多くの伝統で魂は鳥として描かれています

Facebook清水 友邦さん投稿記事「仮面」

古代の人々は自然の神秘に心を開いていました。

風、雨、雷の自然現象から炎や水、岩や動植物の全てのものが人と同じように生きており、その根源のエネルギーを神や精霊と呼んだのです。

どの部族にも精霊と交流するシャーマンがいました。

魂の病が起きるとシャーマンは歌や踊りの儀式で生命エネルギーを呼び覚まして魂の危機を克服します。

そのイニシエーションでは苦痛に満ちた自分の死を目撃します。

その苦痛の中で日常的思考から離れた意識の変容を経過することで霊的世界と交流したのです。

縄文時代はイニシエーションとして刺青や抜歯が行われていました。

鼻が曲がった縄文土面は苦痛の象徴だと言われています。

縄文の仮面は顔につけられるように紐を通す穴が開けられていました。

仮面をつけて踊り唄うことが出来たのです。

奇怪な表情をした仮面と同化して精霊の世界に入ったのです。

アメリカ・インディアンの呪医は次のように語っています。

「真実は二つの顔をもってこの世にやってくる。ひとつは苦痛を感じて悲しんでいる顔、もうひとつは笑っている顔だ。だが、笑っていようと泣いていようと、同じひとつの顔に変わりはない」

先生・生徒の仮面、親・子の仮面、夫・妻の仮面、上司・部下の仮面、虚勢を張った仮面、世間体を気にする仮面、現代人は無数の仮面を持っています。

仮面を自分と思っているので本当の自分がわからなくなっています。

仮面を脱ぎ捨てたつもりでも、その下には別な仮面をすでにつけています。

本来の面目に会えないのです。

隣の席に座った見ず知らずの人と気さくに話をしていた時に誰かにこの人は年商数兆円の会社の社長さんよ言われただけでその人を見る目が違ってしまいます。

誰もが仮面に影響されています。

肩書きに縛られています。

偽りの仮面にエネルギーを浪費しているのです。

自由に生きるためにはこの仮面から解放される必要があります。

もう一度子宮の中に戻り必要な栄養を与えられ再誕生する必要がありました。

それが死と再生の儀式です。

子宮の中で胎盤の癒着、奇形、成長の停止が起きて誕生がうまくいかない比喩が魂の病です。

現代では精神病と呼んでいます。

無意識の海でシャーマンは泳ぎますが精神が病んでいる人は溺れるのです。

多くの伝統で魂は鳥として描かれています。

羽の生えたヘルメスの靴や天使に羽が生えているのはその象徴です。

シャーマンの魂は鳥のように飛び地上世界の境界を越えて天上世界または地下世界へ行ってそこで知恵と力を得て再び戻ってきます。

シャーマンは生と死の世界を自由に飛び回ることができました。

心の中にある無意識のエネルギーを制御できなければ神々は恐ろしい姿で現れ凄まじい破壊を世界にもたらします。

荒ぶる神々が表れる内側の無意識のエネルギーと和解する方法を学ばなければなりません。

儀式という弓で魂は矢となって飛ばされ的に当たります。

普通のシャーマンは先祖の領域までしか飛びませんが、優れた弓の力で飛ばされたヨガ行者の魂はブラフマンという的に当たり矢と的が一体になります。

矢と的が一体になった陰陽和合の言霊がヤマトです。

アメリカインディアンは自然の神秘を偉大なる精霊グレートスピリットと呼びました。

万物が循環する中心にいるグレートスピリットは始まりも終わりもない永遠の存在です。

グレート・スピリットのもとでは主従・上下関係がなく全ての生き物は平等であり、尊敬されるべき存在でした。

「大地は私の体である。

空は私の体である。

四季は私の体である。

大河も私の体である。

世界は私の体と同じ大きさを持ち、私の言葉と同じ広さを持つ。

また、世界は私の祈りと同じ広さを持つ。

四季は私の体、私の言葉、私の祈りと同じ大きさだ。

水も同じである。私の体、私の言葉、私の祈りは大河よりも偉大だ。

私を信じる者、私の言うことに耳を傾ける者は、みな長生きをするだろう。

耳を傾けない者、邪悪な考え方をする者は短命である。

私が単に東、南、西、あるいは北にいるだけだと思ってはならない。

大地は私の体である。私はいる。

私はいたるところにいる。

私が地中や空中だけに、あるいは四季のなかや大河の向こう岸にだけとどまっていると思ってはならない。

いずれも私の体なのである。

(ヒカリヤ・アパッチ族)


http://miuras-tiger.la.coocan.jp/sub2-j.html 【j.「鳥になる魂」】より

三浦 佑之 (MIURA Sukeyuki)

