徳川光圀と松尾芭蕉

芭蕉にとっての八咫烏はもしかして水戸光圀ではないでしょうか?

https://www.isad.or.jp/pdf/information_provision/information_provision/no96/66p.pdf   【黄門様と俳聖の水道工事・徳川光圀と松尾芭蕉 作家 堂 門 冬 二 連座】より

東京都文京区関口という地域に「関口芭蕉庵」という遺跡がある。元禄の俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が住んでいた家の跡だ。この近くに「神田上水取水口大洗堰跡」というのがあり説明板が立っている。これによると、江戸時代の上水はここに築かれた堰で水量を上げて、水道通りの水路に流される。そして小石川の後楽園で有名な水戸藩の江戸藩邸を抜けて、暗渠に入り水道橋を渡って神田方面に送水された、とある。そして、「この工事には、松尾芭蕉も参加したらしい」と伝えられる。事実だとすれば非常に興味深い。というのは、この説明板にある上水の通り道として、「小石川の江戸藩邸を抜けて」というのは、実をいえば黄門の別称で有名な徳川光囲が工事を施したものだからである。徳川光囲は水戸の第二代目藩主だ。黄門と呼ばれたのは、古代中国の唐という国で中納言のポストが別称黄門と呼ばれていた。御三家のひとつである水戸徳川家は、代々中納言のポストを得た。そのために"黄門様"と呼ばれた。したがって、黄門様は光囲だけではない。中納言という位を持つ公家や大名はすべて黄門様になる。しかし光囲だけが特別に有名になったのは、やはり明治年間から流行り出した『水戸黄門漫遊記』のせいだろう。ああいう事実はまったくない。というのはこの光囲が"天下の副将軍"と呼ばれたように、常に江戸城にいて五代将軍徳川綱吉の補佐をしなければならなかったからである。かれが水戸藩主になったのちも、在任中水戸に帰られたのはわずか一回か二回だったといわれる。したがって、公務を放り出して日本中歩きまわるなどということは絶対にあり得ない。あくまでもフィクションである。

その光囲が三十歳のときに、有名な"明暦の大火"に出会った。水戸藩邸も被害を受けた。

この年かれは駒込の中屋敷に『大日本史』を編さんする史局を設けた。大日本史の編さんには、正確な資料や古文書を使用するので光囲が何よりも心配したのは、「また江戸に大火が起って、これらの貴重な資料が焼けるようなことがあったら非常に困る」ということであった。そこでかれは明暦の大火の苦い経験に基づき、「江戸の水戸藩邸に、消火用水をたっぷりと保有したい」という願いを持った。このことを幕府に願い出た。御三家のいうことなので幕府も許可をした。

そこで、江戸市民の飲み水であった神田上水の一部を水戸藩邸を通るような分流を許可した。光囲はこの分流工事に熱意を示し、自分もたびたび工事に立ち会った。そして、

「ただ消火用水として水を保有するのはもったいない。庭の池にも流さそう」と考えた。分流はいったん藩邸に流れこみ池を通じて再び流れ出るという流路をつくった。

そして、この工事に参加していたのがのちの俳聖松尾芭蕉だという。若いころの芭蕉はまだ俳句の俳名がそれほど有名ではないので、やはり働いて生計費を得ていた。芭蕉にどれだけの工事技術があったのかはわからない。ただかれの生国は伊賀国(三重県)上野なので、ここは例の伊賀忍者のふるさとだ。忍者というのは単に忍術を使うだけではなく、情報収集と同時に生活に密着したいろいろな技術を持っていた。したがって伊賀国の国主であった藤堂家に仕えていた芭蕉には、そんな技術や知識があったのかもしれない。あるいは単なる"口雇い労務者"として参加していたのだろうか。歴史に"もしも"はない。しかしもしもこのとき、光囲と芭蕉が互いを知り合って、話をするようなことがあった歴史的事実があればこんな面白いことはない。黄門漫遊記よりもよほど興味深い。芭蕉が関口に住んでいたのは延宝五(1677)

年から約四年間だったという。かれが住んでいたのは当時"水番屋"と呼ばれる粗末な小屋風の家屋だったという。しかし水番屋という以上、おそらくここにある堰から配水の計画を立てたり、水を流したりする役割を負っていただろうから、芭蕉が若いころはかなり江戸の上水道にかかわりを持っていたことは確かだ。

徳川光囲の父頼房は寛文一(1661)年七月に死んだ。光囲は二代目の藩主になった。しかしすぐ

には水戸にいかなかった。かれの時代にもまだ、水戸城を中心とする領国(常陸国・茨城県)には、旧領主佐竹家の名残が非常に色濃く残っていたからである。佐竹家は関ヶ原の合戦のときに曖昧な態度を取ったため、徳川家康に憎まれて遠く秋田に転勤させられた。

