https://ameblo.jp/meiji-9nen-umare/entry-12304034474.html 【神武天皇、八咫烏、松尾芭蕉1】より
神武天皇とは、日本の初代天皇とされる人物である。実在の人物かどうかは謎が多く、現在では伝説上の人物であろう、というのが定説であるが、彼の生前の名は「カンヤマトイワレヒコノミコト」といい、神武という名前は諡号(しごう、すなわち死後に付けられる名前。贈り名のこと)だったなど、伝説上の人物にしては、伝わっていることが具体的だ。
「記紀」によればニニギノミコトの曾孫,ウガヤフキアエズノミコトの子,母は妃タマヨリヒメノミコト。日向を出発して瀬戸内海を東進し,難波に上陸したが,ナガスネヒコの軍に妨げられ,迂回して吉野を経て大和に攻め入り,ついに大和一帯を平定する。前 660年大和畝傍橿原宮に都し,元旦に即位し,ヒメタタライスズヒメノミコトを立てて皇后とし,127歳(!!)で没したと伝えられるが、これは『日本書紀』の紀年法の誤りからきたものであろうと言われる。まあ、そうだろうな。いくらスーパーマンみたいな人でも、あの時代に127歳はないだろうから(笑)
考古学的にみれば原始社会の段階における大和の一土豪として喧伝されてきた話をこんな形で描いたものであろうといわれ、その東征説話も大和朝廷の発展期における皇室の淵源を悠遠のかなたにおき九州と大和との連係の必然性をうたおうとしたものであろうといわれている。神武天皇の陵墓は、奈良県橿原市の畝傍山東北陵にある。
また、八咫烏(やたがらす)とは、神武天皇東征のとき、 熊野から大和に入る険路の先導となったという伝説上の大カラスで、三本足とされる。八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したことから、導きの神として信仰され、また、太陽の化身であるとも言われる。
なお、熊野三山においてカラスはミサキ神(日本の神、悪霊、精霊などの神霊の出現前に現れる霊的存在。名称は主神の先鋒を意味する「御先」(みさき)に由来する)とされており、八咫烏は熊野大神に仕える存在として信仰され、熊野のシンボルともされる。
私は古代史好きとして、神武天皇と八咫烏にはずっと興味を持っていたのだが、最近「おやっ!?」と思うようなことをいくつか耳目にした。いずれも真偽不明な都市伝説みたいな話なのだが、面白いので、今日はそのことについて触れてみようと思う。
まず、これは日本だけの話ではなく、あらゆる古代文明に共通して見られることなのだが、埴輪や土偶みたいな昔の人が作った人形の中に、明らかに普通の人間とは違う容姿の、爬虫類か宇宙人みたいな顔の人形や像があったりするのだ。
私自身は信じていないが、オカルト好きな人の中には、人間は類人猿から原人に進化し、今の人類になったという、今地球に住んでいる普通の人間だけではなく、恐竜が進化して人間になった、いわゆる爬虫類人間というのも存在する、と信じている人々もいるのである。彼らの主張によれば、爬虫類人間の進化は自然の進化ではなく、邪悪な宇宙人の遺伝子操作により恐竜が人間に進化したのだという。そうした爬虫類人間は普段は普通の人間に成り済ましているが、真の姿は鱗に覆われた爬虫類の姿なのだという。彼ら(爬虫類人間)の目的は地球の征服と支配であるため、何の力もない一般人にはならず、王族や皇室、代々のアメリカ大統領や、大富豪などの権力者に身をやつしているという。
「何のこっちゃ!?」と思われるかも知れないが、いい年した大人でもそういうことを真剣に信じていて、そういう本を出したりしている人も結構いるのだ。いわゆる陰謀論者といわれる人々である。
彼らによれば、英国王室、日本の皇室、クリントンや、ブッシュやオバマなどの歴代アメリカ大統領全員、イルミナティの構成員やユダヤ人全員が全て爬虫類人間なのだそうだ。陰謀論者によれば、ダイアナ妃が亡くなったのも、王室の人々が普通の人間ではなくトカゲであることをメディアに発表しようとして消されたのだという珍説を信じているらしい。
