https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/54f3ec65ce7132af6c41aa9e5ad9db32 【古事記・日本書紀・万葉集を読む上代におけるヤマトコトバの研究論文集 加藤良平 ヤタガラスについて 其の一】より
八咫烏問題の焦点
記紀のなかで神武天皇(神倭伊波礼毘古命・神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと))は日向の高千穂を出発し、大和の橿原宮で即位する。その間の道中を東征説話という。竺紫(筑紫)、阿岐(安芸)、吉備、浪速(難波)へと順調に進むが、日神(ひのかみ)の御子が日に向かって戦をしたためか前途を阻まれ、紀伊半島を南へ迂回する。そして、熊野においても危ない目に遭い、どちらへ行ったらいいのかわからなくなる。そのとき、高木神(たかぎのかみ)の言い付け、ないし天照大神の夢のお告げにしたがって派遣された八咫烏(頭八咫烏)(やあたからす)が現われ、それを先導にした結果、進軍することができた。さらに、宇陀(菟田)(うだ)の土豪勢力の反抗にも八咫烏を派遣し、その計略を見破って討伐することができた。記紀において、八咫烏についての記事は、以下に示すものばかりである。
是に、亦、高木大神(たかぎのおほかみ)の命(みこと)を以て、覚(さと)して白(まを)さく、「天つ神御子、此より奥つ方に便ち入り幸(いでま)すこと莫れ。荒ぶる神、甚(いと)多し。今、天より八咫烏(やあたからす)を遣さむ。故、其の八咫烏、引道(みちび)きてむ。其の立たむ後(しりへ)より幸行(いでま)すべし」とまをす。故、其の教へ覚しの随(まにま)に、其の八咫烏の後より幸行せば、……。故爾くして、宇陀に兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)の二人有り。故、先づ八咫烏を遣はし二人に問はして曰く、「今、天つ神御子、幸行しぬ。汝等、仕へ奉らむや」といふ。是に、兄宇迦斯、鳴鏑(なりかぶら)を以て、其の使を待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちたる地(ところ)は、訶夫羅前(かぶらさき)と謂ふ。(神武記)
時に夜夢(いめ)みらく、天照大神(あまてらすおほみかみ)、天皇に訓(をし)へまつりて曰はく、「朕(われ)今し頭八咫烏(やあたからす)を遣さむ。以て郷導者(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空(おほぞら)より翔(と)び降(くだ)る。天皇の曰はく、「此の烏の来ること、自づからに祥(よ)き夢に叶へり。大きなるかな、赫(さか)りなるかな。我が皇祖(みおや)天照大神、以て基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲(おもほ)せるか」とのたまふ。是の時に、大伴氏の遠祖(とほつおや)日臣命(ひのおみのみこと)、大来目(おほくめ)を帥(ひき)ゐて、元戎(おほつはもの)に督将(いくさのきみ)として、山を蹈み啓(みちをわ)け行きて、乃ち烏の向ひの尋(まま)に、仰ぎ視て追ふ。(神武前紀戊午年六月)
……皇師(みいくさ)大きに挙(こぞ)りて、磯城彦(しきひこ)を攻めむとす。先づ使者(つかひ)を遣(つかは)して兄磯城を徴(め)さしむ。兄磯城、命(おほみこと)を承けず。更に、頭八咫烏を遣して召す。時に烏、其の営(いほり)に到りて鳴きて曰く、「天神(あまつかみ)の子(みこ)、汝(いまし)を召す。率(いざ)わ、率わ」といふ。過の音(こゑ)は倭。兄磯城、忿(いか)りて曰く、「天圧神(あめおすのかみ)至(いま)しつと聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何(いか)に烏鳥(からす)若此(かく)悪しく鳴く」といひて、圧、此には飫蒭(をし)と云ふ。乃ち弓を彎(ひきまかな)ひて射る。烏即ち避去(たちさ)りぬ。次て弟磯城が宅(いへ)に到りて鳴きて曰く、「天神の子、汝を召す。率わ、率わ」といふ。時に弟磯城、惵然(お)ぢて改容(かしこま)りて曰く、「臣(やつこ)、天圧神至りますと聞きて、旦夕(あしたゆうへ)畏(お)ぢ懼(かしこま)る。善きかな烏。汝(い)が若此鳴く」といひて、即ち葉盤(ひらで)八枚(やつ)を作(な)して、食(くらひもの)を盛りて饗(あ)ふ。葉盤、此には毗羅耐(ひらで)と云ふ。因りて烏の随(まま)に、詣到(まういた)りて告(まを)して曰(まを)さく、「吾が兄(このかみ)、兄磯城、天神の子来(い)でますと聞(うけたまは)りて、八十梟帥(やそたける)を聚(あつ)めて、兵甲(つはもの)を具(そな)へて、与(とも)に決戦(たたか)はむとす。早(すみやか)に図(たばか)りたまふべし」とまをす。……(神武前紀戊午年十一月)
