http://kamigoto.org/town/kamigoto.html 【上五島町】 より
沿革
五島列島においては、先住民が南方の島々から黒潮によって漂着したものと思われ、また、アジア大陸と陸続きであった頃から人類が住んでいたとも言われています。
石器時代、縄文、弥生時代の遺跡が町内各地で発見されています。五島列島はもっとも古い記録として、古事記と肥前風土記に五島の成立、史話等が登場しています。
平安時代から清原氏が治めていた旧青方町は、建久7年(1196)青方氏の祖に当たる藤原尋覚が地頭職に任命され、その後青方氏がこの地を治めてきました。
旧藩時代、明暦元年(1655)富江藩分地後は富江藩となり榎津代官所の管轄であったが、明治2年福江藩知事の治下となり、同4年の廃藩置県に伴い長崎県27大区第3小区に編入され、同11年郡区町村制により南松浦郡に属し戸長役所を設けました。その間に曽根郷を北魚目村に編入しております。
旧浜ノ浦村は、旧藩時代は平戸藩に属し続に代官所を設け、明治5年長崎県84区に属しました。 同6年政府の旧町村合併方針に従い長崎県27大区第5小区の若
松村に編入、同12年南松浦郡役所の所轄となり若松北部戸長役所を設け、同18年
浜ノ浦に分村、同22年村制を実施しました。 昭和31年6月1日町村合併促進法
により、旧青方町と旧浜ノ浦村の2ヶ町村が合併して新しく上五島町として町制を施
行し現在に至っています。
https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=2246 【肥前風土記】より
■所在地佐賀市大和町
■年代古代
■登録ID2246
前代すでに漢字漢文がわが国に伝来し幾らかの文献ができたが、わが郷土に関する記録は極めて少なく、わずかに肥前風土記があるだけである。
風土記は元明天皇和銅6年(713)諸国に命じてその国名、郡名、郷名、またその郡内に生産する銀銅、彩色、草木禽獣魚虫等の種類名称をくわしく記録し、又その地方の古老が昔から言いつぎ語りついできた古い伝承や変わった事蹟等を集め整理して、これをまとめた書冊にして奉れといっている。当時、62国2島のものが編さんされたはずだが今日まとまって現存するものは、肥前風土記、豊後風土記、常陸風土記、播磨風土記、出雲風土記の5つだけである。このような現状の中で肥前風土記が現在に伝わっていることは非常に貴重なことで、古代における肥前国を知る上に大きな役割を果たしている。この肥前風土記の中から佐賀郡に関係した所をあげてみよう。
佐嘉郡郷六所 里十九 駅一所 寺一所。
昔者、樟の木一株、此の村に生ひたり。幹と技秀高く、茎も繁茂れり。朝日の影には杵島郡の蒲川山を蔽ひ、暮日の影には養父郡の草横山を蔽へり、日本武尊の巡幸したまいし時、樟の茂りたるを御覧して日りたまわく、此の国は栄国と謂うべしと曰りたまいき。因りて栄郡(さかえのこおり)と曰う。後に改めて佐嘉郡と号う。一は云う。郡の西に川あり。名を佐嘉川と曰う。年魚あり。其の源は北の山より出で、南に流れて海に入る。山の川上に荒ぶる神有り。往来の人、半ば生き半殺にき。ここに県主らが祖大荒田、占問いき。時に土蜘妹の大山田女、狭山田女といふものあり。二の女子の云へらく、下田村の土を取りて、人形、馬形を作りて此の神を祭祀らば、必ず応へ和むことあらむとまをしき、即ちそのことばのままに、此の神を祭りしに、神此の祭を受けて、ついに応へ和みき。ここに大荒田云へらく、此の婦はかく実に賢しき女なり。故れ賢女を以て国の名と為むと欲うといいて、因りて賢女郡(さかしめのごおり)と日う。今佐嘉郡と謂うは訛れるなり。
(註) 此の村=鍋島町ではないか。蒲川山=江北町佐留志の堤尾山か。草横山=中原の綾部山を草山といいその辺りを横山という(肥前旧事より)
大山田女、狭山田女は東山田又は西山田に関係があろう。下田=梅野下田
このように、佐嘉郡の名称といわれをそれぞれ二説で表わしている。肥前国における原始時代、大化前代の神々については風土記によって幾らか伺い知る事が出来る。往来の旅人を多く殺したという伝承が見えるが、県主の先祖大荒田が土蜘妹の大山田女、狭山田女という巫女(神のお告げをする女)に占わせて神意を聞き、「いけにえ」の代りに人形、馬形を造って祀りしずめている。このような荒ぶる神は当時の世の乱れを表わすもので、大和朝廷の統一が進むに従って交通路も新しく開かれ、交易、貢納のため旅人の往来も安全になり、従来のとざされた地方神が屈服して行く有様を物語ったものであろう。風土記はその内容に郷里制が見られるところから、郷里制が施行されていた霊亀元年(715)天平11、2年(739-740)までの間に作られたものであろう。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282030 【三井楽(みみらくのしま) みいらく(みみらくのしま)】より
