今も日本列島は「出雲と大和」の痕跡に溢れている ①

https://cinefil.tokyo/_ct/17332679 【今も日本列島は「出雲と大和」の痕跡に溢れている】より

「出雲」とは、現代の島根県の旧国名だ。だが日本人の文化と歴史の中で、その響きは単なる地名に留まらないミステリアスな何かを帯びて、謎めいたこだまのように時空を超えて広がっている。例えば太陰暦(日本の「旧暦」)の10月は「神無月」と呼ばれたが、これはこのひと月、全国の「八百万」のカミガミが出雲に集まるので、その間は各地の地元のカミ様が留守になるから、である。

画像: 島根県・出雲大社の境内から出土した「心御柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財 かつての巨大本殿の中心柱。後ろに見えるのはかつてのその巨大本殿の1/10縮尺の推定模型

島根県・出雲大社の境内から出土した「心御柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財

かつての巨大本殿の中心柱。後ろに見えるのはかつてのその巨大本殿の1/10縮尺の推定模型

「出雲の阿国」が京都・四条河原で始めた「かぶき踊り」が歌舞伎の始まりといわれている。阿国は出雲大社の巫女を名乗っていたが、本当に出雲出身だったのかは不明だ。それでも「出雲」ブランドの神秘性がその評判と人気に深く関わっていたのは確かだろう。桃山時代のことである。近世演劇史の研究で指摘されるのは、この新しい芸能が、凄惨な戦国時代の終わりに豊臣秀吉の朝鮮出兵と同時代に生まれていて、あまりに陰惨な戦い(秀吉は「ことごとく撫で斬り」つまりジェノサイドを命じていた)のトラウマを抱えて帰国した若者たちにとって、阿国の踊りが大きな慰めになったのではないか、という可能性だ。「歌舞伎」というのは当て字だが、「伎」という文字を当てたのは、死者を極楽浄土に誘うために来迎する阿弥陀如来に付き添う二十五菩薩が楽器を持ち音楽を奏でていることに由来する、ともいう。「出雲」という響きには、死後の世界や死者の霊魂や怨霊を鎮め慰めることに関わる神秘性があると、信じられて来たのかも知れない。

島根県から遠く離れているはずの東京の、歴史的に最も重要な神社のひとつのカミである神田明神(徳川幕府が定めた「江戸総鎮守」)とは、大己貴命と少彦名命、そして平将門のことだ。大己貴(オオナムチ)は出雲大社の祭神・大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)の別名である。少彦名(スクナヒコナ)はその国造りを助けたとされる、やはり出雲のカミだ。ちなみに今の神田明神の境内は、江戸城からみて鬼門封じの方角に置かれている。

画像: 銅戈・勾玉 島根県出雲市 真名遺跡出土 弥生時代 紀元前2〜紀元前1世紀 島根・出雲大社 重要文化財

銅戈・勾玉 島根県出雲市 真名遺跡出土 弥生時代 紀元前2〜紀元前1世紀 島根・出雲大社 重要文化財

東京都と埼玉県は歴史的な国名では「武蔵国」で、その一ノ宮の大國魂神社(府中市)に祀られているのも大國魂大神、オオクニヌシの別名だ。江戸時代・徳川綱吉の建てた豪華な社殿が重要文化財になっている根津神社の祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)、オオクニヌシの7ないし8代遡る先祖で、出雲系のカミガミの祖とされる。

埼玉県の大宮市に総本社がある(「大宮」という地名の由来である)氷川神社は祭神がやはりスサノオと稲田姫命(イナダヒメノミコト)、そしてスクナヒコナだ。イナダヒメはスサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)から救いその妻となった櫛名田比売(クシナダヒメ)の別名で、氷川神社は全国に280もあるそうだが、その圧倒多数はなぜか、出雲から遠く離れた関東地方に分布している。

全国にある諏訪神社の総本社は長野県の、御柱祭で有名な諏訪大社だが、ここの夫婦のカミの夫は「古事記」と社伝によればオオクニヌシの息子の建御名方神(ケンミナカタノカミ)、妻が諏訪湖の地元神・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)だ。

画像: 出雲地方は4世紀頃から日本最大の宝飾品の玉の産地、その製品は大和地方でも発見されている 玉 島根県松江市・金崎一号墳出土品 古墳時代6世紀 島根大学法文学部考古学研究室、島根・松江市

出雲地方は4世紀頃から日本最大の宝飾品の玉の産地、その製品は大和地方でも発見されている

玉 島根県松江市・金崎一号墳出土品 古墳時代6世紀 島根大学法文学部考古学研究室、島根・松江市

画像: 大和で出土した出雲製の玉 右)勾玉 奈良県橿原市 新沢千塚500号墳出土 古墳時代 4世紀 左)勾玉・管玉・算盤玉 新沢千塚323号墳出土 古墳時代 5世紀 共に奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

大和で出土した出雲製の玉

右)勾玉 奈良県橿原市 新沢千塚500号墳出土 古墳時代 4世紀 左)勾玉・管玉・算盤玉 新沢千塚323号墳出土 古墳時代 5世紀 共に奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

日本は「八百万の神々」の国だとよく言われる。

確かに社や祠の類はそこら中にあり、地域コミュニティがそうした神社の「氏子」として組織化されて来た歴史もある。だが少なくとも今残っている神社でいえば、その多くで祀られているカミは地理的にかけ離れたルーツを持っていて、しかもかなりの割合で天皇家の流れである大和系のカミガミですらなく、縁もゆかりもなさそうに思える出雲のカミガミなのだ。

これは一体、どう言うことなのだろう?

東京国立博物館がある上野公園の西端に、五条天神と言う神社がある。「天神」で学問、特に医学薬学の神様になったのは後代に菅原道真が合祀されたからで、主祭神はオオナムチつまりオオクニヌシとスクナヒコナ、しかも社伝によれば創建は遥か神代に遡り、なんと日本武尊(ヤマトタケルノミコト)つまり大和王権の王子だった武将が戦勝祈願で建てたという。江戸時代の元禄年間までは公園のもっと中心近くにある擂鉢山の頂上に鎮座していたのだが、この小山がなんと70m級の前方後円墳、考古学で大和王権の象徴と考えられているものだ。

画像: 出雲の埴輪 手前)飾り馬 奥)見返りの鹿 平所遺跡出土品 島根県松江市 古墳時代5〜6世紀 島根県教育委員会

出雲の埴輪 手前)飾り馬 奥)見返りの鹿

平所遺跡出土品 島根県松江市 古墳時代5〜6世紀 島根県教育委員会

「出雲と大和」というテーマは「日本人とは何者なのか」「この民族とその文化はどこから来たのか」を考える重要な鍵となる、とても刺激的なものなのだ。そして東京国立博物館が力を込めたこの展覧会は、そういう当然の事前の期待を遥かに上回る濃厚な情報量と、それを裏打ちする展示品の圧倒的な迫力の、目からウロコ体験の連続に、見終わった時には強い感銘と同時に頭を抱えて放心状態にもなりそうな、まるで歴史観・民族観の強烈なブレインストーミングになっている。

なにしろ「神社」の源流を探るのだろうというくらいに思い込んでいると、カミマツリの過去に遡って弥生時代の青銅製の祭器が出て来るのは分かるが、行き着く先がなんと仏像なのだから、最初は面食らう。

