旅立ちの季節感(Ⅱ)詩歌から

https://toshihiroide.wordpress.com/2020/06/26/%E6%97%85%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%AD%A3%E7%AF%80%E6%84%9F%EF%BC%88%E2%85%B1%EF%BC%89%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%A9%A9%E6%AD%8C%E3%81%8B%E3%82%89/ 【旅立ちの季節感(Ⅱ)詩歌から】より

旅立ちは別離である

 門出は新しい出発である。出発の前には別離があり、門出の後に邂逅(かいこう)がある。門出と邂逅との間にはいくらかの懸隔を必要とするが、別離と門出は同じことの裏表である。別離の語は感情に中立であるが、門出には希望があると思う人もいる。であれば、別離は惜別と替えてもいい。

 惜別と門出、それがもっともふさわしい季節はいつか? いうまでもなく春である。五行では春夏秋冬の色を青朱白玄(緑赤白黒)とする。古の鹿逐ふ中原の冬は褐色の黄土が黒変した沈黙の時であった。それが春ともなれば、青々とした嫩葉(わかば)の色に覆い尽くされる。人間は季節の変化に瞠目し狂喜乱舞する。春ほど愛おしく、命の冥加を思ふ季(とき)はあるまい。だからこそ春が行くことを惜しむ情は深く、また惜春望夏の物憂きも納得される。

芭蕉の惜春

 日本の文人もまた春を惜しんだ。殊に松尾芭蕉の惜春の情は甚だしい。芭蕉の代表作といえば『奥の細道』、その冒頭。

【原文】

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

   草の戸も住替る代ぞひなの家

  (くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

面八句を庵の柱に懸置。

 彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

   行春や鳥啼魚の目は泪

  (ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

ばしょうあん

【難解釈】

 古詩に天地万物逆旅光陰百代過客という。まことに歳月は天地の間にあって永遠を疾走する旅人である。水上の水主や街道の馬子らは日々を旅に暮らして無常に帰す。古来風流を解する者も多く草枕に客死す。吾もまたいつの頃からか行雲流水に思いを馳せ、煙霞の痼疾に彷徨う身となれる。昨秋戻りて墨堤陋屋の蜘蛛の巣を払い歳も暮れ、春立つ空を仰げば、白河に西行の跡みちの奥に歌枕をもと、またも心狂わせる思い。さやの神の手招きあって物は手につかず、旅の衣繕い笠の緒替えて膝に灸する慌ただしさ。住処は人に譲って杉風の別業に移るも、思い慕うはただ松島の月のみとなれる。

 「小さな草の庵の住人も変わる春となった

  次は雛まつりのお人形のような娘が来るだろうか」

この句を始めとし、連句表八句を庵の柱に掛け置きて発つ。

 弥生二十日あまり七日、春は曙ようよう白き有明の月朧に傾き富岳幽暗。上野山上の花またいつかと未練たらしく、宵刻より集う昵懇の輩と大川に舟を上せて送る。千住にて陸にあがれば、前途遼遠の絶望に胸塞ぎて足元覚束なく、暁闇の暗さに紛れて涙を垂らす。

 「今年の春が行こうとし、人も去ろうとしている

  鳥は好節を惜しんで啼き、魚さえも別れに涙している」

これを矢立初めとして歩を進めるが、別れに難渋して進まず。人々は道に立ち並んで口々に言葉を掛け、後姿の消えるまではと見送ってくれたのだった。

蛇足ながらの行春哀歌

 人と生まれて過ごしてくると、春を惜しむとは、若かったころの自らに対す羨望と嫉妬にほかならない。大正3年(1914)三高寮歌「行春哀歌」(*)は、

  静かに来れなつかしき 友よ憂ひの手をとらん

  くもりてひかる汝が瞳(ながまみ)に 消えゆく若き日はなげく

と歌う。若きがゆえに、若さの炎が焼尽していく哀しさが愛おしいのだ。

 それと関連して引いた俳句が芭蕉の

   行く春を近江の人と惜しみける

である。奥の細道の旅立ちは元禄2年(1689)3月27日、ときに芭蕉46歳である。この句は翌元禄3年弥生の末に近江膳所で詠まれた。

 蕉門十哲の一人、向井去来(1651~1704)の著した『去来抄』(**)に、この句についての手前味噌の解説が載っている。

いくはるあうみ

【原文】

 先師いはく「尚白が難に、“近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし。”といへり。汝いかが聞き侍るや」。去来いはく「尚白が難あたらず。湖水朦朧として、春を惜しむに便有るべし。殊に今日の上に侍る」。先師いはく「しかり。古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを」。去来いはく「此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさむ。行く春丹波にいまさば、本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな」。先師いはく「汝は去来、共に風雅を語るべきものなり」と、殊更に悦び給ひけり。

