https://cinefil.tokyo/_ct/17332679 【今も日本列島は「出雲と大和」の痕跡に溢れている】より
三種の神器」のひとつ「勾玉」と、「玉造り」の出雲の神秘
画像: 奈良県橿原市・新沢千塚126号墳出土品 玉 古墳時代5世紀 東京国立博物館 重要文化財
奈良県橿原市・新沢千塚126号墳出土品 玉 古墳時代5世紀 東京国立博物館 重要文化財
新沢千塚126号墳の貴重な副葬品は、海外渡来のものだけではない。大量の玉も見つかっているが、朝鮮半島や中国で作られたと見られる玉の一方で、硬玉の勾玉は日本の、新潟県糸魚川市だけで産出する貴重な石だという。
出雲地方でも珍しい石を利用した勾玉が作られ、大和にも流通していたことが古墳の副葬品などから分かっている。玉はもちろんまず、豪華な装飾品として権威の象徴になったものだろうが、「日本書紀」の神武天皇の即位について書かれている、天皇の位の継承を示す「三種の神器」のひとつが勾玉であることなど、信仰上の、霊的な意味もあったのだろう。
画像: 右)勾玉・管玉 島根県松江市・上野1号墳出土 古墳時代4世紀 島根県教育委員会 中央)玉 島根県松江市・金崎1号墳出土 古墳時代6世紀 島根大学法文学部考古学研究室、島根・松江市 左)子持勾玉 島根県松江市・二名留2号墳出土 古墳時代6世紀 島根・松江市(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
右)勾玉・管玉 島根県松江市・上野1号墳出土 古墳時代4世紀 島根県教育委員会
中央)玉 島根県松江市・金崎1号墳出土 古墳時代6世紀 島根大学法文学部考古学研究室、島根・松江市
左)子持勾玉 島根県松江市・二名留2号墳出土 古墳時代6世紀 島根・松江市(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
大和式の墳墓である前方後円墳の時代には、前方後方墳つまり埋葬施設がある後円部が円でなく四角いものもあったが、古墳時代中期の5世紀頃には造られなくなっている。
だが前方後円墳が広まる古墳時代初期に大型の方墳も多く造られていた出雲では、他の地域で見られなくなった5世紀後半から6世紀の前方後方墳も多いそうだ。なるほど確かに、出雲は統一王朝として大きな権力を持った大和の朝廷にとって、特別な地方だったようだ。
画像: 大和と出雲の埴輪の比較 右)「男子像」 出雲:島根県松江市・島田1号墳出土 古墳時代5世紀 島根県教育委員会 左)「椅子に座る男」 大和:奈良県三宅町・石見遺跡出土 古墳時代6世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
大和と出雲の埴輪の比較
右)「男子像」 出雲:島根県松江市・島田1号墳出土 古墳時代5世紀 島根県教育委員会
左)「椅子に座る男」 大和:奈良県三宅町・石見遺跡出土 古墳時代6世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
画像: 出雲と大和の「見返りの鹿」埴輪 右)出雲:島根県松江市・平所遺跡出土品 古墳時代5〜6世紀 島根県教育委員会 左)大和:奈良県橿原市・四条1号墳出土 古墳時代5世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
出雲と大和の「見返りの鹿」埴輪
右)出雲:島根県松江市・平所遺跡出土品 古墳時代5〜6世紀 島根県教育委員会
左)大和:奈良県橿原市・四条1号墳出土 古墳時代5世紀 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館
藤ノ木古墳古墳のような後期6世紀の大和の古墳では、副葬品がどんどん豪華になるのと並行して、100mを超えるような巨大な前方後円墳の時代は終わり、埋葬施設も竪穴式つまり墳丘の上に掘り下げた穴に棺を埋葬する形から、横穴式つまり大きな石組みで入り口の参道がある石室を作ってその上から土を盛った小型の、十数mや20〜30mの墳墓に変わる。礼拝の儀礼も墳丘上ではなく、参道の入り口で行われたのかも知れない。
権威の見せ方が変わって来た、その背景にある政治的な価値観や信仰の体型に変化が生じたのだろうか?