画像: 唐招提寺金堂の四天王のうち 広目天立像(左)、多聞天立像(右・共に国宝) 、奥に金剛山寺(左・重要文化財)と世尊寺(右)の十一面観音菩薩立像 いずれも奈良時代 8世紀 基本的に一本の大木から彫り出した像で、一部におがくずを混ぜた漆(木屎漆)で成形した木心乾漆の技法が使われている

唐招提寺金堂の四天王のうち 広目天立像(左)、多聞天立像(右・共に国宝) 、奥に金剛山寺(左・重要文化財)と世尊寺(右)の十一面観音菩薩立像 いずれも奈良時代 8世紀 基本的に一本の大木から彫り出した像で、一部におがくずを混ぜた漆(木屎漆)で成形した木心乾漆の技法が使われている

だが一方で、学校教育などで刷り込まれた既存の古代史の先入観をいったん棄てて見ると、実にすっきりと一貫性のあるコンセプトが隠されている。

画像: 国宝・多聞天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺

国宝・多聞天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺

いったん弥生時代と古墳時代、飛鳥時代や奈良時代と言った区分や、「万世一系の天皇」「邪馬台国は大和か九州か」論争であるとかの、中途半端だったり興味本位な知識を忘れて、あえて単純かつ即物的に見た方がいいのかもしれない。

東京国立博物館の品川欣也考古室長のアドバイスは、目に入るモノの大きさや数、量の膨大さ、使われている素材に注目すること、だという。

画像: 出雲から出土した大量の青銅器:銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝 同遺跡からは358本もの大量の銅剣がまとめて見つかった

出雲から出土した大量の青銅器:銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝 同遺跡からは358本もの大量の銅剣がまとめて見つかった

確かに素材と量と大きさの変遷を見て行くだけでも、見えて来るものが違って来る。

さらに地理的な背景情報、どこで作られたモノで原材料はどこ産で、技法やデザインの源流はどこにあるのかを考え始めると、複数の異なった時代区分に分けた学校の教科書で理解した気になっていた日本の古代が、一貫してつながっていたことに気づかされる(というか、連続性があって当然なのに、なぜかそんなことにも気づかないのが、暗記中心教育の先入観の怖さだろう)。

画像: 黒塚古墳出土品のうち三角縁神獣鏡(33枚)奈良県天理市 黒塚古墳出土 古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管)重要文化財

黒塚古墳出土品のうち三角縁神獣鏡(33枚)奈良県天理市 黒塚古墳出土 古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管)重要文化財

こうした実感にはなんと言っても、まず展覧会で実際のモノを、ありのままの質感や迫力、美しさと、この展覧会の場合は特に「物量」で見られる意義がとても大きい。

画像: 出雲の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸のうち一点 写真では分かりにくいが表面の流水文は、河内平野(現在の大阪府)で生産されたものと考えられる 加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸 紀元前2〜1世紀 国宝

出雲の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸のうち一点 写真では分かりにくいが表面の流水文は、河内平野(現在の大阪府)で生産されたものと考えられる

加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸 紀元前2〜1世紀 国宝

しかも展示品の順番と並べ方の工夫が巧妙で、いろいろな気づきを喚起させてくれるよう整理されているだけでない。写真で紹介するなら後半の仏像展示が特に分かり易いと思うが、照明など展示環境も繊細に工夫されて展示品の魅力を引き出した、とても美しい展覧会でもある。

画像: 十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財 日本では産出しない希少な香木である白檀製。遣唐使によって日本にもたらされ、藤原鎌足を祀る奈良県桜井市の談山神社に伝来した

十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

日本では産出しない希少な香木である白檀製。遣唐使によって日本にもたらされ、藤原鎌足を祀る奈良県桜井市の談山神社に伝来した

例えばこの十一面観音の檀像(堅い香木の白檀や黒檀の一木から彫り出された小型の仏像のことで、日本では産出しないので桜やカヤなどの堅い樹木が代用された)は、東京国立博物館の所蔵する仏像の中でも屈指の名品で、筆者も平常展示(総合文化展)で何度か見て来た。

それが今回の照明の下では見違えるほどに、一際美しい。

これまで黒い像だとばかり思っていたが(黒檀でなく白檀なのだからそんなはずはないのに)、実は表面が赤い染料で染められていたそうで、その赤味を引き出すように光の工夫を重ねたのだという。背景は、本展では出雲系の展示品をライトブルーで、大和系をライトグリーンで色分けして分かり易くしているのでこの色になっているが、緑は赤の補色なのでより一層、像の赤さが感じられる効果もありそうだ。

画像: 十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

中国・唐時代に作られた像で、藤原不比等の息子が遣唐使として唐から持ち帰ったという伝承もあり、かつてはその不比等の父で藤原氏の祖・鎌足を主祭神とする奈良(つまり大和)の談山神社に伝来したものだ。

「日本」の国の起源を探る展覧会なのに唐で作られた仏像、といきなり言うとますますわけが分からないと思われそうだし、しかもこの像自体にインド・グプタ朝の様式の影響が見られるのだが、この展覧会で出雲大社の歴史から弥生時代に遡り、古墳時代の文化の変遷をみて来た文脈で、最後に飛鳥・奈良時代の仏教の隆盛に到達したときには、この仏像がここで登場するのも自然な流れだと納得できてしまう。

画像: 古代日本の仏教美術の成立に大きな影響を与えた仏像スタイル 2例 左)法隆寺に伝来した金銅の如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 重要文化財 右)白檀の一木から彫り出された十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

古代日本の仏教美術の成立に大きな影響を与えた仏像スタイル 2例

左)法隆寺に伝来した金銅の如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 重要文化財

右)白檀の一木から彫り出された十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財

その理由はおいおい述べるとして、今はとりあえずこの像がいわば手本となって、奈良・平安時代以降の日本の彫刻に大きな影響を与えたことだけは言及しておく。

画像: 十一面観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・世尊寺 頭部が後世に補われている他はヒノキ材の一木造り

十一面観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・世尊寺 頭部が後世に補われている他はヒノキ材の一木造り

出雲大社や、太陰暦の10月の「神無月」が出雲では「神有月」となるなど、カミガミの大地の印象がある出雲だが、名刹の寺院や優れた仏像も少なくない。出雲大社からそう遠くない、基本的に同じ山にあると言っていい鰐淵寺はかつては修験道の名刹で、武蔵坊弁慶が修行したという伝説もある。

画像: 出雲・「大寺薬師」の四天王 増長天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 手先と持物は後補 重要文化財

出雲・「大寺薬師」の四天王 増長天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 手先と持物は後補 重要文化財

展示の終盤に登場するのが出雲にかつてあった「大寺薬師」の、この持国天を含む四天王立像4体だが、それぞれほぼ全体を一本の巨木から彫り出していることの持つスピリチュアルな意味も、この展覧会の文脈の終盤にこの四体の像に取り囲まれると、すんなりと体に染み込んでくる。そしてそこから、この日本列島で人々がなにを畏れ、なにに神聖さを感じてなにを信じ、どのような民族的になって来たのかが、浮かび上がって来る。

出雲大社はなぜこんなに「スゴい」のか?

