https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65273930R21C20A0AA1P00/ 【道鏡、実は「悪人」の事績乏しく 名誉回復願い坐像】より
西大寺に奉納される道鏡禅師坐像(奈良市)
女帝に取り立てられ、皇位さえうかがった奈良時代の僧侶、道鏡(?~772年)。長く悪名が根付いていたが、出身地・大阪府八尾市の有志団体により、木彫の坐像(ざぞう)が作られた。ゆかりの西大寺(奈良市)に奉納される。新たな像は歴史的評価塗り替えのきっかけになるか。
有志が像を奉納
くっきりとした目鼻立ちと、屈強そうな体つき。「道鏡禅師坐像」は像高84センチと等身大だ。威儀を示す如意(にょい)という棒を右手に持ち、正面を見据えている。
「道鏡を知る会」(幾島一恵代表)が発願した。きっかけは、2016~17年の発掘調査で明らかになった巨大な塔の基壇だ。天皇も訪れた由義寺(八尾市)のものとみられ、1辺20メートル。想定を超える規模に、道鏡の威信の一端を重ね、坐像造立に名誉回復の期待を込めた。
制作したのは籔内佐斗司・東京芸大大学院教授。籔内氏は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」も考案した彫刻家だ。
参考イメージにできそうな道鏡の肖像や絵巻物などを探したが「必要以上におとしめられた芝居の敵役のような悪相のものしかなかった」(佐伯俊源・西大寺教学部長)という。
悪名ばかり先行するが、道鏡に野心家らしい臭みはむしろ薄い。「強権的な専制を敷くといった悪人ならではの事績にも乏しければ、大経典を筆写奉納するといった、宗教指導者らしい目立った功績もない。どちらかといえば時代の奔流に踊らされたシンデレラボーイだった」。こうみるのは古代史が専門の瀧浪貞子・京都女子大名誉教授だ。
その理由ともいえるのが道鏡のスピード出世だ。退位していた孝謙上皇の病気を治した功績により、763年に「少僧都(しょうそうづ)」になる。翌年「大臣禅師」、翌々年に「太政大臣禅師」、その次の年には「法王」にまで上り詰める。大臣禅師以降はいずれも当時の制度にない僧位・僧階で、道鏡のために用意された。
境内に残る東塔の跡と本堂(奈良市)
この間、孝謙上皇は譲位先の淳仁天皇を廃して、出家したまま764年に再び即位する。重祚(ちょうそ)後は称徳天皇となり、西大寺創建に着手するなど仏教に重点を置いた政治を進める。理想政治の補佐役に登用されたのが道鏡だった。天皇に準ずる待遇が約束された。
栄華極め失脚
道鏡の前歴は、はっきりしない。葛城山で苦行を重ね、呪験力を身につけたという。その後仏門に入り、法相宗の高僧・義淵に学び、東大寺初代別当・良弁の使いをしたという記録もある。サンスクリット(梵語(ぼんご))を独学で修めるなど、努力家でもあったようだ。
ただ、称徳天皇の寵愛(ちょうあい)を一身に集め、高位高官の廷臣らの拝賀も受けるほどになると、道鏡を見る視線は日に日に厳しくなった。頂点に達したのが、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の神託事件だった。
「道鏡を皇位につかせれば天下太平になるだろう」との託宣がもたらされた。この真偽をたしかめに、和気清麻呂が派遣されたが、清麻呂が持ち帰ったのは「天皇の跡継ぎには必ず皇族を立てよ」という託宣だった。これを受けて道鏡はあえなく失脚。770年に称徳天皇が亡くなると、下野国(栃木県)に配流され、2年後に生涯を終える。
「皇位に臣下がつくことはない」「天皇が即位したら日を置かず皇太子を決める」という大原則は、この事件を起点に根を下ろしていく。「皇位継承を巡って1世紀近く相次いだ内紛や粛清に終止符が打たれ、次の時代を地ならしした。そこに道鏡の意義があるのでは」(瀧浪氏)
「道鏡像を奉納していただくのは、敵も味方も分け隔てなく処遇する仏教の理念『怨親(おんしん)平等』にもかなう。悪評を拭うきっかけになれば」(佐伯氏)。新坐像は孝謙上皇が発願した西大寺の聚宝館で25日から11月15日まで公開される。
(編集委員 岡松卓也)
https://sky.ap.teacup.com/c_hitorigoto/1270.html 【下野国(栃木県)に残る
孝謙天皇(女性天皇)の伝説】より
右側のこんもりとした木々に囲まれた場所が『 孝謙天皇神社 』、 左側のコンクリートの建物は、黒川紀章設計の『 石橋中学校 』