爬虫類人間というのは、普段は完璧に普通の人間に成り済ましているが、何かの拍子に変身が解けて、本当の姿を表すこともあり、その瞬間をとらえた写真や動画も結構あるという。
私もその手の写真や動画を見てみたのだが、心霊写真と同じで、「まあ、そんな風に見ようと思えば見えなくもないかな~?」というレベルのものが大半だった。中には洒落にならないくらい気持ち悪いのもあったが。
変身が解ける時、爬虫類人間は、目の黒目の部分(瞳孔)が蛇やトカゲのように縦長になったり、長くて先の割れた蛇のような舌をチロチロ出したりするのだそうだ。私が見たある動画では、海外のメディアでレポーターをしている黒人男性が、レポート中にいきなり口ごもり、まるで嘔吐するかのような苦しそうな声を出し、口元を手で隠そうとしたその刹那、彼の口から、蛇のような、先の割れた、紫色のグロテスクな長い舌がベロォ~ッと出てしまうというものだった。あの動画が偽物か本物かはわからない。が、気色の悪い、悪趣味な映像なのは確かだと思った。
メディアや芸能界の世界にも爬虫類人間は多いのだそうだ。彼らの特徴として、情愛やモラルがなく、目立つこと、人の上に立つことを好み、性欲や支配欲や権力欲が強く冷血な性格であるという。
エリザベス女王が正体を表した瞬間をとらえた、とされる写真もたくさんあったが、私には角度や光の加減をこじつけているようにしか見えなかった。興味のある方はご覧になってみてはいかがだろうか?見たところで何のプラスにもならないと思うが。
それらは余りにも荒唐無稽な話なので、私にはそうした陰謀論者らの主張は受け入れかねる。が、世の中には、学校で教わる以外の進化論を信じている人もいるのだということは理解出来た。
また、人によっては、地球の中心部は空洞になっていて、地下世界があり、そこに地底人(爬虫類人間)が住んでいると信じている人もいるのだ。
昔、子供の頃、藤子不二夫先生の「ドラえもん」を読んでいたら、地下世界を信じている人同士がその世界を共有する道具を使って遊ぶという話があったが、そんなノリなのだろうか・・・?
https://ameblo.jp/meiji-9nen-umare/entry-12304036961.html 【神武天皇、八咫烏、松尾芭蕉2】より
遺跡や古い神社仏閣に、普通の人間とは違う容姿の、爬虫類や宇宙人を思わせる像などがあることも、陰謀論者らにしてみれば「それ見たことか!!」ということになるらしい。だが、あれは河童や天狗や龍などのように、想像上の生き物なり、異形の者を像にしただけなのではないのか?
物事はこじつけようと思えばいくらでもこじつけられるし、かたくなに自身の妄想的世界に固執する人も世の中にはたくさんいるから、そこは「好きにやってくれ」としか言いようがない。
しかし、一部の陰謀論者の妄想は信じなくても、日本列島が龍の形をしていること、初代天皇である神武天皇の母親がタマヨリ姫(海神)であるということや、神武寺天皇と八咫烏との関係は、ちゃんと意味のあることなのだ。
タマヨリ姫は、玉依姫と書く。日本の各地の神社には、同じ名前の神様が祀られているが、この名は個人を指す固有名詞ではなく、巫女的霊能力を持った女神を総称して玉依姫と呼んでいるという説がある。
また、玉依姫の「玉依」とは「霊憑(たまより)」からきたとされ、霊憑とは「神霊が依り憑く」という意味である。
日本神話におけるタマヨリ姫は海神(わたつみのかみ)や龍神の娘であったり、それらの神を祀る巫女であったりする。タマヨリ姫を祭神とする神社は水に緑のある場所にある事が多い。
龍神は水神であり、水と関係性が深い事からタマヨリ姫も水の神または海の神とされている。
山幸・海幸神話においてのタマヨリ姫は、姉のトヨタマ姫と共に海神の娘として登場する。そして姉のトヨタマ姫が山幸彦と結婚し産んだ子を姉に代わって育て、その子が成人するとその妻となり、四人の子をもうける。
(その四人の子の一人こそがカムヤマトイワビレビコ、すなわち後の神武天皇である。)
また、三輪山伝説に登場するイクタマヨリヒメは三輪山のオオモノヌシとの間にクシミナカタを産み、その孫は鹿島神宮の神として知られているタケミカヅチである。