それにしても、今日の感覚では本州の中心から離れてみえて、俗に「裏日本」と言う失礼な言い方さえある日本海側の出雲が、なぜここまで強力なプレゼンスを全国的に持っているのか? その理由はまず、建国神話に遡る。

「古事記」「日本書紀」にまとめられた日本国家の成立を巡る物語のもっとも謎めいた部分が、「国譲り」の神話だ。日本列島はもともと出雲の大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)が治める中津国(ナカツクニ、豊葦原中国、豊葦原千五百秋瑞穂国とも書く)で、慈悲深く賢明なオオクニヌシの下に善政が敷かれていたが、「天」からやって来た別の系統の神々の子孫(大和の朝廷を形成することになる「天孫」「皇孫」)の要求を受け入れ、その国を「譲り渡した」と言うのだ。

画像: 出雲大社の境内から出土した「宇豆柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財 「心御柱」は本殿中心の柱で、こちらは本殿正面の中央の柱

出雲大社の境内から出土した「宇豆柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財

「心御柱」は本殿中心の柱で、こちらは本殿正面の中央の柱

「日本書紀」によれば、「天」からやって来た天孫・皇孫が、現実世界の政治(まつりごと)の「顕」は今後は自分たちがやるので、オオクニヌシの出雲はこれからは「幽」つまりカミガミ・霊魂の世界を司るよう提案した、と言う。天孫側が敬意を表して巨大な神社を建てることも約束したので、オオクニヌシがこれを受け入れたと、平和裏の権力移譲のように書かれているのだが、これに8年先行して編纂された「古事記」では、武力で脅した侵略を示唆する暴力的な記述も見られる。

「古事記」と「日本書紀」という二つの、ほぼ同じ日本の建国神話を扱った歴史書がなぜあるのか、それもたった8年の間隔を経て編纂され、なぜいろいろ異なった部分があるのか? 諸説はあるが、よく分かってはいない。いずれにせよ正式の歴史は後発の「日本書紀」で、朝廷が過去を参照して何かを決めたりする時に用いられたのも「日本書紀」だ。一方で神社の社伝はむしろ「古事記」に依拠している場合が多い。例えば先述の諏訪大社の由来がそうで、天孫側の武甕槌命(タケミカヅチ・鹿島神宮のカミで、奈良の春日大社の第一神)の両腕が氷の刃に変化してオオクニヌシの息子ケンミナカタの両腕を切り落とし、命からがら逃走した建御名方を諏訪湖にまで追い詰めて殺そうとする、という武力侵略を思わせるエピソードは、「古事記」にのみ記述がある。

だが公式歴史書はあくまで「日本書紀」、その記述によれば大和側のいわばバーター提案だったオオクニヌシに敬意を表する巨大な神社が、今日の出雲大社(正式な読みは一般に通用している「タイシャ」ではなく「オオヤシロ」)に当たる。言い換えれば、大和の朝廷は出雲大社を保護し立派な建物を維持する義務を、その後ずっと自らに課して来たことになる。

その出雲大社では、2000年に修理修復に伴う発掘調査が行われ、現在の本殿の手前で三本の杉の巨木を束ねた巨大な柱のいちばん下の部分が二組出土した。今回の展覧会の最初の目玉展示で、会場に入るなりその大きさにまず圧倒される。

画像: 「心御柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財

「心御柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財

年代測定で鎌倉時代の建て直し時のものと判明しており、この時の大事業は京都の朝廷に報告もされ、本殿の平面図を含む詳細な記録(これも展示されている)も残る。それによれば高さは16丈(約48m、17階建てのビルに相当)、本殿に至る巨大な階段(引橋)は長さが1町(約109m)あった。発掘された柱は、ほぼその記述にも一致する。

画像: かつての本殿の1/10の推定模型 平成11(1999)年 島根県立松江工業高校の生徒14人が製作 島根・出雲大社 「心御柱」「宇豆柱」の発見前に、記録を元に大林組が推定CGを作成、それに基づいた模型で、二つの巨大柱は翌年の発掘調査で発見された。

かつての本殿の1/10の推定模型 平成11(1999)年 島根県立松江工業高校の生徒14人が製作 島根・出雲大社

「心御柱」「宇豆柱」の発見前に、記録を元に大林組が推定CGを作成、それに基づいた模型で、二つの巨大柱は翌年の発掘調査で発見された。

出雲にはかくも巨大な建造物が古代からそびえ立ち、「日本書紀」に記された約束が、永い歳月を超えて確かに守り続けられていたことになる。

日本古代史最大のミステリー、「国譲り」の神話とは?

「古事記」「日本書紀」の成立は8世紀初頭で、大和の統一王権が成立したと推論される時代から3〜400年ほど後になる。元になった話は恐らく、何世代にも渡って口承で伝えられて来たのだろう。イザナギ・イザナミの国造りや黄泉がえり神話、天照大神(アマテラスオオミカミ)の「天の岩戸」神話、天界を追放されて出雲にやって来たスサノオが大蛇ヤマタノオロチを退治する話などは純粋に「神話」、ないし自然現象の擬人化と考えてよさそうだが(「天の岩戸」は日蝕の擬人化だろうし、八つの頭を持つ大蛇は多くの支流を持つ大河の氾濫の象徴表現かも知れない)、この「国譲り」はかなり性質が違う。

なんらかの現実の政治的な出来事があって、その記憶が口頭で伝承され続けた来た結果としてこうした記述があると考えないと、「国を譲った」という、つまりは平和併合にせよ侵略・征服にせよ王朝交代を意味することが、なにもないところから創作されたとは、かなり考えにくい。

画像: 勾玉・臼玉 出雲大社境内遺跡出土 古墳時代 4世紀 島根・出雲大社

勾玉・臼玉 出雲大社境内遺跡出土 古墳時代 4世紀 島根・出雲大社

とは言え内容からすればまったくの事実無根の「神話」とも思えない一方で、何百年もの口伝を経てしまえば相当に内容は変わっていておかしくない。

しかも「日本書紀」が律令制国家の成立期、つまり古代日本が「文明国」として国際社会の一員になろうとしていた時代に、当時「天皇」を名乗り始めたばかりの天武・持統の朝廷の国策として成立しているからには、天孫・皇孫の流れを組む大和の王朝の正統性を主張する政治的な意図も、その記述にもちろん影響しているだろう。

だがだからこそ逆に、ますます不思議なのである。だったら日本列島が最初から天孫が統治する国だったと書いた方が政権の正統性に説得力が出たはずだし、あるいは出雲を暴虐で野蛮と断じ、それを大和が征伐した、というような話にするのが政治的には普通だろう。ところが実際の記述ではオオクニヌシが、例えば「因幡の白兎」の神話もあるように、慈悲深く思いやりのある賢明な君主として描写されているのだ。しかも「日本書紀」はともかく、先行して書かれた「古事記」では武力・暴力で脅した侵略のようにも読めてしまうのも、これではかえって王権の正当性に疑問が生じかねない。

そんなことがわざわざ書かれているのは、「国譲り」に当たる事実が確かに過去にあって、出雲の存在の重要性が人々の記憶に残り続けていたからではないか、とでも考えなければつじつまが合わない。逆に言えばなんの実態もない作り話であれば、いかに正史に書かれていることであっても出雲の神話が信じられ続け、巨大な社の維持や再建に巨費が投じられ続けるようなことになっただろうか?

