https://plaza.rakuten.co.jp/sachibon/diary/201004080000/?scid=we_blg_pc_lastctgy_1_title 【芭蕉と曾良がアヤシイ件】より
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)は江戸時代前期の俳諧師(はいかいし)。
寛永21年(1644年)生まれということは、政宗公没7年後の誕生ですね。
現在の三重県伊賀市出身であることから、忍者説などがささやかれてますけど。
最近の研究では、芭蕉と曾良の旅は’偵察の旅’で『奥の細道』は紀行本ではなく仙台藩の内部を記した報告書だなどどいわれているらしいです。
仙台藩に入って、出発のときに詠んだ句が「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛しているにもかかわらず、松島では1句も詠まずに1泊して通過しているという異様な行程は有名な話です。
「松島や あぁ松島や 松島や」という誰もが知る句も、芭蕉が詠んだものではないことが解明されてます。
このふたりにとって、松島の風景なんかどーでもよかったみたいな。。。
そのかわり、仙台藩の軍事要塞「瑞巌寺」や藩の商業港「石巻港」を執拗に見物したことが『曾良旅日記』に記されているそうです。
『奥の細道』は、芸術活動ナンタラではなかったと。
このふたりの旅の目的はズバリ、仙台藩の財宝探し じゃないすか~?
キリシタン関係じゃないすか~?
ツネさんが持ち帰っていろはが隠したすんぎょいもの。
和訳の取り説ついたやつ。
http://miyagitabi.com/motoyosi/ooyakinzan/index.html 【<大谷金山跡>】より
本吉町の北部にある鉱山跡地です。採掘の歴史は平安時代中期にまでさかのぼるとされ、奥州藤原氏の黄金文化を支えたともいわれています。往時の採掘法は一般的だった水流堀であったとされ、その痕跡も認められ日本の鉱山史でも貴重な資料としても知られています。
この鉱山の最盛期は、平安時代末期ごろであったといわれ、この鉱山を中心に津谷・赤岩・馬籠(まごめ)・入谷(いりや)などへと広がっていき、その金は「本吉金」とよばれ、珍重されていたといわれています。
大谷・宮城・御岳(みたけ)などでは、昭和の初めころまで採掘がおこなわれていました。
また、これらの精錬に従事したのは主に欧米文化を吸収したキリスト教徒たちで「異教の禁」では大弾圧を受け、多くの殉教者を出したところでもあります。(本吉・登米市東和地区・岩手県藤沢町は隠れキリシタンの里として知られています。
江戸時代以降の仙台藩の有力な財源として、その後の地域の経済を支える産業として戦前まで掘り続けられていましたが資源の枯渇などにより、昭和51年に廃鉱となり、その歴史に幕を引きました。
<大谷鉱山資料館>
この資料館は、本吉町の発展に大きく貢献した金山の歴史を残し、観光振興や地域学習を促進するために、2005年4月1日に作られた施設です。大谷鉱山は、1905年に試掘鉱区が設定され、1930年頃には国内有数の金山として広く知られていました。1942年には従業員1,303人を数え、年間1トンの産金量を誇っていました。しかし資源の枯渇から昭和46年に精錬所を残して閉山、昭和51年に全面閉鎖となりました。
鉱山跡地に建てたこの資料館は、大谷鉱山資料収集保存庫に保管していた採掘・運搬機器のほか、元従業員らが提供した操業時の写真パネルなどが展示されています。
大谷金山跡の風景
廃墟好きのミホには、たまらない場所♪機会があれば中に入ってみたいな!!と本気で思ってたりしています。
廃鉱跡には柵などが見当たらなかったので、中に入れたりして・・(笑)
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