このように多くの子をもうけ、育てたエピソードを持つタマヨリ姫は子孫繁栄のシンボルともなっており、その事が聖母神(日本の国母)としての側面を強調している。
神武天皇は大和民族の英雄であり、スーパースターであり、超イケメンだったと私は思う。恐らく彼は、全身からオーラを発散する輝くような美男子だったのではないだろうか。龍神の末裔でもある彼には、その特徴もあったという。神武天皇の顔には鱗があった、との言い伝えがあるのだ。
邪悪な宇宙人に遺伝子操作されて恐竜から進化した闇の存在である爬虫類人間とは違い、彼は竜神系の人だったのだ。日本の皇室を爬虫類人間だと信じたい陰謀論者の皆さんには申し訳ないけれど。しかも、竜神の遺伝も初代から5代目までしか続かず、6代目の天皇からは龍の鱗のない普通の人間になったという。
神武天皇に始まり、神の意思によりこの日本を治めるよう定められた天皇家というのは、やはり意味のあるものなのだ。戦前のように、天皇個人を神と見なして崇拝する必要はないが、日本人ならば、天皇という地位や存在が、この国の根幹を成す重要なものであることを理解すべきだ。
では、初代天皇誕生にも関わる竜神とは何なのか?元々龍とは、中国において信じられていた架空の動物であったが、それが神格化されたものが竜神であり、雨・水などを司どるとされ、漁師は海神として信仰することが多いという。
さて、われわれが目にする天皇は、神道儀式を行う中心的存在、つまり、祭司である。しかも神道儀式にはいろいろあって、それらを間断なく行う必要があり、そういう儀式を祭司として行うだけでも、天皇は結構忙しいし、大変な仕事なのである。(だから、高齢となり、任務の遂行が困難になったから引退したいとおっしゃるのも致し方ないと思う)
明治時代は天皇は国家元首でもあったし、民主主義になってからの現在の天皇は、外交儀礼や民間の行事などに関わり、古来の儀式を十分に行う時間などない。
そのため、皇位継承などの重要行事は別として、その他の神道行事については、「裏の天皇」が表の天皇に代わって神道儀式を祭司として執り行ってきたという。その裏の天皇に率いられる組織が世界最古の秘密結社「八咫烏」なのだという。
八咫烏は、神武天皇を導いた聖鳥のことだということは前述したが、私はあくまで、その聖鳥について調べるつもりだった。だが、「八咫烏」というキーワードで検索したり、本を探したりしようとすると、その秘密結社も出て来てしまうのだ。
「一体何なんだ、こりゃ?」と思い、一応目を通してみると、爬虫類人間がどうのこうの言っている陰謀論者らとほぼ同じような人々が、秘密を検索の「八咫烏」のことも熱く語っていたようだ。だから、私はこれも眉唾物というか、都市伝説みたいな話なんだな、と気づいた。
しかし、ああいう人達の話というのは、にわかには信じがたい荒唐無稽な話ばかりだが、聞いている分には意外と面白かったりもするのだ。
昔よく、「やりすぎコージー」という番組でその手の都市伝説の特集をやっていて、わざわざイスラエルにロケに行ったりまでしていたが、私はあの番組が結構好きだった。だから、陰謀論者の皆さんの話も「信じるか信じないかはあなた次第です」というノリで、一種の芸みたいなものとして見てあげればいいのではないかと思う。私のように割り切れるタイプではない人は、本気で信じてしまって、のめり込んだりしてしまうのかも知れないが。ヨタ話に騙されてはいけないが、話が面白い限りは、目くじらを立てる必要もない気がする。
余談だが、あの番組でやたらとフリーメイソンの話(しかも、かなり突っ込んだ話)ばかりしていた芸人が、一切テレビに出なくなり、姿も見かけなくなった。まさかこの世から消されてしまったのだろうか?彼の身が心配である。
話がそれたので、元に戻そう。「八咫烏」の名前を持つ組織だけあって、彼らの仕事は天皇の守護とサポートであり、祭祀のいっさいを仕切るとともに自らも神道儀式を行うという。