又、頭八咫烏、亦、賞(たまひもの)の例(つら)に入る。其の苗裔(のち)は、即ち葛野主殿県主部(かづののとのもりのあがたぬしら)是なり。(神武紀二年二月)
八咫烏についての研究(注1)としては、舞台となる熊野の信仰との関係から説かれることも多い。議論の導入として、五来2004.を引用する。
八咫烏の咫(あた)は周の尺度で八寸の長さをさしたものらしいので、六尺に余る大きな烏という意味と、八つの頭をもった烏という二つの解釈がおこなわれた。また日本の原始時代にトーテミズムがあったとして、熊野に大烏をトーテムとする部族がおったと解する説もある。神魂命(かむみむすびのみこと)の孫、鴨健角身命(かものたけつぬみのみこと)は八咫烏で、鴨族はその子孫だとするのである。しかしいずれも神話的で歴史事実とはかんがえられない。ただ「やあた」を「あた」をつよめた語とすれば、「あた」は「いやらしい」「にくにくしい」「いまわしい」などの古語だから、きわめて不吉な烏ということで、風葬にともなう烏にふさわしい名称になる。また「あた」は「あだ」とおなじで、あたし野(化野)、あたしが原(安達原)、あたし身(徒身)、あたし世(徒世)など「むなしい」「はかない」意であるから、死に関係ある烏ということになろう。すなわち神武天皇東征伝説から解放されて八咫烏をかんがえると、隠国の熊野にふさわしい「死者の国の烏」ということになる。(56~57頁)
新撰姓氏録に、鴨県主(賀茂県主)(かものあがたぬし)が八咫烏の子孫とされている。そこから、氏族伝承のトーテム説話であるという説が生まれるが、上にあるとおり歴史事実とは無縁であろう。話として成立している記紀の叙述について、何が言いたいのかを探ることのみが本来的な「読む」行為の姿勢として正しい。もちろん、この説話を動物寓話とみて、鳥類のカラスが人間の道先案内人になったと考えることはできない。上の引用に、「あた」と「あだ」とが関わるのではないかとの指摘がある(注2)。そもそもの捉え方として、中世に盛んとなった熊野信仰は、記紀万葉と直接の関係がない。時代が隔たっている。八咫烏は記紀に語られたのち、かなり経ってから熊野信仰にとり入れられたと考えるのが妥当であろう。
ここでは熊野信仰のなかでのヤアタガラスではなく、あくまでも神武天皇東征説話にまつわるヤアタガラスについて考えていく。飛鳥時代の人々が想念したヤアタカラスとは何であったか、それが本稿のテーマである。それを知るためには、書記された八咫烏(頭八咫烏)という特殊極まりない表現に収斂された過程を遡ってゆくことが求められる。記紀の記事では、八咫烏(頭八咫烏)は軍の先導役、また、敵族への使者の役割を果たしている。
一説に、日神の末裔が神武天皇ゆえ、烏は日神の使いであるとする信仰から生れた表現であるとされている。はやくは源順・和名抄に、「陽烏 歴天記に云はく、日の中に三足烏の赤色なるもの有るといふ。〈今案ふるに文選に之を陽烏と謂ふ。日本紀に之れを頭八咫烏と謂ふ也。田氏私記に夜太加良須(やたからす)と云ふとかんがふ。〉」とある。日の中に足が三本の烏がいるとあるのは、中国の説話による。山海経・大荒東経、論衡・説日以下、謂われがある(注3)。本邦でも、法隆寺の玉虫厨子の須弥山図の日像や、サッカー協会のシンボルマークに三足烏は描かれている。しかし、記紀において、「八咫烏」、「頭八咫烏」の足が三本であったとする記述はない。源順は、和漢の伝承を混同して解釈し、勇み足をおかしたのであろう。わざわざ「八咫烏」、「頭八咫烏」と記してある根拠を考えなければならない。
アタ
咫(あた)は親指と中指とをひろげた幅のことである。説文に、「尺 ……周の制に、寸・尺・咫・尋・常・仭の諸度量、皆人の体を以て法と為す。凡そ尺の属、皆尺に从ふ」、「咫 中婦人の手の長さ八寸、之れを咫と謂ふ。周尺也。尺に从ひ只声」とある。八咫烏とは、長さを表した表現である。紀に、「頭八咫烏」と書いてあるのは、頭が大きかったことを示すものとも、寸法を頭の大きさで測ったからともされている。しかし、鳥の大きさは、ふつう、頭から尾までの長さや、翼を広げたときの幅で測る。ずんぐりむっくりや八頭身美人を登場させなければならない理由は見当たらないから、頭と冠して書いた理由は他に求めなければならない。