【現地語訳】

 先生が「江左尚白が『近江は丹波に、行く春は行く歳に代えても同じことではおまへんか』と言うのや。お前どない思う?」と言わはる。わては「そりゃ違いまっしゃろ。なんせ湖国だっせ、『湖水朦朧として春を惜しむに便有るべし。殊に今日の上に侍る』でんがな」と言うたんや。「そうや。古へ人も湖国の春を愛することは、都にそれに劣るもんではなかったからな」と、芭蕉先生。私は「その一言染みわたります。行く春を近江にいたればこその感じではありませんか。丹波にいたかてなんの思いが浮かびましょう。風光の人を感動させるということ、まことに感得いたしました」と答えたものだ。先生は「去来、お前はともに風雅を語っていい弟子となったな」とお悦びになったんや。

【鑑賞】

 句の情趣は湖国の春の美しさにある。冬、北陸から季節風は湖東を直進して、伊吹を乗越し濃尾平野に抜けていくが、志賀の海の水蒸気をもう一度吸い込んで湖西比良の山々にもやわらかな雪帽子を被せる。春になると雪解けの水が湖に注ぎ湖面にはあわい春靄を靆(たなび)かせる。文字通りの淡海(あはのうみ)がこの国の〈あうみ〉という名になった。

 湖国(ここく)の名もまた麗しい春を讃える響きがする。淡い水蒸気にこもった近江ほど、モンスーンの優しい自然に包まれた日本にあって、もっとも春の華麗さを表現している地域である。その春が行く。「私はこの自然を全身の皮膚で〈もののあはれ〉と感動している。それを国人(くにびと)たちとともに嘆賞し惜しんでいるのだ」と芭蕉は謳う。

 三高『行春哀歌』の歌い方は低唱微吟。学年末の追いコンに際してよく歌われたという。春は季節のそれではなく、青春という人生の春である。高校を卒えて帝国大学に進学すればもう大人である。教育研究する学究であれ、高等文官の官僚であれ、帝大生となればその見習いである。やんちゃな季節はもう終わる。偉そうに威を構えなければならない。人生の春は短く儚い。春こそ惜別と門出の季節、別離と邂逅の情趣きわまるときと思われる。

陽関三畳より折楊柳だった

 黄奇蘇新(***)という言葉を初めて目にしたのは『百代の過客』においてである。言うまでもなくドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene;鬼怒鳴門:1922~2019)が著した“日記にみる日本人”。松尾芭蕉の『笈の小文』中の「道の日記」にある語ながら、キーンが「黄庭堅の奇警、蘇軾の斬新」と訳解した。二人はいずれも北宋の詩人である。

ひゃくだいかきゃく

 蘇軾の名は知っていたが、黄庭堅には無知だった。彼の詩として挙がる「夜発分寧寄杜澗叟(よる、ぶんねいをはっし、とかんさうによす)」を読んだ。そこで、冒頭一句「陽関一曲水東流(やうかんいっきょく、みずはひがしにながれ)」に触発されて、王維の「元二の安西に使するを送る」を聞く16歳がフラッシュバックした。

 送元二使安西はあまりにも名詩であるがために“陽関”の別称をもつ。陽関一曲とは「蛍の光」めいた旅立ちの曲となって朗唱された。陽関一曲水東流とは「陽関一曲が終って解纜(かいらん)した船は東への流れに乗る」を意味する。

 ついで「陽関三畳」という語を得た。辞書には、

――唐の王維の詩「送元二使安西」の詩句「渭城朝雨浥軽塵 客舎青青柳色新 勧君更尽一杯酒 西出陽関無故人」を歌う際、三回繰り返して歌うこと。どの句を繰り返すかには異説があるが、日本の詩吟では全詩を歌ってから「無からん無からん、故人無からん、西のかた陽関を出づれば故人無からん」と繰り返す。――とある(日本国語大辞典)。

 これこそ高校1年生の私が聞いた、卒業していく生徒を送る予餞会において、3年担任の国語教師が吟詠した絶唱であった。

 今般さらに、名詩たるの新しい因を発見した。この歳になっての新たな発見は命冥利に尽きる。

 先日の「辺境の春四首」(2020/05/09)で引いた李白「春夜洛城聞笛」の第三句“此夜曲中聞折柳”にある「聞折柳」の語釈はかく書かれている。――当時、送別の際に柳の枝を折って旅立つ人に贈った習俗があり、その「祖餞(=送別宴)」の場で笛曲として演奏されることが多かったので、この曲を耳にすると「離別」「郷愁」などが想起された、と。