画像: 出雲大社の鎌倉時代造営の旧本殿遺構 「宇豆柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財

出雲大社の鎌倉時代造営の旧本殿遺構 「宇豆柱」 鎌倉時代・正治2(1248)年 島根・出雲大社 重要文化財

出雲の「幽」と大和の「顕」、双方が揃って成立する古代の「まつりごと(政治)」

「古事記」「日本書紀」の後の時代、特に近代以降における解釈の問題もある。明治政府がこうした神話の部分を天皇中心の国家観の根拠として用いたため、どうしても天皇家の祖先である「天孫」の系譜と皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)を中心とする読解が近現代では主流になって来たが、実際のテクストそのものは、「国譲り」が典型だが、必ずしもそういう一方的で単純化された記述になっているわけではない。

だいたいアマテラスが鎮座するとされる伊勢神宮への信仰が盛んになったのは比較的新しく、近世・江戸時代にむしろ庶民信仰として広まったもので、政治との直接的な結びつきが強まったのは明治以降だ。伊勢を頂点とする現代の神社の序列も明治政府が定めたもので、過去の伝統とはあまり関係がない。その伊勢は今では「伝統あるパワースポット」として人気の一方で、一部には極端な政治的意味づけを付与する勢力もある(というかリベラル系野党の立憲民主党でも、初詣に伊勢神宮に出かけている)が、天皇が参拝することさえ近現代の新しい慣習で、「日本書紀」成立時の天皇・持統帝が参拝した後には、明治天皇の行幸までどの天皇も(退位後の上皇も含め)伊勢に行っていない。

出雲大社に奉納された華麗な宝物のひとつ、秋野鹿蒔絵手箱 鎌倉時代 13世紀 島根・出雲大社蔵【後期展示(2/11~3/8)】 国宝

この絢爛たる手箱の内容品は残念ながら現存していないが、こうした豪華な「玉手箱」に化粧道具を納めて、カミガミの身の回り品の一部として奉納することが中世以降増える

近現代のいわば「大和中心史観」の中で、本来なら鎮護国家の「幽」を担っていたはずの出雲系のカミガミが(日本のそこら中で今でも祀られ信仰されているのに)重視されて来たとはおよそ言いにくい。例えば先述の神田明神も「江戸総鎮守」がいつのまにか「だいこくさま」と「えびすさま」の商売の神様になっている。ちなみに「だいこく」と呼ぶこと自体は平安時代以降の本地垂迹説で「大国主」が名前の音読みで「ダイコク」となることもあって、仏教の大黒天と同一視・その本来の姿として信仰されるようになったからだ。スクナヒコナが民間信仰の夷(えびす・恵比須)神と同一視されたのは「七福神」つながりだろうか? なお大黒天自体が元はインドの破壊神・武神(シヴァ神の変化神)だったのが、日本では中世以降、豊穣の神、そして商売繁盛の神へと変化している。

明治から戦前の教育では、オオクニヌシは「因幡の白兎」に基づく唱歌「だいこくさま」のようにやさしく慈悲深い人柄として道徳教育でお手本とされてはいたが、歴史教育などでは「国譲り」自体が無視されがちだ。近代天皇制国家の正当化にはかなり厄介な話だし、そもそも近代的な合理主義ではよく意味が分からない。さらに島根県となった出雲が首都となった東京からずいぶん離れていて、近代日本が太平洋側を「表」とみなす(東京とその外港である横浜がいわば表玄関になり、横須賀には海軍の中枢が置かれた)ようになり、日本海側が「裏日本」と言われるような地理的な認識が広まったことも、そこには関係しているのかも知れない。

画像: 赤糸縅肩白鎧 室町時代 15-16世紀 室町将軍・足利義政が、先々代の義教の鎧を奉納したと伝わる 重要文化財

赤糸縅肩白鎧 室町時代 15-16世紀 室町将軍・足利義政が、先々代の義教の鎧を奉納したと伝わる 重要文化財

だが巨大社殿の実在が発掘で明らかになったことも含めて、この展覧会で展示される華麗な宝物類などを見ても、朝廷をはじめとして過去の日本の政治権力がより大きな権力・財力を捧げて来たのはむしろ出雲大社ではないか、とすら思えて来る。さすがに地理的に遠いので天皇自身の行幸はなかったようだが。

出雲大社の建造物を見ても、これは伊勢が20年に一回建て替えられる(式年遷宮)せいもあるのだろうが、鎌倉時代のような巨大神殿はさすがに再建できなかったものの、本殿は国宝で江戸時代・延享元年(1744年)の豪壮な建築で、その前の本殿は寛文7年(1667年)に、どちらも徳川幕府が建造したものだ。しかも寛文の造営は、豊臣秀頼が寄進した慶長期の本殿をわざわざ取り壊して、建て替えているのだ。

この一事だけを見ても、出雲大社が日本の権力中枢にとって重要な神社だったことが伺える。

画像: 御櫛笥および内容品 (神社に奉納されたいわば「神様の化粧道具」)江戸時代17世紀 島根・出雲大社 徳川幕府が寄進したもので豪華な金蒔絵仕上げ。亀甲の中に「有」を書く文様は出雲大社の神紋・亀甲剣菱の変形

御櫛笥および内容品 (神社に奉納されたいわば「神様の化粧道具」)江戸時代17世紀 島根・出雲大社

徳川幕府が寄進したもので豪華な金蒔絵仕上げ。亀甲の中に「有」を書く文様は出雲大社の神紋・亀甲剣菱の変形

出雲から出土した、弥生時代の銅剣358本!

「国譲り」が「古事記」に示唆される暴力的な侵略か、「日本書紀」の平和な統治権移譲だったのかはともかく、「日本書紀」の方が「正史」であり、その記述に沿った出雲への篤い信仰がずっと継続して来たことは確かだ。だか肝心の、元になったのであろう古代史上の一大事件はと言えば、この二つの書物が日本で書かれた最古の歴史書で、それ以前には日本列島の古代王朝(当時は「倭」)が朝貢した先の中国王朝の記録くらいしか文献がなく、そして中国側には「国譲り」を意味していそうな記述が見当たらない。

つまり「国譲り」に当たることがあったとしても、客観的にいつ頃のことで、実際にはなにが起こったのか、手がかりは考古学にしかない。大和の王権が成立する古墳時代の前の時代といえば「中津国」は弥生時代なのだろうが、出雲では1980年代半ばから、この時代について筆者の世代が学校で習ったような「常識」を覆す発見が相次いでいる。

画像1: 銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

1984年に荒神谷遺跡、1996年には賀茂岩倉遺跡で膨大な量の弥生時代の青銅器(銅鐸、銅剣、銅矛)が発見され、既存の「弥生時代」の観念が大きく見直されることになったのだ。この二つに代表される出雲の弥生時代の多くの遺跡から分かって来たのは、そこにあったクニが少なくともかなり広範な範囲の交易網を持っていたか、もしかしたら広範な統治・支配権に近いものすら持っていた可能性だ。

こうした青銅製品は、銅剣や銅矛も実用の武器ではなく祭祀の道具だった。かつての定説では地方ごとにそれぞれに、銅矛は九州で生産され、銅剣を信仰していたのは九州・四国・中国が中心、銅鐸なら近畿地方が中心でそこから東というように、製造され祀られた地域の住み分けがあったと考えられ、「銅鐸文化圏」「銅剣銅矛文化圏」と言った説が教科書にも載っていた。

それが荒神谷遺跡では358本という尋常ではない大量の銅剣に加えて、大振りの銅矛が16本、さらに銅鐸6個が、同じ場所から発見されたのである。

画像: 荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣のうち168本 弥生時代 紀元前1〜2世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣のうち168本 弥生時代 紀元前1〜2世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

今回の展覧会ではその銅剣・全358本のうち168本が東京に運ばれ、整然と並べられて展示されている。この物量の迫力がまず、とにかく圧巻としか言いようがない。

「数が多い」「大量である」それ自体が、生産できるだけの技術力や財力も含めて、古代の人々にとって大きな意味を持っていたことを体感できるだけではない。当時の出雲の勢力範囲の、およそ一地方に止まらない広範さも見えて来る。

358本の銅剣は、こうして並べられると一目瞭然なように、すべて同じ大きさと形式で、同じ鋳型から作られたものも43組113本あるという。もしかしたら銅剣の大量生産工場が出雲にあったのだろうか? あるいは出雲の勢力圏内にあった工場で大量生産されたものが、ここに運ばれて集積されたのだろうか?