 (『東京新聞』1999年12月3日夕刊「文化」 中日新聞東京本社)

 よく知られた昔話のひとつに「瓜子姫」という話がある。川を流れてきた瓜から生まれた美しい少女の物語である。ふつう、お話の世界では、主人公である少年や少女は冒険や苦難の後に幸せになったと語られる。少年でいえば桃太郎や一寸法師、少女でいえば継子いじめの主人公がその典型である。

 「瓜子姫」の場合も、関東から西の各地で語られている話のほとんどは、アマノジャクという妨害者から受けた苦難を克服して幸せな結婚に至るという、安定した形で語られている。これは、十五世紀頃に書かれた『瓜姫物語』という短編小説においても同様である。ところが、東北地方に伝えられている昔話「瓜子姫」は、成長したとたんに殺され小鳥になってしまうという、いささか不自然な話なのである。多様なバリエーションをもつが、おおよその内容は次のようになる。

   川を流れてきた(畑で収穫した)瓜から美しい少女が誕生し、瓜子姫と

  呼ばれる。ある時、爺婆が外出したすきに、アマノジャク(山姥)が来て

  姫を誘い出して殺し、剥いだ姫の皮をかぶって姫に化ける。帰った爺婆

  に、姫の化身した小鳥が鳴き声でにせ者であることを知らせ、化けていた

  アマノジャクは殺される(逃げる)。

 こうした形で語られる話が、東北地方で採集された話の九割以上を占め、それ以外の地方では、幸せな結婚を語る話がほとんどである(詳しい分布などは、三浦「瓜子姫の死」『東北学』VOL.1、作品社、を参照願いたい)。東日本と西日本とで語り方の違う昔話は他にもあり、東西の文化の違いも含めてさまざまに論じられてきた。

 「瓜子姫」の話で注目されるのは、東北地方とそれ以外の地方とに大きな差異があるということもだが、東北型の話が、何もしないうちに主人公が殺され小鳥になってしまうという展開の奇妙さである。まるで、小鳥になることが少女の運命であるかのように、瓜の中から神の子の少女は誕生し成長する。

 外国で、死者の魂が鳥になるという発想がどの程度普遍的かは知らないが、少なくともわが国においては、古い文献や考古学的な遺物の中に、その痕跡はいくつも見出せる。その代表は、古代の英雄ヤマトタケルであろう。タケルは、西と東とを平定して都へもどる途中で神の怒りにふれて命を落とし、その魂は白い鳥になって飛翔したと語られる。また、『万葉集』には、人の魂が鳥になるという歌が数多く残され、古墳や洞窟などの葬送遺跡からは、鳥を描いた壁画や鳥の形をした木製品や土製品の出土報告も多い(辰巳和弘『風土記の考古学』白水社、参照)。

 昔話にもどれば、小鳥前生譚と呼ばれる一群の話型があり、命半ばにして死ななければならなかった薄幸な少年や少女たちが小鳥になったという話が広く語り伝えられている。それが、ことに東北地方に目立つというのも「瓜子姫」を考える場合に興味深い。

 おそらく、この列島に生きた人々は、古く、幼くして死んだり志半ばで死んだ人の魂は小鳥になるという信仰を持っていたのではなかったか。それは、完結することを阻まれた短い生への哀惜であり恐れであり、それゆえに必要な魂の鎮めであった。それがことに小鳥として観念されるのは、身近に飛び回り、決まった季節に渡り来て去ってゆく鳥に、亡き人を見ようとしたからだと思われる。ちなみに、「瓜子姫」では春を告げるウグイスへの化身が多い。

 東北地方を特殊化することの是非は別にして、死んで鳥に化身する東北型「瓜子姫」が、夭折した魂と響きあう物語であったというのは間違いないだろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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