http://spica819.main.jp/100soikku/15530.html 【朝顔に冷飯くうて門出かな 足立黙興
足立黙興『黙興句集』(私家版、一九四〇)の一句。
足立黙興(足立荘)は、一八七〇年に鳥取県上道村(現在の境港市上道村)に生まれた。一八九二年に慶應義塾大学文学科を卒業し時事新報社に入社。その後(一九一〇年)、日本徴兵生命保険(のちの大和生命保険)へと転じ、専務取締役を務めた。「足立弓浜」と号して新体詩も書いていたという(池内輝雄編著『時事新報目録文芸篇大正期』八木書店、二〇〇四)。その黙興が俳句に手を染めたのは大正の頃である。本書自序には次のようにある。
いつの頃にやありけん、明治の末葉或は大正の初め頃と覚ゆ、籾山梓月氏なほ江戸庵と号されし頃、当時の俳人と聞えける鳴雪、乙字、碧梧桐、癖三酔、虚子、柑子等の人々と交詢社中の素人有志とをあつめて謂ふ所の運座を催されしことあり、自らその席吟として今も記憶に存するは
鞍置ける馬に主なき遅日かな
折棄てし花にも蝶の来る日かな
供待のともし火目だつ寒さ哉
などいふ如き処女作が思ひの外諸家に点ぜられしがそもそもの病みつきにして、それまでには寧ろ平仄の羅織、三十一文字の優雅を讃して発句俳諧は市井のまゝごとなりなど貶したる身のいつとはなく遂に俳句の虜となり了はんぬ。
黙興と梓月とは慶應の先輩後輩の関係にあるが、交詢社を通じた梓月との交遊が俳句にのめりこむきっかけとなったようである。黙興が自序で「其作法の如きも頗る勝手にして、固より蕉風蕪雨に親まず、又基より茶香鵑聲に眤まず、況や世の所謂新傾向をや」と記しているように、とくに結社に所属しているわけでもなく俳壇から距離のある場所にいたように見えるのは、黙興の句作のきっかけがこうした社交の延長線上にあり、また俳句を余技とする意識を持ち続けていたためである。上梓時には数え年ですでに古稀を過ぎていた黙興が自身初の句集を出したのは旧友の館野晴峯の勧めによるところが大きかったというが、自序にある「要は之を以て人に示し世に問はんとにあらず、我は独り我が思出の料に供し時にかへりみて自らほゝゑむ所あれば足れりとせんのみ」という言葉は、決して謙遜とばかりはいえまい。晴峯をはじめとする周囲の斡旋がなければ、黙興の句は散逸し今日目にすることはきわめて困難なものになっていただろう。
この交詢社の句会は後に俳句研究会という名で継続することになるが、「彼の時の人々とは絶えて相会せざればおのおの如何に相成りしか、我は知らず、他も亦我を知らざるべし」(「自序」)という状況にあった黙興にあって、梓月は吟友と呼びうる一人であった。梓月が本書序文を記しているのはそうした二人の関係を象徴していよう。
翁は斯の道に於て、当初より、何かは知らず、一見識を有せらるゝものゝ如くであつた。それが今日では紛れなき一家の風格となつて大成するに至つたのである。もつとも、有体に申して、翁の風体は、わたくしなどから見れば、その句の語気がやゝもすれば理に過ぎるか、と思はるゝ節が無いでもない。是れ併しながら、必定わたくしの、ひたぶる、おのが好む所に偏した考へといふべきものであらう。かくの如くにして、翁には翁の家風がある。翁には翁の境地がある。この集を繙かんほどの方々は、翁のこの異色を見遁してはならないのである。(籾山梓月「叙」)
黙考の後輩であり、「已に二十余年の久しきに及んでゐる」友人であり、俳句においては一日の長のある梓月による黙興評は、しかし、案外にひややかなところがある。当時すでに『江戸庵句集』『浅草川』『冬鶯』の三冊の句集を持ち「淡雅洗練」(加藤郁乎)の句文をものしていた梓月には相容れない部分もあったにちがいない。だがその一方で、「俳句を初むるには師に就くの要なし」(『俳句のすすめ』籾山書店、一九一五)と説いた梓月にとっては、誰に師事するでもなく独自に句を詠じてやむことのなかった黙興に同意するところ少なくなかっただろう。