紀にわざわざ頭という字を冠しているのは、第一に、頭部に注目すべき特徴があるという指示語の意味合いを含めたいからで、第二に、アタマ(頭)+ヤ(八)+アタ(咫)+カラス(烏)と記すことによって、アタアタと重ねていることに注目させたいからであろう。
アタという音で表されるものには、まず、熱いことがあげられる。神武紀二年条の論功行賞の記事の最後に、頭八咫烏の末裔が「葛野主殿県主部」であると記されている。古代、山城国の葛野県は広大で、葛野、愛宕の諸郡を含んだものと考えられている。「葛野県主部」とあるなら地方領主になるが、わざわざ間に「主殿」と挿入され、役割が限定されている。養老令・職員令に、「主殿寮(しゅでんれう) 頭一人。供御(くご)の輿輦(よれん)、蓋笠(かいりふ)、繖扇(さんせん)、帷帳(ゆいちゃう)、湯沐(たうもく)のこと、殿庭栖掃(でんぢゃうさいさう)せむこと、及び燈燭(とうそく)、松柴(しょうし)、炭燎(たんれう)等の事を掌る。」などとある。殿舎、行幸の際の施設の維持管理を担った。火を扱ったから熱かったものとみられる。京都の愛宕神社は、火伏せ・防火に霊験があると知られる。「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた火伏札は、台所、厨房、茶室などに貼られている。また、愛宕の三つ参りという風習があり、数え年の3歳までに参拝すると一生火事に遭わないとされていた。ヤアタカラスも熱いものに関連するのであろう。その証拠に、語源はどうあれ、カラス(烏)は、カラス(枯、涸)と関連する語と観念されている(注4)。火で熱すれば、枯らすことができる。カラスは、烏の行水という言葉どおり、あまり水を好まないように見え、また、乾燥したところを好んでか樹上に巣を作る。自ら、身をカラカラにし向ける傾きがあるように見えてくる。
おくどさん「火迺要慎」お守り(東京・愛宕神社で正月に配られる。唐辛子(たうがらし)の欠けた部分は筆者が食した。)
太郎坊社(同神社内末社、修験道の行者の上座の者の名で、猿田彦神の化身(どちらが本地でどちらが化身かは説により異なる)。)
和名抄には、「烏 唐韻に云はく、烏〈哀都反、加良須(からす)〉は孝鳥也といふ。尓雅に云はく、純黒にして反哺する者、之れを烏〈哺の音簿故反、食ふ口在る也〉と謂ふ。兼名苑に云はく、鵶〈音䃁、字亦鴉に作ること広韻に見ゆ〉といふ。」とある。この「烏」はハシボソガラスのこととされている。中国では、カラスは生まれると母親鳥に哺育され、成長すると逆に母親鳥を哺育するものとされていた。それを反哺という。したがって、慈孝な鳥ということになっている。寺島良安・和漢三才図会では、「凡そ烏の類に四種有り。慈烏(からす)〈小さくして純黒、小さき觜の反哺する者〉、鴉烏(はしぶと)〈慈烏に似て大きく、觜・腹の下の白くして反哺せざるもの〉、燕烏(ひぜんがらす)〈鴉烏に似て大きく白き項の者〉、山烏(やまがらす)〈鴉烏に似て小さく、赤き觜にして穴居する者〉。」と分類している。ヤアタカラスはこのいずれかが当てられたものではないか。
射垛(あづち)の的(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569715(30/56)をトリミング)
アタアタと八回ほども重ねる点については、当たることも関係しよう。的に命中させること、正鵠を射ることである。八咫烏(頭八咫烏)は、「兄宇迦斯」(記上)、「兄磯城」(神武紀)に射かけられている。矢の的の模様は、黒と白の同心円状になった霞的がよく知られている。そんなカラスといえば、和漢三才図会に「燕烏」と記されるコクマルガラスが思い浮かぶ。「案ずるに、燕は乃ち国の名なり〈燕雀の燕に非ざる也〉。九州肥前に多く之れ有り。故に肥前烏と称す。」と解されている。大陸に広く分布し、列島には多くは九州北部に冬鳥として、ないし、迷鳥として飛来する。体長は33㎝ほどで、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ミヤマガラスの50㎝内外と比べると小さく、ハトほどの大きさである。ふつうのカラスの小ぶりなもの、雌雄に譬えるとカラスの雌に相当するとも捉えられる。和漢三才図会の大きさの記述は誤りらしい。コクマルガラスには淡色型と暗色型があるが、白黒がはっきりしている個体を見ると、額から顔の前面、喉から胸までは黒く、後頭から首側、腹にかけては白く、背や尾のほうになると再び黒くなっている。つまり、頭のほうから見れば、外側から黒、白、黒の三重丸になっている。的の印に見え、黒丸烏とも記されることがある。爾雅・釈鳥に「燕は白脰烏(こくまるがらす)」、註に「小爾雅に云ふ。白き項(うな)にして、羣(むらが)り飛ぶは、之れを燕烏(こくまるがらす)と謂ふ」とある。黒丸烏をコクマルガラスと訓むのは重箱読みである。コクマルガラスと古くからヤマトコトバに呼ばれていたとすれば、コクマルは、コ(子)+クマル(分)の意味として名づけられた可能性がある。後述する。
