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城の石垣は、穴太衆(あのうしゅう)によって組まれている。日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。石工衆(いしくしゅう)、石垣職人(いしがきしょくにん)とも称す。「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」である。
この穴太衆は、元来山に住んでいた山窩(サンカ)から由来してきている。
山の民は、山を治水工事し、整地し、そのすべてを石を使ってインフラを整えていた。
山城も山の民の居城を難攻不落の城に活用して造られていた。
その技術ははるか古代の日本の山の文化から受け継がれていた。
石垣の石をよく観察すると、近代に近いほど直線的なラインで造っており、時代を遡るほどに流動的な石の形とラインになっている。
この山窩(サンカ)の一族は、穴太衆や忍者や穢多や製薬など特殊な仕事をしていたという。
また、高度な製鉄技術を持っていた部族もあり、その異様ないでたちから鬼とも呼ばれていたと考えられる。
世界の石組の技術の源は磐座や日本ピラミッドからも日本なのかもしれない。
石工職人(フリーメイソン)よりもはるか古代の石の文明の末裔は、文字を持たずにコトツという口伝でその叡智を悟りを開いた者(アーリア)から受け継いでいた。
https://fmcfmc.exblog.jp/18181156/ 【『日本の深層』からとほうもない虚実のイリュージョンが浮かぶ】より
原日本人とは? との入り口に立ち、しばらく探ってゆくと、夥しい学説や、伝説が、それこそ「無限大」に広がり生半可な情報収集から収束できる代物ではないことを実感する。
それぞれ専門分野の研究者が唱える説は、どこかで整合したり、否定し合ったり、征服者と被征服者との虚実ない交ぜの織物のような記録であったりする。本物の記憶は、悲しいことだがイリュージョンの向にしかない。
原日本人といっても、2万年も前に日本列島に渡来した日本人にしかみつからない日本国有種としてのDNA・Y染色体(父系)パプログルーフは、縄文系日本人の40.4%がこの型という説あり。2012.10.21の記事に書いたコトコンドリアDNA(母系)では、縄文人に近いとされるアイヌ、沖縄の人々におおいタイプの割合が24.4%という説あり。古代より多種のDNAがすでに存在していて、大和朝廷誕生以前から混血人種であったであろうことを思わせる。
謎多い伝説的存在説もあるが、応仁天皇(201年)が大和朝廷の事実上の初代天皇と記紀に書かれているところからもそれが大和朝廷誕生の定説となっているようである。
大和朝廷(ヤマト王朝)誕生の地論争も謎の多い伝説ではあるが、この記事では主題と離れるので省くことにする。
主に、大和朝廷(これも渡来人)の支配力の拡大と、原日本人との支配と被支配における被支配者側の痛ましい運命の悲哀。阿久悠の本の題名『清らかな厭世』という言葉に秘められた日本の深層を想像してみることにしたい。
私の調べた資料では、大和朝廷は南(九州方面)から北に向かって大和朝廷に反抗した勢力を征服していったとある。
その対象となったのは、それ以前から住んでいた原日本人といわれる曖昧な謎をもった混血種族となっている。私は、その人たちが実在したと想像のなかで確認した。
南から征服していった大和朝廷のそれらしい資料を漁ると、現熊本県周辺にいた「熊襲」(くまそ)、古代には薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に大和政権に反抗した隼人(はやと)もいた。隼人は後大和政権に溶け込んでいる。また、後に大和朝廷の協力者となり統一されていった大分、広島、岡山、富山の「佐伯」(さえき、さいき)一族もいた。古代海部の傾倒をひく水軍の末裔として、西九州から瀬戸内海沿岸から、五島列島一円、別府温泉では湯泊船と呼ばれ、別府の春の風物詩とまでいわれた「家船」(えぶね)という漂流漁民もいた。ずっと後の幕藩体制以後陸上生活を余儀なくされ消滅している。
