五島藩

https://tabinaga.jp/column/view.php?category=2&hid=20140226200342&offset=2 【五島藩】より

五島列島地図1五島藩(福江藩)は、1603年(慶長8)に五島玄雅(ごとう はるまさ)が徳川家康に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まります。1869年(明治2)の版籍奉還まで、長崎県の五島列島(小値賀島を除く)を五島氏が治めました。

五島藩を知るには、五島氏の歴史を知る必要があります。ちょっとさかのぼって鎌倉時代の五島列島から見ていきましょう!

宇久氏

五島列島地図2五島列島の上に位置する「宇久島」。この島には、鎌倉時代、宇久氏がいました。当時宇久島の南にある「小値賀島」では松浦氏と藤原氏が争っていましたが、宇久氏が徐々に南下し、中通島へ勢力を広げていきました。1383年(永徳3)頃、宇久覚(さとる)は、宇久島から福江島の鬼宿(現在の岐宿:きしく)に移り、福江島の在地勢力との間で契諾状を交わし、平和的に領土を拡大していきます。1388年(嘉慶2)には宇久勝(すぐる)が岐宿から深江(現在の福江)に移り辰ノ口城を築き、1413年(応永20)には小値賀島を除く五島列島を統一したといいます。

玉之浦納(たまのうらおさむ)の乱、宇久氏から五島氏へ

1507年(永正4)、宇久囲(かこむ)が、妹婿の玉之浦納の反逆によって命を落とし、辰ノ口城は焼失しました。妻子はなんとか平戸に逃れ、その後1521年(大永元)に囲の子・三郎(のちの宇久盛定)が玉之浦納を討ち、再興を果たします。

1526年(大永6)、領主となった盛定は、あらたに深江(福江)川河口の丘に江川城を築き、近くには中国人倭冦の頭・王直(おうちょく)に「唐人町」を開かせたといいます。福江川付近には、唐人町の名残りとして「明人堂」や「六角井戸」が史跡として今も残っています。

1592年(文禄元)には、宇久純玄(すみはる)が、姓を「宇久」から「五島」に改めました。豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原の戦いなどを得て、五島玄雅(はるまさ)が五島藩初代藩主となり、世の中の動きに翻弄されつつもその歴史を刻んでいきます。

明人堂 六角井戸

五島におけるキリスト教

宇久盛定の後継・純定(すみさだ)は病に伏し、1562年(永禄5)、イエズス会に要請して派遣されてきた日本人医師ディエゴの治療を受けました。その後、純定はシャム(タイ)から五島経由で平戸に入るポルトガル船に宣教師派遣を頼み、1566年(永禄9)にポルトガル人修道士アルメイダと日本人修道士ロレンソを迎え入れたといわれています。医師でもあったアルメイダは純定の高熱の治療をおこなって信頼を得ると、五島での宣教を許されました。こうして五島におけるキリスト教の歩みが始まります。

その後信徒の数は増え、純定の次男・純尭(すみたか)は洗礼を受け、1576年(天正4)に領主となると熱心に信仰しました。福江や奥浦(おくうら)、六方(むかた)に教会が建ち、信徒は2000人を越え最盛期を迎えます。

しかし、純尭がわずか3年で没すると、後継の純玄(すみはる:純定の孫)は、キリスト教を排斥しました。純玄が朝鮮出兵で死亡すると、純定の三男でキリシタンの五島玄雅(はるまさ)が跡を継ぎ、いったんはキリスト教も再興しますが、関ヶ原の戦い後、加藤清正らの勧めによって棄教しました。その後も宣教師たちは来島していましたが、1614年(慶長18)に発令された徳川幕府の禁教令を受け、後継の五島盛利は宣教師を追放し、弾圧を強化しました。

福江直り

五島藩の2代藩主・五島盛利(もりとし)は、初代藩主・玄雅(はるまさ)の養子として跡を継ぎます。1619年(元和5)に玄雅の息子・角右衛門の養子であった大浜主水(おおはまもんど)が、後継者としての権利を主張するとともに盛利の失政を幕府に直訴しました【大浜主水事件】。この事件を機に、五島藩は藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いていきます。兵農分離を徹底し、全島から家臣たちを集めて福江城下へ移住することを強制しました。島の各地で勢力をたくわえる者がでないようとおこなわれた城下定住の政策は、「福江直り(ふくえなおり)」とよばれ、1634年(寛永11)に完了します。また、領内の検地を実施し、家臣たちの知行高を決定して、藩財政の立て直しもおこないました。

「三年奉公」制度

五島盛利の時代までは、朝鮮半島に歳約船2艘を送るなど、海外貿易で利益を得ており、財政は比較的豊かであったといいます。しかし1614年(慶長19)、五島藩の自由貿易港である江川口と唐船之浦(とうせんのうら)の二港が閉鎖されると藩財政はひっ迫してきました。

さらに4代藩主・五島盛勝(もりかつ)の時代には叔父・盛清(もりきよ)が3,000石を持って富江に分知し、五島藩から分かれたことも経済的に大打撃を受けました。捕鯨で一時は潤ったものの、捕鯨の衰退や異国船に対する沿岸防備役として課せられた軍役負担、異国船漂着時の取り調べや長崎への曳航費用の負担、1681年(天和元)から寛保、宝暦と続いた飢饉などによって、財政はどんどん苦しくなりました。