コクマルガラス(Tassy 日本の野鳥識別図鑑https://zukan.com/jbirds/leaf76726)
カササギ(はらみち 日本の野鳥識別図鑑https://zukan.com/jbirds/leaf78314)
コクマルガラスは、止まっている限りにおいて、体の模様はカササギ(鵲)によく似る。カササギは鵲烏とも書く。カササギが七夕の夜に列をなして天の川に架かって橋となり、牽牛と織姫とが出会っているとした旨の詩が懐風藻に見える。漢籍に依拠している。日本では現在、佐賀平野にのみ生息し、天然記念物に指定されている。歴史的にも、九州北部に在来していたか、いたとしても極めて数が少なかったようである。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に移入、定着したともいわれる。江戸期には、カチガラス、唐ガラス、高麗ガラス、朝鮮ガラス、肥後ガラスとも呼ばれていた。古代の文献にはわずかに散見される。
其[倭]の地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。(魏志・倭人伝)
難波吉師磐金(なにはのきしいはかね)、新羅より至りて、鵲二隻(ふたつ)を献る。乃ち難波杜(なにはのもり)に養(か)はしむ。因りて枝に巣(すく)ひて産(こう)めり。(推古紀六年四月)
新羅王(しらきのこにきし)の献物、馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻、及(また)種々(くさぐさ)の物あり。(天武紀十四年五月)
此の[船引]山に鵲住めり。一(また)、韓国(からくに)の烏といふ。枯木の穴に栖み、春時(はる)見えて、夏は見えず。(播磨風土記・讃容郡)
和漢三才図会にコクマルガラスは肥前烏であるから、この両者は兄弟のような間柄に捉えられていたものではないか。カササギの名の由来については、朝鮮語との関連から解かれることが多いが、和名抄に、「鵲 本草に云はく、鵲〈且略反、加佐々岐(かささぎ)〉は、飛駮馬にして泥々脳の名也といふ。」、また、新撰字鏡に、「嘖 側伯反、至也、呼也、烏鳴く、又加左々支(かささぎ)鳴く」とある。紀に、新羅から贈られたものと記されており、ヤマト朝廷の人にとっては、新羅や九州北部と関連が深い鳥であると考えられたと目される。
カササギによく似た名として、ミソサザイの古語、サザキ(鷦鷯、雀)がある。新撰字鏡に、「鷯 聊音、鷦、加也久支(かやくき)、又左々支(さざき)」、和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼二音、佐々岐(さざき)〉は小鳥也、蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。このサザキとカササギの共通点は、巣の形にある。一般的に鳥の巣はお椀形をしていると理解されているのに対し、球状に作る。サザキは巣作りのプロとされ、タクミドリと呼ばれる。和名抄に、「巧婦 兼名苑注に云はく、巧婦〈太久美止利(たくみどり)〉は好く葦皮を割きて中の虫を食ふ故、亦蘆虎と名づくといふ。」とある。タクミ(巧、匠、工)なる語は、第一義的に工具を使った手仕事の巧みさを表すものと考えられよう。そして、カササギも樹上にたくさんの枝を重ね、その体が見えなくなるほどの大きな球状の巣を作る。カササギはカサザキから音の清濁に転倒が起こったものかもしれない。カササギの巣は、実はなかにもうひとつお椀形の巣が入っていて、外側に見えるのは巣を隠す柵である。コクマルガラスの巣も、樹上に小枝などを組み合わせてボール状の巣を作る。巣作りが巧みだと認められる。
専(たくめ)と熊・隈(くま)
タクミに似た音の言葉に、タクメ(専女、メは甲類)がある。音便化して、タウメともいう。和名抄に、「専 日本紀私記に云はく、専領〈多宇女乎佐女(たうめをさめ)、今案ふるに俗に老女を呼びて専と為る故、砥耳(とじ)に継ぐとかんがふ。〉といふ。」とある。