古代奈良吉野地方や茨城県にいたといわれる原日本人系の「くず」(葛)→クズ→(屑)などと表記された族は、かなり大和朝廷を手こずらせたが、最終的には完全に服従させられている。
さらに古代出雲においては、大和朝廷の政略的成立との謎が蠢く歴史がある。出雲系邪馬台国から、天照系大和朝廷への王権の移行。縄文と弥生を結んでいった出雲があり、以後大和朝廷正史から邪馬台国──卑弥呼は消える。本来出雲国+伯耆国はそれなりに独立した律令制をそなえていたと考えられ、その弱体化政策のため2国分断をやった大和朝廷。荒ぶるヤマタノオロチ退治伝説も、奥出雲に強い勢力をもっていた砂鉄採集豪族を滅ぼした話として有名である。鉄を制する者は国を制すると考えられ、以前このブログに書いた砂鉄→和鋼・玉鋼→日本刀につながる。
さらにその古代には、遠くエジブトにいたユダヤの13民族がエジブト人に迫害され、全世界に離散した。ある伝説によると、そのなかの一つゆくえしれずの民が日本に流れ着いたと。
今年、ヨーロッパ古楽を歌う岡庭矢宵(Vocal)と編曲海沼正利によって日本に紹介されたユダヤ人老婆の歌『セファルディ・ユダヤ──魂の紡ぐ歌』は、悲惨なユダヤ民族の魂の震えだった。
「私は彼女の驚くべき声を聴き、それはまだ私の体の内にこだましている。彼女は魂の底から歌い上げ、それは聴く者の心の中に染みわたってゆく。その素晴らしい声と魅力的な個性で、彼女はこのラディーノ(セファルディ)の歌の、新たなる世界を生み出した」と紹介している。
伊勢神宮に祀られている八咫の鏡の裏にはユダヤ教聖書の一節がヘブライ語で書かれ、歴代の天皇でさえ見られないとされているとか。また伊勢神宮の参道の石の灯籠には、今でもユダヤのマーク(現ユダヤ国旗)が歴然とある話。
先の岡庭矢宵氏によれば、ユダヤ老女のメロディには、どこか日本人の私にとって懐かしいものだったと日経新聞の文化のぺージで書いていた。
その後大和朝廷の勢力は、北へと拡大してゆく。
そして東北の蝦夷(えみし・さらにその昔は毛人と書かれた)との大和朝廷本州最後の制覇の大山場「蝦夷征伐」が行われる。長い闘いの末大和朝廷に征服された原日本人系の縄文人の血(DNA)を引いた種族は、全国に飛散した。以後渡来して弥生文化を形成した種族と混血となったり、依然採集狩猟不定住の生活を守った者、山の民として頑固に暮らした者などに分かれていった。
この話は、現在の東北、奥州平泉文化、これ以降の、またそれ以前の東北と深く関わっていることは事実。でもその史実は明らかではない。
なかでも一部被差別部落とかかわるサンカ(「山窩」「山家」「三家」「散家」など)地方によってさまざまに呼ばれた不特定の人々ののっぴきならない生きざまともつながっている。ところがこの説は1902年(明示36年)から1971年(昭和46年)に生きた小説家三角寬の創作的色彩も色濃いいともいわれ真偽のほど明らかでない。史実をベースとする歴史小説としては難しい。フイクツョンも許される時代小説としても、時代考証は必須の面から、突っ込むと被差別部落人権問題に及ぶ。だからこの問題を突っ込むことはタブーとなって今日にいたっている。
ところが、どこの国にもあった国家形成にいたる覇権→統治(ガバナンス)→征服し行く者・される者の飛散と哀しみが、強烈な民族の種族の部族の記憶となって「深層の心の奥に澱のように記憶されている」それが梅原日本学の『日本の深層』であることに間違いはない。