財政の立て直しを図るため、質素倹約に努め、知行の一部を返上させたり役人の数を減らしたりもしましたが、それでも足りず、1761年(宝暦11)、7代藩主・盛道(もりみち)のとき、五島史上悪政のひとつといわれる「三年奉公(ぼうこう)」が実施されました。

富江陣屋跡

五島盛清は、富江小学校の運動場あたりに富江陣屋を築いたといいます。

三年奉公は、百姓、町人の娘が2度離別されると、武家屋敷で3年間の無報酬奉公をさせるというもの。しかし2年後には、百姓、町人、職人、漁師の長女を除く娘たちはすべて、15、6歳になると家中奉公をさせられるようになり、半奴隷的な労働を課せられたといいます。そのうえ無調法があれば、結婚することに対してまで制裁がなされていたといいます。驚くことにこの制度は、明治初期まで約100年間続きました。

五島観光歴史資料館

五島におけるキリシタン関連の資料が揃っています。

1774年(安永4)、五島藩では人別改めがおこなわれました。その結果、百姓が激減していることがわかり、1792年(寛政9)、8代藩主・五島盛運(もりゆき)は大村藩に農民移住を要請しました。第一陣は福江島の六方(むかた)に108人が上陸、最終的には3,000人ほどが海を渡って、宇久島を除く五島列島各地に分散して移住したといいます。この移住者のほとんどが西彼半島(せいひはんとう)西側の外海(そとめ)の人々で、信仰保持の苦難に悩んでいたキリシタンでした。移住者たちは荒地を開墾しながら小さな集落をつくり、帳方・水方などの組織のもと、ひそかにキリスト教の教えを守り続け、その信仰を貫いていきました。

五島藩校・育英館

五島藩の教育は、8代藩主・五島盛運(もりゆき)の時に始まりました。盛運は江戸藩邸に居た当時、儒者・永富独嘯庵(どくしょうあん)に付いて儒学を学びました。盛運は、石田陣屋(のちの石田城)内の一角に藩校・至善堂を創設し、1780年(安永9)には独嘯庵の子・数馬を教授として福江に招きました。1783年(天明3)、全藩士に文武両道を奨励し、盛運自らも出席していたといいます。

1821年(文政4)、9代藩主・五島盛繁(もりしげ)のとき、城下東町に新たに校舎と演武場が建てられ、藩校は発展していきます。名称も至善堂から育英館と改められました。

1849年(嘉永2)には10代藩主・五島盛成(もりあきら)が新たに石田城を築いたため、城内北部に藩校を移しました。

育英館では漢字の修学が重視されました。和学、兵学、そして幕末期には算術も加えられました。生徒の主体は藩士の子弟で、7~8歳になると入学させられました。足軽などの子弟は各自の意思により入学ができました。農工商の子弟は、ほとんど入学することはありませんでしたが、特に希望する者は入学が許可され、優秀であればその身一代のあいだ藩士として挙用し、米なども若干支給されたといいます。

次回の「歴史発見!長崎幕末編」五島藩の2回目では、富江領と幕末に起こった「富江騒動」、「信徒発見後のキリシタン」を中心に紹介していきます。

参考資料

旅する長崎学13 海の道III『五島列島 万葉と祈りの道』

「郷土史事典」(長崎県/石田 保著 昌平社出版)

「海鳴りの五島史」(郡家真一著 佐藤今朝夫発行)

歴史散策「石田城(福江城)跡周辺」

五島列島には、多くの異国船の接近や漂着がありました。長崎港での貿易を許されていたオランダと中国の船はもちろんのこと、イギリスやロシア、さらには朝鮮の船など多くの外国船の記録が残されています。五島藩は幕府から異国船方を命じられていましたが、1614年(慶長19)に江川城が焼失した後、本丸・天守閣などがない石田陣屋を築いただけでした。異国警備にあたる五島藩としては心もとなく、再三にわたり幕府に築城の許可を願いでていましたがなかなか許されませんでした。

寛政年間から幕末にかけて、ロシア、アメリカ、イギリスなどの列強国が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫るようになります。さらに1808年(文化5)には、イギリス軍艦が長崎港に侵入し、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するというフェートン号事件が起きました。こうした情勢により、幕府は1849年(嘉永2)、五島藩に築城許可を与えました。石田城は、日本で最後に築城された城となりました。

石田城(福江城)跡

15年の歳月をかけて、三方を海に囲まれた海城・石田城は完成しました。しかしながら、日本はその後すぐに明治維新を迎え、石田城はわずか築城9年にして解体されてしまいます。現在は、本丸跡に県立五島高等学校、二の丸跡には五島家の祖を祀る城山神社をはじめ、文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館が建ち並んでいます。

五島氏庭園・心字が池

石田城完成間近に五島盛成が隠殿と庭園を造りました。庭園を造ったのは京都の僧・全正(ぜんしょう)といわれています。

本丸跡

石田城の本丸跡には、現在五島高校があります。

城山神社

五島家の氏神を祀っている神社です。

武家屋敷通り

石田城から歩いて10分ほどのところに武家屋敷通りがあります。2代藩主・五島盛利が中央集権体制をめざして各地に散在していた豪族や藩士を福江に住まわせた政策、「福江直り」の時につくられました。通りには市の文化財に指定されている松園邸と播磨邸跡があります。城下町の風情が漂い、観光スポットして多くの人々が訪れます。

常灯鼻

福江港から見えるところに常灯鼻があります。五島盛成が石田城を築城するにあたり、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするために築かせたといわれています。防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていました。

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