また、副詞のモハラ、今日、もっぱらという意味のタクメ・タウメ(専)という古語は、日本書紀の傍訓ばかりにしばしば見られる。
此[紀9~11番歌謡]皆、密旨(しのびのみこと)を承けて歌ふ。敢へて自ら専(たくめ)なるに非ず。(神武前紀戊午年十月)
「……故、汝(いまし)専(たくめ)東国(あづまのくに)を領(をさ)めよ」とのたまふ。(景行紀五十六年八月)
大臣(おほおみ)平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)、専(たくめ)国政(くにのまつりごと)を擅(ほしきまま)にして、日本(やまと)に王(きみ)とあらむと欲ふ。(武烈前紀仁賢十一年八月)
「……専(たくめ)賞罰(たまひものつみ)を行へ。頻(しきり)に奏(まを)すことに勿(な)煩(わづら)ひそ」とのたまふ。(継体紀二十一年八月)
謹みて専(たくめ)皇后(きさき)の為に、伊甚屯倉(いじみのみやけ)を献りて、闌入之罪(みだれがはしくまゐれるつみ)を贖はむと請(まを)す。(安閑紀元年四月)
「……豈(あに)専(たくめ)蘇我臣(そがのおみ)が仏法(ほとけのみのり)を興し行ふに由れるに非ずや」とまをす。(敏達紀十四年三月)
「……詎(たれ)か情(こころ)の恣(ほしきまま)に、専(たくめ)奉仕(つかへまつ)らむと言ふこと得む。……」といふ。(用明紀元年五月)
「蘇我臣、専(たくめ)国政を擅にして、多(さは)に行無礼(ゐやなきわざ)す。……」といふ。(皇極紀元年是歳)
「噫(あ)、入鹿、極甚(はなは)だ愚痴(おろか)にして、専(たくめ)行暴悪(あしきわざ)す。儞(い)が身命(いのち)、亦殆(あやふ)からずや」といふ。(皇極紀二年十一月)
「……廼者(このごろ)、我が民(おほみたから)の貧しく絶(とも)しきこと、専(たくめ)墓を営(つく)るに由れり。……」とのたまふ。(孝徳紀大化二年三月)
時代別国語大辞典上代編に、「副詞としての意味と、老女を意味するタウメ(土左日記などに見える)との関係はわからない。」(416頁)と解釈を諦めている。二十巻本和名抄では、「……今案ふるに、専は訓〈毛波良(もはら)〉、専は一の義也、太宇女(たうめ)は毛波良(もはら)の古語也……とかんがふ。」としている。新編全集本日本書紀に、「『和名抄』に……タウメはモハラの古語というが未詳。また「老女(たうめ)」と「負」(=刀自(とじ))との説明も不審。」(478頁頭注)とあり、白川1995.は、モハラの「「も」には深くうちに蔵する意があり、「はら」は「ひら」「はる」と同源の語で、おしなべての意を持つ語であろう。」(756頁)とする。「…… おしなべて 吾こそ居れ ……」(万1)とあるように、威圧的なニュアンスがある。これをなぜタクメと訓んだのか、上代人の理解を探らなければなければならない。
紀の例を見ると、ほとんどの専(たくめ)は口語調の文章で用いられている。武烈前紀、安閑紀の例も、「と欲ふ」、「と請す」と、会話を想念した文章中である。神武前紀の例は、歌についての解説だから、口に出して言う言葉が引きずられて出ているものとも考えられる。なお、「天皇、専使(たくめつかひ)を遣して、[諸県君牛諸井(もろがたのきみうしもろゐ)の娘の]髪長媛(かみながひめ)を徴さしむ」(応神紀十三年三月)とある「専使」は、「そのことだけのために遣わされる使者。」(大系本日本書紀、201頁)のこととされるが、文書を持って行った子どもの使いではない。無文字時代である。言葉巧みに交渉するネゴシエーターを指している。
政治的で口語的な事柄といえば、天皇の詔(みことのり)があげられる。臣下は天皇の御前にあって控えている。束帯を身にまとい、天皇のお言葉、ミコトをうかがう。その際、笏(しゃく)という板片を手に捧げ持って恭しくする。笏は音がコツであるが、骨と通じるというので嫌われて、その長さがおよそ一尺(約30㎝)だからシャクと言うとされている。もともとは中国に発祥し、官人が備忘のための書きつけをした板であった。6世紀頃伝来し、朝廷の公事において、式次第を備忘のために笏紙(しゃくがみ・しゃくし)という紙に書いて笏の裏に貼りつけ、カンニングペーパーにしていた。やがて、儀式や神事に際して威儀を正すために持つようになった。恭しく手を組んでいる。タ(手)+クメ(組)である。問題は「専(たくめ、メは甲類)」である。上代、四段活用動詞、「組む」の已然形ならメは乙類、命令形なら甲類である。儀式なのだから手を組め! と命令している意に当たる。式典で君が代を斉唱する場合に、起立することが強制されるようにである。
