https://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/126/126-3.html 【(俳句の魅力 その2)】より
前回は、俳句の魅力の1つとして「発見する喜び」についてご紹介をしましたが、今回は 「感動を表現する喜び」、「感動を共有しあう喜び」について掲載します。
いきなりですが、次の3句の内、あなたはどの俳句に感動しますか?
牡丹散りて 打かさなりぬ ニ三片 与謝 蕪村
夜の色に 沈みゆくなり 大牡丹 高野 素十
白牡丹といふといへども 紅ほのか 高浜 虚子
牡丹は、初夏の季語です。花の王といわれる中国渡来の花で白や紅など大輪の花を咲かせます、花の姿は華麗で、寺社の庭園などで観賞用に栽培されており、奈良の長谷寺は、牡丹の寺として有名です。
どの句も、牡丹の花の美しさや香りをみごとに詠んでいますが、特に蕪村の句は、画家としての蕪村の眼力と表現力を感じる名句です。
高野素十(すじゅう)は、茨城県出身で水原秋櫻子の勧めで俳句をはじめました。虚子に師事し、客観写生の第一人者と評価されました。水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝とともにホトトギス「四S」として知られています。
感動とは、深くものに感じて心を動かすことですが、俳句は自然のものや、人間とその暮らしに触発された感動を詠い上げる詩です。
俳句をつくる時は、五感である「視覚」、「聴覚」、「嗅覚」、「触覚」、「味覚」を通して表現する豊かな感性が必要だと思います。
芭蕉と同郷の門人であった服部土芳の著わした俳論書である「白さうし」には、芭蕉も「見るに有、聞くに有、作者感ずるや句と成る所はすなわち俳諧の誠なり」「物の見えたるひかり、いまだ心に消えざる中に云ひとむべし」と、物の本質を変化の途中で見つめ、その場の感動を言葉にすることが俳句であるといっています。
俳句をつくる極意はその場の感動を「じゃんけん」のように、パッとつかんで、グっとひきよせ、チョキっと言葉にすることかもしれません。
次の2句の内、どちらにあなたの心が揺らぎますか?
涼風の 曲がりくねって 来たりけり
すず風や 力いっぱい きりぎりす
「涼風」や「風涼し」は、晩夏の季語で、夏の終わり頃に吹く涼しい風のことです。
どちらも小林一茶の句です。
一茶の住んでいる長屋の奥へ、涼しい風は曲がりくねって、ようやくたどり着きました。
夏の終わりに、涼しい風が吹いてきました。その時、きりぎりすが力いっぱい鳴きはじめ秋の気配が漂ってきました。
流れゆく 大根の葉の早さかな 高浜虚子
ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した虚子の代表句です。
この句の発見は、大根の葉の流れの速さであり、感動は、川を流れ行く葉の速さの美しさです。
この写生でいう情景を想像してみてください。この美しさは、虚子が俳句にするまで誰も発見していなかったかもしれません。そしてこの速さを素直に美しいと感じることができたのは、彼の豊かな感性であったことはいうまでもありません。
俳句は感動を表すことを中心とするため、説明はむしろ必要とされない傾向があります。
説明や理屈に限定されず自由に想像することができる感動こそが俳句の面白さでもあります。
蕪村の代表句に次の俳句があります。
夏河を 越すうれしさよ 手に草履 与謝蕪村
蕪村の母の故郷である丹後与謝野町を訪ねた道中に詠んだとされています。
炎天の夏に、裾をあげて冷たい川に素足をつけた時の心地よさが伝わります。
絵画的な俳句がさらに足の涼感も感じることができる感動と感触のある句です。
「うれしさよ」は、感動そのものの言葉ですがこの句では、素直に伝わってきます。
さらに、このうれしさは、母の故郷をたずねる「うれしさ」でもあると思います。
うれしいことも かなしいことも 草しげる 種田山頭火
「あるがまま、雑草として芽をふく」ことを心情とした彼にとっては、「うれしいこと」「かなしいこと」その気持ちのままに生きて行くことが、生きる意味を見いだすことであったのかもしれません。
「感動を共有する喜び」とは、句会などで、同じ俳句仲間と語らう時間は楽しいものです。
漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか) 正岡子規
明治28年、俳句仲間でにぎわう子規庵の情景が目に浮かびます。
新年や 鶯鳴いて ほとゝぎす 正岡子規
この句は「ほとゝぎす」創刊号に掲載され、俳誌の創刊を新年に鳴く鶯に喩えて詠んだものです。