八咫烏は現在も存在するが、どのようなことがあっても表に出ることはないという。彼らには名前も戸籍もなく、生きている普通の人間とは違う存在と見なされているからだ。無論、子どもが生まれても届けない。彼らにあるのはコードネームだけであり、これで個人を識別する。
そういう人たちを支える組織があれば、戸籍がなくても十分生きていくことは可能なのである。彼らは一般社会とは異なる世界に生きている人々なのだ。表の天皇には人前に出るので名前はあるが、姓や苗字はない。よって戸籍もない。戸籍法によると、一般から皇族に嫁ぐ人はそれまでの戸籍からは除籍される。そういう意味では、表の天皇や皇族も別の世界に生きている人々といえる。
秘密組織「八咫烏」の人数は70人前後で、組織の一員として、生まれた時から神道儀式全般、陰陽道、迦波羅(かばら呪術)を徹底的に仕込まれ、一生八咫烏の組織の一員としての使命を果たすそうだ。後で触れるが、まさに隠密や忍者みたいなものだ。
中核となる八咫烏は12人おり、「十二烏」といい、このメンバーに欠員が出ると、そのつど補充されるようになっている。それら12烏のさらに上に八咫烏の大ボスが3人おり、彼らは他の八咫烏から「大烏」または「三羽烏」と呼ばれている。裏天皇というのはこの三羽烏のことをいっているのだ。つまり、表の天皇は1人だが、裏の天皇は3人で1人なのだ。
もうひとつ、これらの三羽烏は別名を持っており、それを、「金鵄(きんし)」という。金鵄とは神武天皇の弓の上に止まり、敵の目を眩ませ、神武天皇を勝利に導いた鳥のことである。「金鵄勲章」の金鵄である。
https://ameblo.jp/meiji-9nen-umare/entry-12304107899.html 【神武天皇、八咫烏、松尾芭蕉3】より
迦波羅、すなわちカバラのシンボル、裏ドーマンは、ずばり十字である。陰陽道が九字を切るのに対して、迦波羅では十字を切る。この十字を切る所作は、キリスト教徒が祈りを捧げるさいに切る十字と同じだ。それだけでなく、いろいろなところにカバラには十字架が隠されている。それは何故か?
陰謀論者らによると、陰陽道は渡来文化であり、そのため、陰陽師は渡来人によって占められてきたのだが、中でも一番多いのは秦氏だという。
この秦氏というのがまた、かなり胡散臭いというか、厄介というか、謎多き一族なのである。彼らは大陸からやって来た渡来人の一族であり、聖徳太子にも仕えた、古代日本の文化発展に貢献した博学な人々なのだが、当時の唐や朝鮮から来た訳ではなく、人種的にも東アジア人ではなく、西アジアから来た一族らしいのだ。イラン、イラク、トルキスタン、クルディスタンなど色んな説はあるが、陰謀論者の皆さんが大好きな説は、秦氏がユダヤ人原始キリスト教徒であるとの説である。
秦氏イコールユダヤ人説は、陰謀論者だけでなく、トンデモ学者みたいな人も結構研究していたりして、色んな本も出ているから、ご興味のある方は読んでみられるといいと思う。私は「秦氏はユダヤ人だった!古代日本の文化や宗教に貢献したのが秦氏だから、日本人はユダヤ人なんだ!!」などという、いわゆる「日ユ同祖論」ほど下らない、単純で幼稚な、こじつけだらけの、あほみたいな、不愉快な説はないと思っているので、もちろん否定派である。
大体呪われた悪魔の民族であるユダヤ人と、神の民である日本人とでは根本から余りにも違い過ぎるし、無理矢理なこじつけ以外共通点など何もないのだから、同祖などあり得ないと思う。パキスタンやアフガニスタンにはユダヤ人の末裔もいるそうだが。例えば、若くしてノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんなどはそうらしい。
色んな角度から歴史を見ることは、画一的なプロパガンダに陥ったり、洗脳されたりしないためにもいいことだ。そういう多角的な歴史の知識や視点がない一番最悪なケースが今の韓国社会および朝鮮人だと思う。だから、あんな哀れな惨めな人間にならないためにも、知識として色んな説を見聞きしてみるのもいいと思う。自分がその説の否定派でも、話として面白ければ聞いてみるくらいはいいと私は思うのだ。