 送別の際に柳枝を贈ることは「折柳送別」の習俗となって盛唐以降に定着した。時とともに新楽府題「折楊柳」のモチーフも「閨怨と想夫恋」から「惜春と望郷」に変わっていったのである。ここに名詩たる要件があった。その内実は後段の「鑑賞」に記した。

送元二使安西 王維

 渭城朝雨浥輕塵

 客舎青青柳色新

 勧君更盡一杯酒

 西出陽關無故人

【訓み】「元二の安西に使するを送る」

 渭城の朝雨 軽塵を浥し 客舎は青青として 柳色新たなり 君に勧む 更に盡くせ一杯の酒 西のかた陽關を出づれば 故人無からん

(いじょうのちょうう けいじんをうるおし かくしゃはせいせいとして りゅうしょくあらたなり きみにすすむ さらにつくせいっぱいのさけ にしのかたようかんをいでなば こじんなからん

【語注】 1)安西:現在の新疆ウィグル自治区庫車(クチャ)、唐の安西都護府ばあった。2)渭城:長安西方の渭水対岸の町、秦の咸陽があった。西域へ旅立つ人を送る町でもあった。3)浥輕塵:(朝の雨が)砂埃を湿らせる。4)陽關:敦煌西南にある天山南路の関所、先は沙場あるのみ。5)故人:古くからの友人。

【釈】 渭城の町の朝湿りが埃を収めて静寂をもたらした。宿所のあたり柳の青々とした嫩葉が朝の色を替えた。(昨夜は随分と別杯を飲み交わしたが)さぁもう一杯、私の酒を受けてくれないか。遥か西、君が陽関を越えてしまったら、もう私を知る友は都にいなくなってしまうのだから(グスン)。――私はまだ酒が醒めないで、恥ずかしげもなく絡んでいるのだった。

りゅうしょくあらた

【鑑賞】「陽関の名詩たるゆえん」

 それは陽関三畳の〈無故人――君が行ってしまったら、私が心をゆるして語る友はもういなくなるのだ〉の悲痛な嘆きではなく、折楊柳たる〈客舎青青柳色新――宿所は新しい柳の嫩葉に華やいで、君の出発を送ろうとする〉にある。

 この第二句において、読む人は皆「詩は友を送る惜別の歌である」ことを感得する。雨上がりの叙景は爽やかである。別離の悲しみよりも門出が祝される。悲喜交々というよりは願望と期待である。元二は重要な任務によって胡地に向かう。任務を果たせば人生は大いに好転する、男子の本懐である。

 そうではあるけれど、作者は悲しい。都にいた数少ない親友の一人を失うからである。その叙情が紡がれる。だが人生の悲しみではない。友を送る。友の前途に艱難はあるかもしれないが、より大きい前途が待っている。叙景の希望を見よ、である。

 詩に明るさがある、だからいい詩なのだ。送られる人は胸いっぱいの抱負をもって旅立つ。あたかも高等学校を卒えて、故郷を離れ、巣立って行く若者たちのごとくに❣

後記

 この文章はCoronavirusによる全国の学校休校措置の中から突如浮上した「9月新学期変更説」に、時の総理や都知事が何の脈絡も子どもたちへの思いやりもなく「私は賛成だ」と叫んだことから始まった。

 世の偏見は「お前たち子がいないから勝手なことするのか」とか罵るやもしれぬ。総理も知事もそれほどの器量も蒼生への愛ももちゃいないが、しかし小さな根性と忖度をもつ役人や、権力の蜜に集る御用メディアたちならやりかねない。

 そうならないことを祈って、欧米がそうだからと猿真似するのではなく、日本人の情趣から言って無茶するものではないと言いたかったのである。幸い世間の良識は9月入学とかの夢想を葬り、メデタシとなった。

 Globalismを否定するつもりはない。だが世界と歩調を合わせるのは高等教育からで構わないでないか。それまではこの国土の恵まれた四季に身をゆだねて、日本人としての感性を涵養したいものである。幼きものたちの文芸と音楽のためにも。

(*)行春哀歌:参照「残ンの色香か山桜」(2012/05/15)

(**)去来抄:参照「吉野天人」(2013/04/30)

(***)黄奇蘇新:参照「黄奇蘇新のこと」(2014/05/29)

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