https://tabi-mag.jp/ns0268/ 【城山神社(福江城)】より
長崎県五島市池田町にある幕末に築かれた福江藩(五島藩)の城が福江城(石田城)。二の丸跡に鎮座するのが城山神社で、その宮司を務めるのは第35代五島家当主・五島典昭さんで、実は福江城(石田城)は、日本で唯一の個人所有の城なのです。
第35代五島家当主・五島典昭さんが宮司
城山神社(福江城)
寛永14年(1637年)、江戸幕府は福江藩(五島藩)に異国船方(異国船に対する沿岸防備役)を命じ、福江藩は番岳、奈留島・遠見番山、嵯峨ノ島(日本最西端の遠見番所)など領内の7ヶ所に遠見番所を設置。
常時馬廻役1名、足軽2名の見張り番を置いていました。
幕末になって、異国船の来航が増加すると、福江藩(五島藩)は、福江城を築いて藩庁を石田陣屋から福江城に移すことを考え、江戸幕府のを裁可を受け、文久2年(1863年)、第11代藩主・五島盛徳(ごとうもりのり)の代に完成しています。
つまり、幕末に日本最後の城として完成したのが福江城(石田城)です。
築城を幕府に申請した五島家30代当主・五島盛成(ごとうもりあきら)の隠居所として二の丸に建てられた五島邸、その庭園である五島氏庭園(国の名勝)が現存。
同じ二の丸跡、五島市立図書館近くにあるのが、城山神社です。
主祭神は保食神 (うけもちのかみ)ですが、五島氏のルーツとされる宇久次郎家盛(平家盛)、五島氏初代の五島純玄(ごとうすみはる)、そして元寇で活躍した宇久競(うくきおい)を合祀しています。
平家盛(たいらのいえもり)は、壇ノ浦の戦いの後、平家残党の追討を逃れて宇久島に移り住み、宇久次郎家盛と名乗って宇久氏の祖となったという伝承があります。
永徳3年(1383年) 、9代・宇久覚(うくさとる)の時代に、高麗(朝鮮)との対外貿易を積極的に展開できるようにと、五島列島の主島である福江島に本拠を移し、五島を名乗ったことから、平家盛が五島氏の祖とされているのです。
城山神社は、9代・宇久覚が始祖・宇久次郎家盛(平家盛)の霊を祀るために建立したことに始まり、29代・五島盛繁(ごとうもりしげ)の代になって、元寇に参加して殊勲のあった宇久競、豊臣秀吉の文禄の役に戦功があった五島純玄を合祀した「勝」にこだわった神社となっています。
城山神社には五島氏の歴史が凝縮し、授与品には城山神社特製の「勝守」があります。
https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1058670037.html 【城山神社 長崎県五島市下大津町】より
平清盛の異母弟が宇久五島氏の始祖に、裔の五島純玄とともに奉斎
城山神社(長崎県五島市下大津町716-1)
[住所]長崎県五島市下大津町716-1
[電話]0959-72-3815
城山神社(しろやまじんじゃ)は、長崎県五島市下大津町にある神社。御祭神は、主祭神が保食神、合祀神が五島純玄・宇久次郎家盛。近代社格では県社。御朱印の有無は不明。
長崎県佐世保市宇久町(宇久島)で宇久五島氏の始祖となったとされる宇久次郎家盛(平家盛)、および子孫であり五島氏初代の五島純玄を祀っている。
平家盛は平清盛の異母弟にあたり、久安5年(1149年)の死没。壇ノ浦の戦い(1185年)の後に当地に赴いたというには年代に齟齬が出るが、平家落人伝承として根強い。
五島純玄は、朝鮮出兵の際、小西行長のもとで活躍した。当社は以前まで城山宮と呼ばれ、五島領内の衣食住を司る神として崇敬された。例祭は10月15日。
五島観光歴史資料館、福江文化会館とともに、石田城(福江城)二の丸跡地に建立されている。
境内社として、若宮稲荷神社がある。江戸時代の寛永2年(1750年)に、旧酒屋町角屋敷にて創建されたが、文化年間(1804年-1818年)に城代家老松尾氏の屋敷内に遷座。