前号で挙げた民俗学者柳田国男の『遠野物語』。そしてこの『日本の深層』などなど、深い哀しみを内奥に沈めて生きた悲しい原日本人の魂の叫びが聞こえてくる。
他国における征服者は、原住民の信仰対象となる宗教心になじみながら征服していった国家もあるが、大和朝廷の征服課程はどうだったのかと思ったりする。原日本人は自然崇拝の古神道だったらしいが、聖徳太子は、律令制のバックボーンに佛教を導入した。律令制そのものが統治(ガバナンス=他民族をまとめる掟)であるのだから。
それこそ、『日本の深層』にある、日本の故郷ととしての東北、そして北の歌。
演歌に込められた運命とさえいえる東北人の「清らかな厭世」を思わずにはいられない。
このつづきは、私が3.11から響き寄せられた東北人の魂の叫びとして受け取った感性を綴りたい。
小林秀雄の言葉「文学は走り去る哀しみである」が身に染みる。
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「かごめ かごめ籠の中の鳥は何時何時でやる夜明けの晩に鶴と亀が滑った後ろの正面だーれ」この『かごめの歌』は、生命の誕生⇒宇宙の誕生⇒モノの誕生を歌ったモノ。
カタカムナによる読み解き
〈カゴメとは〉受精卵のこと〈かごめ、かごめ、とは〉屈め、囲め、のこと
胎児のように屈んだ鬼をたくさんの子どもたち(精子)が囲む情景は、子宮の内部の様子を顕す。
〈籠の中の鳥、とは〉
籠とは、核(子宮の力)鳥とは、卵子と精子が統合して、はなれること、すなわち、胎児のこと。
〈何時、とは〉
イツ⇒意識の集まり イは電子の意味も持つ
〈夜明けの晩に、とは〉
ヨアケノバンニ⇒新しい生命が放出すべく、時間を経て大きく引き合い、圧がかかる。
〈鶴と亀が滑った、とは〉
鶴⇒弦(つる)、へその緒のついた生まれ出る直前の胎児のこと。亀⇒瓶(かめ)、子宮内部のこと。
〈後ろの正面、とは〉隠れてゐたもの、裏側(子宮)の入口のこと。ウラの反対側の面。
〈だーれ、とは〉
子宮から胎児が分れて、子宮の中から消えること、すなわち、子宮の外に顕れること⇒オモテに出る、誕生
卵子と精子が統合し、生命が誕生する。
陰という氣と、陽という氣が統合し、宇宙が誕生する。
かごめの歌の示唆してゐるモノとは、すべてのモノ(宇宙)の誕生、統合のこと。
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/11/tanken68.html 【(68)隼人の盾】より
九州に息づく伝統文様?
皆さんは奈良文化財研究所のシンボルマークをご存じですか? 大極殿や飛鳥美人? はたまた鹿のマーク?
答えは、赤白黒の3色で描かれた逆S字の下にギザギザ文様のあるマークです。これは平城宮跡出土の「隼人の盾」の文様をデザイン化したものです。出土品の文様と平安時代の史料に書かれた隼人の盾の特徴が一致したため、隼人の盾とわかりました。
隼人とは、古代の南九州地方に住んだ人びとのこと。律令国家の制度に組み込まれて、隼人司という役所に勤務し、独特の歌舞を演奏したり、竹細工を生産したりしていました。元日や天皇即位の儀式では、犬の吠(ほ)える声をまねて、邪悪なものを追い払う役目を果たしました。
話は200年ほど遡ります。5~6世紀の福岡県や熊本県地方には、壁画を描いた装飾古墳が数多く造られました。その壁画の文様には、赤白黒の顔料で鮮やかに描かれたS字のような蕨手(わらびて)文や三角形文、そしてギザギザ文様など、隼人の盾と似た文様が数多く見られます。
それら装飾古墳の場所と隼人が住んだ地域は少し異なり、時代も違いますが、同じ九州のよく似た文様を見ると、時代を越えた不思議な伝統が息づいているように私には見えるのですが・・・。
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