さて、本書は一九二四年から一九四〇年までの作品を収めているが、その多くが旅中吟である。北は北海道、南は九州、さらには海を渡って朝鮮半島まで旅している。当時の黙興は五十代後半から六十代であったはずだが、頻繁に諸国をめぐり、旅のなかでその句の多くを詠んだ。
なゐののち家つくろはず今年竹
魚売の踏んでゆきけり落椿
春雨に挽屑濡るゝ木挽かな
春の田に足つけてゐる鴉かな
閼伽桶をむげに置きけり苔の花
昼顔ののぼりて咲きぬ青薄
狩犬の嗅ぎて去にたるしどみかな
すさまじき柿の落葉や籾筵
北海道往来
岩木山雪なほのこる田植かな
駒の背に玉苗はこぶ畷かな
山に満つ青葉の中や朴の花
朝鮮行
みなつきのみなみをうけて渡海かな
草茂る苑にかたぶく御階かな
市中に瓜をむさぼる日中かな
中国と九州路
四国まで見はるかす江の根釣かな
柿もぐや早瀬のうへの縄梯子
提灯の山をおりくる夜寒かな
表題句「朝顔に冷飯くうて門出かな」は一九二五年の作。前書に「朝とく旅立つことのはべりて」とある。この句から思い起こされるのは芭蕉の「あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉」である。「固より蕉風蕪雨に親まず」と自ら語った黙興だが、これは黙興一流の自己演出であって、この言葉をそのまま事実として受け取るわけにはいくまい。というのも、黙興は一九二八年に中尊寺を訪れた際「今われ芭蕉と季をおなじうして茲に游ぶ。感殊に深からざるを得ざるなり」と前書して七句ほどを詠んでいるのである。『虚栗』に収められたこの朝顔の句を黙興が知っていたとしてもおかしくはないだろう。『新編日本古典文学全集 70 松尾芭蕉集①』(小学館、一九九五)では、この句は「草の戸に我は蓼くふほたる哉」(其角)に対し、「其角の句が俳諧の反俗的性格をあまりあらわに誇示しすぎているところを見咎め、それをそっくり打ち返して、武骨な平凡さの中にも俳味はあるものだと、其角の気負った俳諧論に軽く唱和した句」であるとしている。芭蕉が其角に唱和して詠んだのがこの句であるならば、黙興の句もまた芭蕉に唱和するようにして詠まれたものではなかろうか。すなわち、早寝早起きをする平凡な生活のなかに俳味を見出した芭蕉に対し、黙興は、自分はその「食くふ」時間さえままならずに慌ただしく「門出」する「おとこ」なのだ、と詠ってみせたのである。
黙興は自序で句集開板の申し訳を諧謔まじりに綴っている。
我旅を嗜み又事によりて東西を遍歴する機縁も少なからず、そのところどころの興趣、刹那刹那の感懐など書留めおかば、己れ亦一廉の男ならんか。されど女もすなる日記さへ曾てものせしことなく、況して日本国中ありとあらゆる国々をへめぐりし身の未だ土佐といふ国に踏入りしことなければ、さる古へ人の霊威に励まさるゝしほとてもなく、性来ものにうとましき習ひ、七十の生涯を只うつろの如く過ぎて、今更にとりとむべき筋もなければ猶更にかきのこすべき骨もなし。
本来霧散していたかもしれない黙興の「そのところどころの興趣」も「刹那刹那の感懐など」も、偶然手にした俳句形式によって書きとめられることとなった。せわしなく旅立つ朝は黙興に何度あったことだろう。しかしその味気ない生活も「朝顔に冷飯くうて門出かな」と詠むことでにわかに矜持へと転じていく。黙興における余技としての俳句とはこのようなものであった。
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