その後、明治になり、当社境内に再移転したという。
【ご利益】
家内安全、一族・子孫繁栄
https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/11027999 【城山神社】より
五島氏の先祖、宇久次郎家盛が祀られています
城山神社は、福江城跡の一角、五島観光歴史資料館のそばにある神社です。福江藩主、五島氏の祖先は平清盛異母弟、平家盛。源平の乱を逃れ、宇久島に移り、宇久次郎家盛と名乗りました。その後、宇久氏は五島列島を統一し、福江に移ってきました。
神社は、その家盛と、その後、朝鮮役で出陣した純玄が祀られています。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E3%83%BB%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE 【肥前・城山神社】より
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年10月7日 (日)
城山神社(しろやま・じんじゃ)は長崎県五島市福江町(肥前国松浦郡)にある霊社。祭神は保食神・宇久家盛・宇久競・五島純玄。領主奉斎神社。県社。城山宮。(参考:同名神社城山神社)
歴史
1381年(弘和1年/永徳1年)、宇久覚が宇久家盛の神霊を曹洞宗東光寺(佐世保市宇久町)内に祀り、稲荷社を合祀して城山宮と称した。 1824年(文政7年)、五島盛繁が福江島の福江城内に遷座造営。1919年(大正8年)、現在地に遷座。1920年(大正9年) 県社。 (日本歴史地名大系ほか)
カテゴリ: 長崎県
http://fwdnet.web.fc2.com/jin/shiro.html 【城山神社(五島市)】より
下五島の海の玄関、福江の大波止ターミナルから真っ直ぐ市街に入り文化会館の案内に沿って入る。
五島福江市のシンボル石田城内に鎮座する城山神社です。明治までは城山宮と呼ばれていた。
一見、鹿島鳥居のようだが、楔はなく肥前鳥居のようだが、笠木と鳥木の区別がない。すっきりとした、いい鳥居だ。
扁額の無い額束だけの二の鳥居も一の鳥居と同形式。長崎県の本土でよく見る二段の柱でもない。やはり南松浦のエリアだから、多少違うのか、この地域の特徴か、時間の取れるときにゆっくり廻ってみたい。
社殿は妻切の平入りだが、大きく庇が出ていて大きな千木とも相まって力強い。
祭神:保食神(うけもちのかみ)
旧藩時代からの五島領内の衣食住を司る神として崇敬されているとある。
平清盛異母弟、平家盛が源平の乱をさけて宇久島に移り(1187年)、領主となり宇久次郎家盛と改称。(五島家始祖)
この家盛公と、宇久姓を五島姓に改め総勢700名で朝鮮役(1592年)へ出陣、小西行長の元で活躍した純玄公。この二柱が相殿に祀られている。
上の赤い社は境内に祭られている若宮稲荷神社。寛永2(1750)年創建で旧酒屋町角屋敷に建立されていたが、商人の信仰厚く文化年間(1800年代)に城代家老松尾氏の屋敷内に遷ったが明治に再移転したという。
<メモ>
持統天皇9(695)年、創建の五社神社が大津にあって福江勤務時代は、よく遊びに行ったが今回は時間が無くて残念。
https://ameblo.jp/miiraku-gotou/entry-12104113925.html 【[五島列島・合併前の市町「郷土誌」復習編]】より
【城山神社管轄】
城山神社
鎮座所・福江市福江町214
祭神・保食神、宇久家盛、宇久競、五島純玄 末社神・なし 例祭日・10月15日
福江城の一角にある城山神社は、第8代宇久覺が五島家始祖家盛の霊を祀るため永徳元年(1381)宇久島の東光寺の境内に一字を建立し、城山宮と崇敬したことに始まる。
