後藤寿庵

https://shima-syuji.com/2019/02/28/post-2818/ 【広瀬河原の殉教 カルバリヨ神父と後藤寿庵】

https://miyagi-yonekawa.com/pdf/yonekawa_32.pdf 【隠れキリシタンと製鉄】より 

宗教が違うだけで、人々は苦しみ、仲間はずれにされ、そして殺されてしまうことがあります。遠い昔、登米市東和町と岩手県藤沢町に、国と地域の発展のために尽くした人々がいました。島原の乱から始まったキリスト教信者に対する厳しい弾圧・・・・・しかし、その弾圧からのがれた人々がいたのです。そして逆に、保護されたという事実があります。なぜ弾圧からのがれ保護されたのでしょう。

1549年、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルがキリスト教を広めるため、鹿児島に上陸しました。ザビエルは、岡山・山口・大分・広島などで布教活動をし、2年後に帰りました。当時、狼河原村(今の東和町米川地区)に千葉土佐という人物が住んでいました。土佐は「関西の方では、南蛮流の製鉄法が盛んだと聞いている。自分もこの土地で製鉄をやってみたい」と思ったのです。土佐は、1558年、今の岡山県から、布留大八郎とその弟小八郎を招いて、この地に住まわせました。そして千松沢で製鉄を始めたのです。この製鉄の技術を大八郎とその弟小八郎から伝授してもらった人たちが千葉土佐を含めた8人でした。当時製鉄する場所を烱屋(どうや)と呼んだことから、この人々を「烱屋八人衆」と呼びました。

大八郎兄弟に教えを受けて製鉄を始めたのですが、鉄が溶けるまでには相当長い時間がかかりました。この時、あるお呪いを唱えると、鉄がよく溶けるということを教えられました。その唱えごとをしたら、本当によく溶けたのです。たぶん、その唱えごととは、キリスト教の教えと祈りのことばだったのでしょう。烱屋の経営者は、製鉄のためには喜んでこの教えを受けました。実はこの二人の兄弟がキリシタンであり、西洋からキリスト教を通じてこの製鉄法が導入されたのでした。 同時に炭焼きの技術も伝わったのです。 大八郎兄弟の教え

た製鉄法とは、「たたら式」といいます。またの名を南蛮流製鉄法といって、従来の方法の数倍の生産力がありました。また、燃料には質の高い木炭がかかせませんでした。最も鉄の生産量の多いときには、その範囲が岩手県磐井地方にも広がりました。当然のことながら、キリスト教も拡がっていったのです。

1596年からは、伊達政宗の住む岩出山城へ送られ、仙台城を作るためにも使われました。このことが基で、鉄は伊達藩の最も重要な産物となりました。1598年、秀吉から「荒鉄2400貫(9000㎏)を大阪城に送れ」という書状が政宗に届き、狼河原村、大籠村の鉄を大阪城に送りました。秀吉は、検地と一緒に天下の産物までも調査したと考えられています。狼河原村の月山屋敷を江戸城の役人と、伊達藩の役人の御宿として指定したことから、政宗や秀吉と同様に家康も大きな関心を持っていたことがわかります。

1611年、伊達政宗は、江戸からルイス・ソテロを迎えました。ソテロの話を聞いた政宗は、西洋文化のすばらしさと、キリスト教の精神の崇高さに心をうたれ、教会を建ててその布教を許したのです。大八郎兄弟が布教を始めてから53年後のことでした。ポルトガル貿易を優先した江戸幕府も、1612年、幕府直属の家臣と江戸におけるキリシタンの禁教令をだしたのです。1613年政宗は外国との貿易を志し、家康の許可をえて支倉常長をスペ