藤ノ木古墳クラスの豪華さは別格にしても、それに通ずるような金銀をふんだんに使った豪華な副葬品は出雲の古墳でも見つかっていて、今回の展覧会でも息を呑む。
こうした金銀の使用などには大和の古墳との共通性も見られるが、他の地域では廃れた前方後方墳だったり、石室の構造などに違いがあり、特に後期の古墳になるほどほど出雲の地域性・独自性が顕著だという。
画像: 古墳時代の出雲独特の須恵器である出雲型子持壺 手前)島根県松江市・団原古墳出土 奥)同・山代二子塚古墳 古墳時代 6世紀 島根県教育委員会
古墳時代の出雲独特の須恵器である出雲型子持壺 手前)島根県松江市・団原古墳出土 奥)同・山代二子塚古墳 古墳時代 6世紀 島根県教育委員会
「出雲が最も異彩を放っていたのは古墳時代後期のことで、その葬制は他地域からみると異様にみえていたのではないだろうか」(松本岩雄・島根県立八雲立つ風土記の丘所長、「考古資料から読み解く古代の出雲」、本展図録 P40)とまで言われる、その出雲の特殊性が、そんな過去の記憶が消えていたであろう後々の時代にも漠然とした認識だけは維持され続け、そのことが出雲大社が朝廷や武家の棟梁たちにとって特別な地位を保ち続けた歴史の起源にあるのだろうか?
画像: 子持勾玉 二名留2号墳出土 古墳時代6世紀 島根・松江市(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
子持勾玉 二名留2号墳出土 古墳時代6世紀 島根・松江市(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
あるいは美しい宝飾品である以上に宗教的な意味を持つ玉の産地になったことも、出雲が特別な、霊的な場所と認識され続けた背景になったのだろうか?
仏教伝来、そして古墳は役割を終える
いずれにしても、出雲と大和の出土品の現物を大量に見ることで、かつての日本列島で「政治」がその訓読みの文字どおり「まつりごと」だったことを目に見えるエビデンスで納得させられ、信仰の体系や祭礼の形式と政治上の権威・権力、「日本書紀」の「国譲り」に書かれた出雲の役割となった「幽」と大和の司ることになった「顕」の、権威と権力の二重構造の複雑な絡み合いがあってこそ「日本」と言う国家が成立したことをずっと見せられ、考えさせられて来ると、そんな古代日本のモノたちの歴史が最後に仏像に至るのは、自然な論理展開に思える。
画像: 如来および両脇侍立像 朝鮮半島三国時代あるいは飛鳥時代 6〜7世紀 法隆寺献納宝物・東京国立博物館 重要文化財 成分分析で判明した金属元素の含有量から、中尊は朝鮮半島製、脇侍の両菩薩は日本で鋳造された可能性が高い。明治時代に法隆寺から皇室に贈られ、のちに東京国立博物館の所蔵となった寺宝のひとつ。 如来三尊の立像で大きなひとつ光背という形は、絶対秘仏で確認はできないが、長野・善光寺の阿弥陀三尊本尊に共通するはずだ。この善光寺本尊は伝承ではインドから流れ着いたとされているが、恐らくは朝鮮半島からの最初期の渡来仏と考えられる。「日本書紀」の仏教公伝に登場する、百済王から贈られた光り輝く仏像がこれに当たるのではないかとの説も。
如来および両脇侍立像 朝鮮半島三国時代あるいは飛鳥時代 6〜7世紀 法隆寺献納宝物・東京国立博物館 重要文化財
成分分析で判明した金属元素の含有量から、中尊は朝鮮半島製、脇侍の両菩薩は日本で鋳造された可能性が高い。明治時代に法隆寺から皇室に贈られ、のちに東京国立博物館の所蔵となった寺宝のひとつ。
如来三尊の立像で大きなひとつ光背という形は、絶対秘仏で確認はできないが、長野・善光寺の阿弥陀三尊本尊に共通するはずだ。この善光寺本尊は伝承ではインドから流れ着いたとされているが、恐らくは朝鮮半島からの最初期の渡来仏と考えられる。「日本書紀」の仏教公伝に登場する、百済王から贈られた光り輝く仏像がこれに当たるのではないかとの説も。
現代の我々から見るとこの「幽」、超自然的な霊魂を感じ畏怖したりすることは、最先端の知識・知見や文明の受容とは、矛盾するように思ってしまうかも知れない。