画像: 銅剣 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

銅剣 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

銅剣にせよ銅鐸にせよ、こうした祭祀用の青銅器がひとつの集落でこれだけ大量に必要されたとは考えにくい。同じ鋳型で大量生産されたとしても、製造された場所から祭器として使用される各地に流通したと考えるのが自然だろうし、その流通範囲に共通した価値観を共有する文化圏が成立していたというのも自然な連想ではある。ならばそういう同じ文化・共通する信仰価値観を持った広範な共同体の勢力範囲が重なる場所か、あるいは複数の元は異なった文化を持ったクニグニの中心に、出雲が君臨していたのではないか?

だとしたら、だから現在の出雲大社からもそうは離れていない荒神谷に、いったんは各地に流通していた銅剣と、さらに様々な地域からの銅矛や銅鐸が集められ、出雲のクニの権力者(王?)の意向でまとめて埋められたのではないか?

銅剣の近くで発見された銅矛は九州北部や四国南部から出雲に持ち込まれたと考えられ、その銅矛と同じ穴から6個がまとまって発見された銅鐸は1個が出雲製、5個は近畿からもたらされたらしい。徳島県で見つかった銅鐸、兵庫県の銅鐸とそれぞれ同じ鋳型のものが、1個ずつ含まれているという。

画像: 銅鐸 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管) 国宝

銅鐸 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管) 国宝

雲南市の賀茂板倉遺跡から出土した39個(うち30展を展示)の銅鐸も、流水文と袈裟襷文が混在している。袈裟襷文は出雲で作られたとみられ、流水文は近畿地方・河内平野から出雲に持ち込まれたものだという。

画像: 島根県雲南市・賀茂岩倉遺跡出土銅鐸 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

島根県雲南市・賀茂岩倉遺跡出土銅鐸 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

画像: 賀茂岩倉遺跡出土品の大型の銅鐸には、出雲の袈裟襷文と河内平野の流水文が混在している

賀茂岩倉遺跡出土品の大型の銅鐸には、出雲の袈裟襷文と河内平野の流水文が混在している

つまり紀元前2〜1世紀の出雲は、少なくとも九州・四国から河内平野(今の大阪府)に渡る広い地域と交易があったか、それらにまたがって支配権も含む広範な勢力域を持っていたかも知れないことまで、この膨大な量の青銅器から見えて来る。

画像: 加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸(大型) 紀元前2〜1世紀 国宝 流水文の銅鐸は河内平野(現在の大阪府)で生産されたとみられる

加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸(大型) 紀元前2〜1世紀 国宝

流水文の銅鐸は河内平野(現在の大阪府)で生産されたとみられる

河内平野産と考えられる銅鐸の「流水文」は細かい模様なので、残念ながら写真ではよく写らないのだが、とても洗練されてモダンにも見える柄なので、ぜひ展覧会で確認して頂きたい。むろん2000年を経た出土品で表面に緑青が出て見にくくなっているだけで、祭具として使われていた時には鮮明だったはずだ。

画像: 加茂岩倉遺跡出土の大型銅鐸 紀元前2〜1世紀 国宝 出雲製造の袈裟襷文。マス目状に区切られた上部の枠にはシカやイノシシが描かれている

加茂岩倉遺跡出土の大型銅鐸 紀元前2〜1世紀 国宝

出雲製造の袈裟襷文。マス目状に区切られた上部の枠にはシカやイノシシが描かれている

もうひとつ注目すべきこととして、これらの銅鐸や銅剣・銅矛は、たまたま偶発的に歳月の流れの中で土に埋まったものではない。明らかに意図的に集められ、埋納されたものだ。たとえば荒神谷遺跡の358本の銅剣は、一方の刃を下にして立てた状態で、整然と並べられていた。

画像: 展覧会の解説パネルより 荒神谷遺跡の358本の銅剣はこのように整然と並べて埋められていた

展覧会の解説パネルより 荒神谷遺跡の358本の銅剣はこのように整然と並べて埋められていた

これだけの大量のものを一括して処分したということは、宗教文化が大きく変わって、使われなくなった祭器を処分した、と考えるのがもっとも妥当だろう。

兵庫県や奈良県、高知県などでは、もっと後の時代の、銅鐸が明らかに破壊されて埋められていた遺跡があるが(つまり壊した上で捨てたか、青銅を武器などに再利用した可能性もある)、賀茂板倉遺跡の銅鐸は横の尖った部分を下にして(つまり意図・人為的的に)、小型銅鐸は大きな銅鐸の中に入れられて、やはり整然と並べられて見つかっている(この埋蔵状態を復元した実物大模型も展示)。

画像: 出雲から出土した、弥生時代の銅剣358本!

画像: 模型 加茂板倉遺跡銅鐸埋納状況復元 令和元(2019)年 島根県立古代出雲歴史博物館

模型 加茂板倉遺跡銅鐸埋納状況復元 令和元(2019)年 島根県立古代出雲歴史博物館

近代的な科学などはなかった古代において、信仰と祭祀・宗教は世界観そのものだったと同時に、共同体の共有する価値観が信仰によって権威を担保されることで統治・支配が正当化されていた以上は、政治でもあった。だいたい日本語の「政治」は訓読みをすれば(つまり元の「やまとことば」では)、文字通り「まつりごと」である。

そんないわば社会の精神的インフラが激変したのだとしたら、その理由としては統治権力の交代で新しい信仰体系が強要されたか、ある信仰に基づく共同体が別の共同体に滅ぼされた可能性を真っ先に思いつく。現に他の地方で発見された、より後の時代の破壊された大量の銅鐸の発見となると、新しい支配者が過去の権威を徹底否定した痕跡か、暴力による侵略の可能性すら考えられる。だが出雲で発見された大量の青銅器の埋蔵状況からは、そうした暴力的な体制転換とは異なった、もっと文化的な態度に根ざした文明のあり方が見えて来はしないだろうか?

画像: 加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸(大型) 紀元前2〜1世紀 国宝 出雲で作られた袈裟襷文

加茂岩倉遺跡出土品 銅鐸(大型) 紀元前2〜1世紀 国宝

出雲で作られた袈裟襷文

あるいは、仮に青銅器祭祀の信仰体系に基づいた統治体制が武力・暴力で殺戮を伴って滅ぼされたのだとしても、滅した側が滅された側に敬意か、祟りの恐怖のような畏れ抱いていたので、その霊魂や神霊を鎮める意図を込めてこういう丁寧な処分をしたのだろうか?

