば】より
日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。
初夏―其の一【風薫る】
都市生活の中では、風を意識することが少ない。実際には吹いていても、それがあまり生活と関わりがないためである。しかし農耕や漁業にとって、それがいかに重要なものであるかは容易に想像がつく。風は雲をよび、農作物に欠くことのできない雨をもたらすが、同時に強すぎる風は、計り知れない被害も生む。漁民や船を生活の糧にする人々にとっては、直接、生死にも関わる。
季節のことば、つまり季語は、そういった昔の人々の生活の中から生まれ育まれてきたものが多い。風といっても、単なる物理現象だけを指しているのではない。それにまつわる人々の微細な生活感情を豊かに含んでいるのである。
“風薫る五月”といったように、今日では決り文句化しているが、この「風薫る」は、もとは漢語の「薫風」で、訓読みして和語化したものである。「かぜかをる軒のたちばな年ふりてしのぶの露を袖にかけつる」(藤原良経-秋篠月清集)といったように和歌にも詠われたが、花の香りを運んでくる春の風を指すことが多かったようだ。それが俳諧になると、青葉若葉を吹きわたる爽やかな初夏の風の意味になり、はっきりした季感をもって用いられるようになる。「風かほる羽織は襟もつくろはず」(芭蕉)「高紐にかくる兜や風薫る」(蕪村)。蕪村には「薫風や恨みなき身の夏ごろも」という句もあり、薫風を明らかに夏の季語として使っている。
風が「薫る」程度の風速から、もう少し強くなると「青嵐」になる。セイランと音読すると「晴嵐」と混同してしまうので、俳句ではアオアラシと訓読することが多い。「青嵐定まる時や苗の色」(嵐雪)と使われるように、早苗の色鮮やかな初夏5月ごろから吹くやや強い風である。嵐雪がこの句を作った元禄のころからよく使われるようになった季語である。近代になってからも「濃き墨のかはきやすさよ青嵐」(橋本多佳子)、「略奪婚めきて甕はこぶ青嵐」(石田波郷)といったように、その爽快感や吹く烈しさに着目されて、さまざまに詠まれている。「風青し」「夏嵐」もほぼ同じ意味である。「夏嵐机上の白紙飛び尽す」(正岡子規)。
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梅雨と五月雨
日本の自然の特徴として、その多様性と豊かさを挙げる人が多い。しかしこれには愛郷心や愛国心といった心理的要因も入ってくるので、多分に主観的な見解と言われてもやむを得ない。何をもって客観的に判断するかの基準の問題が難しいからだ。それでも四季のめりはりのある移り変わりについては、日本の気象条件の明らかな特徴ということは言えるだろう。そして日本の四季の変化を特徴づけるものの一つが、夏と秋のそれぞれの前半に降り続ける長雨。夏の梅雨(五月雨)と秋の秋雨である。
初夏も終わり、六月に入ると、太陽高度が高くなり、太平洋からの移動性高気圧が現れるようになる。それと同時に中国の揚子江流域から沖縄付近の海上にかけて、東西に走る気圧の谷つまり前線が形成される。梅雨前線である。これが太平洋高気圧の成長とともに、一日30キロメートルぐらいの速さで北上する。夏至のある六月は、ほんとうならば一年中で最も日照時間が長いはずなのに、前線の影響で曇雨天が続くため、晴れる日は極端に少ない。このような気象現象は世界中でこの地域にしか見られないもので、外国の学術書などでは専門語としてBAIUが使われている。
梅雨は主に時候をさし、五月雨は雨そのものをさしているとする歳時記などが多いが、かならずしもそうではないようだ。ことばとしての出現は五月雨の方が早く、「古今和歌集」の時代から、梅雨は近世中期以降、俳諧から一般に使われるようになった。つまり五月雨は雅語であるのに対して、梅雨は俗語としての呼びかただったわけである。五月雨が使われるようになる以前は、「長雨(ながめ)」という言いかたの中に含まれていた。
中国では「黄梅雨(こうばいう)」、あるいは「黴雨(ばいう)」とこれを呼んだ。黄梅雨は梅の実の黄熟から、黴雨は黴が生えるような湿っぽさから名づけられたものである。実際、このころの湿度の高さはすさまじく、「梅雨どきのナメクジは壁を抜ける」ということわざがあるくらいだ。また梅雨の終わりには、それまでの冷たくしとしとした降りかたから一転して、暖かく強いいわゆる豪雨になることが多い。ちょうど陰暦五月二十八日は曽我兄弟が討たれた日にあたることから、この日、降る雨を兄の十郎祐成(すけなり)の愛人、大磯の遊女・虎御前(とらごぜん)の悲しみの涙に見立て、「虎が雨」と呼び、季語にもなっている。
なお古典は当然、陰暦だったので、「五月晴」は、今日のように梅雨が終わって晴れあがった天気をさすのではなく、梅雨のさなかの晴れ間のことを言った。
五月雨や苔むす庵の香の物 凡兆
虎が雨晴れて小磯の夕日かな 内藤鳴雪
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂信子
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ホトトギス
古来、詩歌に詠われてきた代表的な題といえば、雪(冬)、月(秋)、花(春)そしてほととぎす(夏)。最近の都市化で、その声を聞くことはまれになったが、初夏の鶯、秋の雁をしのぐ日本を代表する鳥とされてきた。伝統俳句の牙城である「ホトトギス」がその誌名としたのも故なしとしない。ところが近年はあまりパッとしない。接する機会が減ったというのがいちばんの理由だろうが、日本人の季節感の変化あるいは衰退ということも、その背後にあるように思われる。
