http://tenjounoao.com/jhistory/history01.html 【イエズス会の東洋宣教】より
宗教改革のうねりと余波
1517年11月、ドイツの大学で教鞭を取っていたマルティン・ルターは、僧籍売買や免罪符の発行を批判した95か条からなる質問状をローマ・カトリック教会に突きつけました。ルターの主張は一般の民衆に受け入れられたのみならず、ドイツ諸侯の支持を受け、北ヨーロッパ一円に広がり、過激な宗教改革者を生み、イギリスでは国教会を成立させるに至りました。
このような宗教改革運動の大きなうねりの中で、ローマ・カトリック教会は自己変革を強く迫られることとなりました。教会再興の試みは一般信徒において信心会(コンフラリア)という形で発展し、新しい修道会の発足を促しました。
1534年にパリでイグナチウス・デ・ロヨラらによって創設されたイエズス会は、そうした反宗教改革(カトリック教会では「真正の改革」という)の旗手と目されていましたが、実際には自己の内面に深く下りていってキリストに出会い、精神修養をすることによってキリストの伴侶(「イエズス会」とは「イエズスの輩」という意味)となって神の仕事をすることを目的としていました。
もともとはローマ教皇庁の勢力圏外に成立したイエズス会ではありましたが、1540年教皇パウロ3世によって聖職者修道会として認可され、教皇の指示を仰いで世界の果てまで赴き、神の栄光と人々の救霊のために働くことを使命とする団体となりました。
植民地政策とイエズス会
大航海時代を経て世界に版図を広げたポルトガル、スペインの両国は、異教徒である植民地の民の支配に困難を感じる一方、現地に滞在するヨーロッパ人の腐敗と堕落にも頭を悩ませていました。
インドの植民地支配に行き詰まっていたポルトガル国王ジョアン3世は、ローマ教皇にイエズス会員をインドへ派遣することを願って許されました。イエズス会による東洋宣教の幕開けです。
イエズス会総会長ロヨラは、イエズス会創設メンバーの一人であるフランシスコ・ザビエルをインドに派遣することとしました。1541年、リスボンで同僚と別れたザビエルはインドに船出し、再びヨーロッパの地を踏むことはありませんでした。
インドでの失望
インドに到着したザビエルは、清貧と敬虔さでもって模範を示しながら伝道活動に勤しみました。キリスト教をヨーロッパ式に伝えるのではなく、その地に住む民の民族性や習慣に合わせて宣教する、現地主義というスタイルを採用し、そのやり方は効果を上げているかに見えました。
しかし時が経つにつれ、ザビエルは失望を感じるようになりました。それは改宗してキリスト教徒となったインド人が不熱心で、利益にばかり目を向けていることが理由でした。もう一つの理由は、インドに滞在するポルトガル人の不摂生と堕落した生活が、キリスト教をのべ伝えるのに妨げとなったことです。
ザビエルの布教の関心は次第にインドの外に向けられていき、1545年にはマラッカ、その翌年にはモルッカ諸島へと伝道の足を伸ばしました。しかしすでに植民地となった諸地域におけるキリスト教への反応は、インドと似たりよったりのもので、彼の心を満足させることはありませんでした。
1547年12月、日本で罪を犯して魂の救いを求める青年ヤジロー(ザビエルは「アンジロー」と記している)がザビエルの元を訪れました。ヤジローの知性と信仰に対する真摯な姿勢に感動を受けたザビエルは、ヤジローに日本人がキリスト教に改宗する可能性を問い、日本宣教を考え始めました。
一旦ヤジローをインドのゴアにある修道院に送り、キリスト教の教理を学ばせたザビエルは、1549年4月、日本宣教のために旅立ちました。同行者はヤジローと2人の従者、トルレス神父とフェルナンデス修道士。
ザビエルは手紙で日本に対する期待をこう綴っています。
「イエズス会の会員たちが生きているうちに上げる成果は、彼ら(日本人)自身の力によって永続するであろう」と。
http://tenjounoao.com/topics/topi01kiri.html 【キリシタン遺物について】より
キリシタンが残した遺物にはどんなものがあるのでしょう?またその特徴は?
巷には「キリシタン遺物」と呼ばれている物が多く存在していますが、偽物にはどのような物があるのでしょうか?
キリシタン遺物とは?