紀元前1世紀から紀元1世紀頃、大和の王権の全国支配が成立したと考えられている前方後円墳の時代の始まり(後述)よりも2〜300年くらい前になる。つまり以下はただの素人考えでしかないが、「国譲り」の神話について「古事記」と「日本書紀」でニュアンスが異なっている(前者では武力による侵略とも読めるが、公式歴史書の後者では、大和が出雲のカミガミを丁寧に祀るという約束と引き換えに統治権を得る)ことも、思い浮かべてしまう。もしかしたら、大和の朝廷が出雲大社の巨大建築を造って出雲を丁寧に祀り続けたのも、そう言ったところに原点があるのだろうか?

画像2: 銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

銅矛 荒神谷遺跡出土品 島根県出雲市 弥生時代 紀元前2〜1世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)国宝

青銅器の祀りから巨大墳墓の祭礼へ

出雲では、大量の青銅器が荒神谷や賀茂板倉に丁寧に埋蔵されたのと相前後して、大和などの他の地方では銅鐸や銅剣が祭礼に使われ続けたのに対し、いち早く次の時代の宗教儀礼が始まっている。後の古墳時代には関東にまで広がることになる、王・有力者の墓が宗教的・政治的な中心となる文化と、その祭祀の場としての巨大墳墓の建造だ。

出雲では1世紀頃から、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる、四角形の角の部分が外側に向けてびょーんと伸びた形の大きな墓が作られた。頂上は平坦に整備され、そこで王位の継承などの宗教儀式が行われたと考えられる。

画像: 代表的な四隅突出型墳丘墓の西谷3号墓(島根県出雲市)の副葬品の弥生土器 弥生時代 1〜3世紀 左から出雲など山陰、現在の岡山県に当たる吉備地方、右が丹越(北陸地方)の様式 島根大学法文学部考古学研究室(出雲弥生の森博物館保管)

代表的な四隅突出型墳丘墓の西谷3号墓(島根県出雲市)の副葬品の弥生土器 弥生時代 1〜3世紀

左から出雲など山陰、現在の岡山県に当たる吉備地方、右が丹越(北陸地方)の様式

島根大学法文学部考古学研究室(出雲弥生の森博物館保管)

この巨大化した墳墓形式が出雲にとどまらず山陽地方の山間部や北陸にまで広まった一方で、出雲の四隅突出型墳丘墓の副葬品の土器には、出雲を中心とする山陰地方だけでなく、吉備つまり現在の岡山県、丹越つまり京都府北部・福井・石川・富山辺りの様式のものが含まれている。

画像: 西谷3号墓(島根県出雲市)出土の弥生土器 洗練されたフォルムと表面の精緻な模様が見事

西谷3号墓(島根県出雲市)出土の弥生土器 洗練されたフォルムと表面の精緻な模様が見事

墓の形式の分布と、副葬品の土器の双方から、出雲の勢力圏が見えて来る。

しかももっとも巨大で代表的な四隅突出型墳丘墓である出雲市の西谷3号墓からは、さらに驚くべき副葬品が出土している。色ガラスの装飾品で、成分の分析からそのガラスの原産地が、濃厚な青が美しい勾玉は中国大陸、下の写真の管玉の首飾りのガラスはローマ帝国領内と判ったのだ。

画像: 西谷3号墓(島根県出雲市)出土品 古代ローマ帝国領で産出したガラスを用い中国で作られたとみられる管玉。他に中国産の青ガラスを国内で加工したとみられる勾玉も。 島根大学法文学部考古学研究室(出雲弥生の森博物館保管)

西谷3号墓(島根県出雲市)出土品 古代ローマ帝国領で産出したガラスを用い中国で作られたとみられる管玉。他に中国産の青ガラスを国内で加工したとみられる勾玉も。 島根大学法文学部考古学研究室(出雲弥生の森博物館保管)

また朝鮮半島で産出する珍しい石を同じような細い管状に加工した管玉の首飾りも展示されている。

考えて見たら当たり前のことだが、目からウロコではある。日本列島で太平洋側に大きな貿易港が集中したのは、近現代に限った話でしかない。古代に東アジア国際社会に向かって開かれていたのはむしろ、朝鮮半島に近い日本海側に決まっているではないか。それに日本海の海運網は江戸時代まで発展し続け、「裏日本」などと言うステレオタイプは幕末の開港以降にしか当てはまらないのだ。

古代の日本は日本海側から中国大陸で発展していた先端文明を貪欲に吸収し、またそうした珍しく美しい海外からの渡来の品々が、統治権力者の政治的・宗教的な権威を高めてもいたのだろう。

画像: 画文帯神獣鏡 中国・後漢時代 2世紀後半〜3世紀前半 奈良県桜井市・ホケノ山古墳(古墳時代3世紀)出土 奈良県立橿原考古学研究所

画文帯神獣鏡 中国・後漢時代 2世紀後半〜3世紀前半 奈良県桜井市・ホケノ山古墳(古墳時代3世紀)出土

奈良県立橿原考古学研究所

巨大墳墓と海外からの渡来品が政治的・宗教的な権威と結びついた古代の統治権力のあり方は、やがて中国大陸の統一帝国の王朝に直接に使者を送り、国としての国際的な承認を得ることへと進んでいく。いわゆる「朝貢」「冊封」外交だ。ちなみに現代ではしばしば誤解されがちだが、これは別に属国や植民地状態のことではない。前近代において東アジアの国際秩序の中心には中国の帝国があり、そこに使者を送ることは正式国交を結んで国際社会の正式な一員となる、と言うような意味だ。

中国側の正史に残るもっとも古い記録のひとつが、三国時代の正史『三国志』の『魏書』に書かれている「邪馬台国」だ。

画像: 三角縁神獣鏡 島根県雲南市 神原神社古墳出土 古墳時代3世紀/中国・三国時代 魏王朝 景初3(239)年銘 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管) 重要文化財

三角縁神獣鏡 島根県雲南市 神原神社古墳出土 古墳時代3世紀/中国・三国時代 魏王朝 景初3(239)年銘

文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管) 重要文化財

この「邪馬台国」の使者が派遣されたのが魏の年号で景初3年、西暦239年のことで、皇帝の曹叡(ちなみに「三国志演義」のヒーロー曹操の息子)が返礼に銅鏡100枚を与えたと書かれているが、その年号の銘がある三角縁神獣鏡が出雲の神原神社古墳で発掘されていて、これも展示されている。

同じ年号の銘がある画文帯神獣鏡が河内の和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)でも見つかっているのも含めて、どちらもこの記録にある100枚の銅鏡の一枚と考えてもいいのだろう。だとすれば『魏書』(その「東夷伝」のうち「倭人」に関する記述が、昔の教科書でいう「魏志倭人伝」)で「卑弥呼」と記されている倭の女王は、この大量の中国製の鏡の一枚一枚を自らに臣従した各地のクニグニの王にそれぞれ与えることで、自らの統治の権威づけとしたのではないか?