インに派遣しました。このとき一緒に後藤寿庵という人物も行ったのです。

その次の年、キリスト教信者に対する弾圧が、伊達藩にも開始されるようになりました。しかし、伊達藩は製鉄の保護という意味から、キリシタンを見てみぬふりしました。当時、伊達藩では、鉄砲を作るための原料や農地を耕すためのすきやくわの原料として鉄が必要だったのです。この時代に作られた「菊一」「菊上」といった鍬の一部が今も残っています。(つづく)

https://miyagi-yonekawa.com/pdf/yonekawa_33.pdf  【隠れキリシタンと製鉄 その2】より

当時、伊達藩の鉄の生産量は全国一であったと考えられ、徳川幕府から「伊達恐るべし」と思われたのです。そのため、伊達藩内のキリスト教信者への弾圧は、特に厳しくなりました。1624年の正月に、仙台の広瀬川でカルバリヨ神父ほか8名の人が、真冬、水牢の中で殉教しました。伊達藩では禁教が厳しくなるとすぐ、主だった武士や神父にたいして転宗を呼び掛けました。そして、この中には、熱心なキリスト教信者で伊達藩士である後藤寿庵もはいっていました。しかし、後藤寿庵は転宗しませんでした。討っ手として向かわせられた片倉小十郎は、7日間で着くところを途中で狩をして一か月もかけ、後藤寿庵の逃走を助けたと言われています。

1636年政宗が亡くなり、製鉄に努力し伊達藩のためにつくした人々の住む狼河原村や大籠村にも弾圧は及びました。1639年と40年に多くの殉教者が真っ赤な血を谷川に流したのが、この地蔵の辻です。地蔵の辻の処刑の時に、役人がこの石の上に腰をおろし、処刑されていく人々を一人一人確かめたものと伝えられています。

この地方での最初の大処刑地だったのです。1640年にはこの「上の刑場」で94名の殉教者が葬られました。 祭畑刑場では、逃げた人々を鉄砲で撃ち殺したと伝えられています。この2年間に合わせて300名ものキリシタンが殉死しました。製鉄を行うキリシタン全員を保護したかった伊達藩も、幕府の命令に背くことができなかったのでしょう。しかし、多くの人々が処刑されたにもかかわらず、烱屋(どうや)八人衆とその家族は一人も処刑されなかったのです。伊達藩の第一の特産物である製鉄に優れた技術を持っていたため烱屋八人衆は救われたのです。

この弾圧にも屈せず、人々は山の中に洞窟を掘ってキリスト教の信仰を続けました。大柄沢烱屋で働く人々などが、隠れキリシタンとして信仰を行ったのです。大柄沢烱屋で働く人々を見送るような方向に向かってマリア観音像が立てられています。信者の人々は朝夕の通りにこのマリア観音像を拝んで通ったのでしょう。弾圧のため一度はばらばらになった隠れキリシタンが、再び製鉄を行うために、狼河原村と大籠村に集まるようになったのです。同時に、キリシタンの数も再び増えていきました。烱屋は、谷川沿いの平らなところに作られました。今は田んぼですが、以前は烱屋があった場所です。この場所の上の方に石の小さなお宮が見えます。土地の人たちはここを通称「はやり神様」と言い、大八郎兄弟が布教をしたところだと言われています。キリスト教だと知られないように「はやり神様」と言って、カモフラージュしたのでしょう。そして人々は隠れ部屋を作り、フランシスコ・バラヤス神父を保護しました。また、苦行仏に似せて作ったキリスト像・・・・・箱丁位牌という位牌の箱のふたの裏に十字架を描いたりしながら信仰を続けました。何のへんてつもない石の裏に十字架を刻んだ石・・・・・表を見ただけでは普通の仏像と変わらず、裏には立派な十字架がついている鉄製の仏像など、多くの隠れキリシタンの苦労を知ることができます。

1639年に始まった大弾圧から70年ほど後の亨保年間に、海無沢で120人が処刑され、40人位ずつ三か所にお経と共に埋められました。これが三経塚と呼ばれています。この三経塚の処刑を機会に、隠れキリシタンの信者も少しずつ減っていったのです。 しかし、製鉄は明治時代までも続き、この地方に潤いをもたらしました。製鉄は伊達藩の発展に役立ったばかりでなく、日本の国の発展のために大きな役割を果たしたことは言うまでもあり

ません。いつの時代でも多くの人々の苦労や犠牲によって、土地が栄え,歴史がつづられていくことを忘れてはならないのです。 (おわり)