俳句雑誌「ほととぎす」は、正岡子規が提唱する俳句革新を目的として明治30年に、海南新聞にいた友人の柳原極堂の手により松山で刊行されました。「ほととぎす」の名前は、子規を意味しています。明治31年に、東京で高浜虚子が継承し、明治34年には、雑誌名を「ホトヽギス」に変更しました。
夏目漱石が小説『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を発表したことでも知られ、明治期には総合文芸誌として、大正・昭和初期には俳壇の有力誌として読み継がれ、平成25年には通巻1400号となり、現在に至っています。
まさに、俳句を中心とした文芸活動を通じて、作者と読者や読者同士の「感動を共有する喜び」の場となっています。
図書館が、友達とのコミュニケーションの場として感動を共有する場であれば、とてもうれしく思います。
図書館で 友と語りし 夏をゆく
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000290731 【松尾芭蕉の『奥の細道』に冥界(不幸)の使いとして出てくる鳥の種類が知りたい。
回答】
(Answer)
①『奥の細道』に出てくる鳥が含まれた句は7つ見つかったが、いずれも「冥界、死、不幸」を象徴するような場面や句ではなかった。
②鳥について調べたところ、ホトトギスが「冥界からの使者と信じられていた」という記述や、「古代中国では蜀の王 杜宇の魂が化したものと言われる」という記述があった。
③『奥の細道』の句ではないが、「郭公(ほととぎす)声横たふや水の上」という芭蕉の句は、ホトトギスを亡くなった桃印の魂に見立てた句のようだ。
回答プロセス
(Answering process)
①『おくのほそ道』松尾芭蕉/著 角川書店/編 角川書店 2001年
鳥らしいものが出てくるのは下記の句だが、質問にあるような「冥界(死)」や「不幸」を象徴するような場面や句は見当たらなかった。
p16 行く春や 鳥啼き 魚の眼は涙
p43 木啄(きつつき)も 庵はやぶらず 夏木立
p46 野を横に 馬牽むけよ ほととぎす
p104 松島や 鶴に身を借れ ほととぎす(曾良)
p158 汐越(しおこし)や 鶴はぎぬれて 海涼し
p159 波越えぬ 契りありてや 雎鳩(みさご)の巣(曾良)
p211 帰山では初雁の声を聞き~
② 『新日本大歳時記-カラー版-』飯田龍太/監修 稲畑汀子/監修 金子兜太/監修 沢木欣一/監修 講談社/編集 講談社 2008年
p441「ホトトギスの声と日本の民話」のコラムには、ホトトギスについて、
・冥途からの使者と信じられていた。
・死出の田長との異名がある。 という記述がある。
『日本大百科全書 21』 小学館 1988年
p596「ホトトギス」の項あり。ホトトギスは古代中国では蜀の王、杜宇の魂が化したものと言われていた、とある。
③「郭公(ほととぎす)声横たふや水の上」
芭蕉が杜宇の逸話を元にホトトギスを亡くなった門人、桃印の魂に見立てて読んだとされる。句の解釈は下記の資料に掲載されている。
『芭蕉全句 下巻』加藤楸邨/著 筑摩書房 1975年 p329~
『諸注評釈新芭蕉俳句大成』堀切実/編 田中善信/編 佐藤勝明/編 明治書院 2014年 p947~
https://japanknowledge.com/articles/kkotoba/02.html 【季節のことば ホトトギス】より
日本の生活や文化に密着した季語の中から代表的なものを選び、その文化的な由来や文学の中での使われ方などを解説する、読んで楽しく役に立つ連載エッセイです。
初夏―其の二【ほととぎす】
古来、詩歌に詠われてきた代表的な題といえば、雪(冬)、月(秋)、花(春)そしてほととぎす(夏)。最近の都市化で、その声を聞くことはまれになったが、初夏の鶯、秋の雁をしのぐ日本を代表する鳥とされてきた。伝統俳句の牙城である「ホトトギス」がその誌名としたのも故なしとしない。ところが近年はあまりパッとしない。接する機会が減ったというのがいちばんの理由だろうが、日本人の季節感の変化あるいは衰退ということも、その背後にあるように思われる。
ほととぎすは「杜鵑」「時鳥」「子規」「郭公」「不如帰」「杜魂」「蜀魂」などと書かれるほか、あやめ鳥、いもせ鳥、うない鳥、さなえ鳥、しでの田おさ、たちばな鳥、たま迎え鳥、夕かげ鳥などなどたいへん多くの異名がある。それだけ日本人と多面的な付き合いをしてきた複雑な存在だということを、このことはものがたっている。