画像: 奈良県天理市の黒塚古墳の埋葬施設から発掘された33枚もの三角縁神獣鏡と1枚の画文帯神獣鏡を、どのように埋められていたかが分かるように展示 古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管)重要文化財

奈良県天理市の黒塚古墳の埋葬施設から発掘された33枚もの三角縁神獣鏡と1枚の画文帯神獣鏡を、どのように埋められていたかが分かるように展示 古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管)重要文化財

『魏書』の記録は地理的な記述が明らかに不正確で、そのせいで「邪馬台国」が九州にあった説、大和にあった説などの論争もあるが、当時の日本列島にはその言葉を表記する文字がなかったことを考えると、「邪馬臺」「卑弥呼」は使者が話した音に漢字を当てた表記で、「ヤマト」つまり「大和」、「ヒミコ」は「ミコ(巫女、神子、女性司祭)」ないし「ヒメミコ(女性の祭祀王)」を指すと考えるのが、素人目には自然に思える。筆者の世代の学校教育では「邪馬台国」は弥生時代と教わっていたが(だから「ヤマタイ」が「ヤマト」ではないかと言うシンプルな連想もなかなか働かなかった)、この展覧会の年表では古墳時代の最初期となっている。今回の展示品に見られるような発掘の成果からすれば理に叶っているし、そもそも「弥生時代」から「古墳時代」への移り変わりを断絶のように捉えてしまいがちだったことも、誤った先入観だと気づかされる。

だいたい価値観や世界観、古代でいえばイコール宗教観や信仰体系は歳月をかけて、先の世代から何かを引き継ぎつつ、徐々に変わっていくもので、そこには当然ながら連続性があったはずだ。

とはいえ考古学的に、つまり現に見つかっているモノとして、はっきりと時代の変化と分かる違いもある。出雲で景初3年銘の鏡が出土した神原神社古墳は30m弱の方墳だが、河内で見つかった和泉黄金塚古墳は全長94mの大きな前方後円墳だ。出雲系の四隅突出墳丘墓に代わって広まり、やがて関東地方でも造られることになる形式の巨大墳墓、大和の王権のシンボルとみなされる。

その前方後円墳と同時に広まったと見られるのが、三角縁神獣鏡だ。

画像: 奈良県天理市・黒塚古墳出土の33枚の三角縁神獣鏡は石室の中で木棺を取り囲むように、鏡面をそちらに向けて並べられていた。鏡面は平らでなく凸面になっており、実用品とは考えにくい。繊維片が検出されていることから一枚一枚が丁寧に布に包まれていたと推測される

奈良県天理市・黒塚古墳出土の33枚の三角縁神獣鏡は石室の中で木棺を取り囲むように、鏡面をそちらに向けて並べられていた。鏡面は平らでなく凸面になっており、実用品とは考えにくい。繊維片が検出されていることから一枚一枚が丁寧に布に包まれていたと推測される

元々は中国からの渡来品で、日本で作られたものも含めて神獣の文様は元来は中国で信仰対象や魔除け、縁起担ぎとして発達したものが、日本列島でも特別な霊力があるものとして有り難がられることになったのだろう。そしてもちろん、それ以上に、金属面をピカピカに磨き上げて世界を映し、そこを見る者自身を映し出す「鏡」そのものの神秘性は言うまでもない。だがここで不思議なのは、黒塚古墳から出土した33枚の三角縁神獣鏡は、鏡面が中心に向けて盛り上がっている凸面鏡、中央を拡大しながら周囲も映し込む、変わった鏡なのだ。しかも平らな鏡面よりも研磨加工は難しく、手間がかかるはずなのにわざわざ、である。

ちなみに博物館での展示などで見られたり写真で紹介される、凝った装飾のある面は鏡の裏側。もちろん「鏡」なのだから本来の機能は我々があまり目にしない、磨き上げられた鏡面が表になる。黒塚古墳ではこの鏡面を棺に向けて、石室の壁に沿って整然と並べられていた。

『魏書』の記録では「卑弥呼」という女性の王の下にまとまる前に、「倭国大乱」の状態があったとある。もしかして、これが出雲から大和への権力中枢の移行(ないし王朝交代)、つまり「国譲り」のことなのだろうか?

画像: 同・黒塚古墳出土の画文帯神獣鏡 葬られた遺体の頭部近くに置かれ、被葬者にとってより重要な鏡だったのかも知れない。こちらも繊維片が検出されているので布に包まれていたと考えられる。恐らく中国・後漢時代の作 古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管) 重要文化財

同・黒塚古墳出土の画文帯神獣鏡 葬られた遺体の頭部近くに置かれ、被葬者にとってより重要な鏡だったのかも知れない。こちらも繊維片が検出されているので布に包まれていたと考えられる。恐らく中国・後漢時代の作

古墳時代3世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管) 重要文化財

出雲系の四隅突出型墳丘墓から大和系の前方後円墳へ、墳墓の形が明確に異なる一方で、共通点もある。

今日見られる古墳や墳丘墓は小山のように見え、うっそうとした樹木に覆われているが、建造時には草木一本もなく大きさを揃えた石(葺石)で覆われていた。今日では天皇陵に指定された古墳は立ち入りが厳禁されて外から拝む形になっているが、頂上部分は四隅突出型墳丘墓と同様に平坦に整地されていて、儀式の場所になったと考えられる。前方後円墳の形の成立とその理由、なぜ上空から見ないと分からないような、複雑かつ均整の取れた形に古代の王権がこだわって、どのような技術でその理想の形を精確に実現したのかはミステリーだが、基本的には後方の円形の部分に主な被葬者が葬られ(=祀られ)、前方部はその埋葬場所を礼拝するスペースだったのだろう。

一方で前方後円墳が西日本を席巻する古墳時代前期にも、出雲では先述の景初3年銘の鏡が見つかった神原神社古墳のような四角形の方墳が建造されているのは、四隅突出型墳丘墓の「伝統」が残ったものなのだろうか?

巨大化する前方後円墳、量がどんどん増えて行く副葬品

画像: 巨大な円筒埴輪 奈良県桜井市・メスリ山古墳出土品 古墳時代4世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 重要文化財

巨大な円筒埴輪 奈良県桜井市・メスリ山古墳出土品 古墳時代4世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 重要文化財

大和の前方後円墳では、出雲系の巨大墳墓にすでに見られた特徴が、より極端化しているところがあるとも、この展覧会の流れの中で気づかされる。墳墓がどんどん大きくなるのと並行して副葬品の量もどんどん増加しているのだ。

大和の古墳で墳丘に結界を作るように並べられた埴輪も、膨大な量が作られるようになったと同時に、巨大化もしていた。

画像: 巨大化する前方後円墳、量がどんどん増えて行く副葬品

画像: 奈良県川西町 島の山古墳出土品 上)貝殻を加工した腕輪を模して、石を彫って造られた石釧 下)鍬形石 古墳時代4世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管) 重要文化財

奈良県川西町 島の山古墳出土品 上)貝殻を加工した腕輪を模して、石を彫って造られた石釧 下)鍬形石

古墳時代4世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管) 重要文化財

画像: 同・島の山古墳出土の車輪石 やはり貝殻を加工した腕輪を石で模したもの。特殊な出土状況が分かるように展示されている。

同・島の山古墳出土の車輪石 やはり貝殻を加工した腕輪を石で模したもの。特殊な出土状況が分かるように展示されている。

やがて前方後円墳が関東平野にまで分布するようになり、近畿では極端に大きくなるのは、恐らく大和の王権の強化を示しているはずだ。そうして造られたのが、昨年世界遺産登録された大阪・堺市の百舌鳥古墳群と曳野市・藤井寺市の古市古墳群の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)のような、4〜500m級の超巨大墳墓だ。

天皇陵に指定されている巨大古墳は考古学の発掘調査が許可されないため、古墳時代の葬送と信仰、そして政治(まつりごと)の文化文明についてはまだまだ分からないことだらけだ。あれだけ超巨大墳墓を作れる権力・財力となると、副葬品にしてもその大きさも分量も、どれだけのことになっているのか、想像は膨らむ。