だが近現代の、国家の役割が経済や外交安全保障、現実的な治安の維持などの「顕」に限定されているように見える政治でさえ、そこが目に見える実利・利害やうわべだけの法制度にのみ目を向け続ければ、社会全体がモラルハザードを引き起こして不安が増大、やがて不満も鬱積し、国家そのものが崩壊してしまうか、その崩壊を防ぐため強権的な独裁の恐怖政治に走ったり、軍国主義やファシズム、自国第一主義の排外主義のような暴走を始めてしまうだろう。そんな実例は、現代の日本に暮らす我々にとっても、決して縁遠いことではない。
画像: 法隆寺 金堂・五重塔 飛鳥時代7世紀 奈良県斑鳩町 国宝
法隆寺 金堂・五重塔 飛鳥時代7世紀 奈良県斑鳩町 国宝
画像: 飛鳥寺塔心礎埋蔵品 日本最初の本格仏教寺院のひとつ・飛鳥寺(法興寺)の仏塔を建立する際に地鎮のため埋められたもの。奈良県明日香村・飛鳥寺境内出土 飛鳥時代6世紀 奈良文化財研究所飛鳥資料館 重要文化財
飛鳥寺塔心礎埋蔵品 日本最初の本格仏教寺院のひとつ・飛鳥寺(法興寺)の仏塔を建立する際に地鎮のため埋められたもの。奈良県明日香村・飛鳥寺境内出土 飛鳥時代6世紀 奈良文化財研究所飛鳥資料館 重要文化財
画像: 法起寺 三重塔 飛鳥時代 慶雲3(706)年頃 奈良県斑鳩町 国宝
法起寺 三重塔 飛鳥時代 慶雲3(706)年頃 奈良県斑鳩町 国宝
現代の世界では、価値観や精神文化における社会の「良心」をまとめる役割を特定の宗教が果たせることがほとんどないとはいえ、「日本書紀」でいう「顕」に対する「幽」に当たるのは、いわゆる「国民感情」と言われたり、あるいは「国家理念」として、現代の国家にとっても常に必要なものであり続けている。
そうした文化的なアイデンティティの深層と複雑さを尊重せず、道徳などの精神的な価値を無視するような政治は危ういし、逆に弥生時代の青銅器や、古墳時代の鏡や勾玉や前方後円墳が古代にそうした役割を持っていたと気づくと、この展覧会で見てきたものががぜん現代の我々にも非常に分かり易くなる。
まして災害や病が蔓延してもそれを説明し克服する手段としての科学がなかった古代や前近代の社会では、精神文化つまり「幽」の部分は実態権力の「顕」と同じくらい重要だったはずだ。しかも目に見えない部分なだけに、より説得力を持つものへと更新され続けない限り、「幽」の統治の安定は維持できず、日本という国家の成立にも至らなかっただろう。
画像: 如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館・法隆寺献納宝物 重要文化財 飛鳥寺の本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊と極めて似通った作風で、同じ鞍作止利(クラツクリノトリ)仏師ないしその工房の作とみられる
如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館・法隆寺献納宝物 重要文化財
飛鳥寺の本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊と極めて似通った作風で、同じ鞍作止利(クラツクリノトリ)仏師ないしその工房の作とみられる
出雲の四隅突出型墳丘墓から中国や遥か西アジアから伝わったガラスや朝鮮半島の珍しい石を使った宝飾品が出土していたこと、大和朝廷の統一事業が最初から前方後円墳の祭礼形式と同時に中国から伝わった神獣鏡を広めることを重要な手段としていたこと、そうした役割が古墳時代の後期には大陸から伝わった最新文化が金銀やガラス、貴重な石と精緻な加工技術にも拡大されて行った歴史を、実際のモノを見ながら追って来ると、墳墓を祭礼の場として宗教的・政治的な中心として来た国家の成り立ちの歴史の次のフェーズとして、新しく、より論理的で強力な説得力のある信仰文化体系である仏教の寺院と仏像が古墳に取って替わったのも、ある意味当然の歴史の進展に思えて来る。
大陸からもたらされた先端的な建築技術を駆使して建てられた寺院の伽藍や、表面に金や極彩色が施された仏像は、白く反射率の高い葺石で覆われた巨大古墳が太陽を浴びて光り輝いていた以上に、輝かしく見えたのかも知れないし、まただからこそ、共同体の共有する価値観を実感させるモノにもなり得たのではないだろうか?