キリシタン遺物とは、キリシタン(ザビエルが宣教してからおおよそ明治初期までのカトリック教徒)が遺した物のことで、生前に身に着けていた物、所有していた物、触れた物等を指します。キリシタンの遺骨や衣服の一部、刀の鍔、櫛、信心道具であるメダイ、ロザリオ、絵画などです。
特に聖人となった殉教者の聖遺物ともなると極めて稀であり、貴重だと考えられています。聖人と聖遺物を崇敬することはその後ろにおられる神を崇拝する行為とみなされるため、中世キリスト教世界では「黄金や宝石よりも価値がある」と言われていました。しかし貴重な物であるがあまり偽物を作ることもしばしば行われ、ヨーロッパ各地にはキリストの架かった十字架の一部等が数多く存在します。
同様に日本でもキリシタン、とりわけ殉教者や有名な信徒の遺物であるとされる物が多数あり、博物館で展示されていることもあります。しかし全てが本物ではなく、意図して作られた偽物もあれば、誤った解釈によってキリシタン遺物にされてしまっている物もあります。真贋を峻別することが専門家でも困難な物もありますが、いくつかの類型があるので怪しい物に出会ったときに一定の判断を下すことは可能です。
キリシタン遺物と誤解されている物
キリシタン遺物だと誤解されている物の代表格は「キリシタン灯籠」です。古田織部正重然が考案した織部灯籠が南蛮趣味を取り入れているため、キリシタンが拝んだ物だと誤解されているのです(詳しくはコチラ⇒)。これは偽物というよりは本物の織部灯籠です。誤解によりキリシタン遺物だとされてしまった訳です。なのでキリシタンが拝した物だという誤解を除けば、灯籠としての価値は残ります。
次によく「キリシタン遺物」として展示されているのは「マリア観音」ですが、こちらに関しては注意が必要です。長崎や天草の隠れキリシタンが仏像を聖母マリアの代用品として用いたことは広く知られています。子安観音のように子供を抱いた像は聖母のイメージを浮かばせるのに最適でした。しかし像自体は中国の福建州あたりで作られた大量生産品に過ぎません。
それをキリシタンが信じる心で持って拝んでいた場合に、大量生産された舶来品がマリア観音となるのです。形状では決して判断できないものですが、キリシタンがいなかった地域でも多く「発見」されています。それらに関しては子安観音と解するのが理に適っています(詳しくはコチラ⇒)。
つまり「キリシタン灯籠」は元々存在しない物ですが、「マリア観音」は存在するにはするが、形状等では判断がつかず、信徒の家に実際にあったという確実な証拠なしには「マリア観音」とは言ってはいけない物と言えます。
これに類する物としては、十字が刻まれた天神像、荒神像の画像、家紋の十字紋、墓碑のアンドレアクルス(×印)、地蔵尊の錫杖に見られる十字模様などがあります。いずれもザビエル以前からあった十文字が元で、キリスト教のモチーフとして十字紋が用いられた物ではないのに、誤解によってキリシタン遺物とされてしまっていることがある物です。
偽のキリシタン遺物
誤釈やこじつけによってキリシタン遺物とされてしまった物がある一方で、キリシタン・ブームの波に乗って作られた偽造品があるのも事実です。悪質な商魂から生まれた物もあれば、南蛮文化への興味で創作された物もあり、教材や土産物として作られた物が、様々な人の手を経るうちに本物のように扱われるようになった物もあります。
その代表として挙げることができるのが踏み絵です。江戸時代を通じてなされた思想弾圧を表す物として、また踏まなければいけなかったキリシタンの悲哀を物語る物として、人々の興味を引いてきました。古美術商や郷土資料館などで見かけることがしばしばありますが、大半がが模造品、あるいは複製品であると言わざるを得ません(詳しくはコチラ⇒)。
本物を見たい人は、上野の東京国立博物館へどうぞ。常設展示はされていませんが、数年に一度くらいの頻度で企画展示されています。長崎奉行所がキリシタンから押収した本物のマリア観音も見ることができます。
悪意ある偽造品に注意
では悪意ある偽造品とはどのような物でしょうか。売る目的で、キリシタン遺物を装って作られた物です。これらにもパターンがあるので明らかにしておきたいと思います。
一つには十字架付きの阿弥陀像があります。昭和25年頃、突如としてあちらこちらから「発見」された物で、30センチほどの大きな十字架のクロス部分に阿弥陀像が取り付けられた物です。十字架の形は19世紀にヨーロッパで流行った新ゴシック風で、キリシタン時代の物とはかけ離れています。
真ん中に阿弥陀像を配することで、隠れキリシタンを装ったようにしている訳ですが、密かに信仰を守る信徒がこのような大きな十字架を所有するはずがなく、また見つかった場合は阿弥陀像より十字架の方が大きいのですから、何の言い逃れもできません。
あまりにキリシタンに関する知識が不足した粗末な偽造品としか言いようがないのですが、富山や名古屋、兵庫などで見つかっています。最近も同型の物が資料館に寄付されたと地方新聞に載っていました。戦後に仕事を失った名古屋の鋳物業者が作った物であると専門家にはよく知られていますが、今でも資料館に展示されていることがあります。
またカリスやチボリウムに、十字架やPXのマーク、ぶどう模様などが描かれた物も偽物のキリシタン遺物です。「キリシタンの礼拝に使われた」と解説まで付けて展示されていることがありますが、キリシタン時代にPXの文字や、ぶどうの装飾が使われたことがありません。
キリシタン鍔や櫛に十字架が描かれ、「高山右近の所有物だった」「細川ガラシャ夫人の使った櫛だ」と解説する資料館もあります。キリシタン武士が自分の信仰を鍔に刻んだとしても不思議はないですが、どのような物か出自を精査する必要があります。ガラシャ夫人の物に至っては、細川家が今も健在であるのに、その所有物がどのような経緯で売られ、そこにあるか説得力ある説明ができなければ認めることが難しいと考えます。
結論
以上に挙げたいくつかの類型によって、偽物であると断定できることが多いですが、専門家でも本物であるか偽物であるか、区別するのが困難であることもあります。ならば素人が本物だと思って信用したり、購入したりすることは避けるのが賢明です。
偽造品を掴まされ、それを善意でどこかの資料館に寄付してしまい、資料館側が恩義を感じて展示し続けてしまったとしたら、ねじれはいつまでも続くことになります。本物を見たければ東京国立博物館へ。出自のはっきりした物を見て、正しく感興を得るようにしたいものです。
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