笏を持つ姿(巨萬福信像、府中郷土の森博物館展示品)
タクメという訓を当てる専の字は、説文に、「專 六寸の簿也、寸に从ひ叀声、一に專は紡專なりと曰ふ」とある。段注に、二尺六寸の笏をいうとするが、本当に六寸、約18cmで、一般の笏より小さいものをいったのではないか。簿は、文字を書く薄い竹の札である。それを綴じたものが簡、すなわち竹簡や木簡である。簿も笏も手版である。説文の咫の説明に、「中婦人手長八寸謂二之咫一」とあった。男性よりも小さめである。つまり、尺よりも専のほうが短い。また、シャクフ(杓)という近世以降に文献に見られる語は、手やひしゃくで液体や浮遊物を汲み取ることではあるが、ちょろっとひっかけるように、不完全にスクフ(掬)ことを指す。すなわち、専という字で表される意は、笏と同じ手控えのメモ帳として用いられながら、人には持っていることさえ気づかれない用途に用いられた本当の意味でのカンニングペーパーということになる。
専の字の上部の叀は、まるく平らな素焼きの紡錘のおもりをつり下げたさまを描いた象形である。鏄という字は、金属製の紡錘、ツムのことで、ひとりでに回っていく。転(轉)の字は、車軸をつけて回ることを表す。下部の寸は手の形で、紡錘のおもりに手を添えて回転させ、糸をひとすじにまとめて紡ぐことを表す。また、一説に、糸巻きの形をした素焼きの玩具のことともいう。紡錘のミニチュアで、幼子の手のなかに持たせて喜ばせた。これも手組めである。
回転を表す擬音語は、カラカラ鳴る、クルクル回る、コロコロ転がるなどと使われる。それぞれ母音と子音の交替した形である。また、古代人の農耕にまつわる観念から、カラス(枯)とコロス(殺、コ・ロは乙類)は密着していた語であると考えられている(注5)。そして、カラス(烏)の別名をコロク(コ・ロは乙類)という。
烏とふ 大をそ鳥(どり)の 真実(まさで)にも 来まさぬ君を ころくとそ鳴く(万3521)
カラスというたいへんな慌てものの鳥が、本当にいらっしゃらないあなただのに、コロクとこそ鳴くよ、という歌である。コロクは、自分のほうから転がるようにやってくるの意で、来訪を得ないことをなじる歌になっている。紀には、「専用威命(ころた)ちぬ」(雄略紀九年五月)という古訓がある。コロ(自、コ・ロは乙類)+タツ(立)の意で、自分勝手に振舞うこと、権勢の専有をいう。以上から考えると、八咫烏(頭八咫烏)という存在は、応神紀十三年三月条にあった「専使(たくめつかひ)」を象徴した形容に由来して想定されていると理解できる。
カラスを絵として描くと最後に目を入れたくなるが、カラスは全身が黒いから全体が真っ黒になって絵にならない。だから、烏という象形文字は目のところを反転させて描かない。「大をそ」して慌てて目を描いたら、何だかわからなくなる。コクマルガラスの場合は、項が白いから頭部が黒い“目”になっている。コクマルガラスは、烏という象形においては描かれない目が描かれて頭になっている。ヤアタガラスがそのことを言いたいなら、「頭八咫烏」(紀)と書いくことは知恵のある記し方である。土台ごとの反転、転倒を伴って表している。
話は、熊野での出来事である。神武天皇の一行が熊野で遭難したときの記事に次のようにある。
故(かれ)、神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)[神武天皇]、其地(そこ)より廻(めぐ)り幸(いでま)して、熊野の村に到りましし時、大熊(おほくま)、髪、出で入りて即ち失せぬ。爾に、神倭伊波礼毘古命、儵忽(たちまち)にをえまし、及(また)、御軍(みいくさ)、皆をえて伏しき(注6)。(神武記)
毒気に当てられて正気を失ったというのである。和名抄に、「熊 陸詞切韵に云はく、熊〈音雄、久万(くま)〉は獣の羆に似て小なる也といふ。」とある。本州の熊は、北海道にいる全身が黒褐色の羆(ひぐま)よりもひとまわり小さく、一般にツキノワグマと呼ばれる。胸のところに三日月形の白い模様が入っている。カラーデザインは白黒ばかりで、コクマルガラスにオーバーラップしている。隈、阿、曲などと書くクマは、山や川、道などが入り込んだり、曲がりくねったりした先で見えにくいところを指す。籠ったり、隠れたりすることができ、神隠れに隠れ住む聖所となり、畏怖の念を起こさせるほど、暗かったり、黒かったりする。そんな熊が下りてくるところは、森蔭になった山の隈の部分である(注7)。