石高も半分以下に減らされた。そのために秋田にいける家臣や商人は少なく、半分以上が常陸国に残留した。残留した旧佐竹家の武士や民は徳川家を恨んだ。したがってその一門であ水戸徳川家が入国したことに決してよい感情を持っていない。いつも、「帰れ徳川、出ていけ徳川」というシュプレヒコールを心の中であげていた。この反徳川感情は、初代の頼房だけでは処理できなかった。二代目光囲のときにもまだまだ残存していた。光囹は考えた。

(わたしが水戸城へ入る前に、常陸領民のきもちを和らげる必要がある。それには何をすれば

よいか?)ということだ。情報を集めてみると水戸の城下町にはよい上水がないという。粗末な水道があるが雨になれば濁って飲めない。地下水も質が悪い。光囲は過去の経験から、「よい飲み水を提供することが、反徳川感情を和らげることになるだろう」と思い立った。そこでこの方面に明るい部下に命じ、「わたしが入国する前に、水戸の城下町に良質の上水を提供する水道をつくっておけ」と命じた。命じられた部下は水戸へとび、近くでよい水を湧かせる水源を探し歩いた。やがて笠原の森というところで良質の湧水を発見した。工事が開始された。水路の全長は約十キロメートルである。斜面を利用して水が流れるようにした。工期はわずか一年足らずであった。上水道敷設を命ぜられた部下も、「殿がご入国前に、なんとかしてこの水道を完成させたい」と意欲に燃えていた。工事開始は寛文二(1662)年で、翌三年の七月下旬に完成した。この報告を受けた光囲はよろこび、翌三年七月二日にはじめて入国した。いままで反徳川感情で凝り固まっていた水戸の城下町市民たちが、水道をつくってくれた新しい殿様に歓迎の声をあげたのはいうまでもない。 

https://ameblo.jp/atobeban/entry-12013285841.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性①[服部半蔵と松尾家]】より

月日は百代はくたいの過くわ客かく(旅人)にして、行きかふ年もまた旅人なり

この名言を残して江戸を旅立った天才俳諧師。ご存知、松尾芭蕉です。

しかし、『奥の細道』として知られる陸奥・北陸への旅は、東北や北陸諸藩、とくに仙台伊達藩の内情を探るための隠密行だったという説があります。

さらにはそこから派生して芭蕉は忍者だったともいわれます。

本当に芭蕉は幕府の隠密だったのでしょうか。

彼は江戸・深川の芭蕉庵に居を構え、俳諧師として多くの門人をもったことで知られていますが、芭蕉が宗匠そうしょう(文芸の師匠)となるまでの前半生もまた、謎につつまれています。

今回は、『奥の細道』の謎と知られざる芭蕉の実像に迫ってみたいと思います。

 芭蕉を寛永二一年(1644)の生まれとする説が一般的です。

 伊賀上野赤坂町(現三重県伊賀市)で土豪の家の次男に生まれました。

 生家の身分は農民ながら、名字帯刀が許され、士分待遇が与えられています。

 伊賀の土豪といえば、戦国時代、伊賀忍者として名を馳せた存在でした。

 そして、伊賀の忍者といえば服部半蔵。その服部家と芭蕉の松尾家とは親戚関係にあったとされます。そのことが芭蕉を忍者とする理由の一つとなっています。


https://ameblo.jp/atobeban/entry-12014113070.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性②[蝉吟と宗房]】より

芭蕉は本名を甚七郎(諸説あり)といい、元服後、宗房という諱いみなをもらいます。

そして、この名乗りを音読みした「ソウボウ」が芭蕉の初期のころの俳号はいごうとなりました。その松尾宗房は藤堂良よし精きよに仕えました。当時伊賀は津藩藤堂家の領地で、良精は伊賀在住の津藩侍大将。芭蕉は良精の子息・良忠の近習となります。

主君の良忠は俳諧を好み、蝉吟せんぎんという俳号をもっていました。

芭蕉はこの主君の影響で俳諧の世界にのめりこむようになったのでしょう。

芭蕉が「松尾宗房」の名で俳諧選集(当時の俳諧雑誌)に初めて投稿したのが二一歳の時。

このときの句に「旅の宿」という文字がみえ、すでに多くの紀行文を世に残した芭蕉の片鱗が窺われます。

しかし、二三歳の時に主君の蝉吟が死去し、二九歳になった芭蕉は故郷の伊賀をあとに、江戸へ向かいます。

芭蕉はこのころ処女俳諧集となる『貝おほひ』を完成させ、その後、この処女俳諧集は江戸で出版されています。

芭蕉は小脇にこの処女作をかかえ、俳諧師で食っていく夢を抱いて江戸をめざしたのでしょう。 しかし、現実はそう甘くはありませんでした。


https://ameblo.jp/atobeban/entry-12014923536.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性③[神田上水のメンテナンス]】より