画像: 伝 薬師三尊像 飛鳥〜奈良時代 7〜8世紀 奈良県桜井市忍阪・石位寺 重要文化財 椅子に腰掛けたように脚を前に出して座った「倚像」は中国の隋や唐代、その同時代の日本や朝鮮半島に多いが、日本ではその後ほとんど作られなくなった。仏像の浮き彫りを素焼きのレンガに焼いて寺院の壁面などの装飾に使った「塼仏」の図様を大きく拡大したものとみられる。
伝 薬師三尊像 飛鳥〜奈良時代 7〜8世紀 奈良県桜井市忍阪・石位寺 重要文化財
椅子に腰掛けたように脚を前に出して座った「倚像」は中国の隋や唐代、その同時代の日本や朝鮮半島に多いが、日本ではその後ほとんど作られなくなった。仏像の浮き彫りを素焼きのレンガに焼いて寺院の壁面などの装飾に使った「塼仏」の図様を大きく拡大したものとみられる。
この展覧会のこれまでの流れで改めて気づくのは、弥生時代以降の古代日本には、カミや人間を直接表象する具象表現があまり発達していなかったことだ。まして崇拝対象となる神像的なものでは、弥生時代の銅鐸なら動物が多く、人間が描かれているのは記号的に単純化された農耕や狩猟などの生活風景で、それ自体が「神聖」な図像ではない。あとは中国から入って来た鏡に刻まれた神獣文や人物文くらいだろう。古墳時代の日本列島で生まれた人や生き物の具象表現といえば埴輪が思いつくが、これも直接に信仰対象を表象したものではない。
画像: いかにも中国・唐時代の武人のようないでたちの持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財 脱活乾漆という技法で、おがくずを混ぜた漆(木屎漆)で麻布を固めて成形。この技法で作られた有名な像が、奈良・興福寺の阿修羅像などの八部衆立像。内部は木の骨組み以外は中空なので、実はとても軽く、木像の邪鬼が比較的小さくともその上に立つこの像は安定している。
いかにも中国・唐時代の武人のようないでたちの持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財
脱活乾漆という技法で、おがくずを混ぜた漆(木屎漆)で麻布を固めて成形。この技法で作られた有名な像が、奈良・興福寺の阿修羅像などの八部衆立像。内部は木の骨組み以外は中空なので、実はとても軽く、木像の邪鬼が比較的小さくともその上に立つこの像は安定している。
画像: 持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財
持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財
画像: 広目天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝
広目天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝
古代の日本人にとって「カミ」は具体的な目に見える形を持ったものではなく、それは現代でも多くの神社の「御神体」が鏡だったりの「依り代」である所にも通じる。そんな文化圏に突然、精緻な表現技巧を駆使してエキゾチック、それも表面に金が施されて光り輝いたりしていた仏像が、入って来たのだ。
仏教の伝来以前、日本列島の人々にとってのカミは「見えない」存在だったのが、具体的な視覚イメージを持つ仏像の登場は衝撃だったのかも知れないと同時に、 具体性があるだけに遥かに頼り甲斐がありそうな、安心感もある拠り所になったのではないか?
画像: 楊柳観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・大安寺 重要文化財 観音菩薩として信仰されているが元の尊格は不明。硬いカヤの一木から基本部分を彫り出したもので、迫力ある憤怒相と材木の硬さを活かした衣や装飾の精緻でリアルな表現が際立っている
楊柳観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・大安寺 重要文化財 観音菩薩として信仰されているが元の尊格は不明。硬いカヤの一木から基本部分を彫り出したもので、迫力ある憤怒相と材木の硬さを活かした衣や装飾の精緻でリアルな表現が際立っている
画像: 多聞天立像 奈良時代8世紀の一木造り 奈良・大安寺 重要文化財 奥に唐招提寺金堂四天王のうち広目天 奈良時代8世紀の木心乾漆像 奈良・唐招提寺 国宝
多聞天立像 奈良時代8世紀の一木造り 奈良・大安寺 重要文化財
奥に唐招提寺金堂四天王のうち広目天 奈良時代8世紀の木心乾漆像 奈良・唐招提寺 国宝
この展覧会では特に憤怒相、現代人の感覚では「怖い」顔の威圧的な顔をした、大型の仏像に注目している。好例が四天王だが、他にも奈良の大安寺に伝わる憤怒相の観音像は非常に珍しい。
本来どの仏の像(尊格)として作られたのかは不明だそうだが、国家が形成されていく中で反乱や内乱もあり、災害や疫病に対抗する手段がまだほとんどなかった過去には、厄災や「魔」を払う効果を期待して、こういう「怖い」顔の像の需要は大きかったのではないか?