秦氏イコールユダヤ人説をとなえる人々によれば、ほぼこじつけだが、八幡とか、祇園とか、太秦とか、平安京とかはユダヤ教やユダヤの文化や言葉そのものなのだそうだ。秦氏は、神社仏閣の建立にも携わり、しかも、そうした神社仏閣は、秦氏の一族の者が神官や住職となっており、何かあった際、天皇を逃がし、匿うための拠点にすることも考えて作られたという。秦氏は、神社仏閣建立だけでなく、陰陽道や呪術にも長けており、さらに諜報活動にも長けていた。だから、陰陽師や忍者の祖は秦氏なのだそうだ。
私は日本中の神社を巡り、聖地巡礼の旅をしているのだが、色んな神社に行くたびに不思議に思っていたことがある。どの神社にも必ず源頼朝と松尾芭蕉の痕跡があることである。源頼朝は歴史に名高い神社ヲタクだから、彼の場合は純粋な信仰心から参拝や寄付をしていただけだろう。が、松尾芭蕉ってのは何なんだ、胡散臭せえおやじだな、と私は感じていた。
単なる俳人が何故日本中を旅する必要があったのか?何故日本中の神社に松尾芭蕉の痕跡があるのか?常に不思議に思っていたのだ。が、そう感じたのは私だけではなかったようだ。
あの狸おやじを怪しいと思い、調べてみた人が世の中には意外と大勢いたのだ。
松尾芭蕉は、俳人を隠れ蓑にした忍者であり全国を旅したのは諜報活動だった、とか、松尾芭蕉と服部半蔵が同一人物だとかいう説をお聞きになったことはないだろうか?
https://ameblo.jp/meiji-9nen-umare/entry-12304111771.html 【神武天皇、八咫烏、松尾芭蕉4】より
松尾芭蕉は1644年に、伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に、松尾与左衛門の次男として生まれた。先祖は福地氏で、天正伊賀の乱では織田信長方についた。伊賀はその後、藤堂藩の支配となる。
母方は百地三太夫の子孫で、確かに彼は忍者の家系出身だが、零落して苗字・帯刀は許されたものの、身分は農民で、藤堂藩では「無足人」と呼んだ。普段は農民なのだか、有事の際には武器・刀をもって馳せ参じ、武士となる、郷士のような存在の家に育ったのである。当時の三重県には、そのような身分の家が結構多かったらしい。
芭蕉が生まれたのは1644年で、平和になった時代であるため、太平の世に忍者は必要なくなり、江戸幕府の伊賀組となるか、藤堂家の家臣、もしくは百姓となるしかなかった。
芭蕉は俳諧を好む藤堂良忠に仕え、無足人から武士となった。この人物は藤堂藩の城代付侍大将である藤堂新七郎良清の三男であり、保田采女(藤堂采女)の一族で、服部半蔵のいとこに当たる。ちなみにこの人たちは上忍の家系で武士である。普通、忍者は中忍、下忍の身分の人物をさすのだ。
二歳上の良忠が松永貞徳や北村季吟に師事して俳諧を学び「蝉吟」という風流な号を持っていたことがきっかけで、芭蕉も影響をうけて俳諧を習う。ところが、主君の藤堂良忠は25歳の若さで逝去。23歳の松尾芭蕉は主君の遺骨を高野山に運び、この世の儚さを感じて武士をやめ、一所不在の身で俳諧の道に専念することにした。
つまり、松尾芭蕉は忍者の国で有名な伊賀の出身で、その後江戸、今の東京都江東区に移住した人であり、先祖は忍者だが、武士となり、そして俳諧師となった訳である。
服部半蔵とも近い縁があり、遠い先祖をたどれば、芭蕉も秦氏なのである。そして、芭蕉も秘密結社八咫烏のメンバーだったのではないかと言われているそうだ。
芭蕉の前半生は謎が多く、詳細はわからないが、彼は45歳の時、すなわち1689年に、弟子の河合曽良を伴い江戸をたち、奥羽・北陸への旅に出る。それは西行、能因などのいにしえの歌人たちと同じく、歌枕の地をおとずれ、俳諧にひたる旅だった。
そして、北陸路を巡り、同年9月に美濃(今の岐阜県大垣)まで旅をする。この旅した紀行文が有名な「奥の細道」なのである。
芭蕉の「奥の細道」旅行は、実はスパイ活動を目的としたものでは、という説がある。そうした説をとなえる人の根拠は、芭蕉の異常な健脚を挙げる。一日の移動距離がハンパない、これは普通の人間ではないのではないか?という訳だ。