芭蕉は小脇に処女作の『貝おほひ』をかかえ、俳諧師で食っていく夢を抱いて江戸をめざしたのでしょう。しかし、現実はそう甘くはありません。

地方から上京した現代の若者がアルバイトで日銭を稼ぎつつ、夢に向けて一歩ずつ近づこうとするように、芭蕉もこのころ、さまざまな職に就いていた事実が窺えます。

たとえば、芭蕉に医師の免許証が伝授されていることを示す史料もあります。

江戸出府後、食えなくなった際の備えとして、医師の資格を取るために励んでいた芭蕉の姿が想像できるでしょう。

また、延宝八年(1680)のことですから、芭蕉が三七歳の時。

そのころ彼は俳号を「桃とう青せい」と号していましたが、六月十一日と二二日付の町触れ(町奉行から町人に出された文書)に桃青の名がみえます。

町触れには、神田上水の総払い(いまでいう修理補修)をおこなうため、「相対いたし候町々は、桃青(芭蕉)方へ、きっと申し渡すべく候」と書かれています。

芭蕉は幕府の末端の役人として、上水設備の管理にあたっていたのではないでしょうか。

したがって、町奉行所は、神田上水沿いの町々に、芭蕉の管理下に入るよう触れ渡しているのです。

しかし、このころ芭蕉は江戸の文壇である程度まで名をあげ、宗匠の地位にあったと考えられます。

同じ年の暮れ、彼は深川に草庵をむすび、本格的に俳諧師として活動しはじめるのです。

ちなみに、草庵は芭蕉庵と呼ばれますが、その名は草庵に植えられた芭蕉(バナナに似た多年草)に因み、そのころより芭蕉は「芭蕉庵桃青」と号すようになります。

やがて、生活にゆとりが生まれたのか、芭蕉は門人を連れ、幾度となく漂泊の旅へと出るようになりました。

かくして、日本文学史上名高い紀行文の名作『奥の細道』が誕生します。

元禄二年(1689)三月末、芭蕉四六歳の時、門人曾そ良らをともない、北関東・東北・北陸を巡りました。江戸の千住から美濃の大垣まで半年近い旅程でした。

ここで「芭蕉隠密説」の謎に迫ってみることにしましょう。


https://ameblo.jp/atobeban/entry-12016158222.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性④[神田上水と水戸屋敷]】より

ここからは「芭蕉隠密説」の謎に迫ってみます。

そもそも、半年間、日本を半周する贅沢な旅の費用はどこから出たのでしょうか。

行く先々で曾良が托鉢して回り、当時一流の文化人だった芭蕉がやはり行く先々で揮毫きごうし、旅費を稼いでいた面はあったでしょう。

また、いくばくかの貯えがあったのかもしれません。

しかし、芭蕉はしばし旅にでています。それでも貯えはあったのでしょうか。

やはり、疑問は残ります。

一方、前述したとおり、芭蕉は幕府の末端の役人として神田上水の管理にあたっていました。

神田上水は小石川上水を基もとに発展したとされ、その小石川には水戸徳川家の上屋敷があります。

そこから隠密説は次のような推理を働かせるのです…


https://ameblo.jp/atobeban/entry-12016945426.html 【『奥の細道』の謎と芭蕉の素性(最終回)[水戸藩への手紙]】より

そのころはまだ水戸黄門こと徳川光圀が健在でした。

そこで光圀は、俳諧の宗匠として売り出し中だった幕府の役人・芭蕉を小石川の藩邸へ招き、以来、光圀と芭蕉は交誼をむすびます。

その水戸藩の役目のひとつは、幕府にとって危険な“独眼竜伊達政宗”の子孫、つまり仙台伊達家の監視でした。

しかも、芭蕉が『奥の細道』を思い立ったころ、幕府は地震によって損壊した日光東照宮の改修を伊達家に求めていました。

ところが、仙台藩の藩士らはこれに反対し、藩内には不穏な動きがありました。

水戸藩としてはその内情を探らせたいものの、時期が時期だけに人選が難しいわけです。

その点、芭蕉が旅好きなことは周知の事実。文化人の彼が領内をうろついても怪しまれません。そこで、芭蕉の旅行のスポンサーに水戸藩が名乗りを上げる――以上が、芭蕉隠密説の概要です。

その芭蕉は、江戸を発ってまず日光へ向かい、水戸藩ゆかりの寺・養源院ようげんいんへ入ります。

たしかに曾良の旅日記にも、芭蕉が江戸で預かった手紙を養源院へ届けた記述があります。

ここから先は読者の判断にゆだねたいと思いますが、その手紙には何が書かれていたのでしょうか。

はたまた、養源院で芭蕉は水戸藩側とどのような話し合いをもったのでしょうか。

そのあたりに真相が隠されているといえるでしょう。

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