大陸渡来のさまざまな先端的な技法から、日本人がこだわる木の仏像へ
画像: 広目天立像 唐招提寺金堂四天王のうち 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝 多聞天立像(写真手前)と共に基本構造は頭部から岩座までが一本のカヤの木で、鎧と衣は漆におがくずを混ぜたペースト(木屎漆)で造形した木心乾漆像
広目天立像 唐招提寺金堂四天王のうち 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝
多聞天立像(写真手前)と共に基本構造は頭部から岩座までが一本のカヤの木で、鎧と衣は漆におがくずを混ぜたペースト(木屎漆)で造形した木心乾漆像
言い換えれば、仏教の受容が今日とはかなり異なっていたわけでもあろう。むしろ仏教こそが、当時の日本人にとっての「最先端科学」にみえたのかも知れない。現代人のようにお寺や仏像に過去に結びつく懐かしさや、落ち着いた雰囲気や心の安らぎを求め、日々の個人的な健康や安全を祈願したり道徳的な指針を仏教に求めたりする以前の、仏教の「まつりごと」における役割は、なによりも「国家鎮護」だった。
画像: 多聞天立像 唐招提寺金堂四天王のうち 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝 大きな袖が保護になったのか、前腕とくに肘に本来の金と彩色がよく残っている。多聞天は四天王から独立した単体で「毘沙門天」としても信仰を集めた
多聞天立像 唐招提寺金堂四天王のうち 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝
大きな袖が保護になったのか、前腕とくに肘に本来の金と彩色がよく残っている。多聞天は四天王から独立した単体で「毘沙門天」としても信仰を集めた
後に平安時代になって密教が導入されると、さらに不動明王や愛染明王などの憤怒相の仏が信仰を集め、その像が盛んに作られることになる。そういえば後々の鎌倉時代に運慶や快慶が活躍した時でも、特に運慶がこうした表現に共通するリアルな迫力のある四天王などの像を盛んに作っていたのも、平安末期から戦乱や激動が続き、社会の荒廃がその背景にあった。
当然ながら日本の仏像は、最初は朝鮮半島から輸入されてその模倣から始まり、当初は朝鮮半島からの渡来人が中心になって製作されていた。そして飛鳥時代から奈良時代にかけて、遣隋使・遣唐使によって中国から新しい様式が技術が入る度に、日本の仏像製作の技術や様式も更新されて行った。
画像: 十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財 奥に法隆寺に伝来した金銅の如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)重要文化財
十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財
奥に法隆寺に伝来した金銅の如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)重要文化財
ところが奈良時代までは金銅像、粘土を固めた塑像、漆におがくずを混ぜたペーストで整形する乾漆像など、様々な技法が駆使されて来たのが、平安時代に入っても遣唐使を通して中国の最先端の文化文明を学ぶ姿勢は基本変らないのに、仏像は圧倒的に木像が中心になる。
画像: 十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財 白檀の一木から彫り出された精緻な表現
十一面観音菩薩立像 中国・唐時代7世紀 東京国立博物館 重要文化財
白檀の一木から彫り出された精緻な表現
奈良時代によく用いられた仏像製作の技法に、漆におがくずを混ぜた「木屎漆」で麻布を固めた脱活乾漆がある。元を辿れば古代エジプトのミイラのマスクに源流があると言う説まで唱えるエジプト研究者もいるが、日本には当然中国大陸から入って来たこの技術をさらに応用して、木から彫り出すのよりも自由な造形が可能なことから、奈良時代には木を彫った像の一部の表面を「木屎漆」で整形して、精緻でリアルな表現を追求した木芯乾漆像も多く作られた。
木という素材へのこだわりが、日本にはあったのだろうか?
