https://komatsujapan-nabi.com/article?postId=2544 【多太神社】より
松尾芭蕉
芭蕉も感激した「実盛の兜」
遥か昔、武烈天皇5年(503年)の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社。ここには、とある伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財で、旧国宝でもあった、斎藤実盛の兜である。
時代は平安末期、源平合戦のまっ最中。兜の持ち主だった斎藤実盛は、平家の武将として戦っていた。倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原で再び陣を取り戦ったが、木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。
後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。
この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている。
それからずっと後の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れた。兜を見た芭蕉は実盛を偲び「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだ。境内には句碑が建っている。
その句碑のそばに「松尾神社」という神社があるが、これは松尾芭蕉とは関係ないので「俳句がうまくなりますように…」などとお参りしてもご利益は期待できない…。ちなみに松尾さんはお酒の神様です。
兜を実際に見せていただくと、古そうな傷が付いており、幾多もの戦や危機をかいくぐってきたのだろうというのが十分伝わってくる。第二次大戦中に金物などが没収されていった中、当時の宮司が兜だけはと土の中に埋めて守ったという話もある。
現在の兜は修復後のものなので、正確には芭蕉が見た兜ではない。芭蕉が見たのは修復前の兜で、その絵が神社の宝物館に納められている。宝物館には、兜や多数の宝物も納められており、事前連絡すれば見る事ができる。[TEL 22-5678]
「かぶとまつり」にイベントいろいろ
7月下旬には「かぶとまつり」が催され、詩吟や輪踊り「かぶとおんど」が行われ、屋台も出て賑わう。謡曲「実盛」の上演もあり、県内外から謡曲ファンが訪れる。
蟇目(ひきめ)の神事では、昔は矢を米俵にあてていたが、現在は餅まきをして当たりの入った餅を手にした人にお米やスイカなどが与えられるという形に変わり、毎年行われている。
平成22年からは茶会も開かれ、目の前で和菓子製造の実演もあり人気を博した。数々のイベントを、地元の人に混じって楽しむことができる。
ところで、謡曲「実盛」のストーリーをご存じだろうか。
応永二十一年(1414年)、遊行寺の十四代上人が巡錫の際、篠原の地で実盛の亡霊に会い、法名を与えて成仏させたという伝説がもととなっている。それ以来、歴代の遊行上人は北陸巡錫の時には必ず多太神社に詣でるとのこと。最近では、平成17年に半世紀ぶりに行われた。それは「回向祭(えこうさい)」と呼ばれ、行列やお練りなどがあり、実盛公や兜を盛大に供養した。その時の写真や多くの回向札(えこうふだ)は宝物館に納められている。
その翌年からは、5月中旬の日曜日に「遊行祭(ゆぎょうさい)」が行われるようになり、毎年実盛公をしのんでいる。
また、大晦日の除夜の鐘の鳴る頃から、境内は初詣に訪れる参拝客であふれる。「かぶと鍋」と呼ばれるとん汁や海鮮鍋の振る舞いもあり多くの人で賑わうという。
最近、御朱印帳も対応できるようになったので、ご希望の方は遠慮なく声をかけてくださいとのこと。
かぶとまつり、かぶとおんど、かぶと鍋と、実盛公のゆかりを後世に伝えるため、新しい試みでこれからも賑わいをみせていくことだろう。
http://geo.d51498.com/urawa0328/isikawa/tada.html 【多太神社〜斎藤実盛の兜〜】より
金沢から小松へ。小松市上本折町に多太神社がある。多太神社は 延喜式内社 。
寛弘5年(1008年)、船津松ヶ中原にあった八幡宮を合祀し多太八幡宮と称した。
天和3年(1683年)、大淀三千風は多太神社を訪れた。
安宅の關の舊跡。又多田八幡宮には火威の鎧菊ガラクサの甲、これ實盛がかたみいとなつかしかりし。
『日本行脚文集』(巻之一)
斎藤実盛の兜
八幡さまの兜、兜の八幡さまといわれる当社は、遠く平安時代の初め、延喜式内社として登録されている古く由緒ある神社である。
社宝の兜は、寿永2年源平の合戦に 篠原 で白髪を染めて戦い、華々しく散った平家の老将斎藤実盛の着用したものである。 木曾義仲 が実盛の供養と戦勝を祈願して、当社に奉献したもので、国の重要文化財に指定されている。
むざんやなかぶとの下のきりぎりす
芭蕉がこの兜によせた感慨の句である。
齋藤別當實盛公
實盛公の像は埼玉県熊谷市の 妻沼聖天山 にもある。
此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらい)のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす
『奥の細道』
芭蕉の句碑
あなむざん甲の下のきりぎりす
出典は 『卯辰集』 。
芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが300年前の元禄2年(1689年)7月25日(9月8日)であった。
7月27日、小松を出発して山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす
芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜
曽良
くさずりのうち珍らしや秋の風
北枝
享保6年(1721年)、露川は門人燕説を伴い多太神社に参詣して実盛の甲冑を見ている。
八幡 に詣でゝ實盛の甲冑を見る。
空蝉のなみだや生た時よりも
同
麥畑の音にこそ鳴かねかぶと虫
無外
『北国曲』
大正14年(1925年)8月30日、 荻原井泉水 は多太神社を訪れて実盛の冑を見ている。
その冑は多分、古色蒼然たるものであろうと想像していたのに、みればしころなどの色彩も鮮かに、新しそうな感じのするものだった。というわけは、原物が余りに頽破して手に持つことも出来ぬほどになったので、近頃すっかり修覆をして出来上ったばかりの所なのだというのである。
『随筆芭蕉』 (小松という所)
昭和40年(1965年)、 山口誓子 は多太神社で句碑を見ている。
上本折町の多太神社へも行った。町筋が二股に別れようとする左側だ。ずっと奥まっている。社殿の前に、角張った自然石の句碑がある。
あなむざん甲の下のきりぎりす
『句碑をたずねて』 (奥の細道)
参道の芭蕉像
奉納吟
むざんやな甲の下のきりぎりす
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が北陸路を金沢より小松へ入ったのは、旧暦の7月24日であった。
地元俳人の熱い思いを断りきれず、泊を重ね、句会を開いた。
多太神社に詣で、斎藤別当実盛着用の兜や袖を拝観した。源氏に愛着をもっていた芭蕉は、木曾義仲と実盛との数奇な巡り合わせに感慨ひとしおであっただろう。その思いが冒頭の句となり、奉納した。あわせて、共の2人も詠んでいる。
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜
曽良
くさずりのうら珍らしや秋の風
北枝
それより山中温泉へと旅を重ねるが、再度小松へ戻る。紀行中異例の足どりを残す。
当多太の社では、この史話を後世に伝えるために、7月下旬「かぶと祭り」を催している。
平成14年9月
加南地方史研究会 撰文
参道にも芭蕉の句碑があった。
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