「奥の細道」の旅は約2400キロにもわたり、一日に十数里も山や谷も歩いていた。毎日平均四里(約16キロ)を歩き、ときには一日に十数里(約40~50キロ)も歩いたというのだから、確かに凄い体力だ。
アーティストである俳人にそこまでの体力が必要なのか?と無駄に健脚だったために、彼は怪しまれたのだ。
しかし、現代の人間よりも、江戸時代の人間の方がよく歩き、健脚ではあったようだ。長距離を歩くための独特の歩き方、というか歩方が確率されていたという。例えば、当時の飛脚にはナンバ走りという独自の走法があり、忍者にも早歩きの秘術がつたわっていた。芭蕉が忍者ならば、若い頃から鍛えていた可能性はある。
しかし、お金のない庶民の旅とは違い、松尾芭蕉は有名人気アーティストであり、旅の行く先々で弟子や有力者(つまり、ファン達)に歓待された身分だ。ならば、徒歩の旅ばかりではなく、疲労したとき、駕籠を頼んだり、川を舟に乗って渡ったり出来たはずで、体力任せ・健脚頼みのハードな旅行だったとは限らない訳である。
尚、全くの蛇足情報だが、松尾芭蕉は生涯正式な結婚はしなかったようだが、内縁の妻はおり、子供も何人かいたらしい。また、東京の下町にあった芭蕉の小さな家は、現在は「芭蕉稲荷」という、稲荷神社になっている。神社というより、小さなお社といった風情だが、私としては、芭蕉プラス稲荷って、何か怖くてお参りに行く気にはならない(/_;)/~~。あと、「奥の細道」旅行で北陸に行った際、芭蕉は新潟と富山を間違えていた。というか、新潟のすぐ横が石川だと思っていたようなのだ。それだけでなく、まだ新潟で富山にすら入っていないのに、「加賀の国に来たぞおぉー!!」とテンションMAXになっていたらしいのだ(笑)「いや、ここまだ新潟っすよ」と誰かに冷たく突っ込まれていたことを願う。
https://ameblo.jp/meiji-9nen-umare/entry-12304113536.html 【神武天皇、八咫烏、松尾芭蕉5】より
平安以前の京都を語る上で欠かすことができない、賀茂氏という氏族がいる。賀茂氏(鴨、加毛とも書く)は、速須佐之男命の11世の孫の大鴨積命を祖とする出雲国の古代の氏族とされ、秦氏とは親戚(姻戚)関係にあたり、やはり陰陽道にたずさわる一族である。彼らは八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族であり、秘密結社「八咫烏」の元締めでもあるという。
天津神系とされる山城賀茂(京都市)の周辺にも、出雲郷という出雲系の地名が残っていることから、国津神系の出雲との関係が示唆される。
そして下鴨神社(京都市)や高鴨神社(奈良県御所市)をはじめ、当の賀茂関係各社や賀茂関係各者の記録や伝承によると、やはり先の八咫鳥の移動、つまり同族説を主張しているのである。
社の祭神である賀茂建角身命は宮崎県の日向から大和の葛城山に降りたとされている。それから、山城の京都府南部にある、現加茂町へ行き、木津川を上がって桂川へ行き、このまま桂川へ行くか、鴨川へ行くかを考えて、水がきれいだということで、鴨川へ来て住み着いたとされている。
賀茂氏は、水に関わりのある氏族だと言われているが、水との関連では、賀茂氏より秦氏の方が関わりが深い。なぜなら、秦氏というのは、桂川での水の実権を握っていたからだ。秦氏が京都で勢力を持ち始めたのは400年代の後半だと考えられている。その理由は 田辺氏が作られた市内の古墳の一覧図によると、秦氏が住んでいたされる嵯峨野に、古墳ができた時代が400年代の後半だからである。それ以前の古墳というのは、深草、八坂、向日町などで多く造られた。他の氏族が暮らしていた地域である。このことから、秦氏が勢力を持つようになった時代がわかるという。
603年に聖徳太子が国宝第1号である弥勒菩薩半伽思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)を「だれか、欲しい者はいないか」と尋ねたところ、秦河勝がもらって蜂岡寺を建設した。奈良時代において秦氏はかなりの権力を持っていたのだ。