画像: 十一面観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・金剛山寺(矢田寺) 重要文化財 ほぼ全体を大きなキリの一木で彫り、衣の一部が木屎漆で整形されている
十一面観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・金剛山寺(矢田寺) 重要文化財
ほぼ全体を大きなキリの一木で彫り、衣の一部が木屎漆で整形されている
木芯乾漆像は平安時代の初期まで作られているが、並行して大きな一本の木材から主要部分を彫り出した「一木造り」の、迫力のある木像が、奈良時代から平安時代の変わり目に多く作られるようになる。
日本では今日でも、カミガミを数える時の単位は「はしら・柱」だ。これは元は大木を指す言葉だったと言われ、古代のカミ信仰や初期の神社では神像はもちろん祠や社のような建物もなく、大木にカミが宿ると信じられ、その下に大きな岩を置いた磐座を、神が降りて来る場としていた。
画像: 出雲・大寺薬師にあった四天王立像のうち 多聞天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺(現所有者) 重要文化財
出雲・大寺薬師にあった四天王立像のうち 多聞天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺(現所有者) 重要文化財
展覧会の終盤に、出雲にかつてあった大寺薬師の、一木造りの四天王に囲まれた展示室の中央に立つと、仏像に囲まれていると同時に、大木に囲まれているような感覚がある。巨木の森の中にいるような神聖さの感覚といえば、出雲大社の巨大本殿は究極のそういう表現だったような気もして来る。
画像: 出雲・大寺薬師の四天王のうち 持国天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 重要文化財
出雲・大寺薬師の四天王のうち 持国天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 重要文化財
飛鳥時代、奈良時代以降、仏教寺院が全国で盛んに作られることになるが、大きな建造物となれば大木を使った頑丈な柱や梁が当然必要だった。古代の日本列島の人々はそうした巨大で華麗な伽藍の大きさや見た目の美しさに分かりやすい神聖さを見ると同時に、そこに使われた巨木そのものにも神聖さを感じたのではないだろうか?
巨木から彫り出した一木造りの仏像にはそうした意味もあったのではないだろうか? 現に奈良県と鎌倉の長谷寺の縁起のように巨木の霊木が仏像になったというような伝承もあるし、「立木観音」と呼ばれる、生えていた巨木をそのまま彫って仏像としたと言われる例もある。
画像: 出雲・大寺薬師の四天王のうち 広目天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 重要文化財
出雲・大寺薬師の四天王のうち 広目天立像 平安時代9世紀 島根・萬福寺 重要文化財
ここまで見て来て得られたインスピレーション(あるいは空想?妄想?)をさらに深めた9なったら、ここが東京国立博物館であることが実にありがたい。ちょうど東洋館で2月9日まで開催している『人、神、自然』を見ると、古代の日本列島の人々が歩んで来た精神の歴史の普遍的な側面が見えて来て、世界中に共通する文化が息づいていたところと、日本固有の差異だったところの、理解が深まって来るかも知れない。
また東洋館の1階には、古代の仏教美術に大きな影響を与えた中国の石造や金属製の仏像が多数展示されているし、5階の朝鮮半島の展示コーナーには、古代の日本と密接に繋がりがあった三国時代の金銅仏もある。
「法隆寺献納宝物」からこの展覧会に飛鳥時代ないし朝鮮三国時代の金銅仏が2体出品されているが、このコレクションを展示する「法隆寺宝物館」に行けば、膨大な数の金銅の観音菩薩などの菩薩像が展示されている。例えばこの展覧会に出品されている出雲・鰐淵寺の2体の金銅の観音菩薩立像とも比較しつつ、さらに「数」「量」と「素材」に目を向けると、見えて来ることがここにもあるはずだ。
カミとホトケの「八百万」の国へ
画像: 牛頭天王坐像 2体 平安時代12世紀 島根・鰐淵寺(島根県立古代出雲歴史博物館寄託)
牛頭天王坐像 2体 平安時代12世紀 島根・鰐淵寺(島根県立古代出雲歴史博物館寄託)
…と、ここまで見て来て学校で教わったような固定観念や先入観を次々と打ち崩され、ヘトヘトになりつつ、なにか新しい、大きな視点をもらったような気分で最後の展示室に入ると、またまたにわかに得られた「知ったかぶり」を突き崩されるような展示品が、展覧会を締めくくるのである。