ほととぎすといえば、まずその鳴き声である。「テッペンカケタカ」「ホンゾンカケタカ」「特許許可局」「あちゃとてた(あちらへ飛んで行った)」などとと聞こえるとされる鳴き声は、かなり忙しげで「帛(はく)を裂くが如し」と言われている。その間にピチピチという地鳴きをはさむが、雌の声はこの地鳴きだけである。夜間に鳴き渡ることも多く、その場合は短くキョッ、キョッと鳴きながら飛びすぎるので、気がつかない人も多いようだ。初音、初声ということばで、その鳴き声を待たれるのは鶯とほととぎすだけ。ともに春と夏の到来を告げる鳥として、その初音を今か今かと昔の日本人は待ったわけである。渡り鳥であるほととぎすが渡来する5月初めはちょうど田植え時。そのため田植えを促す勧農の鳥とされた。
「いくばくの田を作ればか時鳥しでの田長(たをさ)を朝な朝な鳴く」(藤原敏行『古今集』)という歌は、田植えの監督者である長老の田長に、田植えを早くするようにと、ほととぎすが呼びたてていくという意味である。「しで」はよくわからない。「賎(しず)」の転訛とも、山の名とも言われている。「しでの田おさ」はほととぎすの異名にもなるが、問題はこの「しで」が同音の「死出」のほうに連想が働き、暗いイメージが定着していくことだ。ひとつには夜にも鳴く鳥、姿も見せずに鳴く鳥というところから、冥土に通う鳥とされていた点。もうひとつには「杜魂」「蜀魂」という名の由来になった中国の故事のイメージである。蜀の望帝は、退位後、復位しようとしたが果たせず、死してほととぎすと化し、春月の間に昼夜分かたず悲しみ鳴いたという。これらのことも重なって、ほととぎすの一面でもある暗い陰鬱なイメージができていったと思われる。鳴き声をまねると厠に血を吐くなどの凶事があるとか、床に臥して初音を聞くと、その年は病気になるとかのいろいろな不吉な言い伝えがある。
子規一二の橋の夜明かな 其角
うす墨を流した空や時鳥 一茶
ほととぎすすでに遺児めく二人子よ 石田波郷
https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/310eec69e1bbccdef42d1052efdf6873 【コオロギは昔キリギリスだった。】より
のっけから、「そんな馬鹿な、コオロギはコオロギだ」と言われそうですが、それが、本当にコオロギはキリギリスだったのです。
キリギリスは昼間に「チョンギース」と鳴き、夜は決して鳴かないものですが、「きりぎりす」を詠んだ古歌を調べてみると、鳴く時間がわかる歌では、全てが夜なのです。昼間に鳴いていることがわかる歌は一つもありません。
①きりぎりすいたくな鳴きそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる(古今集 秋 196)
②秋の夜のあはれは誰も知るものを我のみと鳴くきりぎりすかな(千載集 秋 329)
それならば、現在のキリギリスそのものは、古歌にどのように歌われているのでしょうか。
③秋来れば機織る虫のあるなへに唐錦にも見ゆる野辺かな(拾遺集 秋180)
④ささがにの糸ひきかくる草むらに機織る虫の声聞ゆなり(金葉集 秋 219)
③の「なへに」は、この場合は「・・・・なので」という意味で、秋の野辺では機織り虫が機を織っているので、錦のように見える、というのです。錦の色を見ているのですから、この歌は昼間に詠んでいるとするのが自然でしょう。④には「はたおりといふ虫をよめる」という詞書きが添えられています。「ささがに」とは「蜘蛛」のことで、蜘蛛の糸をキリギリスが織っていると戯れているわけです。キリギリスの鳴き声は一般には「ギー、チョッ」とか「チョンギース」と表され、機を織っている音に似ていることから、「機織虫」と呼ばれていたのです。
一方のコオロギですが、漢字では「蟋蟀」が当てられています。『万葉集』にはこの『蟋蟀』を詠んだ歌が7首あるのですが、『万葉集』の『蟋蟀』は秋に鳴く虫の総称という説明を多く見かけます。しかしそれぞれの歌に当たってみると、夜に庭で鳴く、庭の浅茅の本で鳴く、夕方に庭の草陰で鳴く、雨上がりの 庭草に鳴く、秋の夜に鳴く、草が深いので鳴く、寝床の辺で鳴くなど、どれ一つとっても、コオロギと素直に考えて矛盾はありません。
⑤夕月夜心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも(万葉集 1552)
⑥蟋蟀の我が床の辺に鳴きつつもとな起き居つつ君に恋ふるに寐ねかてなくに(万葉集 2310)
⑤の「蟋蟀」は、音節の数からして、「こおろぎ」と読むのが自然です。⑥も寝床の辺りで鳴くというのですから、床下にも潜ってくるコオロギである可能性が高いでしょう。もちろんコオロギ以外の鳴く虫である可能性も否定できませんが、「鳴く虫の総称」というより、「コオロギなどの鳴く虫」と言う方がよいのではないでしょうか。