今から 約1200年前の話です。 在位 749年(奈良時代)、 第46代 孝謙天皇 は、天武系からの最後の天皇です。 近年、愛子様のご即位問題として憲法改正論議にもなっていますが、 孝謙天皇は、史上6人目の女性天皇です。
1200年前の北関東(栃木)は、朝廷 と 蝦夷と勢力の境界点だたったようで、軍事上も重要な場所だったよです。 この辺りには 数多くの古墳も点在しています。 下野国分寺(現在の下野市)も置かれていた要所でした。
孝謙天皇は、謎の多い、不思議な女性天皇です。『 続日本紀 』によると奈良で没したことになっているそうですが、(そもそも、近年のお隣の国を見ても分かるように、都合の良いように過去の歴史まで書き換えたり、ねつ造?されてきたことも普通だったと思います)、真実はだれもわかりません。
当時の朝廷の権力の及ぶ 北の最果ての下野の国に 孝謙天皇にまつわる伝説が残されています。
『 道鏡 が下野国薬師寺別当を命ぜられて下向した後、孝謙天皇が道鏡を追ってこの地に来て、そして病を得て、都に戻ることなくこの地で病没した。。。と在ります。 篠姫・笹姫という女官が女帝の御陵から分骨して、この地に在った西光寺に安置した。 寺が廃寺に成った後、村人達がここを孝謙天皇神社として祀ったこと、二人の女官の墓と思しき篠塚・笹塚は戦前迄は保存されて居た。 』
拝殿奥にある 『 孝謙天皇 』と彫られた石碑。 道鏡を追って孝謙天皇が果たして本当にこの地に来て生涯を終えたのでしょうか。。。 現代の失楽園?並みの話で、天皇家の歴史上でも大騒動で、事実であっても決して認めるわけにはいきません。 ただ、時の天皇が都を離れるということはそれ相当の大変なこと。 今でものどかな田舎の地に 本当に 孝謙天皇が来たのかということに疑問も残ります。
ひょっとすると、配流された道鏡に、都の孝謙天皇から遣わされた篠姫・笹姫の話を耳にした民衆が口伝で語り継ぐうちに、いつも間にかこのような伝説に変わってしまったのではないか。。。 でも、ひょっとすると、たまたま配流された道鏡を見舞ってお忍びでやってきた孝謙天皇が、偶然この地で病にかかり、養生をしてから戻るはずが、亡くなってしまった。。。のかもしれません。 配流した道鏡に会いにいっていたことが知れれば朝廷の一大事、事実であっても決して認めるわけにはいかないのも事実です。
『続日本紀』などの正史では全く触れられて無いばかりか、正史に矛盾することが、こうして全く予期せぬ地方で語り継がれて居ること ~ なんか 本当におもしろいなぁ~と感じます。 歴史のロマン。 真実は。。。
詳しくは → 孝謙女帝伝説
孝謙天皇神社の 隣にある 『 石橋中学校 』 黒川紀章氏による設計。 のどかな田園地帯に突如として出現する 異様なコンクリートの塊の未来的な建築物に 驚きます。 土地代は別として 多分 中学校としては 坪単価は、日本一高価な 中学校ではないでしょうか。 だって、35億7千9百万円 ですよ! 畑のど真ん中には ちょっと不似合いでしょう~
http://arc-no.com/arc/tochigi/tochigi-isibasicyu.htm
下野の国に配流された道鏡は、この地で没することになります。 道鏡は、長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に流されている。(続日本紀) 道鏡の最後は、庶人として葬られたそうです。 龍興寺(栃木県下野市)の境内に道鏡の墓と伝えられる塚があるので、 今度時間を見つけて訪ねて見たいと思います。
ほんと、 中央(=奈良平城京)の権力闘争の影響がこんなに懸け離れた地に伝説という形で残されて居ることに不思議を感じます。 同感です。
◆NHK「その時歴史が動いた」番組で東大寺大仏を創建した聖武天皇ー考謙天皇(称徳女帝)および弓削道鏡の歴史が放映され、最後に石橋の考謙天皇神社と薬師寺近くの「龍興寺」にある弓削道鏡の墓が紹介されました。
http://www.asahi-net.or.jp/~YM8H-OGW/index-top-6.htm
PS. 孝謙天皇神社には、遺骨の納められた五輪小塔が御神体として祀られています。(五輪小塔は現在、別な場所に大事に保管されていて、毎年例祭(孝謙天皇の命日である8月4日(月遅れの9月4日))の際に拝む事が出来るそうです。 孝謙天皇神社は、代々5つの家の方々交代で大切に守られています。 孝謙天皇を看取った女官の子孫と伝えられています。
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