五島列島の福(ふく)江島(えじま)の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島には,新生代新成紀(第三紀)の終末期頃に楯状(たてじょう)火山の京(きょう)ノ(の)岳(たけ)(標高182m)から噴出した溶岩流が放射状に広がり,緩やかな傾斜面から成る円形の溶岩台地を形成している。
特に,台地の縁辺部には樹木の叢生(そうせい)しない平明な草地が広がり,波打ち際に沿って大小多様な固い黒褐色の玄武岩質(げんぶがんしつ)の溶岩(ようがん)礫(れき)が露出するなど,風光明媚な海浜及び海域の風致景観が展開する。かつて草地では牛馬の放牧が行われ,牧場(まきば)としての管理が行われていたが,現在では海岸砂丘の周辺に落葉低木及び海浜性草本などが散在している。
三井楽の地は,遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり,東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前(ひぜんの)国(くに)風土記(ふどき)』には「美禰(みね)良(ら)久(く)之(の)埼(さき)」と記し,遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河(がわ)」などのゆかりの場所が残されている。10世紀の『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』では「亡き人に逢える島―みみらくのしま―」として紹介され,後代には異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として広く歌枕となった。その風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
https://ojikajima.jp/yurai 【小値賀について】より
小値賀について 小値賀の由来
ojikanamae「肥前国風土記」によると、その昔、景行天皇が志式嶋(しじきじま)(平戸市志々伎)の行宮にお見えになった折、西の海をご覧になり、「遠くにあるが近くに見えるので近島(ちかしま)(値賀島)とよぶようになったと伝えられています。第一の島を小近(おちか)(小値賀島周辺)といい、第二の島を大近(おおぢか)(中通島、または中通島およびそれ以南の島)とよんだと伝えられており、現在では小値賀島が当時の名を引き継いでいます。 古事記では五島列島全体を指して、「知訶島(ちかのしま)」と呼ばれています。
nadanadat大小17の島々からなる小値賀諸島は、はるか太古の昔、火山の噴火によって形成された火山群島です。島内の高台に上れば、数多くの島々を望む事が出来ます。五島列島の切り立った山々が連なる地形に比べ海底火山の溶岩が流れて作り出したなだらかな小値賀島の地形は比較的平坦なため古代から人々が住む事が出来たとも言われています。遺跡から出土した遺物によって小値賀の人類の歴史は、約2万5000年前後期旧石器時代にはじまったと言われています。豊富な海の幸はもちろん、なだらかな赤土の大地に恵まれた小値賀。稲作をはじめ様々な作物を作ることができる風土の中で島民たちは自然を敬い自然と共に暮らしてきました。
kujiumitかつて海が主要な「道」であった時代。小値賀はアジアの交通の要衝として栄えました。遣唐使の時代から、大陸と日本を繋ぐ航路上にあり往来に欠く事の出来ない重要な寄港地でした。小値賀島前方湾では、船の停泊の為の碇石が博多湾に次いで多く発見されています。近年は捕鯨、鮑漁等豊かな漁場で栄えた町としてそれぞれの時代で反映を築いてきました。長い歴史の中で、海を介して様々な国や地域の人々と出会い時代を生き抜いて来た小値賀島。よそものを受け入れる、おおらかさやあたたかさ
その一方で、世の中に流されることなく、自分たちの暮らしにとって大切なものを見極める、芯の通った生き方やバランス感覚は、島の歩んできた道のりが大きく関係していると思わずにはいられません。
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