その後、第29代五島盛繁は宇久島は遠隔で崇祭に不便であるのを遺憾とし文政7年
(1824)11月に宇久島より宮を福江に移した。しかし社宮は山崎の地に造営中であったため、ひとまず大円寺に安置し、翌文政8年(1825)正月19日城山宮の御普請成就をまって
遷宮式を正月23日に執り行った。明治20年(1887)10月30日には第30代五島盛成が、5代宇久競と20代五島純玄の霊を併祀して大正9年3月31日社列格し、城山三柱大神と崇敬し奉ることとなった。保食神は宮中八神殿に祀られ、食物・生活を守る神として尊崇される神である。家盛は五島家の始祖で五島開発の祖でもあり、競は弘安の役に殊勲あり、大正5年特旨をもって正五位を贈られた。純玄は文禄年間(1592~5)文禄の役に出陣し戦功あったが陣中で病没したものである。城山神社が大津の山崎から現在地に移されたのは大正8年6月である。大正9年3月31日県社に列され、同年6月1日神饌幣帛供進神社に指定された。現在の社殿は昭和54年10月14日に改築遷座された。同境内の稲荷神社は宝暦年間(1751~63)酒屋町を中心とした商人によって酒屋町角の屋敷に建立され、その後、文化年間(1804~18)に城代松尾家の屋敷に移され、さらに現在地に移築されたものである。
大浜神社
鎮座所・福江市浜町字権現坂181
祭神・素戔鳴神、稲田姫神、八王子神、伊弉冉神、天手力男神 末社神・八坂神社
例祭日・10月14日
この神社は、もと熊野神社と、もと小泊にあった塩津神社とが併祀されて大浜神社と改称されたものである。熊野神社は明応4年(1495)春、紀州熊野から山伏姿の修験者森源覚が御神体(霊代)を負櫃にいただいてきたのに由来する。当時の大浜領主大浜主水政重はじめ村民こぞって大浜全村の産土神と崇敬し、源覚を神主として招請し、大浜の中央の阿瀬津に社殿を建立して熊野権現と称していたが、その後境内が狭くなったので現在の権現坂に遷座した。その後延宝7年(1679)五島藩主の祈願社となり、拝殿の造営はもちろん、祭祀料のほか社領17石の永代御判付き寄進があり、毎年例祭には代参が臨席した。塩津神社は、もと宇久平梅の木村に延喜19年(919)に創建された神社であるが、大浜の烏山好右衛門が安貞元年(1227)9月、小泊の塩津へ奉遷したもので、当時は乙宮大明神と称したという。慶長元年(1596)第21代五島玄雅より66石の社領の供進があり、拝殿造営もされ藩主累代の崇敬も厚かった。明治4年7月村社に列せられ、大正12年7月2日神饌幣帛供進神社に指定された。昭和28年熊野神社内に遷座し同神社と共に祀られていたが、昭和63年改めて熊野塩津両神社合祀合併の決議が氏子によってなされ、平成3年10月に長崎県知事の認証を得て同年12月17日「大浜神社」として登記し発足した。
水神社
鎮座所・増田町字増田379
城山神社は、記憶にある神社ばい。何故ならば・・・(●´ω`●)ゞ
境内の中心に立ち、前方にはやや登り坂道、右斜め前には女子寮、
左側には木造二階建ての市営アパート、後方はホテル翆扇閣があった。
右側の細い道を抜けると五島バス発着場、福江島バス路線の中心であったと。
なぜかこの歌が、いつまでも脳裏に残っているσ(^_^;)
♫~神聖女子寮の門前に 片手に花束眼に涙だ 会わせて下さい舎監さま~
おぃ~ら五高愚連隊 あぁ恋しき我がこころ~♫。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
友人曰く「バカが!そんな歌ば覚えんと、英単の一つでも覚えたら良かとに」(-。-;)
byー昭和のおじさん
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