熊野とはまさしくそのような場所であった。そして、神武天皇の一行は、ヲエ、すなわち、くたびれ果てていた。疲れたとき、目の下に三日月形の隈ができることがある。目の下が黒ずんでくる。なのに、ツキノワグマは、クマと呼ばれながらその模様は逆に白い。白黒反転、転倒している。むろん、隈が白いからといってシロクマとは呼ばない。クマという語に自己撞着が起こっている。あえていえば、コロクマとでも形容するのであろうか。
鳥居清長(1752~1815)「鉞をかつぎ熊に乗る金太郎」(江戸時代、18世紀、東博展示品)
クマザサ(浜離宮恩賜庭園)
間諜(うかみ)
その熊野の地で、神武天皇の一行は、その「大熊」に象徴されるような賊に遭遇している。その際に活躍するのが、先導役兼交渉役の八咫烏(頭八咫烏)である。敵が白黒反転しているクマだから、こちらも白黒反転していてなおかつその義において真をついているコクマルガラスで対抗したというわけである。敵と交渉するそのようなやりとりとしては、記紀には先例がある。高天原側の神々は、葦原中国を平定するために、天菩比神(あめのほひのかみ)(天穂日命(あまのほひのみこと))を派遣するが大国主神(おほくにぬしのかみ)(大己貴神(おほあなむちのかみ))に付いてしまう。そこで、天若日子(あめわかひこ)(天稚彦)を派遣するが、これも下照比売(したでるひめ)(下照姫)を娶って葦原中国を専有しようとしていた。真意をただそうと雉の鳴女(なきめ)(無名雉(ななしきぎし))を遣わしたところ、天若日子側は、天佐具売(あめのさぐめ)(天探女(あまのさぐめ))が様子を見聞きし、射殺すべきであると上申している。この、鳴女と天佐具売のやりとりが、軍同士の衝突の前にある情報合戦にあたる。
故、爾(ここ)に、天照大御神・高御産巣日神、亦、諸の神等(かみたち)を問ひしく、「天若日子、久しく復奏(かへりことまを)さず。又、曷(いづ)れの神を遣してか天若日子が淹(ひさ)しく留まれる所由(ゆゑ)を問はむ」ととひき。是に、諸の神と思金神と、答へて白さく、「雉(きぎし)、名は鳴女を遣すべし」とまをす時に、詔(のりたま)ひしく、「汝、行きて、天若日子を問はむ状(かたち)は、『汝を葦原中国に使はせる所以(ゆゑ)は、其の国の荒振(あらぶ)る神等(かみども)を言趣(ことむ)け和(やは)せとぞ。何とかも八年(やとせ)に至るまで復奏さぬ』ととへ」とのりたまひき。故、爾に、鳴女、天より降り到りて、天若日子が門(かど)の湯津楓(ゆつかつら)の上に居て、委曲(つばらつばら)(注8)に天つ神の詔命(みことのり)の如(ごと)言ひき。爾に、天佐具女、此の鳥の言を聞きて、天若日子に語りて言はく、「此の鳥は、其の鳴く音(おと)甚(いと)悪し。故、射殺すべし」と云ひ進むるに、即ち天若日子、天つ神の賜へる天のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉を射殺しき。……天若日子が朝床(あさどこ)に寝(い)ねたる高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき此、還矢(かへりや)の本(もと)ぞ。亦、其の雉、還らず。故、今に、諺に「雉の頓使(ひたつかひ)」と曰ふ本は、是ぞ。(記上)
是の時に高皇産霊尊、其の久しく来報(かへりことまを)さざるを怪しび、乃ち無名雉(ななしきぎし)を遣し伺はしめたまふ。其の雉、飛び降(くだ)り、天稚彦が門前(かどさき)に植(た)てる植、此には多底屡(たてる)と云ふ。湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すゑ)に止る。杜木、此には可豆邏(かつら)と云ふ。時に天探女天探女、此には阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)と云ふ。見て、天稚彦に謂(かた)りて曰く、「奇(あや)しき鳥来り、杜(かつら)の杪に居り」といふ。……其の矢落下(おちくだ)り、則ち天稚彦が胸上(たかむなさか)に中(あた)る。時に天稚彦、新嘗(にひなへ)して休臥(いねふ)せる時なり。矢に中り立(たちどころ)に死(みまか)る。此、世人(よのひと)の所謂「反矢(かへしや)畏るべし」といふ縁(ことのもと)なり。(神代紀第九段本文)
天孫降臨に先立って葦原中国を平定させるために、高天原から2人目として派遣されたのが天若日子である。前人と同様、復命することなく、下照比売(下照姫)を娶って寝返ってしまった。そして、天神から言伝を携えて遣わされた鳴女という名の雉を、下賜されていた弓矢を使って射殺した。矢が雉の胸を突き通って天上に達したため、逆につき返されて朝寝している彼の胸に当たって命を落としたというのである。