ところが10世紀の国語辞書である『倭名類聚抄』には、「蟋蟀・・・・・和名木里木里須」と記されています。平安時代には、「蟋蟀」をはっきりと「きりぎりす」と読んでいるのです。そうだとすると、いつ頃までコオロギを「きりぎりす」と呼んでいたかが問題となります。松尾芭蕉に「きりぎりす 忘れ音に鳴く こたつかな」という句があります。初冬の火燵で、時期遅れの「きりぎりす」が鳴いているのであるが、火燵で鳴くというからには、これはコオロギの可能性が高い。もう一つ、芭蕉ときりぎりすと来れば、「むざんやな 甲の下の きりぎりす」という句は『奥の細道』に収められていてよく知られていますが、何が「無惨」なのかという説明はここでは省略するとして、この甲は加賀国多太神社に伝えられた斎藤実盛のものとされています。その甲の下に隠れて鳴いていたというのですから、この「きりぎりす」もコオロギと見てよいでしょう。
しかしそうかと思えば、賀茂真淵らの歌を集めた『八十浦之玉』という歌集には、「我が如く妻恋ふるかも蟋蟀のころころとしも夜もすがら鳴く」という歌があるのですが、これは明らかに「こおろぎ」と読んでいます。その他にもこの歌集にはコオロギと考えられる「こほろぎ」の表記があります。また18世紀初めの図説百科事典とも言うべき『和漢三才図会』では、蟋蟀を「こほろぎ」と読ませ、コオロギの姿の図が添えられている。これらのことから考えるに、江戸初期にはコオロギは「きりぎりす」と呼ばれていたものが、18世紀には次第に「こおろぎ」と呼ばれるようになったと言うことができるでしょう。
それなら、「機織虫」「はたおり」と呼ばれたキリギリスは、いつから「きりぎりす」と呼ばれるようになったのでしょうか。前掲の『和漢三才図会』には、「蟋蟀」(こほろぎ)と前後して「莎鶏」(きりぎりす)と「螽斯」(はたおり)が見え、きりぎりすとはたおりを別に扱っています。挿図では区別が付かない程よく似ていて、どちらが今日のキリギリスなのかは判定できません。しかしその図からして、どちらかがキリギリスであることは確かです。なぜ別種なのかは、虫の専門家にまかせるとして、18世紀には「きりぎりす」がキリギリスを指していたことは間違いなさそうです。
『誹風柳多留』には、「合の手に舌うちをするきりぎりす」(巻40)、「きりぎりす何をやっても舌うちし」(巻111)という川柳が載せられています。「舌うち」とは、キリギリスが「ギーッ、チョッ、ギーッ、チョッ」と鳴く「チョッ」の声が、いかにも舌を鳴らしているように聞こえることを指しています。『誹風柳多留』は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて167編も出版されていますから、かなり時間の幅がありますが、これによっても18世紀にはきりぎりすが現在のキリギリスを指していることがわかります。[1
なぜ入れ替わってしまったのかはわかりませんが、キリギリスの鳴き声が、室町期には「キリハタリチョー」と聞き成されていたといいます。謡曲『松虫』に「面白や千種にすだく虫の音も、はた織音のきりはたりちゃう、きりはたりちゃう」と出てくるそうですが、筆者自身は未で確認できていません。この鳴き声が「きりぎりす」という呼称を連想させた可能性はあるでしょう。
ここ比企丘陵では、キリギリスはめっきり少なくなってきました。コオロギは8月中旬には鳴き始めます。先入観があるからかもしれませんが、コオロギの声は、確かに「コロコロ」と聞こえます。こおろぎという呼称は、その鳴き声に因っているのかもしれません。
https://kigosai.sub.jp/001/archives/category/%E5%8B%95%E7%89%A9/page/16 【カテゴリーアーカイブ: f動物】より抜粋
きりぎりす 初秋
【子季語】ぎす、機織、機織虫
【解説】
畳んだ翅の背面は褐色、側面は褐色班の多い緑色。雄は「ちょんぎいす」と鳴くことから名付けられたものか。野原などに多い。コオロギの古称。はたおりともいう。
【例句】
古城や茨くなるきりぎりす 鬼貫「鬼貫句選」
むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉「奥の細道」
白髪ぬく枕の下やきりぎりす 芭蕉「泊船集」
淋しさや釘にかけたるきりぎりす 芭蕉「草庵集」
朝な朝な手習ひすゝむきりぎりす 芭蕉「入日記」
猪の床にも入るやきりぎりす 芭蕉「蕉翁句集」
常燈や壁あたたかにきりぎりす 嵐雪「其角」
きりぎりす啼や出立の膳の下 丈草「菊の道」
きりぎりすなくや夜寒の芋俵 許六「正風彦根躰」
月の夜や石に出て啼くきりぎりす 千代女「千代尼句集」
きりぎりす鳴き止みて飛ぶ音すなり 白雄「白雄句集」
泥濘におどろが影やきりぎりす 芝不器男「不器男句集」
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