秦氏は、平安遷都にも非常に大きな役割を果たした。長岡京と浪速宮のどちらに遷都するかが議論になり、最終的には長岡京に決まり、長岡京を作った時の主計局長(今でいう大蔵省の事務次官)は秦足長である。秦氏の家には天皇も泊まったとの記録もあり、秦氏は非常に天皇と近い存在だったと思われる。水を操り、農地を造り勢力を蓄えるなかで、平安京の遷都に深く関わる。水を操ることの大切さを示している事例である。
秦氏の姻戚である賀茂氏というのは、陰陽道の宗家であり、京都には賀茂神社がある。賀茂家の家紋は「葵」であり、賀茂家の祭礼は葵祭といわれ有名である。
賀茂氏の中でも、賀茂保憲 (かものやすのり)は有名な陰陽師であった。彼は、同じく陰陽師だった賀茂忠行の長男であり、暦博士、陰陽頭をへて、天徳4年天文博士、のち主計(かずえの)頭、穀倉院別当を歴任する。かの安倍晴明は彼の弟子であった。保徳の下で陰陽道を修行して、恐るべき才能を開花させたのである。天文道をつたえ以降陰陽道は賀茂・安倍両家によって分担された。保憲の著作である「暦林」は、現在でもカレンダー作成の際の参考にされており、暦作りにおいて、日本史に名を残した人物なのである。
日本の神社の総本山は言うまでもなく、伊勢神宮だが、これが表神道の頂点ということになる。これに対して、裏神道の頂点は京都の賀茂神社である。いい換えると賀茂神社は、裏神道の呪術、「迦波羅」(カバラ)の使い手の本拠地ということになる。
カバラとは、古代ユダヤの秘術が中国をへて、陰陽道や呪術として日本に伝わったものである。カバラの使い手を漢波羅というのだが、漢波羅はすべて賀茂氏なのである。その賀茂氏が崇拝する神社
の中枢が賀茂神社なのだ。
伊勢神宮の本殿は、「内宮」と「外宮」があり、その周りに数多くの別宮や摂社、末社が配置されているが、賀茂神社の本殿は、下鴨神社と上賀茂神社の2つであり、境内には数多くの摂社がある。これら2つの本殿は、「下上賀茂神社」(げじょうかも神社)というのだが、下鴨神社を「下賀茂神社」と表記しないことにも実は意味がある。
本来、賀茂氏の「カモ」は、「加茂」、「迦毛」、「加茂」、「可毛」などと表記するが、その真に意味するところは「鴨」である。
例えば、鴨長明は賀茂氏出身の人なのだが、彼の名字はズバリ「鴨」と表記している。つまり、鳥であるということである。
神道祭祀にかかわる氏族は、何らかのかたちでシンボルとして「鳥」と関わって来る。それは、鳥が天と地を行き来できる存在であり、神と人との間を取りもつ象徴として意義があるからである。
伊勢神宮と賀茂神社は表裏一体の関係にある。表の神道において全国の神社の頂点に立つのは伊勢神宮だが、裏神道においては、事実上全国の神社の頂点に立ち、実質的な権限を握っているのは賀茂神社なのである。いわば、神道界の総元締め的存在が賀茂神社といえるのだ。
何故なら、天皇が即位するためにもっとも重要な儀式といわれる「大嘗祭」を主催し、そのすべてを取り仕切っているのは、宮内庁でも伊勢神宮でもなく、京都の賀茂神社、それも、天皇の儀式のいっさいを執り行うのは下鴨神社なのである。
私は京都には何度も行ったことがあるが、上賀茂神社と下鴨神社にはまだ行ったことがなく、次回行ったら必ず参拝したいと思っている。物事には陰と陽、裏と表がある。私は、伊勢神宮を愛し、参拝しているのだから、裏からこの日本と皇室を支える八咫烏の本拠地ともいえる賀茂神社に行かない訳には行かない。
神武天皇を導いた八咫烏に化身した人物を祖に持ち、烏から鴨に名前を変え、陰陽道を極めた一族とは凄過ぎる。
神武天皇と、聖鳥八咫烏についてあれこれ調べているうちに、爬虫類人間やら、ユダヤやら、秦氏やらのことがあれこれわかって驚いたが、今までずっと胡散臭いと思っていた松尾芭蕉のこともわかって良かった。次にどこかの神社に行って、また松尾芭蕉の痕跡があったとしても、私はもう驚かないだろう。
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