「雉、名鳴女」(「無名雉」)と「天佐具売」(「天探女」)の情報戦において、記では、天佐具女は「此鳥[鳴女]者其鳴音甚悪」、紀では、天探女は無名雉を「奇鳥」といって天若日子(天稚彦)に射殺すようにと入れ知恵をしている。大将、ないし軍隊が進むよりも先に探るのは、間諜、斥候、隠密、すなわち、スパイである。サグメのメは甲類で、女スパイを表しているらしい。間諜は女性扱いされている。説文の、「咫 中婦人手長八寸謂二之咫一」が思い起こされる。紀では、ウカミ、ウカミヒトと訓み、窺い見る意味である。
新羅の間諜(うかみ)の者(ひと)迦摩多(かまた)、対馬に到れり。則ち捕へて貢る。上野(かみつけののくに)に流す。(推古紀九年九月)
其[改新之詔]の二(つぎ)に曰はく、初めて京師(みやこ)を修め、畿内国(うちつくに)の司(みこともち)・郡司(こほりのみやつこ)・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人・駅馬(はゆま)・伝馬(つたはりうま)を置き、及(また)鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。(孝徳紀大化二年正月)
近江京(あふみのみやこ)より倭京(やまとのみやこ)に至るまでに、処処に候(うかみ)を置けり。(天武紀元年五月)
白川1995.に、「うかみ〔候〕 敵情をさぐること、またその人をいう。「うか」は「うかがふ」「うかねらふ」の「うか」。「穿(う)く」「穿(うか)つ」と同根の語で、ものの内部を意味する。「うかみる」という動詞もあった。ミは甲類。……候(こう)は矦(こう)声。矦が候の初文。……その字義は矢を以て悪邪を禳(はら)うこと、すなわち候禳(こうじょう)を任務とするものである。もとは辺境にあって、そのような宗教的な任務を以て外族と対したものであるが、のち外族の動静をうかがうことから、「うかがふ」意となり、すべて斥候のことをもいう。」(139~140頁)とある。密かに覗き見て様子を探るのである。見ていることを敵に悟られてはいけないから、姿、とりわけその目を隠そうとした。目のところだけをあけて頭巾をかぶり、黒ずくめの衣装を身にまとった忍者の姿はかなりの伝統があるらしい。それは、烏という文字の象形において、全身が黒いから目を入れないでおいたとする考え方によく似ており、コクマルガラスが頭部をもって目としていることに通じている。すなわち、八咫烏(頭八咫烏)とは斥候のことを指している。女性の手の大きさに由来する咫という尺度を用いていたのは、それが体の小ぶりなコクマルガラスをよく表し、女スパイであることを示している。
なお、本当にスパイらしいスパイとして諜報活動している記事としては、紀では、上にあげた推古紀にある新羅の者ばかりとされている(注9)。だからといって、間諜がなかったかといえば、そのようなことはない。当然ながら、偵察による諜報活動は、よほどの功績や政権の大転換でもない限り、歴史の表舞台に詳解されることはない。今日でも、英国の諜報員は、逆スパイになってバレでもしなければ名前すら知られずに終わる。程度の差はあれ、本邦でも従前より当然のこととして行われていたものと考えられる。武家名目抄・第二に、「忍者〈又間者・諜者と称す〉……按忍者はいはゆる間諜なり、故に或は間者といひ又諜者とよふ。……古来間諜の術をなせしもの諸書に注する所少なからすといへとも其名目を載せさるは悉くこゝにもらせり」(170~175頁、漢字の旧字体は改め、適宜訓み下し句読点を補った。)とある。忍者という概念を広義に捉え、間諜する者にその起源を求めるとするなら、記紀においては天探女(天佐具女)が忍者第1号に当たるといえよう。
天探女は、やがて仏教由来の天邪鬼(あまのじゃく)と通じていく。あまのじゃくとは、人の邪魔をする悪い精霊であり、自分の心に逆らって素直な行動が取れない性格のことを表す。スパイのやっていること、ないし、スパイにしてやられてしまうことをうまく言い当てている。邪鬼は、仏教では四天王像の足下の像として知られる。本来は、仏教的コスモロジーにおけるさまざまな神たちの階層を表しているが、彫像の印象が強いから、踏まれてもがきうなっているように見える。いずれにせよ、鬼である。
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