出雲大社がその麓に立つのと同じ山塊の、東の山中にある鰐淵寺に伝わって来た、牛頭天王の像2体だ。
牛頭天王は日本で考え出された仏教の神で、釈迦が開いた「祇園精舎」の守護神だ。薬師如来の変化神でもあり、有名なところでは京都の祇園社(現在の「八坂神社」)の主祭神…というか、「八坂神社」は明治の神仏分離令による改称で、「祇園」というからには元は仏教施設だったのは言うまでもない。明治政府の命令で仏教要素を排除させられた結果、現在の祭神は出雲系の神々の祖・素戔嗚尊(スサノオノミコト)になっているのは、平安時代以降の本地垂迹説でスナノオの「本地」が牛頭天王とされていたから、である。
本地垂迹とは密教の影響下にある理論で、日本のカミガミは本来の姿は仏で、東の涯の日本列島の人々にも教えが分かり易いように、仏が姿を変えて現れた「権現」である、という信仰だ。
現代でいえばチベットの14世ダライ・ラマが観音菩薩の32回目の転生でその本体は観音菩薩、パンチェン・ラマが阿弥陀如来の転生、と信じられていることに近い。
密教ではそもそも、世界の全てが大日如来から派生した、ないしその転生の連続の先の存在で、世界の全ての神仏が突き詰めれば大日如来、大日如来が世界そのものでありその究極の真理と考える。
たとえばアマテラスは大日如来で、山形県と宮城県の県境にある蔵王山は地蔵菩薩、山形県の出羽三山の月山・羽黒山・湯殿山はそれぞれ阿弥陀如来・観音菩薩・大日如来で近くの鳥海山は薬師如来、奈良の春日大社の第一神・武甕槌命(タケミカヅチ)は不空羂索観音ないし釈迦如来が本地仏だ。聖徳太子(歴史学的には「厩戸王」)は本地が如意輪観音として信仰対象になって来たし、浄土宗では法然の本地は勢至菩薩とみなされている。天神・天満宮つまり菅原道真は本地が観音菩薩で、東照大権現つまり徳川家康は、本地仏がなんと薬師如来だ。この展覧会で展示されている唐から渡来した十一面観音の檀像は、奈良の談山神社に伝来したものといわれているが、ここは藤原鎌足を祀り、江戸時代までは多武峯妙楽寺が正式名称の仏教寺院で、本尊の釈迦三尊は現在は麓の桜井市の、安倍文殊院に引き取られている。つまり藤原氏の祖は、お釈迦様が本地仏だったわけだ。
説明しようとするとこれだけ言葉数が必要なわりには、言葉の説明だけではおそらくはよく分からないことが最後に…というだけで済まず、さらに先がある。
平安時代には修験道の霊場として京都にも知られていたらしい鰐淵寺では、修験道の神としてこれも日本で考え出された仏教の神の蔵王権現を、スサノオと同一視していた、と解説に書かれているのだ。
これは一体、どう言うことなのだろう?
鰐淵寺では、牛頭天王=スサノオノミコト=蔵王権現とみなして、この二つの像を蔵王権現として拝んで来たのかも知れず、しかも修験道霊場の鰐淵寺なのに蔵王権現それ自体の像はない、という。日本は「八百万の神々の国」とよく言われ、多神教の典型のように言われている。確かに「日本書紀」や「古事記」にはそういう神話が書かれているし、さらに仏教が入って来ればさらに信仰対象の数は増える。
だがこれは複数の、異なった人格を持ったいろいろな神や仏を信じていた、と言うように考えて「絶対神の一神教VS日本のおおらかな多神教」などと単純に決めつけていいことでは、およそないように思えて来る。空海が平安時代に持ち込んだ密教では、あらゆる仏や神々が、地獄の悪鬼すら含めて究極、すべてが大日如来に行きつき、突き詰めて考えるなら大日如来の多種多様な(何段階も経た)変化であって、世界そのものが大日如来となるが、日本人にとっての「八百万のカミガミ」という感覚の本質は、こうした思想に共通しているのかも知れない。
画像: 牛頭天王坐像 平安時代12世紀 島根・鰐淵寺(島根県立古代出雲歴史博物館寄託)
牛頭天王坐像 平安時代12世紀 島根・鰐淵寺(島根県立古代出雲歴史博物館寄託)
鰐淵寺は推古天皇の眼病を治した智春聖人が開いたとされ、長らく出雲大社と深い関係があった。中世には鰐淵寺が出雲大社の神宮寺・別当寺としてその運営を担い、鰐淵寺の僧侶が出雲大社でお経を唱える法要が行われたりもしていた。
ここでも出雲と大和がつながっていたのと同時に、カミガミへの信仰と仏教が融合していた。
今日では「神仏習合」というが、過去の日本人の感覚・理解で言えばそもそも「神仏」を信仰していたのであって「習合」という意識すらなかったのが実際だろう。
だが出雲大社では、徳川幕府の出資によって豊臣時代の本殿が建て替えられた寛文7年(1667年)に、仏教色を排除する神仏分離・廃仏毀釈が、出雲大社が幕府寺社奉行に提案され、つまり出雲大社側のイニシアティヴで行われた。明治の神仏分離・廃仏毀釈の、200年前のことだ。
0コメント