ほととぎすは「杜鵑」「時鳥」「子規」「郭公」「不如帰」「杜魂」「蜀魂」などと書かれるほか、あやめ鳥、いもせ鳥、うない鳥、さなえ鳥、しでの田おさ、たちばな鳥、たま迎え鳥、夕かげ鳥などなどたいへん多くの異名がある。それだけ日本人と多面的な付き合いをしてきた複雑な存在だということを、このことはものがたっている。
ほととぎすといえば、まずその鳴き声である。「テッペンカケタカ」「ホンゾンカケタカ」「特許許可局」「あちゃとてた(あちらへ飛んで行った)」などとと聞こえるとされる鳴き声は、かなり忙しげで「帛(はく)を裂くが如し」と言われている。その間にピチピチという地鳴きをはさむが、雌の声はこの地鳴きだけである。夜間に鳴き渡ることも多く、その場合は短くキョッ、キョッと鳴きながら飛びすぎるので、気がつかない人も多いようだ。初音、初声ということばで、その鳴き声を待たれるのは鶯とほととぎすだけ。ともに春と夏の到来を告げる鳥として、その初音を今か今かと昔の日本人は待ったわけである。渡り鳥であるほととぎすが渡来する5月初めはちょうど田植え時。そのため田植えを促す勧農の鳥とされた。
「いくばくの田を作ればか時鳥しでの田長(たをさ)を朝な朝な鳴く」(藤原敏行『古今集』)という歌は、田植えの監督者である長老の田長に、田植えを早くするようにと、ほととぎすが呼びたてていくという意味である。「しで」はよくわからない。「賎(しず)」の転訛とも、山の名とも言われている。「しでの田おさ」はほととぎすの異名にもなるが、問題はこの「しで」が同音の「死出」のほうに連想が働き、暗いイメージが定着していくことだ。ひとつには夜にも鳴く鳥、姿も見せずに鳴く鳥というところから、冥土に通う鳥とされていた点。もうひとつには「杜魂」「蜀魂」という名の由来になった中国の故事のイメージである。蜀の望帝は、退位後、復位しようとしたが果たせず、死してほととぎすと化し、春月の間に昼夜分かたず悲しみ鳴いたという。これらのことも重なって、ほととぎすの一面でもある暗い陰鬱なイメージができていったと思われる。鳴き声をまねると厠に血を吐くなどの凶事があるとか、床に臥して初音を聞くと、その年は病気になるとかのいろいろな不吉な言い伝えがある。
子規一二の橋の夜明かな 其角
うす墨を流した空や時鳥 一茶
ほととぎすすでに遺児めく二人子よ 石田波郷
https://japanknowledge.com/articles/kkotoba/04.html【季節のことば】 より
祭
祭といえば、季語の世界では夏のものとされ、他の季節のものはそれぞれ春祭、秋祭と呼ばれる(冬祭というのは季語になっていない)。なぜ祭が夏のものかというと、単に夏に祭が多いというのだけが理由ではない。
現在でも、京都の葵祭(賀茂祭)と祇園会(祇園祭)は、日本の夏を彩る盛大な祭礼だが、まず葵祭は賀茂神社が京都では最上位、全国でも伊勢神宮に次ぐ格式をもった神社ということもあり、その祭はたいへんに重要なものとされ、平安時代には単に祭といえば、この葵祭をさしたほどだった。葵祭は官祭つまり国家行事として行われてきたので、平安の王朝風俗を今も色濃く残し、その華やかさは日本一といわれている。
葵祭は現在、5月15日に行われているが、祇園会(八坂神社の祭)は7月1日の吉府入りから10日の鉾建て、神輿洗い、16日の宵山、屏風祭、17日の山鉾巡行、24日の後の祭、花傘巡行、31日の夏越祭まで1ヶ月間も続く。クライマックスはなんといっても山鉾巡行。山鉾は山車(だし)の一種で、屋根に鉾や長刀を立てた豪華絢爛たる30数基の山鉾が、夜には提灯をつけて都大路を進む。祇園会の盛大な祭礼風俗は、全国にも波及し、祇園社や天王社が各地に勧進され、その数三千ともいわれる。それらの神社でもさまざまな祇園会が行われている。中でも博多の祇園山笠はよく知られている。このような盛大さや影響力の大きさから、祇園会は夏祭の代表とされるようになった。
江戸の方では、天下祭と呼ばれた山王祭(日枝神社)、神田祭(神田明神)や三社祭(浅草神社)も夏の祭として名高いが、この葵祭と祇園会の二大祭のために、祭は夏の季語とされるようになったと考えていいだろう。もう一つ、夏の祭が春や秋の祭と質の点で異なるということがある。
葵祭の起源は欽明天皇の頃、暴風雨の害が賀茂神の祟りと占いに出たため、馬に鈴をつけて賀茂神社へ走らせ、祭礼を行ったところ、風雨は止み、五穀もよく実ったという故事による。祇園会は清和天皇の頃、疫病が大流行したので、これを鎮めるために行った御霊会(ごりょうえ)が始まりだという。御霊というのはこの世に恨みや未練を残したまま他界したので、人間界に災厄を加える悪霊のこと。この荒ぶる御霊を鎮めるために行うのが御霊会である。つまりともに禊(みそぎ)、祓(はらえ)を目的とした祭なのである。
それに対して春祭や秋祭は農耕と結びつき、五穀豊穣を祈り、感謝する意味あいのものである。それでもしだいに夏祭も農村に受け入れられていったのは、農村固有の水神祭との結びつきがあったからである。
山下りてもんぺ鮮し春祭 石田波郷
友がきのみな死にたれば祭かな 松崎豊
石段のはじめは地べた秋祭 三橋敏雄
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