画像: 同・島の山古墳出土の首飾り(重要文化財) 碧玉、緑色凝灰岩、ガラスを組みわせた珍しい構成で女性用と見られる。前方後円墳の前方部の埋葬施設から発見されたもの。前方後円墳の主埋葬施設は後円部だが、後方部にも埋葬施設があって複数人が埋葬された例も多く、夫婦や一族の墓的な位置付けだったのかも知れない

同・島の山古墳出土の首飾り(重要文化財) 碧玉、緑色凝灰岩、ガラスを組みわせた珍しい構成で女性用と見られる。前方後円墳の前方部の埋葬施設から発見されたもの。前方後円墳の主埋葬施設は後円部だが、後方部にも埋葬施設があって複数人が埋葬された例も多く、夫婦や一族の墓的な位置付けだったのかも知れない

大仙陵古墳は「仁徳天皇陵」としての世界遺産登録の前に外周部、堀の外側のごく一部とはいえ発掘調査が行われ、表面を覆っていた葺石が離れた地方から運ばれたものだったことなどが分かっている。誉田御廟山古墳では隣接する誉田神社の祭礼で特例で古墳の敷地内に入っているのと、平成の時代には限定的ながらこの古墳も含めいつくかの天皇陵で研究者の立ち入り調査が許可されたことはある。

また大仙陵古墳では、天皇家の政治的な絶対神格化がまだそこまで進んでいなかった明治6年に、前方部の発掘調査が行われていた。巨大な石棺や副葬品についての記録は残っているものの、発掘された現物はあるいは埋め戻されたのかも知れないが、行方不明だ。その一部と言われるものがなぜかアメリカのボストン美術館にある。この発掘は前方部で、つまり主たる被葬者ではなく、この超巨大古墳には最低でも2人、3人以上が埋葬されていると推測する研究もある。

発掘や立ち入りが出来なくとも現代ではドローンやヘリコプターを使ったレーザー3D測量や、微細な宇宙線を検知することで古墳内の空洞を調べるミューロン・ジオグラフィ(すでにエジプトのピラミッドの調査でも使われている)のような最先端技術もあり、今後さらに分かって来ることも多いだろうが、やはり本格的な発掘調査が待たれることは言うまでもない。

画像: 大型の埴輪 宮山古墳出土品 奈良県御所市 古墳時代5世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

大型の埴輪 宮山古墳出土品 奈良県御所市 古墳時代5世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

副葬品の量だけでなく質の高さも、鍵になるのは「舶来品」

出雲の巨大墳墓・四隅突出型墳丘墓の玉のガラスが中国原産やさらに西のローマ帝国領原産だったり、朝鮮半島の珍しい石の管玉があったりしたことにも驚かされたが、古墳時代初期の前方後円墳の銅鏡の多くが中国製だったりすることからも、古代の日本がすでに海を越えて大陸と活発に交易していたことと、海外との交流が政治的・宗教的な権威の裏付けに果たしていた役割が見えて来るのも、この展覧会を貫く大きなテーマだ。

画像: 金銅装鞍金具 奈良県斑鳩町・藤ノ木古墳出土品 古墳時代6世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館保管)国宝

金銅装鞍金具 奈良県斑鳩町・藤ノ木古墳出土品 古墳時代6世紀 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館保管)国宝

この文脈に置かれると、古墳時代後期の代表的な遺物として有名な、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の出土品が展示されているのも、金メッキをふんだんに使った鞍の絢爛豪華さだけでなく、精緻なデザインの構成要素が亀甲文に龍や鳳凰などの中国由来の吉祥で、さらには古代エジプトに起源があると言われるパルメット文まで使われていることに目が行く。

しかも亀甲文といえばそういえば、出雲大社の神紋が亀甲に剣花菱など、亀甲に漢字の「有」など、この大和の豪華な副葬品の鞍の基本デザインになっているのと同じだ。ちなみにこの鞍、豪華のは金の使い方だけでなく、後輪(上の写真奥)の取手の両端の装飾は色ガラスだ。

画像: 藤ノ木古墳出土品 金銅装棘葉形杏葉 「杏葉」は馬具の一種で馬から垂らす装飾品。古代エジプトに起源が遡るとも言われるパルメット文の唐草文様が全面に施されている 国宝

藤ノ木古墳出土品 金銅装棘葉形杏葉 「杏葉」は馬具の一種で馬から垂らす装飾品。古代エジプトに起源が遡るとも言われるパルメット文の唐草文様が全面に施されている 国宝

だが藤ノ木古墳のきらびやかな金の副葬品ならまだ以前から有名だし、権力者の墓(一説には欽明天皇の子で聖徳太子の伯父、つまり大王家の王子)なのだから豪華なのもうなずけるが、この展覧会でより驚かされるのは奈良県橿原市の新沢千塚126号墳(5世紀後半)の出土品だ。

朝鮮半島製と推測される金の耳飾りや指輪、中国東北部の墓の出土品とよく似ていて日本には他に例がない正方形の金の飾り板、さらにはササン朝ペルシャ製らしきガラス碗が見つかっているのだ。

画像: 奈良県橿原市・新沢千塚126号墳出土品 ガラス碗 古墳時代5世紀 東京国立博物館 重要文化財 ササン朝ペルシャのガラス技法が見られる

奈良県橿原市・新沢千塚126号墳出土品 ガラス碗 古墳時代5世紀 東京国立博物館 重要文化財

ササン朝ペルシャのガラス技法が見られる

ペルシャ製のガラス碗といえば、この300年ほど後の8世紀奈良時代の、正倉院宝物の「白瑠璃碗」も思い出される。この古墳からはガラス碗とセットの受け皿として使われたと推測される青ガラスの皿も発見されていて、こちらは成分分析によると古代ローマ帝国領内で生産されたローマガラスだと言う。

画像: 同 ガラス皿 成分がローマ帝国領内で見つかったローマガラスとほぼ一致すると判明。よく見ると様々な絵柄が透かしのように描きこまれている。

同 ガラス皿 成分がローマ帝国領内で見つかったローマガラスとほぼ一致すると判明。よく見ると様々な絵柄が透かしのように描きこまれている。

画像: 同 金製方形板 日本には類例がなく中国東北部に似たものがある 以上、古墳時代5世紀 東京国立博物館 重要文化財

同 金製方形板 日本には類例がなく中国東北部に似たものがある 以上、古墳時代5世紀 東京国立博物館 重要文化財

縦22m、横16mの長方形と言うから、5世紀後半という築造年代ではそう大きなものではない。大和の大王やその一族、地方を支配する豪族などの権力階級の墓ではなさそうだが、それにしてはこの副葬品の豪華さというか、質の高さはなぜなのだろう? もしかして外交や大陸との交易で活躍した渡来人なのだろうか?

このコーナーには奈良県の石上神宮に伝わる「七支刀」も展示されている。金象嵌の61文字の銘文が刀身に刻まれ、その文面から百済の王から倭、つまり日本の、大和の王に贈られたと分かるもので、「日本書紀」にもこの刀に該当するかも知れない記述があるが、日本で最古の本格的な文字・文章の部類に属する。

中国の文字(漢字)が朝鮮半島を経て伝わるまで、日本には文字で文章を書いたり記録を残す習慣はなかったことを念頭におけば、古代の海外渡来文化への憧れの強さと、貪欲に吸収しようとする意欲も、よりよく理解できるだろう。

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