   参考文献  ・「洞窟は待っていた」 仙北隠れキリシタン物語  沼倉良之著

・大籠の切支丹と製鉄     岩手県藤沢町文化振興会


https://miyagi-yonekawa.com/pdf/yonekawa_27.pdf 【歴史探訪シリーズ 後藤寿庵の最期】より

後藤寿庵の生涯は、波瀾に満ちたものだった。逃亡後の動向も気にかかるところだが、日本側にもヨーロッパ側にも記録が少ない。残された関係記録から推定すると、逃亡先だった南部に滞在したことは確かのようだ。寛永12年(1635)に捕えられた「寿庵の弟子」の多くは、南部で寿庵が、残留している信徒や、潜入している神父などと連絡をとっていたことをほのめかしている。

後藤寿庵の最後については、何の記録もない。鈴木省三翁は、当時仙台の後藤の領地に所属していた、三照にある正源寺に寿庵の墓があると主張されていたが、三照と見分を取り違えていることがわかったので、この説には根拠がない。

他の巷説によれば、後藤寿庵は貞亨3年、88歳でキリシタンとして堀切村で処刑されたと「寿庵堰由来」にある。しかし、寿庵のキリシタンに関する記録などから調査すると信憑性に乏しい。

宮城県では、米川村(現東和町)の切明部落に切支丹類族帳が保存されている。これによると、先祖がもとキリシタンであった後藤家が残っている。改宗したキリシタンの子孫の「類族」は、毎年2回、役所に類族帳を提出して出産や死亡、婚姻等の変動を届け出て、その上自分はキリシタンではないと誓詞を改めねばならなかった。享保年間の類族帳には後藤家がでており、詳細な経歴が記載されている。その家族は、71歳の正蔵とその弟長助(68歳)八助(55歳)並びにその妻と3人の子供だった。次男の後藤権平には子供がなかったので、元文3年(1738)に及川甚平という者を養子にした。養子縁組の通知は今も及川家に保存されている。

この後藤正蔵が寿庵の孫に当たるのではないか推定される。

この推定を裏付ける資料はないが、家伝によれば、先祖は南部から逃亡してきて、結局捕えられて処刑されたという。この説が正しいとすると、後藤寿庵は寛永12年(1635)、南部にいったん逃亡したあと、また仙台領の米川にこっそりと逃れて来て、百姓となって定住したことになる。彼はキリシタンとして処刑されたが、子孫は改宗して事なきを得たのだろう。

大正13年(1924)、皇太子殿下のご成婚の式典に、伊達家と領内8人の功労者が栄誉の褒章を受けた。この日、後藤寿庵は死後300年を経たが、従五位を賜った。そして昭和5年、見分の彼の居住地の後に小公園が設けられた。記念碑が立てられ、日本語とラテン語で寿庵の功績が記録されている。

       【みちのくキリシタン物語(只野 淳 春秋社) より抜粋】

https://sendai-shirayuri.ac.jp/news/20200129_112654.html 【NHK番組で紹介された「東北キリシタン」講演会を開催(カトリック研究所)】より

 本学カトリック研究所では、1月25日(土)の午後、「現代につながる隠れキリシタン」と題して、高橋陽子先生、佐藤和賀子先生による講演会を開催しました。「隠れキリシタン」といえば長崎を思い浮かべますが、実は東北には、バチカンから列福された53名の殉教者を含めて、かつてキリシタンが数多く存在しました。「東北の隠れキリシタン」については、1月17日放映のNHK番組「ものほん 噂の東北見聞録」でも紹介されるなど、スポットライトが当てられつつありますが、真相は謎に包まれており、未解明の部分も多く、かえって好奇心をかきたてられます。

 今回は「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹、製鉄を通じ布教」と昭和26年に河北新報で報じられた大籠、馬籠のキリシタンの足跡をたどる高橋先生、「隠れキリシタンの里」米川での布教について、沼倉たまきが創刊した「米川新聞」の記事を分析しながら、当該地に特有の信仰の在り方を考察する佐藤先生のお話に多くのご来場の方々が聞き入っておられました。

  

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